過去の投稿2013年12月24日

12月15日

★  本日は、ファミリー礼拝式でした。地域の子どもたちに伝道すること、子どもの教会に送り出して下さるためには、ご父母のご理解が不可欠です。地域の子どもたちのために、教会として出来る限りのディアコニアをささげる、との志を新たにしたいと願います。

☆  本日、緑区9条の会連絡会主催の集会にお招きを受け、出席いたします。300名が入る場所での集会だそうです。わたし自身は、残念ながらこれまで9条の会の集いに出席したことがありませんでした。その理由は、単純です。多くの集会が、主日(日曜日)にあるからです。牧師として、ほとんど不可能に近いわけです。
ちなみに、私どもにとって、主の日は、まことに特別の日です。神を神とする日、つまり神を、わが主、我らの主と告白し証する、礼拝の日だからです。もとより、月曜日から土曜日の毎日、神を神とし、主を主とする聖なる日です。しかし、今のこの日は、その中でも特別に神が安息日として定めて下さいました。ですから、私どもはいかなる理由があっても、この日を「第二」にしてしまうことがゆるされていません。むしろ、私どもは、この日を「休む」(肉体的にはもとより何より霊的に)ように、つまり、恵みと祝福、愛と癒しの時と場所へと招かれているのです。私どもにとって、人間の尊厳をまさにとりもどすための特権にあずからせていただく日です。ただし、勤労に従事せざるを得ない場合もあります。健康上の理由で出席できないこともあります。つまり、これは、単なる「掟」として理解するのではなく、「恵み・祝福」として理解し、すべての人を巻き込んでお祝いすべき霊的なお祭りなのです。
    前置きが長くなりましたが、今回、10分間だけの挨拶にお招きを受けたことを心から感謝しています。主日の用い方としてもふさわしいと確信しています。先の私どもの憲法を学ぶ読書会に、お越し下さった所から、幸いな出会いが導かれたわけですが、教会は、地域社会に奉仕することがその重大な、不可欠の使命です。日本国憲法のいわゆる三大精神(基本的人権の尊重・国民主権・国際平和主義)は、キリスト教の教えに根ざしたものと断言できます。もし、その思想的根拠が脆弱であれば、日本国憲法が日本に根付かせることは極めて困難です。どれほど、尊い思想であるか、その「ありがたみ」が見失われるなら、今まさに、政府、与党によって大日本帝国憲法へ、つまり大日本帝国の体制へと簡単に逆戻りさせられるでしょう。日本の教会には大きな責任があるはずです。キリスト者の責任です。わずか10分のときですが、聖書の「福音」をまっすぐに証します。教会の外で、牧師としてなすことは、常に、そのことを求めているのです。ただし、いわゆる宗教の「宣伝」として受けとめられないようにとも願います。いつも悩む点です。

★   先週は、浜松伝道所の委員会にまいりました。三カ月に一度、「法治権」を委ねられた者の責任です。先々週は、教会に終日いれたのは、土曜日をのぞいて一日だけでした。金曜日の仙台における日帰りの会議では、風邪をこじらせてしまいました。説教者特別に喉の調子のために祈りました。そして、守られました。しかし、喉への負担は、奇跡によってなくなったわけではなく、そのまま浜松に持ち越してしまいました。裏返った声で、議事を進めました。しかし、浜松の群れの祝福を拝見し、心から感謝しつつ時を過ごしました。昨年、望月明引退牧師を、定住の説教者としてお迎えして以来、神は不思議なように多くの方々を礼拝式へ、教会へと招いて下さっています。小さな礼拝堂は、すでに飽和状態に近づきつつあります。これまでの金起泰先生の奉仕、伝道所委員の奉仕がついに時を経て、多くの礼拝者という目に見える実りを与えられているわけです。2006年から、代理宣教教師として群れの歩みに責任を担ってまいりましたが、成長する時が与えられているのです。中部中会のすべての教会が減少傾向にある中で、これは特筆すべき祝福です。しかしそれは、これまでの祈りと奉仕なしにはあり得ません。そして、神は、望月牧師ご夫妻という最善の配剤をもって、浜松の群れに恵みと愛を注いで下さったのです。今こそ、先生の長い伝道牧会のご経験に基づく識見から、群れが学びの家として整えられて行くことが、求められているように思います。
  また、私を送り出して下さる皆さまにもこの場を借りて、心から感謝を申し上げます。確かに、岩の上伝道所だけのことを考えるなら、益はないかもしれません。しかし、教会全体(中部中会)と浜松の群れを考える時、神の御業に私どもの伝道所もまた豊かに用いられていると信じています。そして、教会とはそのようにして、一つの教会、公同の教会に連なっているという天上の現実へと眼を開かせていただくチャンスでもあると、考えています。私どもの設立式には、多くの方が出席を願っていて下さると伺いました。それもまた、大きな感謝、喜びです。