過去の投稿2014年4月30日

4月27日

★   本日、浜松伝道所の委員会に出張いたします。委員会の前に、幼児洗礼入会式の願いを出されたご夫妻の試問のときも持ちます。実に嬉しい時です。第三子の誕生を機に、契約の子ら全員の幼児洗礼を決心されたのです。時間がかかりましたが、ついに、幼児洗礼によって神の子の特権にあずかることができます。実は、先週、姪が洗礼の恵みにあずかりました。彼女の大学合格の知らせを受けた時も、両親はもとより祖母も、私どもも大いに喜びました。しかし、信仰の継承が進んだことこそ、最高の喜びであり感謝です。将来、教会においてはもとより社会においてもキリスト者として大いに活躍して欲しいと祈り願っています。若いキリスト者が少なくなっている深刻な状況を見ているからでもあります。子どもの教会も、新しい年度が始まっています。信仰告白適齢期の仲間たちが6名与えられています。洗礼の祝福へと招かれている契約の子、幼児洗礼を受けている契約の子らのために、なおなお、祈ります。

☆  先週、祈祷会のたびに祈っています、聖恵会を訪問することができました。大会執事活動委員会の会議場所を提供していただいたからです。聖恵会の諸施設を、委員会として見学し、理事長、事務局長さんをはじめ非キリスト者の管理職の方との会談、交流のときも与えられました。聖恵会のことを、ここに書きだすと、スペースがまったく足らなくなると思います。「ディアコニアに生きる教会」を標語として高く掲げる私どもの教会として、ぜひ一度、皆さまにも訪問して、頂ければと願わされました。わたしの生まれた年とちょうど同じ年、筋ジストロフィーという重い障害を負った、故井原牧生牧師が、広島県の田舎にある忠海教会の一室で始められた、まことに小さな授産所施設が、今や、職員120名を擁する社会福祉法人として、地域社会に善く仕えておられます。

★  理事長の川崎長老は、かつて私どもが、中部中会の姉妹会の当番教会であったとき、「ディアコニアに生きる教会」を年間の主題として、お招きしたことがあります。3:11前のことでした。あのときはまだ、「ディアコニア」という言葉も、中会の中で、根付いていなかったように思います。しかし今や、多くの方がこの言葉を馴染みつつあるように思います。日本キリスト改革派教会が再生するため、新しい教会像を構築するために、まさに要、核にすべきは、ディアコニアだと確信しています。

☆  川崎理事長が、井原牧師が会員に、教会の主な働きについて、ギリシャ語を用いて「レイトゥルギア」(礼拝)・「コイノニア」(交わり)・「マルチュリア」(証)・「ディアコニア」(奉仕)と四つ挙げられ、それぞれがバランス良く進められるべきことを常々教えられたと、教えて下さいました。それは、先日の読書会でもホワイトボードを用いて少しお話し、また今朝、皆さまにお配りした5月と6月の読書会のためのテキストにも書いていることと全く同じことです。極めて強い印象を受けました。私が、教会内外で一生懸命、主張しようとしている事柄は、既に50年前からひとりの牧師によって語られ続け、何よりも実践され、模範的な実りを結んでいるのです。その意味で、とても恥ずかしい思いにもさせられました。

★   「恥ずかしい思い」は、いささか人間的過ぎた表現です。私自身は、いよいよ真実に「悔い改め」るべきだと思わされました。もしも、日本キリスト改革派教会が、この点で悔い改めることをしないまま70周年を迎えるなら、それは、衰退の一途をたどる以外にないと、わたしは真剣に考えています。今回の大会執事活動委員会が聖恵会で委員会を開催し、今後の「協働」について協議を持てたことは、極めてすばらしいことでした。同時に、私どもの委員会こそ、悔い改めるべきだと思わされました。同時に、この模範的な実践を大会的に支援すると共にここから学ぶことによって、日本キリスト改革派教会をより霊的で、かつ実践的な教会、創立宣言のビジョンと志の言葉を用いれば、「新日本建設のため」に、これまでの私どもの歩みにはるかに勝った仕方で、日本社会にインパクトを与える教会形成ができたのではないかと思います。遅すぎることなどまったくありません。また、自分たちには経済、人材の面でとても無理であるという言い訳もしたくありません。「ディアコニアに生きる教会」を標榜する名古屋岩の上教会の光栄ある責任として、なお、祈りを重ねてまいりたいと願います。

☆   大企業では、ゴールデンウィークが始まっているようです。その中で、次主日、第13回の被災地ディアコニアがなされます。私どもの教会として、「どうしても」なさなければならないディアコニアです。少なくない犠牲が払われての奉仕です。しかし、被災者の皆さまと、そこで既に働いておられる主イエスとその働き人に仕える業です。主がすべてを用いて、神の国の前進のために尊く用いて下さいますように。同時に、派遣する教会として、私どもは、「ここ」でのディアコニアをも、よりふさわしく担いたいと願います。