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「聖霊による洗礼」1:1-5

「聖霊による洗礼」
                 2014年1月12日
テキスト 使徒言行録第1章1節~5節
【 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」】

今朝からいよいよ使徒言行録の講解説教によって志を新たにして礼拝式を捧げてまいります。4月には、私どもにとって開拓伝道開始20周年を記念する時を迎えます。そしてそれは、その直前の3月16日に教会設立式を挙行して、まさに新しい時代の節目を迎えることにもなります。そのような歴史的な時に、礼拝式で学ぶテキストが使徒言行録へと導かれました。ここにも教会の頭なる主イエス・キリストの確かなお導きがあることを信じます。

4年余りかけてマタイによる福音書を学びました。その最後の主イエスの御言葉は、今もなお、わたし自身の胸の内にこだましているかと思います。ご復活された主イエスが11人の弟子たちをガリラヤの山に呼び集められ、宣言された、あの御言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」主イエスは、このご命令を下した後に、地上を去って、天に昇って行かれました。さてそこで、ある問いが湧くのではないでしょうか。いったい、天に昇って行かれたイエスさまは、どのような仕方で弟子たちと共にいらっしゃるのだろうか。そもそもイエスさまは、本当に弟子たちと共にいてくださったのかだろうか。あるいは、弟子たちは、この主イエスの宣言、ご命令を守れたのかどうか。守れたとしたらどのように守ったのか。つまり、私どもは、どうしても主イエスが天に戻られた後の、主イエスのお働きについて、そして弟子たちの働きについて知りたくなるだろうと思います。
さて、そこでこそ著者ルカにスポットライトが当たります。皆さまは彼の名を、既にルカによる福音書の著者としてご存知のことと思います。そのルカは、福音書を書く際に大きな構想を抱いていたはずです。それは、この使徒言行録をもしたためるというものです。その一つの証拠は、ルカによる福音書第24章にこうあることからも分かります。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」私は、これを読むだけで、ルカが既に明らかにこの福音書の続編を書く意図が込められていることが分かるだろうと思います。主イエスが、父が約束されたものをお送りくださったのかどうか、ルカによる福音書だけでは、明らかに示されないのです。その意味では、単にルカによる福音書のためだけではなく、すべての福音書にとっても、いへ新約聖書全体が、この使徒言行録を必要としているのです。神は、ルカを通して、第一巻としての福音書と第二巻としての使徒言行録を記させて下さったのです。

次に、いわゆる献呈の辞について簡単に触れておきます。古典においても現代の文学においても、多くの場合、自分のこの著作は誰それさんに捧げる、つまり献呈するということを明瞭にして公刊されています。ルカもまたその伝統に則っているわけです。ルカは、第一巻もこの第二巻も「テオフィロ」という人に宛てています。ただし、ルカが、ある特定のひとりの人物のためにだけ記したと考えることは無理があるだろうと思います。何故なら第一巻もこの第二巻である使徒言行録も明らかにキリスト者全体、特に異邦人からキリスト者になった会員向けの著作であることは全体から明らかだからです。そもそも「テオフィロ」とは、「神を愛する人」という意味です。そうすると、テオフィロという高貴な人に献呈するというスタイルを取りながら、実際のところはギリシャ人である神を愛する人、つまり、異邦人キリスト者に向けて記されたと理解する方が、よいように思います。

さて、いよいよ内容に踏み込んでまいりましょう。「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」ルカはここで、「すべてのことについて書き記しました」と実にきっぱりと宣言しています。主イエスが地上でなさった教えや御業について、「ことごとく」書いたというのです。実に大胆な発言です。わたしのような説教者は、これまでも、そしておそらくこれからも与えられたテキストについてことごとく説き明かしたという満足感、達成感を持って説教を語り終えることはできないだろうと思います。それならルカという人は、特別に完璧な能力をもっているのだということを言いたいのでしょうか。違います。
私どもは、歴史を調べるときに、すぐに教会の中に異端が起こったことを知ります。いろいろなキリスト教文学が、書かれたのです。四つの福音書以外に、いくつもの福音書が書かれました。それは、現代にも残っています。しかし、私どもはそれらを決して神の御言葉である聖書とは認めません。参考になる著作もあれば、まったく戯言のようなものもあります。また、私どもの教会の外では、時に、自分はイエスさまの霊に導かれ、新しい啓示を受けたのだという、そのような人、自称キリスト者たちがいます。私どもキリストの教会は、そのような新しい啓示を認めません。
今は、イエスさまが天に戻られている時代です。新しい時代が始まっているのです。先に主イエスは、この地上において神の国を教え、人々を癒し、救われました。そしてルカは今、そのイエスさまの教えは、もう、すべて書きとめられていると強調します。つまり、今日の時代、イエスさまからの新しい啓示はあり得ない、つまり、神の新しい啓示は終わったということを主張しているのです。これを万が一、揺るがすならキリスト教はもはやキリスト教ではなくなってしまいます。新興宗教になります。新しい啓示がありうると言うのであれば、まさにモルモン教とか統一原理だとかエホバの証人だとか、どちらかと言えば分かりやすい異端の登場を許してしまうわけです。分かりにくい異端もありますが、いずれにしろ、もし、書き記された福音書以外のところで主イエスを知ろうとしたり、御言葉以外の体験だとかなんだとかで主イエスの導きを求めようとするとき、そのようなことが教会の中で起こるならば、やがて異なった福音、キリストの教会になってしまいます。要するに、私どもの教会の土台は、書き記された聖書、福音書、ルカによる福音書だけではなくその他三つの福音書が決定的な重みを持つということがここで示されているのです。
ちなみに、私どもの信仰の知識や体験が乏しく、貧しいもので留まる理由は、新しい啓示が足らないからではなく、文書において主イエスが啓示された真理、聖書の御言葉を十分に悟れないところにあるのです。ですから、私どもは今年もまた、御言葉を学ぶことに全力を注ぐべきです。それ以外に、信仰の道が力強く、生き生きと元気になる道はありません。そして、そのことは、もしかすると耳にタコができるほど聞かされているのではないでしょうか。要は、本気で聖書に向き合うこと、それだけです。
ここでもう一つの決定的に大切な真理についても学びましょう。キリスト教、キリストの教会というのは、徹頭徹尾、主イエス・キリストに集中するということです。ルカはここで「イエスが行い、また教え始めてから」と言います。イエスさまに集中するのです。私どもにとってはむしろ、マタイが記したあの大宣教命令を思い起こしていただいた方が良いかもしれません。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」二つの御言葉で明瞭にされるのは、要するに、教会やキリスト者にとって、これまでも、そしてこれからもその主人公は、誰であるのかということです。それは、今ここに生きて臨在しておられるイエスさま以外の誰のことでもありません。使徒言行録とは、要するに、様々な出来事の背後に、主イエスが行い、教えられた事ごとが今も継続されているのだぞ、ということを明らかにしているのです。
今日の午後は、会員総会のための最後の準備をする委員会です。私どもは今年、20周年の歴史を刻む教会としてのあらゆる面での成長、前進を心から願い、叫ぶように祈り求めたいと思っています。主の栄光のため、神の国の前進のため、私どもの教会を用いてください、聖なる務めを果たさせてくださいと、その責任の重さを、牧師として深く思います。本当に、このままでいて良いはずがないという切迫した気持ちが、わたしの内にあります。しかし、そこでこそ、変に力が入ってしまってはいけないのです。スポーツを例にすると語弊があるわけですが、ピッチャーが全力投球するときに、肩にだけ力を入れるとかえってすべての面でよくない結果に陥ってしまうと思います。もしも、教会員、役員そして牧師が教会のことを表面的に成長させよう、前進させようとするなら、自分の力に頼り、自分の経験や発想から道を切り開いて行こうとするなら、しばしばそこで決定的に転んでしまうと思います。何故なら教会とは、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」と約束されたイエスさまの教会だからです。主イエスがお建てになられるものだからです。地上を歩まれたイエスさまは今、天においても歩まれます。つまり、働いておられます。主イエスはご自身の教会とともに、ご自身の民であるキリスト者と共に歩まれるのです。したがって私どもは、このイエスさまに働いて頂く以外にない、そのことを常にはっきりとわきまえることが肝心です。

次に、「40日」です。ルカは、主イエスは、この真理を弟子たちに教え、悟らせるために、40日間を用いられたと告げるのです。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」主イエスは、ご復活の証拠を徹底的に示されました。当然のことながら、未信者の方々は、キリストのご復活を否定します。そればかりかキリスト者の中にも、歴史的な体のご復活を否定する者もおります。彼らはキリスト者を自称されます。しかし、聖書が示すキリスト者や教会の姿とは異なっていると言わなければなりません。ルカだけがここでご復活のイエスさまは40日にも渡って、選ばれた弟子たちに徹底的にご復活のお姿を示されたと告げます。この記事をまじめに読めば、弟子たちが幻覚を見たのだとか、集団催眠、興奮に陥ったのだというような荒唐無稽な批判は起こり得ないのだろうと思います。
しかも、先ほどの真理と共通した大切なことが示されています。主イエスはそこで新しい啓示を語られていません。主イエスご自身がご復活後、地上を歩まれた時代に語られなかったことを補足するように教えられたことは一切ないのです。主イエスがそこでなさったのは、徹底的に神の国の教えでした。言わば、おさらいをしたのです。弟子たちが見事なまでに誤解していた神の国の教えを、主イエスは、忍耐の限りを尽くしてその真意をお教えになられたのです。彼らは、聖霊によって信仰の眼がどんどん開かれて行ったはずです。「ああ自分たちは、ボタンの掛け違いのようにまったく誤解していたのだ。主の教え、十字架の御業の意味は、このためだったのだ」まさに至福の40日間であったと思います。そして同時に、悔い改めの40日間でもあっただろうと思います。

さて次に、この40日とは、これまでの時代から新しい時代へと移行する期間、そのための訓練の期間でもありました。ルカは、主イエスは、彼らに「現れた」と記します。この表現で示されるのは、いつも一緒に過ごしたわけではないということです。たびたびお姿をお示しになられたのですが、24時間いっしょにいたわけではありません。それは、弟子たちが経験する新しい時代の幕開けのための練習期間です。
教会の台所には、献堂当初から一つの飾り板を設置しています。その板には、こう刻まれています。「キリストは、食卓の見えざる賓客。あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」つまり、イエスさまが食卓に共におられるし、私どもの会話、交わりの真ん中に臨在しておられるということです。その霊的な現実を、弟子たちは主イエスに特訓されたということです。だから天に戻られた後も、大混乱を起こすことがありませんでした。主イエスの肉体が見えなくとも、主が自分たちと共におられることは、彼らの実体験となっていたはずです。確かに、主イエスは、この地上にはおられません。これは、はっきりした事実です。しかし、私どもの教会、そして家庭、そして現実の社会においても見えざるイエスさまは聖霊によって臨在しておられます。この聖霊によるご臨在がなければ、つまり聖霊のお働きがなければ、教会は教会でなくなります。いのちがなくなるのです。教会のいのちとは、天に戻られたキリスト・イエスさまから注がれる聖霊ご自身のことです。聖霊なくして、教会は教会として生きることができないのです。まことのいのちがないのに、もし無理に働こうとすれば、この世のいのち、この世的な力、人間的なさまざまな力、知恵、能力で頑張るしかなくなります。そのとき、もはやキリストの教会ではなくなってしまいます。

ですから主イエスは、こうお命じになられます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」父なる神が約束してくださったもの、それが「聖霊による洗礼」でした。ここでエルサレムという特定の場所が明記されています。これは、旧約における神の都のエルサレム、シオンの回復の預言の成就です。その意味で、エルサレムでなければならないのです。しかもその命令はイエスさまの命令です。弟子たちは主イエスからこの命令を聴き、主イエスの十字架と復活そしてご昇天によって成就させられたものです。したがって、聖霊を授けられることもまた、主イエスを通してであることが示されます。その意味からも、ここでも聖霊とは、主キリストの霊そのものであることがはっきりと示されます。しかも、そもそもそのご命令は、父なる神からの約束なのです。ここに、父と子と聖霊の三位一体の神の交わりが示されていると言えます。私どもの救いにかかわるすべてのことは、旧約において予告されていたことごとの成就なのです。しかもそれらは、すべて父と子と聖霊の三位一体の神の御業なのです。

最後に、この御言葉から学びます。「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」最初の御言葉は、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼のことです。彼は、ユダヤの民に悔い改めの洗礼を授けていました。そのようにして主イエスのお働きの道備えをしていました。しかし、この洗礼では神の国に入ることはできません。人は、誰でも神によって新しくされなければ、新しく生まれるのでなければ神の国に入れないからです。そのことをヨハネ自身も自覚していたのです。だから、わたしより後から優れたお方、自分等はその方の履き物のひもを解く値打もない、それほど偉大な方が来られて、その方が聖霊と火で洗礼を授けられると予告したのです。しかし、第一巻のルカによる福音書において、それは成就していません。だからこそ、冒頭で確認したとおり、この第二巻が著されることが必須のものとなることがここでも明らかです。ついに、聖霊による洗礼を主イエスさまが授けて下さるのです。これは、決して洗礼者ヨハネであろうがどのような牧師であろうが、自ら授けることなどできません。まさに、すべての者は、父なる神によって、主イエスの御名で、聖霊によって授けられる以外にありません。

最後に肝心要な真理を押さえて終わります。私どもは、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けました。水が用いられました。わたしは成人洗礼、つまり大人になって自ら信仰を告白して同時に洗礼を授けられました。しかし、赤ちゃんのときに洗礼を授けられた仲間たちも少なくありません。幼児洗礼です。幼児洗礼を授けられた教会員たちのことを未陪参会員と申します。私どもは、特別な表現ですが契約の子どもとも呼びます。彼らは、洗礼のなんたるかを全く知らないまま洗礼を授けられました。それなら、その洗礼は、自覚的な信仰を告白した者に授けられた洗礼の効力を持っていないのでしょうか。これは、とても大切な問いです。その問いに答えるべきは、先ず、親です。もしも、幼児洗礼が大人の洗礼以下とか未満のようなものと考えるなら、大間違いです。大人の洗礼を受けた者たちだからと言って、いったいどれほどの聖書の真理に対する理解が伴なっていたのでしょうか。あるいは水で洗礼はうけたけれど、聖霊と火による洗礼など自分は、受けていないと考えるキリスト者も少なくないと思うのです。そうすると、大人の洗礼も赤ちゃんの洗礼も五十歩百歩です。大切なことは、洗礼とは聖霊による洗礼を受けるという約束の目印だということです。そこでも、何度でも確認したらよいのです。水の洗礼以上のもっとすごい洗礼を受けたい、洗礼式をもう一度やってもらいたい、そのような理解は間違いです。御言葉をいよいよ学び、悟ること、それ以外にありません。そして、洗礼を授けられたことによって、自分の中に聖霊が注がれた、注がれている事実を信じればよいのです。そのとき、聖霊による洗礼は、一生涯でただ一度ではなくなることを知ります。この聖霊の洗礼とは、第2章における聖霊降臨の出来事だけを予告しているわけではないことも理解できるはずです。

私どもは、今年もまた教会の頭でいらっしゃる主イエス・キリストの御業によって、その一歩一歩を導いて頂きます。見よ、世の終わりまであなたがたと共にいるとの主イエスのお約束は、成就しています。名古屋岩の上教会の今年の歩みもまた、イエスさまの歩みそのものなのです。主イエスが私どもと共に歩んで下さり、私どもを用いて下さり、動かしてくださる歩みです。この主イエスに、主の霊に心から期待し、より頼み、御言葉の力にあずかって前進しましょう。

祈祷
全世界に出て行き御言葉を宣べ伝えよとの主イエスのご命令を聴きます。この伝道命令の前に心が高ぶります。しかし、自分の力でそれを成し遂げることはできません。主イエスよ、あなたが父の約束された聖霊を教会に注いで下さるからこそ、ここに教会が建て上げられ、私どもが呼び集められ、洗礼を授けられ、今朝も礼拝式が捧げられています。どうぞ、キリストの御言葉にいよいよ深く聴いて、従い、キリストの教会として正しくしかも生き生きといのちに溢れた交わり、奉仕に生きる群れとして導いて下さい。