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「キリストの昇天 -40日間の終わり-」使徒言行録第1章9節~11節①

「キリストの昇天 -40日間の終わり-」
                 2014年1月26日
テキスト 使徒言行録第1章9節~11節①
【 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」 】

キリスト教の教え、教会が信じ、告白している教えのことを教理と言います。その意味で、教理こそは教会の生命そのものにかかわる事柄だと分かると思います。教理が間違っていれば、それは、教会そのものが倒れてしまうはずです。今朝の個所もまた私どもの信仰の教え、教会の教えにおいて極めて重要な事柄を学びます。説教の題は、まさにその教理そのものをつけました。キリストの、主イエス・キリストのご昇天です。今朝は、この昇天について学んで、神を礼拝したいと願っています。

さてしかし、いかがでしょう。私どもは主イエスの昇天について、どれほど聖書から学んで来たでしょうか。あらためて確認してみたいのですが、主イエスが天に昇られたという記事は、新約のどこに記されているのでしょうか。それは、ルカによる福音書の結びの個所とそれを受けた今朝の個所です。正確に申しますとマルコによる福音書の結びにも一言、記されています。つまり、基本的には、いわゆるルカ文書にしかこの出来事が報告されていないとも言えるわけです。その意味では、私どものようにカテキズムをきちんと学ぶ伝統がない教会であれば、うっかりするとキリストの昇天の意味についてじっくり学ぶことがないまま過ごしてしまうという可能性が起こりえるかもしれません。実は、今朝の説教の後で歌う讃美歌は、奏楽者の方は相当迷われたのだと思います。結局、私のリクエストで「昇天」の項から選曲しました。初めて歌う歌だと思います。そして、今回、いささか驚きましたが、讃美歌21の中で「昇天」として編集された曲は、たったの三曲だけであることに気づきました。

その意味で、今朝は、昇天についての教えの全体を学ぶことはできませんが、このテキストから救いの歴史におけるイエスさまのご昇天の意味を学びたいと思います。そして来週は、再臨について学びたいと思います。

さて、それではテキストに入りましょう。先ず、「こう話し終わると」から始まります。何気ない言葉のように読み飛ばされる危険性があります。しかし、決定的に重要な意味と重みが込められています。使徒言行録の第一回の説教でも確認したことがあります。それは、ルカは第1章2節において「すべてのことについて書き記しました。」と記した個所です。たといルカのような優れた人であっても主イエスの御業、その教えのすべてを書き記すことはできないことは明らかなはずです。実際に、ルカによる福音書には記されていないこともたくさんあるわけです。そもそも主イエスの言行録のすべてを書き記すことなどわずかのスペースに収めることは不可能なはずです。しかし、ルカは、そのようなことは百も承知の上で、「すべてのことについて書き記しました。」と言い切るのです。それは、主イエスによる神の啓示は、もう終了したのですよ、ということをはっきり宣言するためです。それは、今後、決してこれが、新しいイエスさまの教えであるとか神は、自分に新しい啓示を与えて下さったなどと、語る者の登場を許さないという宣言です。つまり、いわゆる異端の発生、異端的宗教や宗教者の登場をここでブロックしているわけです。

さて、ご復活されたイエスさまは、40日間にも渡ってご自身のお姿を現わされました。弟子たちにとって、ひいては私どもキリストの教会にとっても決定的にすばらしい恵みのとき、大切な、かけがえのない時となりました。ただし、そのような至福の時は、いつまでも続けられてはならないものでした。それは、弟子たちが自分たちの至福の時間を楽しみ、喜ぶことで決して終わらせてはならないからです。主イエスは、彼らに使命をお与えになられます。それは、神ご自身の救いの御業を推し進めることです。そして遂に、その時が来ました。主イエスが、直接、福音の説教、神の国の教えを「話し終える」その時が来たのです。つまり、主イエスは、ご自身が直接弟子たちに教育と訓練を施すのは、もう十分だとご判断くださったのです。

私どもはもう数年前から、朝と夕べの祈祷会で、説教で語らなかったメッセージやなお掘り下げるべきメッセージ、繰り返して学ぶことによって身につけてもらいたいメッセージを続けています。ある見方からすれば、それは説教の中でしてしまうべきことだと言えるはずです。確かに、それができれば、それに越したことがありません。ただしわたしは、現実の教会の形成においては、言わばこのような基礎固めが大切だと思って継続しているわけです。その意味では、わたし自身を含め、すべての説教者は、イエスさまのように「話し終える」ということは出来ないはずです。だからこそ、ここで主イエスが「話し終えた」という表記に決定的な重みがあるわけです。弟子たちがキリストの証人となるために知るべきことは、もう完全に伝えられたということです。

もとより、ここでも私どもがきちんとわきまえるべき真理があります。イエスさまが話し終えられたのは、「キリストの証人となるために」という限定があるということです。確かに、私どもは、あのこともこのことも、もっとさまざまなことを知りたいと思うことがあるだろうと思います。けれども、聖書は言います。キリストの証人となるために、またその前提となるキリストに救われるために知るべき真理は、すべて聖書にちゃんと記されている、あますことなく記されているということです。したがって、私どもはもはや聖書以外のどこからも主イエスを知ろうとはしません。そのような態度を整えるところに、キリストの教会の土台がきちんと座るのです。これは、改革教会にとってまさに根本的な主張です。改革教会とは、教会とは聖書によって立つ教会以外のなにものでもないという自己理解を鮮明にしている教会のことです。

さて、それなら、そこまで行くために、主イエスが40日間を要した理由はどこにあったのでしょうか。それは、教えるということの本質にかかわります。真理を教えるということは、教室で深い講義を一回すればそれでかなうと言うわけにはまいりません。何より、ここで教えられることは福音の真理、神の真理、人間のもっとも大切な人格的な真理です。ですからそれは、頭で分かって、心でわかって、そして最後に身に付くこと、即ち、それを実際に行動すること、つまり、それまでの生き方と変わること、変化すること、変容させられること、そこまで行かなければ分かったことにはならないのです。主イエスは、40日をかけて、弟子たちがご自身のご復活を確信し、何よりも、3年もの月日を、寝食を共にして教え、目撃した数々の奇跡の意味などについて、おさらいしてもらい、その福音的な意味も理解できたのです。こうして、もはやこれ以上、地上に留まる意味がなくなったと、そう主イエスがご判断されたのです。

こうして、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなっ」りました。ここで注目したいことは、まず「見ているうち」です。彼らは、はっきりと目撃しました。実に、そのお姿を見させることにこそ深い意味がありました。ここであらためてご復活されたイエスさまの40日間のお姿について考えてみたいと思います。あの40日間、イエスさまは、弟子たちと24時間、寝食を共にされたわけではありません。共にいて下さったり、またお姿が見えなくなったりされました。それが繰り返されて40日に渡ったのです。さて、問いはそこです。私どもでいうと、そのような現象が起こることは決して考えられません。大変、不敬虔な言い方で申し訳ありませんが、会社や学校で、もし、そんなことを思いのままにできたら助かるだろうなと思ってしまうかもしれません。さらに、もうしわけない言い方になりますが、仮にもし自分が、透明人間になったなら、その人間はどこに存在しているのでしょうか。それは、見えないだけで、そこにいるわけだと思います。それなら、イエスさまが40日の間で、目に見えなくなったとき、主イエスはどこにいらっしゃったのでしょうか。聖書に書いていません。ルカによる福音書にも使徒言行録にもどこにも書かれていません。

しかし、新約全体からこのように理解できるはずです。主イエスは、ご復活された後、そこでパラダイス、楽園に行かれたと思います。これは、まさにルカによる福音書にしか記されていない十字架上の出来事です。二人の強盗が主イエスの左右に架けられ、一人の強盗が、十字架のイエスさまを見て回心します。そしてこう願い出ます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」そこで主イエスは、こう宣言されました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」主イエスは、楽園に赴かれると仰いました。そうするとご復活されたイエスさまの肉体は、地上と楽園と、つまり天と地とを行ったり来たりしておられたという理解が成り立つのではないでしょうか。つまり、ご復活のイエスさまのお体は、基本的には父なる神のもとにいらっしゃるということ、これこそがご復活のイエスさまの事実なのです。しかし、ご復活されたイエスさまは、ご自身のためではなく、私どもの救いのために行動されます。主イエスは、何としても弟子たちのために、ご復活のお姿をお見せになられる必要がありました。何故なら、彼らは、お甦りになられたイエスさまと確実に出会うことなしに、ご復活の信仰なしに、立ちあがれないからです。ですから、主イエスは、ただ一度だけ、お甦りのお姿を見せられたのではありません。彼らの信仰をきちんと立ちあがらせ、癒し、力づけるために、実に40日にも渡って、言わば徹底的にお見せになられたのです。それは、彼らをまさに地の果てに至るまで、死にいたるまで忠実なご復活の証人とならせるためでした。ですから、数々の証拠をもってご復活の事実を明らかにされたのです。

その意味で、ここでのご昇天とは、まさにその地上におけるすべての御業が完成したということの宣言に他なりません。それは、ヨハネによる福音書のイエスさまの十字架の上での宣言と重なります。主イエスは十字架の上で「成し遂げられた」「完了した」と宣言されました。サタンとの戦いの勝利宣言でもあります。主イエスは、この昇天という行為において宣言されたのです。つまり、弟子たちをキリストの証人、復活の証人とするための教育期間は、滞りなく成し遂げたのだという勝利宣言です。したがって、主イエスのお心の内にある思いはこのようなものだったと思われます。「愛する弟子たちよ、私は、もはや二度と、この復活の体をもってあなたがたのところに来ることはありませんよ。わたしは完全に天に戻ります。」これが主イエスの御心であり、昇天の意味であり、目的だったのです。

主イエスは今、天に戻っておられます。それなら、そこで言われる「天」とはいったい、どこにあるのでしょうか。確かに、弟子たちは空を仰いでいたわけですから空へと昇って行かれたのは間違いありません。しかし、我々は既に知っています。空をどれほど高く昇って行ってもそこに天国はありません。あるのは宇宙空間だけです。つまり、ここでの天とは、人間の、限界のある一つの表現でしかないわけです。要するに天とは、父なる神がいらっしゃる場所を言いたいのです。その意味で、天とは、「はるかかなた」という意味も含まれていますが、同時に、「限りなく近く」という意味も含まれています。私どもが天のお父さま、天の神さまとお呼びするとき、それは、自分をまったく越えたお方、自分の外におられるお方を意味しますが、同時に、私と共にいてくださる誰よりもそばにいてくださるお方ということも信じ、体験するのです。

つまり、天にいらっしゃる父なる御神とは、私どもに誰よりも最も近くにいて下さる父でいらっしゃいます。主イエスは、まさにその右に着座されたのです。ですからマタイによる福音書の第28章で、主イエスが「見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがと共にいる」とのお約束は、まったく真実なことが分かるだろうと思います。イエスさまが、天におられるということは、確かに私どもとはまったく別の世界、次元を異にした場所にいらっしゃることを意味しますが、同時に、私どもと共におられるということを、はっきりとわきまえていたいと思います。

主イエスは、そこで雲に覆われます。この表現は、明らかに旧約を思い起こさせようとしています。例えば、出エジプト記の第40章にこうあります。主なる神は、モーセに荒れ野を旅するイスラエルの民のために、神の臨在を示す幕屋の建設をお命じになられました。神の民の中で、心動かされ、進んで心から自分たちの持っていた宝飾品やら毛皮や着物などを捧げました。そして、心から進んで労働奉仕をいたしました。こうしてついに幕屋が完成されたとき、34節にこうあります。「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋にみちていたからである。」つまり、雲とは主なる神が臨在しておられる証拠とされたのです。その後のソロモンが建てたエルサレム神殿完成の時も同じことが起こりました。列王記上第8章です。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちはほうしを続けることが出来なかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」とあります。

ここで、私どもが悟るべきことは、ついに主イエスが決定的に栄光の神として戻られたということです。つまり、イエスさまが永遠の御子としてもっておられる「高い状態」に移られたということです。キリストの高い状態とか低い状態という独特の表現は、ウェストミンスター大教理問答に出てまいります。便利な言葉です。今、主イエスは決定的に高い状態に移られたわけです。それが意味することは、私どもはこのお方を礼拝しなければならないと言うことです。ご復活されたイエスさまに対して、弟子たちは礼拝を捧げました。当然のことであり、大切なことです。しかし、今やご復活されたイエスさまは、天に昇られ、神の右に着座されたのです。まさにイエスさまは礼拝されるべきお方だということが明らかになります。私どもが今朝、ここで礼拝を捧げるのは当然のことだと言わなければなりません。

ただし、あえてくどいかもしれませんが、厳密に申し上げておきたいと思います。天に戻られたイエスさまは、人間イエスさまだということです。人間であることを止められて、もとの御子のお姿に戻られたということでは断じてありません。人となられた永遠の御子が、しかも十字架で死んでそして三日目にお甦りになられたあのイエスさまが天の右におられるのです。だからこそ、私どもにとって「天が開かれた」ということが、明瞭になったのです。主イエスは、私どもの復活の初穂、そればかりか私どもの天の王座に行かれた者の初穂、トップバッターとなられたのです。来週学びますが、主イエスは、私どものために場所を完全に用意したその暁にこそ、主イエスは再び地上に戻られるのです。

礼拝すべきイエスさまは、天におられます。そして、そのお方とお会いするためには、私どもの目を空間としての天、空に向ける必要はありません。イエスさまのことを思って、エルサレム郊外の昇天された場所に座り込んで空を見つめることが、主イエスに喜ばれることではありません。私どもは、目を上げることより、心を高く挙げるべきです。心を父とイエスさまに向けるのです。その方法は、御言葉、聖書です。説教を聴いて礼拝を捧げるのです。もとより聖餐の礼典も決定的に重要です。天におられるお方が私どもの礼拝堂のまん真ん中にご臨在したもうこと、それを、骨の髄まで理解し、弁えて行きたいのです。そして、主日礼拝式だけではなく、毎日、祈ることです。心を高く挙げるとは、祈ることそのものです。祈りを通して、目には見えませんが、主イエスが共におられること、救い主イエスさまが働いておられることを信じることができます。そして、この主イエスが、私どもをもご自身の復活の証人として、立たせ、用いて下さるのです。そのために、今朝も私どもは、主イエスに呼び出され、主イエスに近づくことを許されたのです。

したがって私どもは、この礼拝式にいつまでも留まることは許されていません。礼拝式のプログラムは、派遣の言葉と祝福の言葉で閉じられます。今朝も主イエスは、「安心して行きなさい。」と、それぞれの持ち場へと派遣されます。つまり、私どもは、ここから主イエスと共に、主イエスのために、隣人を愛し、隣人となり平和をつくり出すキリストの弟子、ご復活の証人として出発するのです。したがって、いつまでも天を見上げたままでいたら、天使たちに叱られます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」来週は再臨を学びますが、こう言われた彼らは、すぐに了解したはずです。「ああ、イエスさまは天に戻られた、しかし、私どもと共におられるのだ。自分たちは、ユダヤとサマリア、そして地の果てまでキリストの証人となって行くのだ。」こうして、彼らは自分たちが何者であるのか、何者とされたのかを日々理解を深めて行くのです。こうして、彼らの奉仕によってキリストの教会は日々前進してまいります。今や弟子たちは、自分たちが教会を建てあげるために主イエスに救われ、

主の愛に満ちた訓練を受けたことを理解しているのです。
この後、私どもは総会を開催します。昨年一年を共に振り返ります。確かに、拙い歩みでした。信仰の熱心と奉仕においてまことに足らない者でした。しかし、それにもかかわらず許されて、神の民の一員とされています。確かに、主イエスは、私どもと共に、私どもの中で、私どもを用いて働いて下さったのです。心から、神に、主イエスに感謝を捧げたいと思います。しかし何よりも私どもは、新しい年、まだ見ぬ新しい毎日毎日の歩みの中で、教会形成の明日を、将来を見たいと思います。天に昇られ、父なる神の右に王の王として着座された主イエスをしっかりと仰ぎ見たいと思います。そして、天において王として救い主として働いておられるイエスさまに、志を高くして、志を新しくして、ついて行きたいと思います。

祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、今や、ユダヤ人のみならずすべての人々が神の国の現れである教会の中へ招かれています。新しい教会の時代、聖霊の時代が始まっています。その中で、私どもも今神の平和の支配、天国の中に招き入れられ、救われた人生を歩んでいます。どうぞ、この驚くべき恵みの時代の始まりとそれをもたらして下さった主イエス・キリストの証人として、今のこのときをふさわしく生きることができるように、聖霊をいよいよ私どもに、そしてひとり一人に注いでください。聖霊で覆ってください。あなたの愛で満たしてください。隣人となるために。奉仕するために。アーメン。