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「教会の胎動」第1章15節~26節

「教会の胎動」
                 2014年2月9日
テキスト 使徒言行録第1章15節~26節
【 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。】

「教会の胎動」という説教題をつけました。意味が分かりにくいかもしれません。皆さまは改めて、お考えになられたことがあるでしょうか。キリストの教会がこの地上に始まったのは、いったい、いつなのかという問いです。おそらく多くの方が、使徒言行録の第2章の、あの聖霊降臨の出来事に起源を持つと、お答えになられるだろうと思います。確かに、間違いではありません。しかし、正確ではないように思います。私たちキリストの体としての教会は、第一世紀に初めて、あるいは突如として地上に実現したわけではありません。そもそもの始まりは、これは他のすべてのことにも共通していることですが、旧約聖書に記された神の民の歴史に基づいています。時間の関係で、旧約から説き起こすことはできません。しかし、新約から考えても、分かることがあります。主イエスは、地上にいらっしゃった時から、着々とご自身の体である教会を建て上げる準備を始められました。約束の民のユダヤ人から12人の弟子たちを選びだされ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言してくださったのです。神が教会を地上に出現させる直前、ご復活のイエスさまによる弟子訓練としての40日間があり、さらに、主イエスがご昇天されてからのこの10日間の祈りが極めて重要なのです。合わせて、50日という期間がどうしても必要で、大切なのです。まさに、母体の中での胎動、教会が地上に姿かたちをあらわす陣痛のような時なのです。

 さて、今朝のテキストは、いつもよりとても長い部分を一回で説教したいと思います。長い個所ですから、最初に、あらすじを整理しておきましょう。ここで語られているのは、12人の使徒の再興、再建のお話です。最初に、主イエスを敵に売り渡し、自死してしまったユダによって空いてしまった使徒の空席、その務めを補充すると言うお話です。次に、その使徒の条件とは何かが語られて行きます。最後の三番目に、誰が使徒として立てられたのかが示されます。

 それでは、最初の御言葉に学びましょう。「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」今やペトロは使徒たちの中でも指導者としてふるまい始めます。主イエスごじしんが、彼の立場を認め許されたからです。他の使徒たちもまったく違和感なくそれを認めているようです。つまり、彼らは、先週学んだ通り、心を合わせているのです。

次に、そこに120人ほどの人々がいたことが分かります。また、ペトロが「兄弟たち」と呼びかけたことで120人を男性に限定していると理解することもできるでしょう。そうすると、この部屋には女性の弟子たち、主イエスの母マリアと兄弟姉妹たちもいたはずですから、さらに大勢の者たちが集まっていることになります。あるいは、彼ら全員をひっくるめての120人で、婦人たちも含めて兄弟たちと呼んだのかもしれません。そして多くの人がこの120人をユダヤ人の会堂組織を満たす最低限のメンバーがいたことを明らかにしていると解釈するようです。これは、確定する必要はないかと思います。いずれにしろ、集まっているのは、12弟子たちだけではなく、かつて主イエスが72人を伝道旅行に派遣されたことがありましたが、おそらく彼らもまた、ここに集まっているのだと思います。そして何よりも私どもがここでも、注目しておきたいのは、彼らが「一つになっていた」という点です。たとえば、旧約エズラ記やネヘミヤ記において、イスラエルが律法の書を再発見し、心新たに礼拝をささげたそのとき、民は、ひとりの人のようになったと言われています。ルカは、彼らも今まさに、あの時のように心を合わせていたのだと告げたいのだとおもいます。そして、ここにも私ども教会の模範がはっきりと示されています。

 先週、伝道所委員方が礼拝式後に話しあわれた結果について、報告を受けました。今日の週報にも記しました。わたしどもが、いつも最優先に考えているのは、主の日の礼拝式をふさわしく捧げることです。充実した礼拝式を捧げることです。くわしくは、報告の時間で説明されるだろうと思います。

 いよいよ、今朝のテキストの本論です。使徒たちがご復活されたイエスさまに最初に質問したことを思い起こいます。ルカは、彼らが抱いていて第一の関心として、この問いを記しました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」ユダヤ人の基本的信仰理解は、メシア・キリストが来られたとき、イスラエルは再興されるというものでした。使徒たちはついにその時が来たのだと考えたのです。主イエスは、その期待に対して一概には否定されませんでした。そのことを確認しておきましょう。

主イエスが、昇天された後、彼らは、ただちに祈りました。同時に、ただちに、ここでイスカリオテのユダの裏切りと自死によって失われた使徒の職務の座、空席になった務めの座の補充を極めて大切なこととして理解するのです。そこで、ペトロは、呼びかけたのです。つまり、12使徒団、12人が揃っているということは、それだけで大きな、決定的な意味を持っていたということが分かります。つまり、12人の使徒たちとは、イスラエル12部族の再興を意味したからです。イスラエルは今このような仕方で再考し、預言が成就したという理解です。ですから、人間的に考えれば、確かに何も敢えてここで急いで、イスカリオテ・ユダの補充をする緊急の必要性はなかったかもしれません。あるいは、補充要員としてバルサバとマティアの二人も候補者がいたのであれば、その二人を同時に使徒に加えればよかったと言えるかもしれません。しかし、12人が特別の意味を持つのです。つまり、ここでもルカが、はっきりと読者に告げるメッセージは、イエスさまは旧約の預言の中心であり、約束されたキリストご自身でいらっしゃると言うことです。そして、その背後には同胞 のユダヤ人たちへの熱い思いが込められています。つまり、ユダヤ人たちは、自分たちが殺してしまったイエスさまは、キリストであるなら、もう、自分達に救いも希望もない、最大の罪を犯したのだから、もう絶望だ。そのように、考えるユダヤ人に対して、いや違う。私たちのために、イエスさまは、十字架で贖いを成就してくださり、他でもない契約の民である自分達を救ってくださったのだと告げたいのです。あなたがたが殺したイエスさまは、神が甦らせて下さったのだから、あなたがたの罪は赦され、あなた方も救われる、あなた方こそ救われるべきだという著者ルカが使徒言行録を通してユダヤ人に心の底からの呼び掛けているのです。

 さて、いよいよユダの問題に入ります。初代の教会にとって、イスカリオテのユダの存在は、まことに生々しい傷をもたらしたはずです。彼は、主イエスに対し、神に対し、空前絶後の罪を犯したのです。主イエスを意思的に裏切り、お金で売ってしまったのです。さて、私どもは、このユダがどのような死を遂げたのかについては、既にマタイによる福音書で学びました。ところがルカによれば、マタイとはずいぶん違っています。ルカは、ユダが主イエスを売って得たお金で畑を購入したことになっています。また、自死をしたのではなく、言わば事故死のような感じです。それならどちらが事実なのか。これは、今となっては分かりません。これは、わたしの仮説でしかありませんが、使徒パウロは、テモテへの手紙の中で、こう言っています。「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」(一テモテ6:10)。ルカはパウロの同労者です。パウロの信仰の影響を受けて、ユダの罪を、金銭欲の結果として理解して、ユダの死を突き刺されたものとして理解したのかもしれません。

横道にそれますが、当時の教会の仲間たちがユダのことをどのように解釈したのかについては、ある幅があったのだと思います。歴史的な死の事実について、必ずしも特定する必要は、私どもの救いや神の栄光にとっては、必要ではないのです。それだけに、共通していることが大切なのだと分かるだろうと思います。それは、すべて聖書に預言されていた事ごとだった、その成就だったのだということです。

さて、使徒たちはどうして使徒の務めが補充されなければならないと考えたのでしょうか。ここには、主イエスの指示はないのです。いったい、何故、そのように考えたのでしょうか。先週、私どもは、彼らが、祈りに執着していたと学びました。そもそも、祈るとは、どういうことでしょうか。その態度は、ただ単に、祈りの言葉を神に捧げ続けるということではありません。私どもが朝夕、それこそ柱として大切に続けている教会の公的集会に、祈祷会があります。祈祷会に出席されたことのある方は良くご存知のはずだと思います。祈祷会では、最初から最後まで執り成しの祈りを捧げているのでしょうか。違います。必ず聖書を開きます。祈祷会のことをわざわざ「聖書研究祈祷会」と表記する教会もあります。それは、単に祈るのではなく、神の御言葉に導かれた祈りをもって祈るということを明瞭にしているのです。そして、私どもの祈祷会もまた、まったく同じです。祈りにおいてこそ、私どもは御言葉に導かれなければ、なしえないことをわきまえているつもりです。御言葉を聴いた者としての応答こそ、祈りなのです。聖霊の賜物です。祈りなしに、聖書はまた、自らを私どもに開くこともないと言っても言い過ぎではありません。神の真理を愛し、神の真理を悟らせて頂き、その真理の前に自らを差し出す信仰の心が整うところに神の御言葉の真理が私どもに開示されるのです。だからこそ、従うこともできるのです。御言葉によって教えられること、変えられることが起こるのです。

つまり、彼らは、祈りの中で熱心に、みんなで聖書を読んでいたはずです。また、主イエスの御教えを思い起こしていたと思います。そして、特に、詩編が彼らにキリストの真理を明らかにしてくれたのです。ユダの裏切りも、そしてユダによっていなくなった使徒の職務を補充すべきことも、すべては、詩編に記されていたのだと理解したのです。大きな意味では、キリストの預言としての詩編の性質が、分かって来たのです。ちなみに、詩編と言えば、私どもは神の民の伝統として礼拝の中で歌ってまいりました。私どもの教会も既にジュネーブ詩編歌に慣れ親しんでいます。しかし、詩編は、単にいわゆる文学書としてだけ受けとめられるべきではないということが、新約においてよく分かってきました。つまり、詩編とはキリストの預言の書でもあるということが分かって来たのです。その意味で、新約における旧約の引用の中で詩編が突出して多い理由があることにも頷けると思います。使徒たちは、120名の兄弟たちは、聖書、旧約聖書を徹底的に読み続け、学び続けたのです。それが、祈りに執着した、心を合わせ熱心に祈っていたということの正確な姿です。その中で、いよいよ神の預言の言葉の真実が見えて来たのです。そしてそれは、その時のことだけではなく、教会の基本姿勢として、聖書研究の群れとしての教会、聖書を学ぶ家としての姿がここに見えています。

次に、使徒となる条件がここに記されています。先ず、主イエスと生活を共にしていた弟子であるということです。これが絶対条件です。厳密には、「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」です。

ここでは、ヨハネの洗礼からということだけ、少し説明します。洗礼者ヨハネこそ、キリストの証人のモデルとして、四つの福音書にすべて登場します。彼は、自らではなく、ただひたすらイエスさまの道備え、イエスさまを紹介するための存在だと理解します。自分は荒れ野で叫ぶ声であって、イエスさまは声の中身そのものなのです。そのようなあり方として、証人と言う者の存在が改めて考えられます。結局、使徒とは、そして私どもキリストの証人とは、自分のことではなく、ただイエスさまのことが相手に伝わり、イエスさまがほめられ、イエスさまが信じて敬われ、従われるなら、自分の存在が地上的には消えても、それにこだわらない存在なのです。これからのこの物語の中で、ペトロがどれほど大きな役割、働きをするか、前半に記されます。しかし、彼がどのように召されたのか、知っているはずなのに、器そのものを紹介しないのです。器に盛られたイエスさまだけが、神だけが賛美されること、神の栄光だけが賛美されることを求める、それが証人たる者の務めであり、姿なのです。

さて、120人の兄弟たちは、二人の仲間を候補者としました。何故、二人だったのでしょうか。一人だけを候補にしても、あるいは、後でくじを引くのであれば、三人でも良かったのかもしれません。いずれにしろ、おそらくバルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフが第一の候補者のようです。最初に挙げられていて、彼だけに詳しい説明があります。第二候補は、マティアです。このマティアが使徒として選び、立てられます。ところが彼は、この後、何をしたのかまったく聖書に登場しません。まったく可哀そうな位、姿が見えません。ここから、ある人たちは、結局、使徒を補充するのは、弟子たちが聖霊降臨を待てなかった証拠だと考えるのです。しかし、そうではありません。繰り返しますが、神の救いの歴史、旧約の預言やユダヤ人のためにも、聖霊降臨前に、この補充には特別の重い意味があるのです。しかし同時に、教会においてある真理がここで見えて来ます。つまり、確かにこの世の論理から言えば、たとえば、会社などでは、人材本位でつまり、その人材の能力、生産能力に基づいて、立場や役職を与えることが正当なのだろうと思います。しかし、教会ではその務めが大切にされなければならないということです。

イスカリオテのユダの任務、この「同じ任務」を担う人が求められるのです。この任務とは、ディアコニアという言葉が用いられています。証人のディアコニアです。この務めの重要性です。教会にとって、まさに必須の務め人がいます。説教者、牧師たちです。しかしある教会には、定住の牧師がいません。それは、やはり危機的なことです。ところが、それ以上に危機的なことがあります。それは、自分たちの教会の今の経済やら都合を考えて、説教者の招聘を第一の祈祷課題にしない教会です。もとより、牧師であれば誰でもよいというわけにはまいりません。しかし、教会にとって必須の務めとその務め人を第一にしないのであれば、教会は重大な病に瀕しているのです。

さて、マティアという弟子は、まったく能力もなく、使徒的な働きを担えなかったのでしょうか。そうではなかっただろうと思います。しかし、繰り返しますが、敢えて、このマティアというキリスト者を証するのが、使徒言行録の目的ではありません。徹底的に神、イエスさまのお働きが証言されればよいのです。

最後に「くじびき」について触れます。今日、教会の重要な決定、判断をくじ引きに頼る教会は、きいたことがありません。それこそ、わたしどもの祈祷会で、三つか四つのグループに分かれるときに、アイスクリームの棒に色をつけて、くじ引きします。それ以外には、くじびきは出る幕がありません。それなのに、何故、ここでくじ引きなのか、その一つの答えは、聖霊降臨前だからということです。この後は、聖霊が決めてくださり、導かれます。特に、15章まではそうです。ここではユダヤの習慣を継承したということでしょう。ただ、これは単なるくじ引きではなく、祈りが共なっています。そして、わたしはこのくじ引きで当選しなかった、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフは、信仰者としてその賜物や能力からも、決してマティアに劣っていたわけではないと思うのです。そして、これは、推測ですが、選ばれなかったからキリストの証人としての献身、信仰の働きにおいてなんら変わることはなかったと思います。

余計なことですが、教会は選挙をします。中会や大会でも委員や議長などは、選挙を用いる場合が多いのです。わたし自身は、この選挙が、本当に神の御心を表し、示すのかと言えば、まことに懐疑的なのです。そこに、どれほど人間的な思惑、考えが反映されるかを知っているからです。しかし、それにもかかわらず、神は、主イエスは、その選挙を無効にはなさらず、教会を導かれます。畏怖すべき事だと思います。

いずれにしろ、くじでも選挙でも、選ばれた人もそうでない人も、教会のディアコニアとしての立場、務めを自覚すべきです。自分の存在が、キリストを証すること、復活の証人とされていることを自覚することです。使徒たちは、祈ってくじを引きました。ひたすらに、主の御心を求めてのことです。そして、マティアもヨセフも、その他の120人の弟子たちも、このようにして小さな群れは、この地上にキリストの教会として出発する準備を、聖霊と聖書に導かれて、整えたのです。

祈祷
私どもの小さな群れをここにお越し、その20年になろうとする歩みを常に頭として聖霊と御言葉によって導いて下さいました、主イエス・キリストの父なる御神、私どもの教会もまた、聖書に徹底的に聴き従い、今、何をなすべきか、優先すべきか、どうぞ、導いて下さい。そのためにもいよいよ教会の設立、小会の組織を祝福してください。そしていよいよ、キリストの証人の務め、奉仕をみんなで担うことができるようにしてください。キリストを殺したその罪すらご自身の栄光、私どもの救いに用いられるあなたの計り知れない恵みの大きさ、愛の豊かさを信じて、後退しても、また何度でも前を向いて前進する群れとして養い、鍛えてください。アーメン。