過去の投稿2014年6月29日

「キリスト復活の預言」第2章25節~32節

「キリスト復活の預言」
                 2014年3月23日
テキスト 使徒言行録第2章25節~32節
【 ダビデは、イエスについてこう言っています。
『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。】

今朝学びます、ペトロの説教は、詩編第16編の引用から始まります。私どもが現在、手にしている旧約聖書39巻の配列は、最初にモーセ五書と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つが並びます。これらを律法の書と呼びます。その次には、歴史書が続きます。その次に、ヨブ記、詩編、箴言、コヘレトの言葉そして雅歌と並びます。それらを文学書と呼びます。その次に、大小の預言書が続いて、マラキ書で閉じられます。つまり、大きく分ければ、四つにまとめられているということができます。そして、詩編とはまさに文学書の中心として広く理解されているだろうと思います。

さて、詩編が文学書であることは、まったく間違いではありません。私どもの主日礼拝式において、ほとんど毎週、ジュネーブ詩編歌を讃美歌として用いています。そもそも神の民の歴史を振り返れば、詩編とは、礼拝のための讃歌、讃美歌として用いられてきたわけです。新約の今も私どもは、その歴史をここに継承していると言ってもよいでしょう。しかし、今朝、あらためて確認させられることがあります。それは、詩編が主イエス・キリストを証言するテキスト、預言するテキストとして、最大級の重みを持っているということです。新約聖書の中で最も引用される旧約は、実は、詩編です。キリスト教会最初の説教である、ペトロの説教もまた詩編第16編を引用して、この詩編の真の意味とは何かを説き明かして、キリストを人々の前に指し示すわけです。

さて、ペトロは、今、驚くべきことを、しかし、ひょいと言ってのけます。「ダビデは、イエスについてこう言っています。」これは、詩編第16編を味わってきたイスラエルの人々にとってはもとより、それを素朴に読む全ての人々にとって、驚くべき解釈、あるいは、とんでもない解釈と言われても仕方がないように思います。たとえば第8節にこうあります。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。』この個所は、それまで誰もが、この「わたし」とは、詩人ダビデ自身のことであると理解しきたはずです。つまり、この詩は、基本的に、ダビデの信仰告白であると理解されてきたのだと思います。「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。」この告白もまた、ダビデは、まことに恵まれた信仰者として、目には見えない真の神、霊でいらっしゃる神さまを、いつも自分の目の前で見るかのように生きていたのだという理解です。ちなみに、私どもの教会の月報のタイトルは、「コーラム・デオ」です。デオとは神、コーラムは前、つまり、「神の御前に」というラテン語です。どうして、このタイトルを採用したのか、詳しい経緯は忘れていますが、いずれにしろ、改革教会の信仰の本質、霊性の本質を見事に言い表す言葉です。同時に、このラテン語二文字は、キリスト者の信仰の姿勢についてもっとも短く、もっとも根源的なあり方を言い表していると思います。

私どもの聖書の信仰によれば、創造者なる神は主の主、すべての主権をお持ちの唯一の神です。したがって、全世界は神さまの聖なる御顔の前にあります。隠されている部分は何もありません。隠れることのできる部分はどこにもありません。信仰とは、この事実を喜びと感謝の内に認めることに他なりません。聖書によれば、特に旧約の表現を見ますと、信仰者の幸福とは、恵みの神さま、契約の神さまがイスラエルに向き合っていて下さるということになります。神さまに愛と憐れみ、いつくしみと祝福をもって顧みられているということです。イスラエルにとってそのような神として神さまを仰ぎ見ることができる状態こそ、救いであり祝福なのです。

私どもは毎週、礼拝式の最後のところで、いわゆる祭司アロンの祝福を聞きます。「願わくは、主が御顔をあなた方に向け、あなたがたに平安をたまわるように。」つまり、「神さまはあなたの方を向いておられますよ。あなたに神さまの命の光が注がれていますよ。あなたのことをいつも神さまは心にかけていてくださいますよ。あなたと神さまの間には平和がありますよ。あなたは、救われています。大丈夫。安心しなさい。」こういうもろもろの神の祝福を要約しているのです。ですから、ダビデがここで、「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。」と告白するのは、まさに彼の生き生きとした信仰を告白したのだと理解できるだろうと思います。

さらに加えて、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。」と歌いあげます。神さまが右にいてくださるというのは、単にどの位置かということではなく、隣ということ、どこまでも近く、誰よりも近くにいてくださるという意味です。つまり、ダビデは、神さまがいつもいっしょにいてくださるので、自分は人生の荒海にもまれても動揺しないで進むことができるようにされているというわけです。信仰者の証と言えるでしょう。キリスト教信仰、聖書の信仰とは心は楽しみに満たされ、舌は喜びの声を発し、さらに、体、健康においても希望が与えられているので健やかさを与えるということです。

さて、このようにこれまで詩編第16編とは、信仰者ダビデの証、信仰に生きる者たちの幸いを歌ったものと、ずっと理解されてきたのです。ところが今、聖霊に導かれた使徒ペトロたちは、御言葉の内に隠されたまことの意味、そのもっとも深い意味を鮮やかに示されたというわけです。彼らの内に、御言葉が新しい意味をもって浮かび上がったのです。つまり、これは、ダビデじしんのことを言っているのではなく、イエスさまのことを預言したのだという、まさにまったく新しい解釈です。ただしそれは、決して突拍子もない解釈などではありません。何故なら、かつて、主イエスご自身が詩編を通して、ご自身がどなたでいらっしゃるのかを証されたことがありました。マタイによる福音書第22章41節以下にあります。「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」主イエスは、そこで自ら詩編第110編を引用されて、それをご自身の証言、預言として理解され、公に示されたのです。メシア、キリストとは、単にダビデの子孫という面からだけ、つまり歴史上のこと、水平のこととして理解するのではなく、天からのこと、垂直の次元から理解すべきだと言うことです。要するに、イエスさまは単なるダビデの子孫ということではなく、神からのメシアそのものであるというメッセージがそこで語られたのです。

使徒ペトロたちは、今、キリスト教最初の説教を試みるにあたり、最も強く証しすべきこと、したかったことを鮮明にします。言い換えれば、福音のメッセージの中心がここに示されたとも言えます。それは、他でもない、キリストは死者の中からお甦りになられたという事実です。

これまで、「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。」の御言葉の真の意味は、理解されないままだったのです。この個所もまた伝統的な解釈によれば、イスラエルの人々の「体の復活」の信仰を言っているのだというものです。たとえば、マタイによる福音書第22章23節に福音書を読みますと、主イエスの時代には、ファリサイ派の人々は、肉体の復活を信じていて、サドカイ派の人々は、これを否定していたということがあって、お互いに対立していたのでした。

しかし今、ペトロは鮮やかに悟らされたのです。何故なら、その目で主イエスの体の甦りを目撃したからです。したがって、ペトロはこのように主張し、宣言して行きます。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」ペトロは主張します。「単純素朴な事実として、ダビデは死んでしまっている。その墓も確かに存在している。ということは、ここで言われている事柄は、彼が生きていた時にはダビデ自身のことを言っていると解釈することは有効かもしれない。しかし今や、その解釈だけでは限界である」ということです。ペトロたちは、遂に、ご復活されたイエスさまとお会いして、この詩編が実は、主イエスのお甦りのことを預言したものだとはっきりと理解したのです。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』と語りました。」主イエスの御業、それはすべて預言に基づくものなのです。旧約と関係のないところで、イレギュラーのように起こってしまったことなど何ひとつないのです。それは、これまでマタイによる福音書の講解説教で何度も確認してきたことでした。ペトロも、使徒マタイも、主イエスのことは、すべて預言の成就として理解されたのです。そして本当にそのとおりなのです。

次の御言葉に進みましょう。「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」この御言葉も、イエスさまが父なる神に向かっての御言葉であると理解されます。父なる神と御子なる神イエスさまとの関係についての真理です。わたしはこの御言葉を、ペトロの説教の光に照らされて改めて聴かされた時、何か、三位一体の神さまの交わりの秘密を盗み聞かせて頂くような思いに駆られました。子どもが、愛と信頼の関係に固く結ばれたお父さんとお母さんのすてきな会話を、聞かされたような感じです。イエスさまは、こう父なる神さまに告げられたのです。「天の父よ、あなたは命に至る道、死から体の復活へと至る道をはっきりとわたしにお示しになられます。そのようにして、永遠にあなたとともにいるわたしを喜びで満たして下さいます。」これは、主イエスの父なる神への信頼の歌となっているわけです。そのようなことをダビデの時代に、つまりイエスさまの時代の千年も前から預言されていたわけです。

そして、主イエスご自身が命そのもの、命の源でいらっしゃるので「死に支配されたままでおられるなどということはあり得なかった。」わけです。そして、使徒たちは全員、墓の中からお甦りになられたイエスさまと出会ったのです。目撃したのです。聖書そのものの預言からも、主イエスというお方が地上でなさった数々のしるし、みわざからも、何よりも事実、復活の目撃者となった自分たちは、ご復活を証言せざるを得ないというわけです。

あれから2000年間、教会のキリスト復活の証言は、今朝この時も続いています。今朝も教会は、御言葉の説き明かしをもってキリスト復活を証言します。キリストは預言者の御言葉通りにご復活されたと証します。さらにその証言は、聖書だけにとどまるものではありません。実に、私どもは、主イエスご自身の証言に基づいて注がれた聖霊なる神さまの、聖霊の注ぎの実りによる教会が与えられています。私どもはキリストの体なる教会というこの現実のただ中で、主のご復活を体験しているわけです。そして、その教会の中で信仰が与えられた私どもは、使徒たちにならって、ここで復活のキリストの臨在しておられる礼拝式を捧げ、この礼拝式によってキリストの復活を他のどのような方法にもまさって証言しようとしています。それが既に2000年間、毎主日、繰り返されているのです。これほど、確かな復活の証言があるでしょうか。同時に、思います。キリストのご復活を証言し、また、キリストのご復活の救いと恵みにあずかるために、教会の存在は必須です。万が一にも、地上に教会がなくなると復活の証拠がなくなります。それゆえに、キリストの体なる教会が地上からなくなってしまうことなど、ありえないのです。それは、ペトロが、説教の中で「イエスさまが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と言ったことと類比の関係にあります。今日の私どもなら、このようにも説教してよいはずです。「イエスさまの体なる教会が、迫害や試練の中で打ち倒されたままになることは、あり得ない」

最後に、これまで確認しましたように、この詩編が実は、単にダビデの信仰の告白、証ではなく、主イエスのご復活の預言であるという理解はまったく正しいわけです。ペトロの説教に誤りはまったくありません。しかし、今日の私どもは、同時にさらに深く教えられることもあるのではないでしょうか。つまり、この詩で歌われた内容を、ダビデと共に自分じしんの信仰の体験、信仰の証と読むということです。それは、決して、ここでのペトロの説教を否定すること、ないがしろにすることにはならないと思います。

私どもは今、信仰によって人となられた主イエス・キリストと一つに結ばれています。そのようにして、キリストの体なる教会のひと枝とされています。その確かな証拠として洗礼を授けられました。聖餐の礼典にも招かれています。実に、私どもは神の霊を注がれて、御言葉を信じ、理解できるようになりました。つまり、このような私どももまた、実に、父なる御神を主イエス・キリストを通して仰ぎ見ることが許されていると言えるはずです。たとい、私どもがいつも父なる神を、信仰的、いきいきと見上げることができなくとも、父なる神は、この罪深い私どもをあるがままで愛と慈しみをもって顧みていて下さいます。少なくとも、キリスト者は、この恵みの事実をよく知っているはずです。だからこそ、私どもは今朝も信仰の弱さと行いの拙さのあるがままの姿、罪人の姿のままでその罪を赦され、今ここで皆で主を仰ぎ見て、礼拝をささげることが許されているはずです。つまり、私どももまた、主イエス・キリストが共にいて下さることを知っているのです。たとい、現実には、些細なことにも慌てふためいてしまって、信仰者であることすらどこかに吹っ飛んでしまうような思い患いや言動をすることがあります。しかし、主イエス・キリストによって父なる神が共にいて下さること、主イエスが共にいてくださることをも信じ、知っているのです。確かに動揺することは少なくありますが、いつまでも続きません。主イエスさま、天のお父さまと心を落ち着かせ、御名をお呼びするとき、心の嵐は過ぎ去ります。信仰のおかげで、肉体すらも守られると言う経験をします。そして、自分自身も又人となられた主イエスと聖霊によって結ばれ、信仰によって一体化させられているので、自分の死後、肉体の復活を信じることができています。私どもの前に、神がおられるので、命に至る道が、その大きな道が高速道路、ハイウェイのように通じているのです。そこから聖霊によって、天国の喜び、救いの喜び、主と結ばれている喜びで満たされるのです。

『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』この詩は、不思議に私どもの信仰の勝利の証であると言えるのです。私どもは、やがて確実に死にます。しかし、私どもの目に見える存在、肉体は遺骨となってお墓に納められるでしょう。しかし、私どもの魂は墓にいるわけではありません。天上にいます主と結ばれるのです。さらに、主イエスがご再臨されるとき、私どもの肉体は復活させられるのです。この真の希望をもって、この新しい一週間も、信仰によって天にいらっしゃいます主イエスと結ばれ、教会の一員として、神の国を目指して旅路を進み行きましょう。

祈祷
主イエスのご復活がダビデの詩を通して、はるか1000年もの昔から予告されていました。聖霊は、その隠された真理をペトロに教えられました。今、その真理を聞きました。心から感謝致します。これでもかと、父なる神の恵みの真実が証され、キリストの復活の証拠、確かさが証されています。弱い私どもの信仰をそのようにしてあなたが説得し、支え、力づけて下さいますことを感謝致します。そして今、私どもにも同じ御霊が注がれ、御言葉の真理を悟ることが許されています。どうぞ、いよいよ御霊を注いで下さい。目には決して見えないイエスさまを、しかし、信仰の目を開かれて、天上に仰ぎ見ることができますように。いよいよ、主日礼拝式のたびごとに恵みの体験、主イエス・キリストの臨在に深くあずからせてください。そのようにして、私どももまたキリストの復活の証人として、用いて下さい。アーメン。