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「まことの伝道説教」第2章32節~36節①

「まことの伝道説教」
                 2014年3月30日
テキスト 使徒言行録第2章32節~36節①
【  神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 】

3月の最後の礼拝式を捧げています。そして次主日は、4月の第一主日です。予告されていますように、開拓伝道開始20周年の記念の礼拝式として捧げます。午後には、学びと懇談の時を持ちます。実は、その日の礼拝説教は、講解説教を中断しようと前々から考えておりました。しかし、先週、まことに不思議なことですが、このテキストを黙想している内に、この個所から、その日の説教を語ることへと導かれました。ですから、このテキストから二回の説教をすることになります。そして今朝の説教もまた、来週の20周年記念の集会の備えとしての説教となります。

今朝の説教の題を「まことの伝道説教」と致しました。今朝は、神の言葉の説き明かしである説教について、とりわけ伝道説教について学びたいと思います。そもそも説教についての学びは、単に牧師である説教者だけの課題にしてはなりません。これは、教会にとってまさに最大級に大切な事柄です。教会に生きるキリスト者にとってはまさに不可欠の学びであり、必須の知識です。ちょうど先月の祈祷会でも、礼拝指針の学びの中で、取り扱ったばかりです。

しかし同時に思います。私どもの教会では、すでに多くの方々が説教奉仕を担っておられます。今朝も、説教奉仕が捧げられました。子どもの教会の教師方のことです。今朝、あらためて説教の一つの側面に絞って学ぶわけですが、既に、説教奉仕を担っておられる方々は少なくないわけです。それくらい、私どもにとって身近なことです。何よりも、私どもは毎週、ここで神の御言葉、旧約、新約聖書の説き明かしとしての説教、神が今ここでご自身の御心を語って下さる手段としての説教によって、生ける神さまを礼拝しているわけです。きちんと学ばなくとも、すでに説教に触れ、説教によって生かされているわけです。しかしそれだけに、きちんと学ぶことが大切になるわけです。

子どもの教会の最近について、皆さまと常に共有したいのですが、残念ながら、ほとんど契約の子たちだけの出席となっています。一方で、教会の子どもたちの信仰の成長を促す意味では、プラスの側面もあります。語る教師の方々は、言わば、いつも身内に語るわけで、ある緊張感を失いやすいかもしれません。地域の子どもたちが来てくれると、まさに、そこで主イエスの恵みや神の愛、存在について、分かってもらわなければとの思いが当然、強くなります。しかし、いずれにしろ、そもそも聖書を説き明かして神を礼拝するためになされる説教とは、神の民のひとりである説教者が神の民である教会員に向けて語るものです。礼拝説教とは、教会が教会のために語るという本質があります。

その意味で、このときのペトロの説教と今私どもがここでしている教会の礼拝式の説教とは、はっきり異なっているわけです。ペトロは、今日の私どもの言葉で言えば、伝道説教をしているわけです。向き合っているのは、いわゆる未信者の方々ばかりです。ただし、未信者と言いましても、彼らはユダヤ人です。つまり、まことの神、唯一のイスラエルの神を信じ、その神を礼拝するため、五旬節の礼拝をささげるために世界の各地からエルサレム神殿に詣でている人々に他なりません。異邦人ではないわけです。しかし、このときのペトロたちが置かれた状況は、言わば、完全にアウェーの状態であることに間違いはありません。それは、ペトロが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と、この結びの言葉を語ったときもはや完全に、決定的に、そこは、敵地になってしまいました。言わば、敵と味方と、くっきりと線が引かれてしまったのです。既にペトロは、23節で、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と言いました。つまり、キリスト殺しは、ローマ帝国の権力、軍人たちの手によるものだったのだと、言わば、オブラートに包んで表現していました。ところが今や、ストレートに「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と突き刺すように語ります。

ここで考えてみたいと思います。私どもは、ペトロのように、目の前にいる人に向かって「あなたは人殺しです。あなたが、イエスさまを殺したのですよ」と言えるでしょうか。しかも、イエスさまに十字架刑が執行されたのは、まだ2カ月足らず前の事なのです。そんなことを言えば、ただちに、聴衆との関係は危険なものとなるはずです。反発どころか、怒りと憎しみ、果ては殺意すら湧きあがらせてしまわざるを得ないような言葉です。
しかし、使徒ペトロは、事実、そのように語ったのです。私どもは今朝、神に問われているだろうと思います。いったい今日の教会の伝道の姿勢、また伝道の言葉は、この説教者ペトロの姿勢、またこの説教の言葉、伝道の言葉を受け継いでいるのかということです。

ここで、私どもの開拓伝道20周年の課題に直に触れて来ます。何故なら、私どもの開拓伝道出発の原点とは、まさにそこにあるからです。実に、名古屋岩の上教会の開拓伝道とは、日本の教会の歴史、プロテスタント150年の歴史の急所、弱点を克服する挑戦の歩みでした。確かに、その最初から厳密に認識されていたわけではないかもしれません。しかし、繰り返し学び、確認してきたことはそこにあったと言えるはずです。

明治以降の日本の教会の歩みを振り返る時、いささか大胆ですが、もし一言で捉えるなら、教会は、日本に居場所を与えてもらえることに心血を注いできた歴史と言ってもよいと思います。この主張は、私だけではなく、先日の教会設立式に祝電を送ってくれた仲間の一人が、論文として公にされています。簡単に言えば、キリスト教信仰を迫害から守り、教会の存在を根付かせようとした歩みです。そのために、自分たちがどれほど、日本の国家や社会に有益なものであるかを弁明し、彼らへの協力の姿勢、従順な姿勢を証してきた歴史なのです。とりわけ戦前の歴史は、あきれるほどまでにそうでした。それは、戦争推進のための宗教団体となることさへ厭わなかった事実一つをあげれば十分かと思います。言わば、権力者に睨まれない教会になること、それによって、自らを守ろうと試みたわけです。しかし、まさにそこにこそ教会の死活の問題があるのです。そのようにして教会を守るというとき、守るべき教会は、真実のキリスト教会でありえたのかどうかを問うべきです。そのようなことを試みたとき、神の御目からは、既に神の教会、キリストの教会であることから逸脱していたはずです。

私どもが、日本キリスト改革派教会への加入を志したのは、日本キリスト改革派教会が、まさにこの点での罪を自覚し、認め、政府の圧力によって合同させられていた日本キリスト教団からいち早く離脱して、新しい教会を創立したことを知ったからでもあります。
ただし、あれから70年になろうとする今、私どもはまったく同じ問題、同じ課題の前にあることを認めざるを得ません。安倍政権の問題でもあり、それ以前から、3:11によってそれ以前の日本の教会が、結局、いわゆる、人畜無害のような団体になっていたのではないか、それが、いよいよ露わになったと思っています。日本と言う国家は、あの敗戦によって新しい国になったというより、あの敗戦を深めている、そのように語る学者もおります。わたしもそのように考えています。

そして、このような日本の教会の歴史における問題とは、ただ単に、私どもの外の問題では決してありません。それは、私ども自身の罪の問題そのものなのです。教会を守ろうとするということは、聞こえはよいのですが、そこで守ろうとするのは、神さまでも福音でもないのです。そこでの教会とは、自分のことです。自分のための教会、自分あっての神さま、自分あっての世界、すべてがなお自分を中心にめぐっているのです。そうなると、罪の問題もあやふやになります。罪の悔い改めがあやふやになります。自分に利益をもたらさない福音やキリスト教やキリストの教会は、結局、価値が無くなってしまうのです。

私どもの教会がここで開拓を始めたのは、ただ単に、一つの新しい教会を開拓するということではなかったのです。イエスさまの主権を貫く教会を建てるために他なりませんでした。

さて、ペトロの伝道説教に戻りましょう。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」このように語るペトロの説教者としての姿勢、伝道者としての心を探りましょう。皆さまも、もしかすると一度は、目にされたことがおありかと思います。地方の町を歩いていると黒い板に聖書の言葉の一部や自分たちで考えた言葉が白地で書かれている看板です。正確には覚えていないので申し訳ないのですが、「人は死んだ後、神の裁きを受ける」「イエスを信じない者は死後裁きを受ける」このような否定的、消極的な言葉です。私は、それを見て、信仰に導かれた人がいることを一度も聞いたことがありません。

そのようなことを思うときにこそ、いったい、この時のペトロ、この説教を語ったペトロの心、信仰の心とはどのようなものだったのかについて、思いを深める必要があると思います。わたしは、ただちに、使徒パウロの告白を思い起こすのです。テモテへの手紙Ⅰ第1章13節以下で、こう語っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」
パウロは、キリストでいらっしゃるイエスさまがこの地上に来られた目的は、罪人を救うために他ならいと、福音の真髄を語ります。しかも、その罪人とは、他ならない、わたし自身のことであって、自分のことを、罪人の中の罪人だと言うのです。この理解は、決して使徒パウロだけが持っていたものとは思えません。ここでの使徒ペトロの説教にも相通じているものです。そして、それは、およそ福音を語る者の基本的な心、共通する気持ち、理解に他らないと思います。

確かにペトロは、「あなたがたはイエスを十字架につけて殺した」と言いました。つまり、あなたがたはイエス殺しの張本人だという、極めて厳しい指摘です。それは、神への最大の背反、神に対する最大の敵対行為に他なりません。人類が犯した罪の歴史の中でも、空前絶後の罪と言えるはずです。これ以上のおそろしい罪はないはずです。その罪を、あなたがたは犯したと、ペトロは言うのです。しかし、大切なことは、そのように告げる、ペトロ自身が、その「あなた方」の中に、しっかりと入っているということです。むしろ、自分自身こそ、その意味で、最も罪深い者なのですという理解、告白に裏打ちされているのです。

彼は、主イエスの一番弟子とされていました。自分自身、ある自負を抱いていました。他の弟子たちはいざ知らず、自分は、絶対にイエスさまに躓かず、イエスさまを裏切らない、それどころか、死んでもイエスさまをお守りして見せると告白したのです。ところが、主イエスが逮捕されるやいなや、蜘蛛の子を散らすように、彼も逃げ出してしまったのです。しかも彼はさらに、後で、主イエスの裁判が行われている最高法院の庭で、「そんな人は知らない」三度も主イエスを否定したのです。

しかし、そのようなペトロのためにも、神は、主イエスを甦らせて下さったのです。それによって、神の勝利、つまり、罪人の罪を贖い、償い、赦しを実現して下さったのです。神に対する罪を、神が御子をご復活させてくださることによってご自身の側で、完全に処理し、克服し、御子のいのちによって私どもの贖いの代価として、救いを完璧に実現されたのです。神の愛が完全に勝利したのです。ペトロは今、そのことを、どうしても告げたいと燃える思いを抑えきれないのです。それが伝道する心です。それは、決して未信者の方々に対して、自分を上の立場に置くことではあり得ません。私は、「まだ、イエスさまのすばらしさをちゃんと知らない人々に、よく教えて差し上げたい」ということともなお、違っていると思います。そこにはなお、上から目線があるように思います。福音伝道とは、単なる救いの知識を伝達するということとは違うのです。つまり、福音の知識、福音の情報を伝えるという事は、自分自身を棚に上げて語ることはできないということです。自分が福音の恵みに実際にあずかっていなければ、福音を生きていなければ、伝えられないということです。主イエスを知る、福音の知識を知るということは、わたしのイエスさま、わたしの救い主、わたしの主として、キリスト・イエスを知ること以外のなにものでもありません。そこに、「証」と言う言葉が特別の重みを持つわけです。このことは、おそらく使徒言行録を学び続けるなかで、何度も出て来るかと思いますから、今朝は、そこまでにいたします。

確かに、ペトロは復活前のイエスさまと3年間、まさに、私どもから見れば、言葉にもできないほど羨ましい仕方で、直接イエスさまと寝食を共にした体験、生活を重ねることができました。しかし、それだけでは、本当の意味で、主イエスを知ることにはならなかったことが明らかにされています。ご復活のイエスさまに出会い、何よりも、来週、深く学びたいのですが、約束の聖霊を注がれたからこその恵みなのです。まさに、自分の罪からの救い主としてイエスさまを知ったのです。まことの信仰者、本物の信仰者となれたのです。だからこそ、彼は、イスラエルに、同胞に、呼びかけるのです。あなたがたが十字架につけて殺したその罪、神への罪は、なんと神ご自身の愛と赦しの御業として受け入れられ、用いられてしまったのだと告げるのです。イエスさまが十字架で殺されたのは、単に、あなたがたが殺したことではないのだ。むしろ、神が、完全にあなたがたの罪を贖わせるため、償わせるために、神が御子を殺されたのだ。そして、罪を必ず罰しなければならないという神の正義は満たされたのだ。罪の支払う報酬の死は、イエスさまが十字架で御血を流されたことで、身代わりに支払われたのだ。父なる神は、それらのすべてが完全に実現できたことを示すために、イエスさまをご復活させたのだと、語るのです。ペトロは今、神の聖と義と愛を証したのです。ここに私どもの伝道の心、姿勢があります。簡単に行ってしまえば、伝道は、愛だということです。福音伝道とは、上から目線で、教えてあげよう、ということではないのです。罪人である自分がその罪を赦して頂いたこと、一歩先にその恵みに招かれ、あずかった者の責任として、恵みを分かち合おうと試みることです。

最後に、ペトロは、ここで詩編第110編を引用して、証します。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』先週は、詩編第16編を引用してキリストのご復活を証言しました。そしてたたみかけるかのようにして、ペトロはご復活されたイエスさまは、父なる神の右に着座しておられること、イエスさまが主なる神ご自身であられることを、はっきりと告げるのです。イエスさまは、神からのメシア、救い主であることを証するのです。

初代の教会の最も短い信仰告白的言い回しは、「イエスは主」でした。イエスさまのみが主、主なる神」だという主張です。つまり、「ローマ皇帝は主」と賛美させられ、告白させられていた社会に真っ向から挑戦したのです。それを証言することが教会の使命、務めだと彼らは理解し、信じていたのです。そしてそれは、名古屋岩の上教会だけではなく、およそすべてのキリストの教会の務め、使命、責任です。こうして、私どもの教会は、「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する」ことを、誓って出発したのです。世界の主権者の前に、このお方によって救われた私どもがなすべきことは、ただ一つ、イエスさまをどこまでも主とすることだからです。私どもは、自分のための神から、神のための自分。自分のための教会から、教会のための自分。この地上の価値観を根底から崩すことを目指して歩み始め、今も歩み続けているのです。この歩みに完成はありません。生きている限り、この戦いは続くのです。私どもは、徹底的に罪人の頭だからです。まことに弱い者でしかないからです。しかし、同時に、確信もしているのです。そのような私どもでも、神は、その拙い歩みを善しとしていて下さることを、です。また、神に造られ、生かされている人間とは、結局、そのように自分のための神では、満足できないのです。そのような偶像礼拝、偽りの宗教では、納得した生き方、人間としての深い充実した生き方はできないのです。神のしもべとして生きるとき、人間は生きることができる。人間らしく生きることができる。幸いな人生を燃焼できるのです。

ペトロたちは、決してここで、単に、自分たちの仲間を増やそうという、宗教団体の拡大という成果を目標にしてなどいません。そのようなことは、どうでもよいことなのです。ペトロは、神が愛してやまないイスラエルを、そして自分もまたその一員として、しかも同じ罪人として、いへ罪人の頭としての自分として、どうしても主イエスに向き合わせ、父なる神の愛、罪の赦しの福音に向きあわせたかったのです。自分と同じように救われて欲しかっただけです。そのためなら、自分たちがどれほど迫害され、どれほど憎まれても、第一のことを第一にしたかったのです。言い換えれば、既にそこにこそ、それほどまでにすばらしい真理、福音を彼らじしんが体験していたことが、鮮やかに示されています。期せずして、最も深く、確かな証がそこで成り立っているのです。

21世紀の今を生きる私どもです。いよいよ厳しい日本社会のただ中で、望みを失わず、勇気をもって、真実に人々を愛する戦いを、正しく推し進めてまいりましょう。わたしどものような自己中心の者たちすら、証人として選び、立てて、用いて下さる光栄を胸にして、進みましょう。

祈祷
ペトロの説教を通して、私どもの伝道のあり方、教会が、そして私ども一人一人がどこを向いて歩んでいるのか、歩むべきなのかを改めて教え示されました。どうぞ、どこまでも自分を中心に物事を考え、果ては、神さまあなたに対しても、自分の利益を求めて、向き合おうとする罪深い者です。しかし、あなたは御子の十字架によって、敵対している私どもを赦し、神の子、キリスト者として立たせ、用いて下さいます。この驚くべき恵みの御業に、私どもも我を忘れて、喜んで従う者とならせて下さい。すべての人に罪の赦しが必要です。私どもの教会を、正しく、しかも旺盛に伝道する教会として用いて下さい。