過去の投稿2003年12月29日

洗礼入会の証 40代男性

 礼拝に集う兄弟姉妹の祈りに支えられて、また、相馬牧師の熱心な指導のおかげで、何よりも主の導きと守りにあって、洗礼入会の運びとなりました。謹んで感謝いたします。
 
 私は17歳の秋に病気を得ました。ノイローゼです。そんな中で受験勉強をし、入学後はさまざまな活動をしていました。若かったものですからエネルギーにまかせて無理に無理を重ねたわけです。強度の精神的苦痛のなかで、やがて私は疲れ切り、活動の水準はどんどん落ちていきました。そして他の学生や教官、また親からも学業において酷評されるようになりました。
 それまでの私はひたすらがんばって結果を出すことを身上としていましたから、がんばれなくなった自分を責め、病気を怨み、自分を愛せない、そんなネガティブな心理状態に陥りました。それは傷ついた自尊心のせいでした。                           
そんな中で私が望んだものは、私を暖かく包んでくれるような優しさでした。あるとき車を運転していると教会の看板が目に入りました。「いちど行ってみようか」そして私は教会に足を運ぶようになったのです。
  
 ある晩のことですが「神様の目で見た自分と世界を素直に受け入れることなしに聖書を読んでも、それは読んだうちに入らない」と気づかされました。そのとき心に浮かんだ御言葉は次のようなものでした。「私の目にあなたは値高く、貴く、私はあなたを愛し・・・・・・」(イザヤ書43章4節)。私のような惨めなものも神様にとっては高価であり、神の愛の対象なのだと書いてあるのです。ですが頭ではわかっても、こころにおいて私は信じられませんでした。「神様が私を愛しているなら、なぜこんな目にあわなければいけないのか。体を壊したために大変な損をしてきた。」そういう思いをぬぐえませんでした。
 
やがて転機が訪れました。礼拝の説教原稿を読んだのです。それは創世記のヨセフに関するものでした。彼は神の前に正しい人でしたが、それでも大変な不条理に遭います。神を信じていれば、ハッピーな人生を送れるわけではないことにやがて私は気づきました。むしろそんな人は皆無ではないかと今は思っています。
「・・・健康も病気も、嬉しいことも悲しいことも、すべてのことが、私たちの役に立つように働くのです(子供カテキズムより)」。私は神の摂理のお働きを信じるようになりました。そのこととおりなすようにして、自分の境遇を、何らかの良い意味があるものとして受け入れるようになったのです。「・・・・(神の)ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように働く」(ロマ書8章28節)。そして私は聖書を読み祈る生活へと入れられました。
 そうなると考えることが前向きになってきます。あるとき牧師夫人より「顔つきがパアッと明るくなった」と言われたときには、大変にうれしい気持ちになりました。ヤコブは、どんな目にあっても明るい希望を失いませんでしたが、あの記述は素直にうなずけます。先にふれましたが、イザヤ書43章4節の御言葉に出合った時は、自分のことを本当に惨めな存在だと思っていました。ですが今は自分のことを、神の目で見れば「値高く」神の愛の対象であると信じています。
 
 そのような私に神は何をしてくださったか。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。ほかに比べようの無い記述だと思います。この御言葉を前にしては、語る言葉がありません。ただ感謝と十分な重みでもって受け止め、心に刻み込んで生活して行きたいと願うばかりです。

 以前から願っていたことがあります。聖餐と奉仕の恵みに預かることです。差し障りさえ無ければそれがかないます。今からとても楽しみです。