過去の投稿2005年2月27日

「憐れみ豊かな神」 ローマの信徒への手紙 第2章1節-5節

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」

 ローマの信徒への手紙を学んで主日礼拝式を捧げて、本日は第2章に入りました。私どもは、既に4週続けて、礼拝式への神の招きの御言葉として、詩篇第51編第18節19節の御言葉を聴き続けてまいりました。第1章18節以下に記されております使徒パウロの罪についての議論を読むときに、いつも心に覚えさせられたことは、この詩篇第51編でありました。朝夕の祈祷会でも「祈りへの道」の学びを中断して、2回に渡ってそれと詩篇第50編と第51編を集中的に学びました。この第51編の表題に、これは、ダビデが部下のウリヤの妻バト・シェバを我が物としたとき、預言者ナタンが彼のもとに来たときに詠んだ歌であると記されています。詳しくは、サムエル記下の第11章を読んでいただかなければなりませんが、簡単に申します。
ある日、王ダビデが昼寝から目覚め、王宮の屋上を歩いていました。しかしそのとき、彼は一人の美しい女性が水浴びしているところを見たのです。その女性の美しさに惹かれて、ダビデは、彼女を強引に自分のものとしてしまいました。それによって、彼女は身ごもってしまったのです。彼は、何とか、このことがばれないようにと、戦地から夫ウリヤを呼び戻しました。そうすれば、妻のところへ戻るであろうと踏んだのです。ところが、ウリヤは、仲間たちが戦地に赴いたままであるのに、ひとり自分だけが妻の家に戻ることはできないと主張したのです。おそらくダビデは困り果てたのだと思います。このままなら、不倫があきらかになります。そこで、ダビデが企てたことは、ウリヤを敵陣の最前線に送り出し、彼を殺してしまうことでした。おそらく、最初は、ウリヤを殺してしまおうとまでは考えていなかったのだと思います。しかし、自分のしたことを絶対にごまかそうとしたところで、遂に、殺人を犯してしまうことになるのです。
 主なる神は、ダビデのために、彼のもとに神の言葉の説教者、預言者ナタンを派遣しました。ナタンは、そこで一つのたとえ話をダビデに語ります。二人の男がある町にいて、一人は豊かで、一人は貧しかった。貧しい男には、たった一匹の雌の小羊しかおらず、その羊をまるで自分の娘のように育てたというのです。ある日のこと、豊かな男に客があり、その旅人をもてなすために、なんとその男は、自分の羊を惜しんで、貧しい男の小羊を取り上げたというのです。その話に耳を傾けていたダビデは、激怒してこのように言いました。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。」
 ダビデは、ここで顔を真っ赤にして叫んだのでしょう。「主は生きておられる。」ダビデは、確かに、主なる神を畏れてこのように言ったのです。彼の激怒は、信仰者の激怒なのです。神を信じている者らしい怒りなのです。そして、そのような男は、信仰者として、また王として、死罪に当たると断言したのです。彼は、そのような無慈悲な男が自分たち、神の民の中にいることは許されない、そのような行いをするものは、死罪に価すると判定したのです。判決を下したのです。裁いたのです。ここでこのように言うことが許されると思います。ダビデは、使徒パウロが言った32節で「このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っている」のです。だから、死罪だと裁いたのです。しかし、預言者ナタンは、ダビデの目をしかと見つめて言いました。「その男はあなただ。」

  第1章18節以下に記されている罪の現実、それは、新共同訳聖書では「人類の罪」と小見出しに書いてあります。私どもは既に、この箇所は単に異邦人の罪をユダヤ人パウロが糾弾しているのではないのだと学び続けました。その意味で、この小見出しは正しいと申しました。
さて、ユダヤ人から見れば、自分たち以外の人間とは、どのように見えているのでしょうか。それは、一言、異邦人としてです。すべての人間を異邦人と十把ひとからげのように括ったところで、それは何を意味しているのでしょうか。それは、神を知らない、神に反抗している罪人であるということです。反対に、自分たちユダヤ人は、神の契約が与えられている、神の言葉が与えられている、神の律法が与えられているので、神の選びの民、神の民であるということです。そのようにユダヤ人は他の民族を裁いて生きてきたのです。異邦人と自分たちとをはっきりと区分して生きてきたのです。しかし、これは、実は、ユダヤ人だけの問題ではありません。ギリシャ人も同じであります。ギリシャ人とは、高い科学技術を持ち経済的な繁栄を楽しむことができるいわば先進国に生きる者たちを意味する言葉でした。ギリシャ人以外は、いわば未開の人なのです。そうであれば、そのような区分け、区別は、現代においてもなされていることはすぐに分かります。私どもはかつて真剣に、日本の国は、神の国なのであるぞと教育されたのです。それ以外のアジアは劣った国であるし、欧米は、敵であり劣った国であったのです。今でも、そのような差別する心は、諸国において、何よりも個人個人の人間の心に巣食い、人間をがんじがらめに縛り付けている罪の心なのではないでしょうか。
 ユダヤ人が、18節以下を読んだとき、異邦人が、創造者なる神を滅び去る人間や鳥や獣や這うものに似せた像にして拝む姿は、まさに人間以下に映ったのです。同性愛をするような者たちは、人間以下であると判定したのです。しかし、そこで、私どもはこれまでに繰り返してこのおそるべき異邦人の罪の問題は、逆立ちし、倒錯している罪人の惨めな姿、愚かな姿を、ユダヤ人も、そしてなによりも今日のキリスト者も高みの見物ですませることは許されないし、不可能であると学んでまいりました。
そして今朝、何故、そうなのかということを使徒パウロがここでこそ、鮮やかに宣言するのです。それが、第2章第1節です。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」
「弁解の余地はない」との叱責の言葉は、ここではじめて出てきたわけではありません。既に20節で、異邦人が自分たちはユダヤ人ではなく、神の御言葉を教えられて来なかったので神を知らず、礼拝しなかったのは仕方がないのだ、教えてくれなかった方が悪い、神の方が悪いのだと開き直り、いわば「逆切れ」する者たちに対して指摘された言葉でした。「彼ら異邦人には、弁解の余地がありません」と断罪したのです。実に、今、それとまったく同じ断罪の言葉が、ユダヤ人にも告げられたのです。
ユダヤ人も弁解の余地がない。その典型的な事例が、ダビデのあの出来事ではないでしょうか。ダビデは、神の民にとって、慈悲、憐れみに生きることが大切であること、それを常識として認めているのです。神の民は、神を畏れ敬い、正義を行うことが常識であるということをダビデ自身認めているのです。だから、ナタンが報告した裕福な男、無慈悲な男、不正な男を赦し難いと激怒したのです。わたしはこのときの、彼の憤りは、単なるポーズであるとは思えません。自分がしていることを隠すために、激怒してみせたのであるということではないと思います。本気で怒ったのだと思います。正義感に燃え、わなわな震えるようにして、そのような男を死刑にしろと、裁いたのです。
しかも彼が、このような男を裁いたとき、激怒したとき、彼の中にはある種の快感があったのではないでしょうか。正義の怒りほど、人間を狂わせているものはないと思えるほど、そこで我々は、自分が正しく裁きうる人間であるとうぬぼれることができるのです。そのときには、自分は正しさを知っているのです。正しさを真理と言い換えてもよいでしょう。自分は真理の側に立っているという思いあがりです。だから、裁いている側に立っている人は、心地よいのです。人間は、悪口を言っている間は、心地よいのです。少なくとも自分は違う、当事者ではないと自分を棚上げにできると考えているからです。悪口を言うことは大好きなのに、いったん自分が悪口を言われていることが分かったら、どれほどの悔しさ、憤りを覚えることかと思います。悪口を言われたときには、身もだえするほど苦しむのです。
使徒パウロは、第2章で、ユダヤ人の目を見つめて言うのです。丁寧に申しますとそれは、ローマにいるユダヤ人キリスト者のことです。さらに正確に、はっきりと申しますと、この手紙を読むすべての神の民であるキリスト者の目を見つめてこのように断罪するのです。「すべて人を裁く者よ、弁解の余地がない。」

さて、それなら、使徒パウロがここで断罪することは、「裁くこと」、裁くという行為そのものに対してなのでしょうか。これは、とても大切な点であります。わたしの子どもの頃は、「地震、雷、火事、親父」という言葉がまだ生きていました。怖いものの代表です。今日でも、地震はもっとも恐れられるものでしょうし、雷も火事も怖いものに違いありません。しかしながら、親父は、どうでしょうか。ほとんど、怖いものの代表ではなくなっていると思います。それなら、学校の先生でも親父でも、怖い存在ではなくなっている今の状況を、我々は、肯定的に思えるのでしょうか。むしろ、反対ではないでしょうか。先日、PTAのある会合で、民生委員の方、すでに60台後半か、70台の方がこのような報告をされました。バスの中で一人の女子中学生が携帯をしはじめたそうです。すると隣の席のおばあさんが、自分はペースメーカーを使用しているという証明カードを取り出して見せて、その子に止めるように頼んだのだそうです。ところが、彼女はそれを無視したのです。それを見ていたその方は、「止めなさい」と忠告されたのです。するとなんと彼女は、「うるさいオヤジががいるから切るね」と言って、その男性には何も言わずに、携帯をやめたそうです。そこにはその中学校の教師もおりましたから、その民生委員の方に、その場で指導して下さったことに対する礼を述べられました。その先生いわく、その場で注意してくれれば良いものを、後で、電話で中学校と教師に対してお叱りの電話を受けることが多いのだそうです。つまり、学校には文句を言いながら、自分はその場でその子を叱らない、叱れないのです。これは、一つには、さまざまな事件が起こっておりますから、注意する人もその仕方や状況を的確に判断しないと、逆効果になることもある時代だからでしょう。しかし、我々の基本的な認識として叱る大人が減っていることを誰しも感じているのではないでしょうか。しかも、我々は、それはよいことではなく、むしろ、子どもへのしつけ、教育力や規制力を著しく損なってしまった時代の問題性に気づいているのではないでしょうか。
つまり、裁く大人が減っていることの背後に、ひとつには、他人のことをとやかく言う資格はわたしにはないという大人自身のモラルの問題があるのではないでしょうか。「学級崩壊」という言葉がありますが、今や、大人の集いでも、わいわいがやがや、人の話をまともに聞けないお母さんたちも例外ではなくなっているように感じるのです。テレビでも、おもしろおかしくさまざまに倫理的に首を傾げてしまうようなふるまいを語り、それを黙って聞いているところで、ますます、何が基準になるのかが分からなくなって来ているというところがあるように思えます。いえ、それは何も今から始まったことではなく、新しい問題ではなく、パウロがここで指摘したように、「他人の同じ行為を是認しています」ということが、人間の罪のふるまいなのです。「自分は人のことなど言えた義理ではありません。」そのように言うのです。しかし、その人でさへも、他人の批判は、とても上手なのです。他人のふるまいには敏感なのです。問題の本質、問題の核心は、ただ単に、他人を裁かないでいれば、それで、済むということではありません。裁かなければよい、見過ごしにしていればよいわけではけっしてありません。問題は、自分自身が罪を行っているということなのです。

パウロは、ここで、これでもかこれでもかと人間の罪、神の民の罪、私どもの罪の姿を暴きます。しかし、いかがでしょうか。私どもは、自分の罪がこの神の言葉によって、ますますはっきりと見せられてきたでしょうか。ここにこそすべての鍵が込められています。福音には神の義が啓示されていると学びました。福音とは、何か、それは主イエス・キリスト御自身のことであると学びました。それなら、わたしどもはいったいどこで、このお方の御前に出るのでしょうか。もちろん、毎日、主イエス・キリストは私どもと共にいてくださいます。しかし、神は、この日を定めておられます。今朝の日、主の日です。主の日の礼拝式こそが、私どもが主イエス・キリストに会見する場所、ときです。神はどのような方法で私どもに出会って下さるのでしょうか。それは、福音においてです。それなら、その福音はどのようにして提供されるのでしょうか。それは、この説教においてであります。私どもは、説教を聴いて、どれだけ、この神の言葉に真実に迫られているのでしょうか。あの預言者ナタンの御業は、神の民にとって例外的な事件ではないのです。もしも、私どもキリスト者、神の民が、自分はダビデのような罪を犯してはいないし、神はまさかこのわたしにナタンのような預言者を与えはしないと「たか」を括っているのであれば、それはなんと愚かなことであろうかと思います。また、説教者であるわたし自身、いったいここで何をしてきたのであろうかと問わざるを得ないのです。現代において、ナタンはいないのでしょうか。神は現代においてナタンのような人を起こされないのでしょうか。キリストの教会には、ナタンのような預言者はいないのでしょうか。そもそも、ここで神がご自身の恵みの手段としてお定めになられた説教と言う行為は、何なのでしょうか。
創世記第3章によれば、アダムとエバは、自己弁護を重ねました。責任転嫁をしたのです。弁解したのです。あなたがともにいるようにされたこの女が悪いのです。これが、アダムの神への言葉でした。この女が罪を犯し、わたしを誘惑したのです。わたしにも非はあるかもしれません。しかし、それを言うなら、まず、エバのほうからです。いや、その前に、このエバをわたしのところに連れてこられたのは誰でしたか。わたしは別にあのとき、神さまにどうしてもエバが必要、伴侶が必要であるとお祈り、お願いしたわけではなかったのと違いますか。アダムは神を暗に批判したのです。神を裁いたといっても過言ではありません。エバは、蛇に責任転嫁したのです。蛇の存在を許容なさる神への責任転嫁をここでも認めることができるでしょう。いずれにしろ、最初に神に見咎められたとき、アダムとエバのとった態度は、悔い改めではありませんでした。その結果、彼らは、エデンの園を追い出されます。それは神の裁きです。何よりも、罪を犯したことをすぐに見咎められたのも神の裁きです。神の裁きは現実に起こったし、起こるのです。
使徒パウロは、「神の裁きを逃れうると思うのですか」と、火の出るような激しい叱責の言葉を放ちます。しかし、私どもは、それでもなお暢気にしているかもしれません。自分の生活のなかに極端に、困窮している部分もないし、パウロがここで描き出した罪のリストを読みながら、こんな生き方はしたくない、自分は少なくともこのようなことまでしていない、と考えるからではないでしょうか。つまり、自分は神の裁きを今ここで受けているわけではないと考えるのです。私どもキリスト者は、このように考えるかもしれません、自分は今他のどこでもなく、神の教会にいるではないか。
しかしことは、それほど単純ではありません。使徒パウロは、ここで、神を知らない人々に向かって、「だからすべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」と叱責しているのでしょうか。違います。ユダヤ人キリスト者に向けて、全読者に向けて語りこんでいるのです。そのようなあなたは、神の裁きを逃れうるのかと、畳み掛けているのです。
パウロは、あなたは、あなたがたは神の怒りを蓄えていると言います。口語訳聖書では、「慈愛と忍耐と寛容の豊かさ」とありますが、その「豊かさ」を「富」と翻訳しました。神の富は、無尽蔵です。際限がありません。まことの豊かさです。その豊かで尽きることのない、神の慈愛と寛容と忍耐の富を軽んじると、反対に、神の怒りを蓄えるというのです。実は、この蓄えるという言葉は、富という言葉と同じなのです。つまりパウロの強烈な皮肉なのです。神の憐れみを軽んじるとき、神の裁きに富む、神の裁きを蓄える人間になると言うのです。

いったいどうすればよいのでしょうか。そこでこそ、このパウロの言葉のなかに出てまいりました、「神の憐れみ」に注目したいのです。確かに、神の裁き、神の怒りがここでの主題であることは間違いありません。神の怒りが天から啓示されている、明らかにされているというのが、18節から一貫して語られてきた事柄であります。しかし突然のように4節で、「神の憐れみ」という言葉が出てまいりました。憐れみに富む神なのです。それに対して、罪人の特徴とは、無慈悲でした。人の妻を自分の楽しみのために横取りしたダビデ、そのために、夫ウリヤすら殺してしまったダビデ、まさに無慈悲な心いがいのなにものでもありません。しかし、それにもかかわらず、そのようなダビデに対しても、神の憐れみが豊かにあるのです。実に、神の憐れみの豊かさの中でこそ、実は、ダビデは神に裁かれたのです。神の言葉によって、お前が罪を犯したのだと、それはお前だと、裁かれたのです。これこそ、神の憐れみなのです。神の慈愛、寛容、忍耐の富、豊かさのおかげなのです。
ダビデは、そのとき、即座に、ナタンに申しました。「わたしは主に罪を犯しました。」彼は、ナタンにでもなく、バト・シェバにでもなく、主なる神に罪を犯したと言ったのです。弁解しなかったのです。神の裁きの前に、自分をゆだねたのです。そこから、ダビデの新しい人生は始まり、イスラエルの歴史も始まりました。ソロモン王が生まれ、さらにソロモンの子孫として主イエス・キリストがお生まれになられるのです。

神はダビデを、おそるべき不倫の罪、殺人の罪によってお捨てにはならなかったのです。もとより、それは彼が、罪を悔い改めたからだと言えます。確かに、ノアの箱舟と教会とを直接に結びつけることは乱暴です。しかし、何故、教会はノアの箱舟の物語を自分たちの使命と結び合わせ考えてきたのでしょうか。それは、この教会のなかで、繰り返し、ダビデのように悔い改めが起こるからです。心を改めようとする者は、他のどこでもない、この教会、ノアの箱舟のなかでこそ起こされるからです。何故なら、ここでこそ、主イエス・キリストにお会いすることができるからであります。
第1章18節から、パウロは一度も主イエス・キリストの御名を記しておりません。主イエスの御名が直に出るのは、第2章の16節からです。しかし、第4節の御言葉を見ましょう。「神の憐れみ」この神の憐れみの豊かさ、その富の無尽蔵さ、神の慈愛、寛容、忍耐の豊かさはいったいどこにおいて現れされたのでしょうか。それは、ほかでもありません、主イエス・キリストの十字架においてです。
そこでは、罪を犯していない人間が、徹底的に神の裁きをお受けになっておられるのです。本来、わたしが、私どもが受けるべき罪への刑罰は、容赦なく御子に向けられました。御子を永遠の死、本物の死へと突き落としたのです。しかしそれこそは、私どものための神の憐れみの業でした。御子をご自身の御手によって打ち砕くというのは、あまりにむごいことです。確かに、それは憐れみとは対極の行為のはずです。しかし、神が私どもに憐れみをもって出会い続けて下さるためには、神の裁きが御子を砕き、御子を徹底的に死罪に処し、神の怒りと呪いとを受けさせる以外にないのです。その行為なしには、私どもに、神の憐れみが発せられることはおできにならないからです。ノアの箱舟たる教会とは、いついかなるときもこのキリストを、十字架の上で釘つけられたキリストを仰ぎ見る場であり続けるのです。人々が顔を背けてしまうこの主イエスの十字架のお姿を仰ぎ見るところで、わたしの、私どもの真の罪の姿、おぞましさが見えてくるのです。私どもに、あのナタンの指摘、「それはあなただ」との声が聞こえてくるのです。それは、今ここに働かれる聖霊の御業であります。この神の家は、聖霊の家なのです。聖霊によってのみ、私どもの心はやわらかくされ、罪を悔い改め続けることが許されるのです。そうであれば、悔い改めるということは、特別のことではなく、むしろ毎日毎日のことでもありましょう。私どもの教会が、そのような主イエス・キリストの御臨在が明らかになる場所である限り、私どものこの教会こそは、この町の人々にとっても、ノアの箱舟足りうるのです。そのためにも、ここで、罪を裁かれる神の慈愛、神の憐れみを受けるのです。自分を高みにおいて他人を裁いてやり過ごす罪を告白し、ここで、神の憐れみに、その豊かさによりすがるのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、わたしどもの罪を赦して下さい。自分は、神の怒りを受けてもいないし、裁かれてもいない、自分は、教会にいるのであって、この世の神なしに生きる未信者ではないとたかを括って、あなたの憐れみに鈍感になって、それだけに、もっとも恐ろしい罪を犯すのが、キリスト者であることを思います。どうぞ、私どもの人を裁きながら同じことを行っている罪、まさに偽善の罪を憐れんで下さい。私どもこそ、誰よりも早く、心をやわらかくされ、悔い改めに生きることができますように。裁き主なる御神よ、憐れみに富む神、慈愛の豊かな神よ、御子主イエス・キリストにおいて、憐れみの神であられるゆえに、裁きの神であられることを、その御業を常にはっきりと仰ぎ見る眼を開いてください。心を翻して、日々あなたへと立ち返らせて下さい。あなたの御前で罪を言い表し、赦される喜びのなかに留めてください。その喜びを日ごとに深めさせて下さい。          アーメン。