過去の投稿2005年1月23日

「知恵ある人間の愚かさ」 テキスト ローマの信徒への手紙 第1章18節-23節③

「群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 
   ルカによる福音書 第12章13節-21節

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 このテキストからの説教として、今日で三回目となります。新共同訳聖書の小見出しには、この箇所は、「人類の罪」とゴシックの太字で印刷してあります。これは、わたしはとても正しい理解であると思います。ところが、多くの聖書の注解者たちがこの箇所は「異邦人の罪」について記していると言います。そして、2章17節からはユダヤ人の罪について記していると言います。しかし、この小見出しをつけた翻訳者たちは、この「人類」のなかには、単に異邦人のことだけではなく、ユダヤ人も含んでいるはずだと理解したのだと思います。神を認めない者たち、神を知りながら、認めない者たちは、その結果何をしたか、何をしているかと申しますと、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」つまり、偶像礼拝をしていると言うのであります。しかしそこでこそ、明らかになることがあるはずです。いったい、この偶像礼拝の罪は、異邦人の問題だけに限定できるのか、異邦人固有の罪なのかという、鋭い問い、批判であります。端的に申しまして、ここにこそ、ユダヤ人の究極の問題、罪であったのは明らかであります。

あのモーセが、ホレブの山で、神から十戒を与えていただきました。二つの石の板に神御自身が直接書き込まれた文字、その神の言葉の中の言葉とも言うべきその文字を与えられたときに、ホレブの山からなかなか下山しないモーセを待ちきれなくなったイスラエルの民は、アロンに頼んで、金で子牛を作ったのでした。金色に輝く牛を見ながら、彼らは踊り狂ったのです。「これこそ、われわれをエジプトの国から導き上った神々だ。」と言い合ったのです。これ以上の罪が考えられようかといえるほどの罪であります。それを、他の誰でもない、イスラエルが犯したのです。そうであれば、この偶像礼拝の罪とは、異邦人の罪、問題だけではなく、人類全体の罪の問題なのです。ユダヤ人も異邦人も、いずれも弁解の余地はないのです。罪を誰彼の責任にすることはできません。自分の責任なのです。パウロが弁解の余地はないと言ったとき、神の存在が明らか過ぎるからであるということももちろんありましたが、おそらく、使徒パウロは何度でも、弁解する声、開き直る声を聴いたからだと思います。「悪いのは、ユダヤ人だけに御言葉を与える神さまのほうではないか。異邦人である、自分は、せいぜい、この程度でしかたないではないか。信じれない責任、従わない責任を問い詰められても、責任は、神にあるのだ」パウロは、何度も聞いてきたのだと思います。だから、弁解するな、弁解の余地はまったくないではないかと言うのです。

 そこで、あらためて、キリスト者である私ども自身が問い返されるのです。もともと聖書を読むこと、説教を聴くこととは、すべて自分に語りかけられているとして聴くことが、そのもっとも基本的な態度であります。「ああ、このお話は、まだ信じていない人が聞いたらよい、あの人にぴったりのお話だ」などと、自分を棚に上げて聴いているなら、それは、聖書から御言葉を聴くこと、御言葉の甘さを味わい見ることはいつまでもできないはずです。聖書は、そしてその説教は、いつでも自分に今、天から語りかけられていると聴く態度決定がその基本であります。ですから、その意味で、私どももまた、もしも、神の恵みに鈍感になり、神が御子においてなし給うた御業に対して、神を崇め、感謝することがなければ、パウロの下す断罪に身をさらさなければならないのです。

 さて、今朝は、久しぶりに福音書の主イエス・キリストの説教を聴きました。「愚かな金持ちのたとえ」です。何故、今朝、このテキストをローマの信徒への手紙のこのテキストとあわせて読んだのか、おそらく既に皆様にはご理解していただけると思います。パウロが、「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、」と語ったとき、もしかしたらこのテキストを思い起こしていたのではないかと想像いたしました。あるいは、砂の上に建てた者と岩の上に建てた者の譬えを思い起こしたかもしれません。

 この譬えが語られたのは、具体的な一つの事件が起こったからでした。こともあろうに、ある人が、遺産相続についての仲介を主イエスに願い出たのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」何故、そのような願い事、相談を主イエスに持ちかけたのでしょうか。それは、主イエスが公正な方、正義を愛し、これを実践なさるお方、不義を憎み、これと戦われるお方であると信頼したからなのかもしれません。よくも、主イエスの前で、そのような自分勝手な願い、遺産の問題、お金も問題、要するに自分の利益を守るために主イエスを利用するようなことを言えるなぁと驚かされます。

 主イエス御自身も明らかに驚かれ、それだけではなく、憤りの心が湧いたのではないかとすら思われます。こう仰せになりました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」それだけではなく、この申し出をむしろチャンスに変えて、福音の真理に生きる道とはどのようなものであるのかを、はっきりと指し示されるのです。「そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
「どんな貪欲にも注意しなさい。」私どもは今日も、十戒の第十戒「あなたは、むさぼってはならない」という掟を唱えました。これは、つまり貪欲を禁じる掟であります。これは、十戒の最後の掟であって、すべての罪の鍵となるものが貪欲なのです。ですから、使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第5章5節の中で、この貪欲こそが、実は偶像礼拝、偶像崇拝であると言っているのです。「貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」
わたしは、主イエスの御心のなかにも、このパウロが明らかにしたみ言葉の真理が脈々と波打っていたかと思います。いえ、主イエス御自身こそ、このメッセージの発信者なのです。だから、「どんな貪欲にも注意しなさい」と、この人のためだけではなくて、周りに集まっていた群衆のためにも説教なさったのです。そしてこの有名な譬えを語って行かれます。

「ある金持ちの畑が豊作であった。」最初から、薔薇色の状況が設定されます。既にこの人は金持ちなのです。この金持ちの畑は、肥料が良いからなのでしょうか。使用人の技術や熱心によるからなのでしょうか。豊作なのです。何よりも、畑ということであれば、雨や日照りの関係が決定的に作用しますから、本当は、それらを越えて神さまの祝福のなかで豊作となったということを暗示させているのであろうかと思います。しかし、彼には、そのようなことはお構いなしで、持てる者の悩みなのでしょう。せっかくの豊作であっても、これをしまっておく場所がないと心配し始めるのです。しばらくして、決断します。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」小さな倉を壊して大きくする。言わば設備投資をしたということでしょうか。金持ちだけに、どんどんお金を増やしてゆく知恵が働くわけです。

 テレビコマーシャルで、これは確か保険の宣伝であったかと思いますが、小さな子どもたちが、「よーく、考えよう。お金は大事だぞ」と歌うのをご覧になったことがおありでしょうか。幼稚園児がこのように大合唱する、これは薄気味悪いと思いました。「この世は銭」「金がすべて」このような風潮を促進するのであれば、教会の子どもたちには、お金は大事だけれど、一番大切なのは、主イエスさまだよと、訂正して教えなければと思います。このたとえ話を言って聞かせてあげてみるのも良いかと思います。
しかし、その一方で、「なるほど、そのとおり」とも思うところがないわけではありません。たとえば、自分の楽しみに負けて、将来を考えないで、目先の楽しみだけで、お金を使ったり、人生設計をたてないで生きることは、無責任でしょう。賢い人間とは言いがたいはずです。

さて、現代で言えば、この金持ちが、たとえば、どのようにすればお金を増やせるか、事業が拡大できるかということを出版したり、講演したりすれば、それこそ、大勢の人が喜んで、お金を払って聞きにくることでしょう。彼は言うでしょう。「皆さん、わたしのようになりたければ、これこれ、こうしてみて御覧なさい。そうすれば、こう自分に言い聞かせられますよ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」最近の言葉で言えば、「勝ち組」ということでしょう。彼は、自分の力で、よーく考えたのです。お金は大事だと考えて、この立場を獲得したのです。ですから、「さぁ、これまでの労苦が報われるときが来たのだから、ひと休みしなさい。言わば、ワーカーホリックであった自分を自分で慰めるのです。

しかし、そこで、主イエスのご指摘は鋭いのです。主イエスはこのたとえで、この金持ちのセリフとしてこう言わせました。「こう自分に言ってやるのだ」。つまり、これは、「自分で自分を慰める」ということです。昔、ある女性のマラソン選手が金メダルを獲得したとき、こう言いました。「自分で自分をほめてあげたい」オリンピックの金メダリストは、世界中の人が見つめるなかで、言わば、褒められる特権を手にした人です。世界中から、あなたはナンバーワンと褒められるのです。しかし、その選手は、自分で自分を褒めてあげたいと言いました。ある説教者は、そこに、現代人、現代の日本人の心の闇、問題、つまりその究極の閉鎖性を指摘しました。あるいは、「自分へのご褒美として、ボーナスでこれを買いました。」と、しばしば耳に致します。「自分で自分にご褒美をする。」仕事をしている人は、そのようになさるのでしょう。その気持ちはよく分かります。しかし、主イエスは、そこに注目しておられます。そこに私どもを注目させられます。「こう自分に言ってやるのだ。」これは、「自分で自分を褒めてあげる」ということではないでしょうか。「自分にご褒美をあげる」心と通い合うのではないでしょうか。自分で自分を慰める。自己評価なのです。それしか、この金持ちは、支えがないと考えているのです。自分が大事なのです。自分しか頼るものがないわけです。そこで、これまで一生懸命がんばって今や、自分自身でも大成功だ、と納得できたはずなのです。

 ところが、主イエス・キリストは違います。この人間的には、我々の社会的評価からすれば、立派なこの金持ちへの、神の評価を、天から明らかに示し給うのです。神からの御声、天からの声、それは、「愚か者よ」でした。『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』
神は、この賢い人間、知恵ある人間、まじめな人間、努力することを知り、節制することを知り、貯蓄する道をわきまえ、投資することを心得ているこの知恵ある人間を、我々のようには評価なさらないのです。これは、大変、厳しいことではないでしょうか。しかし、おそらく問題はそこで、なお終わらないと思います。パウロが味わったように「弁解」が始まるのです。ここでの弁解とは、この金持ちよりもっと知恵深く生きることができる、そのようにするという、神への反抗です。つまり、健康に留意するのです。万一に備えて、最先端の医療を受けられるような人生プランを構築するのです。さらにその上、自分の財産の使い道を遺書に残して、死んでなお、思いを果たす道を探るかもしれません。そして、最後は、自分に言い聞かせるのです。「人間生きているうちに、したいことをしたらそれで良い、天国地獄、極楽も地獄もありはしない。」いずれにしろ、この主イエスの警告に対して、やすやすとは、心を開かないのです。

 主イエスのたとえ話の結論を聞きましょう。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」本当の人間の賢さとは、自分のために富を積む道ではないとお示しになられるのです。神の前に豊かになる者、それこそ、まことの人間の豊かさなのだとお教えくださるのです。それなら、神の前に豊かになる者とは、どのような人のことなのでしょうか。それは、自分の人生を自分で評価しない人であります。自分の人生を、本当に評価されるお方の御前で、このお方の評価、裁きにゆだねる者です。自分で自分に言い聞かせること、自分に自分で言ってやることではないのです。自分に言い聞かせるべきことは、神からの言葉、神の仰せであります。この天からの声を聴きながら、このお方に評価されることを求めること、これが、神の御前に富む道であります。そこでこそ、人生の価値とは、どれだけ、お金を残したのかということとはまったく別の道、別世界が開かれて来るのではないでしょうか。

 わたしは、自分が高校生のとき、熱中してその書物を読んだ人の中に、一人のキリスト者がおりました。それは、内村鑑三という明治時代を代表する日本人、無教会という独自の組織をつくって、聖書の信仰を証した伝道者であり文明評論家ともなった人であります。日本を代表する大きな、まことに大きな人物です。何よりも個人的なことですが、私自身の求道の大きな契機となったのは、この内村鑑三の「羅馬書の研究」という注解書を大学生のとき読んだからでありました。しかし、その前に、岩波文庫、今でも、よく読まれているようですが、その文庫が星一つ70円の時代に読んだのです。今から、30年前、70円でこんなにすばらしい書物を読めたこともまたすばらしいことと思いますが、それは、「後世への最大遺物」という書物です。この書物は、内村もまだ若かった頃、箱根の山でなされたキリスト者の夏期学校での講演記録です。そこで、彼は、青年たちに呼びかけました。神から与えられた人生を、有意義に生きよう、自分のした業績を後の世に遺し、少しでも社会、国家を進歩させようと呼びかけたのです。

内村が先ず、遺すべきものとしたのは、第一に、お金でした。「億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたい」これが彼の希望でした。彼は言いました。そのような希望をある牧師に言ったら、非常に叱られた、「そんな意気地のないことでどうするのか、福音のために働きなさい」と、たしなめられたと言うのです。しかし、彼は青年たちに、どうぞ、お金をもうけて欲しい、そして、そのお金を社会のために使ってほしいと呼びかけるのです。第二もものは、事業。社会事業です。第三は、思想です。それは、書物を著し、また学生に教えるということです。そして、最後に内村が最も伝えたい本心、講演のメッセージを語るのです。これらは、誰でもが後世に遺すことはできないかもしれないし、その通りである、しかし、誰でもが遺産として、遺すことができるものがある、とこう言うのです。

そう話し始めて、その中の小さな話として、教会を毛嫌いした彼でしたが、教会のことにも触れています。「もしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところがほとんどわずかの金の価値しかないかもしれません。しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、この教会を建てた人は貧乏人であった、学問も別にない人であった、それだけれどもこの人は己のすべての浪費を節して、云々」内村が、すべての人間が遺すことのできるもの、遺すべきものとして、挙げるのは、「勇ましく高尚なる生涯」なのです。その意味するところは、この人生、この世界は、悪魔の支配下にあるのではなく、神が支配する世の中であることを信じること、失望の世の中であるのではなく、希望の世の中であること、この確信をもってどんな苦しいところでも、生き抜くこと、努力することだと言うのです。是非、高校生やまだ若い方はこの書物を読んでいただきたいと思います。今回、私自身もあらためて、めくりなおしてみて、心が燃えました。

 自分のために富みを積むのではなく、神の前に富む人間こそ、賢い人間であると主イエスはお教え下さいました。神の評価を信じて、内村で言えば、神の支配を証する生涯、キリストの支配を証する生涯であります。私どもは、この名古屋岩の上伝道所において、キリストの支配を証しすることでしょう。自分の人生が、本当に、このキリストのおかげで今の自分がいるのだ、これからも、このキリストから離れて自分は生きられないのだ、生きてはいけないのだ、むしろ日々、キリストとの交わりを深めながら、自分の残された生涯を神と人とのために、生きるのだとの志を新たにさせられたいと思います。しかし、そうするとすぐに誰かから、このような陰口が聞こえてくるかもしれません。いや、深刻なのは、そこで、古い自分の中からも悪魔の声がささやかないとも限りません。「教会に一生懸命になっても、社会の評価が良くなるわけでも、得するわけでもないではないか、ほどほどにしておこう、それが賢さだ。教会は自分の役に立つ限り、利用すればよいのだ」

 使徒パウロは、言います。「弁解の余地がない」「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」つまり、自分では知恵があると言い放ちながら、愚かになっていると断罪するのです。そこで、パウロは、知恵ある人間は、空しい思いにふけっているといいます。空虚な思いのなかに浸りきっているということです。心が鈍感で暗くなっているのです。そしてその理由は明らかであります。それは、神を崇めないからです。神に感謝しないから、そう主張するのです。そこであらためて、先週のおさらいをしてもわずらわしいことではありません。崇めるとは、礼拝することです。礼拝に生きることであります。また、感謝するとは、自分の存在の一部分が神の恵みに支えられているということでは断じてないことです。多くの人間は、感謝しながら生きているのです。その意味で、多くの宗教は、感謝を言います。しかし、私どもの神への感謝は、わたしの全存在が神のおかげで今日あるを得ているという理解に基づくのです。神によって、自分があることを認め、神の御前に、自分を徹底的にへりくだらせる姿勢であります。だからこそ、感謝は、生き方、御言葉への服従によって示されるものなのです。

私どもキリスト者、キリストの教会の役割とは、神を崇めることも、かんしゃすることもしない、知恵ある人間と吹聴する人々の只中で、勇ましく生きることであります。そこへと立ち上がることであります。
ただ単に、鳥や獣や這うものを偶像として拝まなければ、それだけでキリスト者です、十戒の第二戒を守っていますということにはなりません。パウロは、偶像崇拝のあり方を批判して数えたとき、いの一番に挙げたのは「人間」でした。人間こそ、もっとも偶像としやすいものだからです。この人間のなかには、歴史上の人物、あるいは共に生きている最も近い人、夫や子どもを偶像にすることはしばしば起こります。しかし、最も偶像にしやすいのは、自分自身でありましょう。それは、あの金持ちがした、「自分で自分に言ってやる」という姿勢なのであります。自分で自分に「お前は、それでよい、うまく出来ている」と言うことです。そしてそれは、裏返して申しますと、自分で自分に、「お前は駄目だ、お前はうまくやれていない」ということです。いずれもが、神を無視して、自分勝手に、自分を裁くこと、判断することです。これが、人類の罪、異邦人の罪、それだけでなく、わたしども神の民の罪でもあるのです。

私どもは、この箇所を、ただ未信者の罪をパウロは数えたのだ、神はこのような不信心と不義に生きる人間に対して怒りをあらわされているのだと、まるで高みの見物のような態度で、御言葉を聴くことはできません。むしろ、私どもは、主イエス・キリストの流された尊い御血潮で贖いとられ、神を知る者とされたのですから、さらに礼拝と感謝の生活を深めてまいりたいと願うのです。礼拝と感謝の生活なしに、私どもは人間のまことの尊厳を失い、空虚で、心が暗くなるのです。しかし、礼拝によって私どもは、命に満たされることができます。たとえ「教会にばかり一生懸命になっても、得することなどないのに」と知恵ある人々に陰口を言われても、愚かに生きる、愚かに徹するのです。神の愚かさは人よりも賢い(コリントの信徒への手紙一1:25)からです。
 
 祈祷
 愛する主イエス・キリストよ、私どもを憐れんで下さい。私どもは、自分で知恵がある、少なくとも少しずつでも知恵を増して生きていると思っています。しかし今、自分が少しずつ愚かになっているのではないか、自分の心が空く、鈍く暗くなっているのではないかと、恐れを覚えます。どうぞ、憐れんで下さい。心に沸き立つ弁解の思いを、取り除いて下さい。自己を弁護して生きようとして、あなたの御前に素直に出られなくなっていることこそが、私どもの愚かさ、惨めさ、罪であることを思います。どうぞ、赦して下さい。そして、そこから、救い出して下さるのも、この悔い改めを与えて下さるのも、父なる御神、あなた御自身であることを信じます。信じる者すべてに救いをもたらすあなたの力を、今ここで、わたしに発動し、自分の世界から信仰の世界へ、神とともに生きる世界へと引き上げて下さい。主イエス・キリストの御業を崇め、これからも、与えられている信仰の生涯を、勇気をもって、あなたと共に、神の民と共に歩み抜くことを許して下さいますように。       アーメン