過去の投稿2005年1月16日

「神を崇め、感謝する人」 テキスト ローマの信徒への手紙 第1章18節-23節②

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 私ども改革派教会と呼ばれる教派に連なる者たち、16世紀、ジュネーブの教会改革の伝統に連なる教会にとって、いくつかの標語のようなものがございます。私どもの教会もまた、その標語を大切にして生きてまいりましたし、これからもそのような先輩たちの遺産を正しく継承してまいりたいと心から願っております。その一つを、私どもの週報の表紙に、もともとの言語で記しております。ラテン語でソリ・デオ・グロリア、Soli Deo Gloria !直訳すれば、「ただ神のみに栄光あれ!」そこから、「ただ神の栄光のために!」という私どもの信仰の姿勢を言い表す意味の言葉ともなりました。

この教会堂を献堂するときに、会堂についてそれこそ毎月集まりまして、それこそ、会員全員で意見を交わしながら、建築の構想を練りました。その中で、わたしが描き出した教会堂正面のデザイン、レンガブロックで正面を飾ること。その真ん中、アーチ型にくりぬいている部分にこの「Soli Deo Gloria !」を刻みたいと考えておりました。その意図は、この教会堂、この教会が、この地上に存在しているのは、この目的、つまり神の栄光を現すためであり、何よりもこの地上に生きる人間がその人間性を回復する道は、唯一つ、つまり「神の栄光のために生きる自由に生きる」ことだということを宣言する意味ですし、何よりも「ここで共に神を礼拝し、共にこの栄光にあずかりましょう」と招く意味を込めたかったからです。しかしながら、経済的な事情で、それは、かないませんでした。ただ、そのかわりといっては、おかしいですが、週報の表紙に、記しております。

私自身も、この標語を本当に生きることを心に刻むためにも、いつも意識しております。賀状にも、記しました。手紙やメールでは、いつでも、このただ神の栄光のためにという言葉を記します。その最後に記し続けております。
 何よりもこの御言葉の出所、典拠としては、私ども日本キリスト改革派教会の憲法を構成しております、ウエストミンスター大・小教理問答の問い一の言葉に由来するということは、皆様既によくご存知の事と思います。「人の主な目的は、何ですか。」「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」人生の目的とはSoli Deo Gloria !であると、はっきり言い表しております。人間の生きる目標は、これに尽きる、神を喜ぶこと、神の栄光を現すことのなかに尽きるのです。それが、人間を人間として回復する、神に創造された人間が人間らしさを取り戻す道なのです。

 さて、ところが、今朝、私どもに与えられたローマの信徒への手紙のなかで描き出されている人間の姿はこれとまさに正反対であります。この箇所からは、人生の目的をはずしている人間の惨めな姿がこれでもかと言わんがばかりに記されております。的外れな生き方をしている人間のその空しい姿が描き出され、目標を知らない人間のその愚かな姿が暴露されております。
 いったい人間は、何故、そのような惨めで、空しく、愚かなものに成り下がってしまったのでしょうか。いったい人間は、何故、神が御自身に似せて創造してくださった当初のすばらしさを失ってしまったのでしょうか。その尊厳を損ない、その偉大さを失ってしまったのはなぜでしょうか。
その理由は、先週学んだことでした。それは、不義によって真理の働きを妨げる人間の不信心と不義の故であります。真理の働きを妨げるとは、神の働きを妨げること、主イエス・キリストに敵対するということです。不信心とは、つまり、神を神として重んじない、認めない、服従しない、崇めない、礼拝しないということです。ですから、パウロは言うのです。「不信心とは不信仰であり、人間がもっとも醜悪な姿をさらすのは、他のどこでもない、不信仰においてである。」不信仰とは、神を無視することです。人間は、無視してしまえば、まさに、自分の視野に入りませんから、神に出会えません。ただしかし、それで、神が存在しなくなるわけではありません。自分が見ないだけです。それで、神がいないとうそぶいても、何の意味があるのでしょうか。

ですから、彼はさらに申します。「そのような人間の不信仰に対して、神は天から怒りを啓示された。今、神の怒りが現れている。」そして先週は、そこでこそ、私どもキリスト者は、神の怒りが、主イエス・キリストの十字架において啓示されていることを学んだのです。そして、私どもが真に神の怒りを知ったのは、主イエス・キリストの復活の御姿に触れたときであったので、キリスト者とは、この神の怒りを知って滅ぼされる人間ではなく、神の義、信じる者すべてに救いをもたらす神の力を経験した者であることを学びました。改めて、神の、主イエス・キリストの救いの御業に心から感謝したわけであります。

 しかし、使徒パウロは、神の怒りが現されるのは、当然であるとして、19節でこのように続けるのです。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」つまり、「真の神が存在しておられる事実は明らか過ぎることであって、神は御自ら、明らかに示されているのである。」というのです。
さらにパウロは言葉を続けます。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」
神が創造された世界の中に、神の永遠の力、神の神としての存在は明らかに示されている、啓示されていると言うのです。これを、神学の言葉では、「一般啓示」と申します。神は、被造物を通して神の存在、まことの神の力を現しておられるのです。
また、「目に見えない神の性質」とありました。つまり、神御自身の御性質とは、目に見えない、つまりモノではないということです。いかなる物質も、存在していれば、目で、顕微鏡で、特殊な機械を用いて捉えることができるかと思います。しかし、神は目に見えない御性質をお持ちなのです。ですから、皆さんもどなたかに、個人的に信仰の証をするとき、「神がいるなら、みせてもらいたい。」「神が目に見えるなら信じるけれどね」このような類の言葉を聞かされてきたかと思いまし、これからも、おそらく何度でも聞くことになるはずです。しかし、目に見えないのが、神の御性質なのです。それにもかかわらず、その神を目に見たいと主張する。そこに既に人間の傲慢があります。これこそ、不信心と不義であり、真理の働きを妨げる思いが潜んでいるのです。
ですから、神の御言葉を聴いたことがない人間でも、神の存在を認めないのであれば、それは、神が悪いのではないのです。自分たちはユダヤ人のように神の御言葉を聴いたことがない。だから、神を信じないで生きるのは、仕方がないではないか。当然のことではないか。我々に責任を問うなら、その前に、神のほうで、自分たちをないがしろにしてきた責任があるのではないか。このような議論が、正面から言われることは多いとは言えないかもしれませんが、心の底では、そのような神の前での言わば、開き直りが人間の心に潜んでいるのではないでしょうか。

だから、パウロは厳しく断定するのです。「従って、彼らには弁解の余地がありません。」この表現は、法廷での宣言のような響きがあります。有罪判決です。情状酌量の余地なしということです。パウロはここで、明らかに異邦人のことを念頭においていると思います。ユダヤ人ではない、我々のことであります。我々は、異邦人であることを開き直れないのです。異邦人だから、神を信じないでいるのは、仕方のないことではないのです。我々の罪がそれで免じられるわけでも、刑が軽くなるわけでもありません。我々もまた、神を知っているのです。ただし、もとよりそこで神を知るということと、ユダヤ人が神を知るということとを一緒くたにすることは乱暴に過ぎます。ユダヤ人には、神の律法、神の御言葉が与えられ、契約の民、神の民ですから、神との人格的な対話、交流が許され、人格的に服従できる特権を与えられております。それに比べて、異邦人には、そのような仕方で神を知ることはできません。神との人格的な交流、神の御言葉を聴き、それによって、具体的に従う自由を我々は知りませんでした。しかし、神の存在とその力とは、知ることが出来るのです。その意味で、信じ、崇め、感謝することができるはずであるとユダヤ人パウロは言うのです。

 確かに、永遠の命を受け、罪の赦しにあずかるには、神の子として神との交わりに生きるためには、御子イエス・キリストの知識、福音の知識、特別啓示と申しますが、この情報が必要です。だからこそ、パウロはなんとしてもローマに、世界の果てにまで出掛けて行って伝えたいと考えているわけであります。
しかし、今、パウロが明らかにしているのは、いかなる人間といえども、神を信じ崇めることへと必然的に方向付けられているという人間の神への責任についてであります。神を神として崇めるとは、礼拝のことです。神を礼拝することとはすなわち、ただ神の栄光の為に生きることに他なりません。これこそが、神が人間誰にも求めておられることなのです。

ところが、人間は、それをしない。神を崇めることをしない人間は、必然的に神に感謝することもしません。それなら、神に感謝するということは、何を意味するのでしょうか。それは、自分自身が、神の御前に被造物であると認めることであります。自分の全存在、命は、この神に根ざしている、神のおかげで支えられているという知識、理解です。しかし、人間は、それを認めたくない。認めない、それが感謝しないということの意味なのです。自分は、神のおかげで生きているわけではないという意思表示です。神に感謝するとは、自分を神に劣り、神に帰属し、神のおかげで今があるのだという、自分の小ささ、無力さを徹底的に認めることであります。これが感謝の根本です。ですから、人は神に感謝しない、したくないのです。他のものには、感謝するけれど、神には感謝しない。他のものに感謝することは、自分の存在は徹底的に、それに服させなくても良いからです。一部は、感謝する。しかし、自分の全存在をもって感謝することは、絶対したくないのです。

 子どもカテキズムは、第三部として「生活の道」と題して語ります。第二部つまり前半は、「信仰の道」でした。前半で救いの道、教理を学び、その信仰がどのように生き方、倫理となるのかを第三部が取り扱います。第三部、最初の問答はこういうものであります。問37 神さまが人に求めておられることは何ですか。 答 神さまが私たちに求めておられることは、感謝することです。
問38 あなたはその感謝をどのようにしてあらわしますか。 答 神さまが聖書を通して明らかにしておられる御心に従うことです。神が人に求めておられることは、感謝すること。これは、その問い一、「わたしたちは何のために生きるのですか。」人生の目的を問い、「私たちが生きるのは、神を知り、神を喜び、神の栄光をあらわすためです。これが私たちの喜びです。」と記しました。人の目的は神の栄光を表すこと、神礼拝ということです。そして、問い37では、神が求めておられる唯一つのことは、感謝することだと言うのです。この問い37は、実は、ハイデルバルク信仰問答の影響を色濃く受けております。ハイデルベルク信仰問答は、その第三部で、「感謝について」して、信仰の生活について、キリスト者の倫理について語って行きます。その問い86を是非ご紹介したいと思います。丁寧に学ぶことができたらどれほど幸いであろうかと思います。「われわれが、何の功績もないのに、恩恵によって、キリストによって、救われているとするならば、何故、我々は、良い行いをしなければならないのですか。」答え「そのわけは、キリストは御血潮をもって、われわれを贖って下さった後に、さらに、聖霊によって、更正せしめ、主に似る者として下さって、われわれが、全生涯をもって、この恩恵に対して、神に感謝をあらわし、われわれによって、神が崇められるように、してくださったからなのであります。」

 このカテキズムは、われわれは、ただ恵みによって救われたのだと申して、すぐに言葉を換えてキリストによってと言います。つまり、このキリストのおかげでわれわれは救われているのであって、良い行いによって救われているわけでも、救われるわけでもないというのが、福音の真理であると言うわけです。つまり、これまで丁寧に学んでまいりました、ローマの信徒への手紙第1章16節17節の真理をこの問い86でおさらいするのです。そして再確認しながら、しかし、この福音の真理を知り、これにあずかっているキリスト者は、良い行いをすることが義務付けられていることを確認します。そして、それを問うのです。何故、行いによって救われるのでも、救われたのでもないキリスト者が、あらためてよい行いをしなければならないのかと問うのです。
 この答えを読みながら、この問いと答えはそのまま、ローマの信徒への手紙のこれまで学んでまいりました真理の解説となっていると思います。「何故、良い行いをしなければならないのか」と問います。ここで、明らかにしなければならないこととして、言わば信仰者の義務、キリスト者の義務について語るわけです。義務という言葉は、実は、ウエストミンスター大教理問答の第三部の生活の道の冒頭、問い91の言葉にも出てまいります。「神が人間に求めておられる義務は、何ですか。」答え「神が人間に求めておられる義務は、啓示された御心に服従することです。」「啓示された御心への従順です。」とも訳されています。つまり、ハイデルベルク信仰問答もウエストミンスター大教理問答も、キリスト者の義務を問うのです。しかし、ハイデルベルク信仰問答は、その義務は、そのようにせざるを得なくされているからだと説くのです。そうなると、もはや、義務というわれわれのイメージする言葉の意味とは、違ってきてしまうと思います。義務なのだけれど、単なる義務、いやいや、仕方ないからするのだ、そのようなものではなくなるのです。既に、キリストの御血をもって贖われ、神の子、神に属するもの、隷属と言ってもかまいません。神の所有となっているものとされ、さらに加えて、神の霊、聖霊によって新しい人間として作り変えられ、主イエス・キリストに似る者として再創造されたとハイデルベルク信仰問答は言うのです。

 御子主イエス・キリストに似せられる、つまり、神の子とされるということです。正真正銘の神の子、しかも人間となりたもうたイエスさまに似せられると言うのです。だから、われわれは必然的に、この恩恵に対して、神に感謝をあらわし、われわれによって神が崇められるように、して下さったのです。感謝をあらわし、他の誰でもなく、このわたしによって、神が崇められるようにしてくださった、だから、良い行いをしなければならない、その義務があるのです。子どもカテキズムでは、「あなたはその感謝をどのようにしてあらわしますか。」「答 神さまが聖書を通して明らかにしておられる御心に従うことです。」感謝は、御心に従うこと、義務とは、御心に服従すること、従順になることであると書きました。私どもは、従う歩みの中で、感謝をあらわすのです。
 
先週、川島利子先生を朝夕の祈祷会にお迎えして、アフリカのガンビアでの宣教報告を伺いました。出席者には、忘れがたい印象を与えられたことと信じます。ひとりの言わば普通のキリスト者が、アフリカに赴く。昨年、豊明教会で合同研修会の講演で「献身」について語りました。1時間の講演を聴くより、川島先生のリポートを伺い、川島先生の存在を見る事の方が、深い印象と励ましを受けたかと思います。そこで問いかけられたことを、いっときのことにするのか、それとも、心に温め、深めて行くのか、それは、説教の聞き方とまったく同じですが、噛み締めること、味わうこと、にれ噛むことが必要です。
夜の祈祷会であったかと思いますが、ある方が、質問をされました。週報にみ記しましたが、このひとりの女性のキリスト者をアフリカへと赴かせた秘訣、秘密を問うものでした。しかし、先生は、淡々と御言葉を紹介されました。エレミヤの御言葉であり、使徒パウロの言葉でした。神の御言葉が心に燃え上がって、抑えられなくなった。自分が御言葉を伝えるのは、何も特別のことではなく、神の御力、聖霊のお働きによるのだということです。献身を表明したとき、心に深い平安が訪れられたのです。それは、彼女が本来の彼女として生きることを選択しえたからであります。自分になること、自分の道、それは、もちろん神が示して下さる道なのですが、神の道と自分の道とを重ねることができたからこそ、知った平安なのです。そこには自慢話のようなものがかけらもしません。この世の人は、そこで、自分を誇るのです。ところが、川島先生は、この道は自分に与えられた道、神からの召命であり、この道を歩むことは当然のことであると理解しておられるのです。

さらに、これは、朝であったか夜であったか、先生を派遣し、属しているWECという宣教団体の創始者の言葉を教えて頂きました。大要、このような意味であったかと思います。「主イエス・キリストがわたしのために死んでくださったのであれば、我々が犠牲を払うのは当然のことである。」つまり、主イエス・キリストが私どものためにその尊い血潮をもって贖いとってくださったのであれば、死んで下さったのであれば、我々もまた、この主イエス・キリストのために犠牲を払うのは当然である、当然の義務ということでしょう。
しかも、この義務は、したくなるようなものなのです。この義務を果さなければ、自分が自分として生きる上で、不安になるのです。それは、既に丁寧に学びました、「正しい者は信仰によって生きる」と、パウロがハバクク書を引用したように、これ以外に生きられなくなるのです。これ以外の生きる道がないのです。そして、そのような生き方、生きる道のことを、ハイデルバルクカテキズムもウエストミンスターカテキズムも、子どもカテキズムも、感謝、感謝の生活と言い表すのです。神の求めておられることは、唯一つ、感謝することなのであります。御心に従順になることです。それは、ローマの信徒への手紙の鍵の言葉であります「信仰の従順」ということに他なりません。私どもは、この信仰の従順へと救われたのです。

 ここにキリスト者の感激があります。感謝があります。私どもは、いやいやながら、信仰生活、服従の生活をし始めているのではないのです。志を立てて、御心、御言葉に服従しようと決心して、生活をし始めているのです。しかも、それは、自分の力でも決心でもなく、神の力、今ここに働く聖霊の御業なのです。新しく生まれた自分自身を心から大切にしたいと思います。

元に戻りますが、なぜ、人間は感謝したくないのか、それは、神に従いたくないからです。神を崇めたくないのです。そのとき、人間は、神の言葉、御心に拘束されるからです。神を認めなければ、自分が神になれる、自分の思いのまま生きられる、そこに、人間の罪があります。ところがなんと皮肉なことでしょうか。人間は、自分を神として、偶像を拝み始めるところで、空しくなるのです。不安になるのです。待ちながら生きられなくなるのです。自分の生き方が分からなくなるのです。そして、空しい思いに落ちてゆくのです。人間や鳥や這うものなどに似せた像を拝むような愚かな、生き方が自分で愚かであるとも理解できなくなっているのです。なぜか、それは、無視するからです。神の御存在に目をつぶるからです。目をつぶったところで、見えない、見えないとうそぶくのです。

しかし、そのような人、他でもないかつての私のこと、私どものことです。それなら、私どもはどのようにして、感謝することができるようになったのでしょうか。神を崇める喜びを知り、自分がこのお方によって支配されることを無上の慰め、喜びとすることができるようになったのでしょうか。それは、コリントの信徒への手紙二第3章にこうあるとおりです。「しかし、主の方に向き直れば覆いは取り去られます。」主イエス・キリストに向く、主イエス・キリストに注目する、そのとき、神を崇め、感謝することができるようになるのです。主イエスを見れば、人は誰でも感謝したくなるのではないでしょうか。主イエスを仰ぎ見るなら、そこにまことの人間のあるべき姿を見せていただけます。主イエスを見れば、人間はどのようにして生きるべきかが、はっきりさせられたのであります。そのようにして、神は、御子イエス・キリストによって、私ども人間を、神の民を、人間らしい感謝の生活、人間らしい生活を取り戻してくださるのであります。それは、ただ神の栄光のために、神を崇め、感謝することです。ここに人間の道があります。それを主イエス・キリストが、私どもに取り戻して下さったのです。だから、私どもは今朝も、この主を仰ぎ見ます。空しい思い、鈍感で暗くなった心に光を照射されるのです。今朝、御顔の光を浴びて、もう一度、あらためて、神を崇め、感謝する人の道を踏みしめて行くのです。そしてそれは、神の啓示された御心に具体的に従うこと以外のなにものでもないのです。

しかし、もしも、そこでなお、「わたしは、神の御心が分からない」と嘆く人が出るのでしょうか。しかしそうであれば、我々は、そこであのパウロの断罪の声を改めて聞かされるのではないでしょうか。「彼らには弁解の余地がない。」神の御言葉を聴いている私どもが、なお、自分は感謝しない、崇めない、なぜなら、神の御心が分からないからと言う、うそぶくことになるのではないでしょうか。他人事ではありません。先ず、どんなに小さな一歩でも、従い始めましょう。信仰の生活、祈りの生活が崩れているなら、やり直しましょう。何度でもやり直せるのです。毎週、新しくやり直しましょう。ただ神の栄光のためにと、毎日、悔い改め続けるのです。神へと日々、転回するのです。そのためにも、教会に集まること、礼拝を献げること、祈りの集いを重んじる新しい一週間が与えられようとしております。私どもも、アフリカまでは行かなくても、この教会を通して献身してゆくのです。それが、私どもの感謝なのであります。

祈祷
 私どもを尊い御子の御血潮をもって、買い取って下さり、さらに聖霊によって、御子主イエス・キリストに似たものとしてお造りくださいました父なる御神。神を神として重んじ、服従することの貧しいものであることを心から懺悔いたします。私どもこそ、弁解の余地がありません。しかし、父なる御神、あなたは、そのような者をお捨てにならずに、今朝も御許に招いて下さいました。どうぞ、神を崇め、感謝する人間らしさを常に回復してください。あなたこそが、私どもの人間らしさを絶えず取り戻し続けて下さい。どうぞ、神を神とし、人間は人間として生きること、あなたに従順になることこそ、世界と人類の歴史を切り開くことができ、私どもの救いになることを、先ず、私どもキリスト教会から、証することができますように。私どもの小さな、頼りない信仰の志を、あなたの聖霊によって、お支えくださり、富ましめて下さい。
 アーメン