過去の投稿2005年1月30日

「自由に生きる」 テキスト ローマの信徒への手紙 第1章24節-32節①

  【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。/わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。  わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。  
ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。  喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。  わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 
神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。  御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。  御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。/主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。 
もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。/しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。/そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

 今朝は、詩篇第51編をあわせて読みました。先週も、福音書の中から、主イエスの愚かな人間のたとえをあわせて読んで礼拝を捧げました。なぜ、このテキストを読んだかと申しますと、使徒パウロが愚かな人間と人間の姿を糾弾したとき、おそらく、パウロは、主イエス御自身のこの説教、人間の愚かさ、神を忘れ、神を計算に入れないで、自分に頼って生きる、知恵のある人間のその愚かさを鋭く指摘した物語を思い起こしていたのではないかと推測したからです。私どもは、その説教のなかで、愚かな人間に下される神の裁きをも見ました。つまり、一晩の内に命がとられるということでした。もとより、そのような出来事とは、いつでも神の裁きによってもたらされるものなのだと考える必要はありませんし、それは間違いです。金持ちで長生きして暮らす場合も十分にあります。むしろ、その方が多いのかもしれません。しかし、いずれにしろ、そこで学んだことは、人間的な知恵が神のみ前では通用しないことであり、また、それが決定的に明らかになるのは、最後の審判においてであることでした。神が地上の歴史が終わるとき、すべてを裁かれることは何度も聖書が記す真理であります。

 ところが使徒パウロは、ここで最後の審判について語っているのではありません。ヨハネの黙示録のように終わりのときに完全に明らかにされる神の正義、神の怒りを描き出しているわけではありません。パウロがここで描き出した神の審判の現実、それは、既にこの地上に明らかになっている現実なのです。はっきりと見えている姿なのです。将来のことではありません。過去のことであり、現在のことなのです。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」と第18節に記されています。その神の天からの啓示、怒りとしての啓示は、今、既に我々の現実となっているのです。だから、そこでも、もはや弁解ができないのです。言い逃れができないのです。その姿をリアルに記しているのが、18節から3章までの文章であります。特に、今日から読んでまいります、この18節から32節までには、まさに我々の罪のリストが掲げられています。

 パウロは25節であらためて、我々の罪、誰よりも私どもの罪の根本問題は、偶像礼拝にあるのだと繰り返しました。「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」それは既に23節でも記したことでした。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」つまり、罪の根本問題、罪の急所は偶像礼拝、偶像崇拝なのです。結局、人間が神より知恵深くなろうとしたとき、人間はそこでまことに愚かなものとなってしまうのです。
 
 パウロはしかし、この罪の根本である偶像礼拝の行為のなかで、一つの具体的な罪の行為について言及します。「彼らは互いにその体を辱めました。」ということです。「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」いわゆる同性愛の関係であります。何故、使徒パウロはここで同性愛について触れたのか、性的な罪のなかには、それ以外にも、根本的なこととして、姦淫の罪があるかと思います。「自由の道しるべ」としての十戒の第七戒で要求された掟です。この掟は第一に、結婚した夫婦の間に他人が割り込むこと、その夫婦の関係を破ることを先ず禁じるものです。そこからまた、結婚という秩序なしの性的関係を持つことも禁じられているのです。
 
 先週も、まったく予期しなかったことでしたが、教会学校教案誌の締め切り直前で、第七戒についての説教を書かなくてはならない状況に追い込まれました。自分の連載の責任も始まりましたので、その原稿も書かなくてはなりませんでしたから、先週もまた緊迫した一週間を過ごしました。子どもカテキズムの第七戒も、「結婚するまで性の関係を持ちません」と、子ども自身に宣言させています。これは、とても大切なことであると信じてこのように記したのです。しかしそこで、同性愛についてまでは触れていません。小学生のための説教展開例も、中高生のためのものも、いずれもそこまでは言及しません。しかし、パウロは、先ず、それを告げる。それには、ローマ帝国のまさに都である、ローマの市民の倫理生活、その性的な乱れを遠く離れているパウロにも伝え及んでいたからかもしれません。この教会がおかれている状況は、大都会の真ん中で、言わば東京の新宿、ニューヨークのマンハッタンのような町のなかの教会であったのでしょうか。彼らは、それらをすぐ近くで見ていたのかもしれません。いへ、ローマの教会員のなかに、すでに、伝道の実りとして、かつての同性愛の罪のなかで落ち込んでいた者がいたのかもしれません。
 
 横道にそれますが、今朝は、今日の同性愛に関する問題、常識の問題に触れる暇はありません。同性愛者のキリスト者が現実には、いることを私どもは知らないわけではありません。ですから、ここでの議論は、聖書に即し、パウロに即して語るのです。そして、それによって、必ず、今日の議論にも、神の御言葉の真理が照射され、教会の倫理が確立できるはずであると確信いたします。
 
 さて、使徒パウロは、同性愛が、「自然にもとるもの」と糾弾しました。不自然ということです。ここで、自然という言葉が出てまいります。フィシス、という言葉が後で学びます2章18節では、まさに鍵となる言葉となります。パウロは、神が人間を創造されたという現実、そこに本来の姿があり、これこそが自然なのだと考えています。

 わたしは、最近、日曜学校の子から、このような指摘を受けました。「先生は口がおかしくない」小さな子ですから、まったく何のわだかまりもなく、食事しているわたしについて、見たままの感想を言ったのでしょう。開拓伝道を開始して3年目に入る直前、自分では必死で生き、伝道していましたから自覚はなかったのかもしれませんが、大変な重圧、ストレスを受けていたのかもしれません、顔面麻痺を患いました。そこから奇跡的にほとんど戻りましたが、しかしなお完全ではありません。麻痺は残っているのです。わたしは答えました。「あのね、唇が半分麻痺しているんだよ」と答えました。その子は、口の動きがおかしいと思ったのです。つまり、動きが不自然ということです。これは、たとえば、体の不自由な方、足を怪我している方を見れば、その歩いている姿を拝見すれば、一目瞭然であると思います。これは、とても分かりやすい。すこしでも怪我をしていれば、それをかばおうと不自然な歩き方にならざるをえないからです。そのような不自然さは、見れば、実によく分かります。小さな子でも分かるのです。不自然だ、変だ、おかしい、気づくのです。ところが、人間は、大人も子どもも、神の御前に罪を犯している不自然さについては、まったく鈍感で、分からないのです。

 しかし、何よりも悲しいこと、いや惨めで、恐ろしいことは、自分自身が神の御顔の前に立っているのに、それが見えていないということです。神が見えないところで、何が起こるのか。それは、自分の真の姿が見えないということです。自分が何をしているのか分からないのです。神を仰ぎ見ない。その時には、その人にとって、本当に神は不在になる、その人にとって神がいなくなるのです。見えないからです。しかし、もちろん現実に神が存在しなくなるわけではないのです。その人にとってだけ神が不在となるわけはあり得ません。それなら、当事者が神の御顔を見ていないその時、神がその人をどのような御顔でごらんになっておられるのでしょうか。いったいそのとき神の怒りの御顔はどのようなものなのでしょうか。
 
 たとえばそこで、わたしは主イエスのことを思い起こします。先週の子どもの礼拝説教のテキストは、幼子を抱えて祝福された主イエスを学びました。弟子たちは、主イエスのもとに幼児を連れて来た大人を叱って帰らせたのでした。弟子たちは、主イエスのお疲れを思いやって、この親たちの行動を言わば、自分勝手な願いを求める親たちをたしなめたのです。ところが、主イエスは、この弟子たちに憤られました。憤るのです。そのときの憤りは、もちろん真剣なものでした。ふざけて憤るなどというものではありません。しかし、その憤りは、子どもたちへの愛を妨げる行為への憤りであって、弟子たちそのものを否定するものであったのでしょうか。決してそのようなことは考えられません。弟子たちのために、どんなことでもなさる決意をもって、だからこそ十字架へと歩まれる主イエスが、この弟子たちを捨てるなど考えられるでしょうか。しかし、憤られる。ここに、真実があります。ここに真の愛があるのです。弟子たちを真実の弟子とするために、主イエスはどうしても叱責しなければならなかったのです。そこに、主イエスの真の愛があるのです。つまり、神の憤りとは、神の怒りとは、神の愛と正反対のものではないからです。神の義と神の怒りは、まったく別物、対極のもの、お互いに交わらないものではないのであります。神の義と神の怒りは、主イエス・キリストにおいて一つとなっています。水平の木と垂直の木が交差して十字架の木となるように、主イエスにおいては、神の義と怒りは一つとなったのです。

 この主の叱責を経験しない人は、おそらく主イエスを深く知ることもないのではないかとすら思います。主イエスに深入りしない人は、教会に深入りしません。教会の生活に深入りしない他人は、主イエスに叱られることもなくなってしまうのです。いへ、叱られているのに、それにも気づこうとせず、傍らを通り過ぎるのです。それは、愛の拒絶にほかならないのです。神の怒りを受け入れようとしないことは、神の愛を拒絶することなのです。そのところで、人間は、結果として不自然に生きるしかなくなってしまうのです。倒錯してしまうのです。足を引きずって歩いているどころではありません。逆立ちして歩いているのです。その一つの例としてあげられたのが、同性愛でした。

 神の御顔を見ない人、この神の怒り、何よりもその怒りのなかにある神の真実の、命がけの愛を見ない人です。神の愛が見れなくなるのです。そこで、自分が何をしているのかも正しく見えなくなります。自分で自分を制御できなくなるのです。分かってはいるけれど辞められない状況に深まるのです。心の欲望のまま、不潔なことへと転落するのです。はまってしまえば、抜け出す事も、難しくなるのです。
 
 パウロはここで、神の怒りとは、人間が神なしに生きようとするその勝手な思いのままに、任せられることにあるとしました。神の怒りとは、人間が勝手に、自由にしたいようにおまかせになることによって、執行なさるのです。人間は、自由に任せられたとき、「ああ、これで好きなことができる」と思いました。「神などいない、神など自分の人生にとって、単に心のよりどころ程度で十分だ、何も神の掟に従って生きるほどには、神とのかかわりを持ちたくない」そのように考えて、神の掟を破りました。破ったところで何をするのかと言えば、不自然な生き方です。神から自由に生きて、その結果、実はなんと不自由な、どきどきした生き方、罪に縛られた生き方しかできないのです
 
 神の怒りは、何か、大災害、大事件を与えるとか、交通事故にあうとか、病気になるとか、そういうことではないのです。神の怒りとは、人間がこの怒りを無視し、自分の欲望のままに生きようとし、決断し、実行する、それが神の怒りなのです。任せたのです。見放したのです。しかし、それは、人間が神から離れた結果なのです。神に責任を問うことは、まさに責任転嫁であり、弁解でしかないのです。
 
 さてしかし、私どもはうっかりするとここでのパウロの指摘を、まるで他人事のように考えるかもしれません。なぜなら、「自分は、そのような不品行とは関係なく生きてきたし、今後も、少なくともそのような罪を犯すとは考えられない。」そういう思いです。そこで、こう考える人も出てまいります。「たとい、厳密に十戒を生きることがなくても、自分の判断を十戒にすればよいのではないか、つまり自分を基準にして生きればそれでよいのではないか、そこそこ、上手く生きて行けるし、少々、踏み外したことをしたとしても、それも人間らしいのではないか。」「俺のことは俺に任せておけ。わたしのことは放っておいて。」実に、自分勝手な思いです。何故、そのように傲慢になれるかといえば、それは、神に任せられてしまっているからです。実に、これこそがさばきとなっている、神の怒りとなっているのです。しかし、現実には、神から離れ、神になすままにまかされたときに、人間は決して上手くやっていません。むしろ、不自然で不自由な生き方をしてしまうのです。

 私どもは、このテキストを、今日一回きりで読み終えることはできません。これから毎週毎週、私どもは、ローマの信徒への手紙のこの箇所、3章まで続くこの人間の罪の現実、人間の惨めさ、悲惨な状況を直視させられてまいります。そうであれば、私どもは、暗い面持ちで、礼拝の場から去ることになるのでしょうか。いったいパウロは、ここで、読者に、罪のおぞましさ、惨めさを突きつけて、私どもに、「もう降参します。もう結構です。もう、聞きたくありません」などと言わせるために書いて行くのでしょうか。断じて違います。
そもそも、使徒パウロはいったいどこで、ここに描き出した人間の不自然さ、醜さ、おぞましさを知ったのでしょうか。思えば、パウロはそれこそ、生まれたときから十戒を知っています。十戒の中で育てられました。神の律法の中で教育されてきたユダヤ人です。しかし、パウロは、掟を学びながら、自信満々で生きた来たのです。それなら、いったい、パウロはどこで、なぜ、自分のことを「罪人の頭」とすら考えるようになったのでしょうか。他のだれかのことではなく、ここに自ら描き出した罪と罪深く生きている罪人は自分の姿であるのだと知らされたのでしょうか。

 それは、主イエス・キリストとお会いしたときです。ダマスコの村に、主イエスの弟子たちを捕らえに行く道中で復活の主イエスにお会いしたときです。彼は、このお方との出会いの中で、初めて、本当の自分の姿を知らされたのです。それこそが、倒錯した、転倒した姿にほかなりません。彼は、復活の主イエスの光を浴びたとき、馬からまっさかさまに落ちて倒れてしまいました。その転倒した姿とは、極めて暗示的です。彼はもともと倒れていたのです。不自然に生きていたのです。主イエスに対抗して、主イエスの弟子たちを迫害することを神のためにしている聖なる務めであると信じて疑っていなかったからです。しかし、それが、なんと不自然で、不自由で、逆さまな行動であったのかを、彼はそのとき初めて知らされたのです。しかし、大切なことは、いったいそこで彼は神の怒りの中で滅ぼされたのかということです。パウロは、これまでの罪の責任を取らされたのでしょうか。そうではなかったのです。彼は、神の義を受けたのです。福音によって、自分の存在を新しく受け容れ直すことができたのです。

 しかし、彼はそこで、目が一時的に見えなくなりました。それも暗示的です。彼は他の誰よりも、物事を誰よりも正しく見ていた、認識できていた、理性的に生きているという自負があったのです。しかし、実は、見えていませんでした。この目が見えなくなってしまった期間、彼は何をしたのでしょうか。
主イエスが説教を開始して一貫して人々に説き続けたことはこのことでした。「神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい。」主イエスが私どもひとり一人にお求めくださったことは悔い改めて信じることでした。
 
 そこで、悔い改めるとは、一回限りのことではまったくありません。毎日のことです。そもそも悔い改めるとは、方向を転換するという意味の言葉なのです。いつでも、神へと方向を転換することです。パウロは、主イエスによって悔い改めの恵みを受けたのです。恵みとしての悔い改めを与えられたのです。
 
 詩篇第51編は詩篇のなかでの悔い改めの詩篇と呼ばれるもののなかでも最も有名な詩です。私どもが、それこそ、暗記するくらいに、この詩を味わい、この詩を口に載せ、自分の祈りとすることができたらどれほど、まさにどれほどの祝福を受けることができるかと思います。会員一人ひとりが、この詩人の祈りを御自分のものとすることができたら、教会の個別の特別の牧会的な課題はなくなってしまうのではないかとすら思えます。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」詩人は、罪を告白します。この罪の告白のなかに、まさに罪とは何かが明らかにされています。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」多くの人はこれは、おかしいと思うと思います。罪は、隣人に犯すもの、隣人に謝らないで、神様にだけ謝って事は済まないし、そんな人を馬鹿にしたことはないではないかと憤慨するかもしれません。しかし、詩人は、罪を犯したことは、結局、自分が神を神として畏れ敬わずに、偶像礼拝を犯したことの結果であると認めているのです。罪とは神との関係なのです。詩人は祈り願います。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。み救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。」詩人は、神の霊こそ、聖霊こそ自分を自由にすると告白します。人間を自由にするのは、聖霊を受けることにのみ成し遂げられるのです。神に見放してもらうのは、望むところだ。自分は肩苦しい生活、十戒とか、規則とか、教会の責任とか、そのようなことはごめんこうむるということは、実は、自分を不自由にし、不自然な、倒錯した生き方へと転落させる道でしかないことを詩人は知っているのです。しかし、自由に生きるためには、どうしても神とともに生きることが必要なのです。神とともに生きるということは地上にあっては、教会と共に生きることです。教会の歩み、教会の歩調に合わせて生きることです。自分の歩みに教会を合わせるのではないのです。自分の歩調を譲らずに生きることではないのです。聖霊とともに生きるのです。聖霊に支えられること、支配といっても構いません。聖霊の支配を求めることです。それが、悔い改めなのです。

 この後、すぐに会員総会を開催致します。既に週報や、年報に記していることですが、総会とは、共に感謝と悔い改めのときを持つことです。私どもがどんなに拙い歩みであったとしても、神と共に歩んだ歩みであったことは間違いのない事実です。神の御前に申し訳ない歩みであったかもしれません。しかし、私どもはなお神の御前に一年の報告をなすことができるのです。それは、自分の手柄、自分の奉仕の充実を明らかにすることではありません。神が、拙い、貧しい奉仕であっても、これを確かに用いて下さったこと、私どものあの人、この人のために捧げた祈りが実ったこと、自分が祈られてこそ、今日の会員総会を迎えられたこと、神の御業、自由の霊であり給う、聖霊の御業を感謝するのです。なぜなら、私どもの真実な悔い改めとは、福音の光、主イエス・キリストの御臨在によってのみ与えられるものだからです。ですから悔い改めることもできるのです。すでに、そこに人間の自然の姿があるのです。そこにこそ人間の自由があるのです。人間の真に美しい姿、人間の本来の姿が、悔い改める姿なのです。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」この神の御心は主イエス・キリストにおいて私どもに鮮やかに天から啓示されました。このいけにえ、打ち砕かれ悔いる心を与えて下さった神のみがほめたたえられますように。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもがどれほど病んでいるのか、罪の深みにはまって、不自然で、不自由な存在に成り下がっているのか、それをあなたが、御子イエス・キリストの十字架のもとでお教えくださいました。十戒をもって、そこから、引き上げ、自由の霊をもって、悔い改める喜び、自由の道へと取り戻して下さいました。どうぞ、他人の罪の姿には敏感に気づく私どもが、自分の罪にはまったく鈍感であることを恐れます。どうぞ、自分の罪をあなたの前に真実に嘆き、悔い改めて、自由の霊を、新しく確かな霊を求めることができますように。そのために、今、あらためて、私どもの救い主、十字架の主イエス・キリストを心から信じます。この御子の赦しのなかで、新しい年度を、志を新たにし、教会と共に、教会のために歩むことができますように。私どもの教会がこの町に住む、罪のなかでとぐろを巻いて動こうともしない人々のために、救いの砦、自由の拠点として用いられますように。
                   アーメン。