「あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」ペトロの手紙一の冒頭、著者の使徒ペトロは、読者である教会員、アジア州に散らばっているキリストの教会に向かってこう書き送りました。
喜びに包まれている。しかも言葉に尽くせないほどの喜びに溢れている。これは、尋常な喜びようではありません。異常といって良いほどの喜びの姿であります。しかし、ペトロは、それが、キリスト者の存在のしるしである。それが、キリスト者の性質、本質となっていると、事も無げに申します。
神が私どもに与えてくださる祝福はいくつもありますが、そのなかでも、すぐに与えられたと分かり、しかもその中心的なものの一つは、「喜び」であると思います。実際、私自身を振り返って、信仰を与えられましたのは、大学生のときでしたが、信じて救われるという現象をどのような私自身の言葉として表現したかと申しますと、それは喜びでした。救いの喜びです。私自身、あの時から今日まで、結局、この喜びについて、語り続けた、証し続けて来たとすら振り返ることができます。それまでの人生のなかで、嬉しかったことは勿論ありました。しかしながら、いつまでも続く喜び、まさに言葉に尽くせないような喜びを味わったことはありませんでした。ただしかし正直に申しますと、洗礼を受け、しばらくして、心の中に、「もしかすると、この喜びは、今だけ、信じたばかりの今だけのものなのではないか、それが失われたらどうしよう」と不安も生じました。しかし、今、それは、取り越し苦労であることが分かっています。いったいどうして、はるか20年以上も前の喜びの出来事が、今なお、続いているのでしょうか。結論を申しますと、それは、この喜びが、自分自身の修行や何かで感情をコントロールするというようなことではまったくないからです。
たとえば、聖書の中に、「すべてのことについて感謝しなさい。」ともあります。これも、感謝する心を涵養する。感謝する心を磨くというようなこととは違います。一般に、「宗教心」という言葉があります。宗教的な心は、すべてのことに感謝する心と言う風に言えると思います。そして、それは、誰が見ても素敵なこと、すばらしいことだと思います。それなら、聖書もそのように、宗教心を磨きなさい。宗教心を育てなさいと言っているのでしょうか。違います。
そもそもこの喜びとは、自分の中からわいてくるものではありません。感謝ということも、単に自分自身の中の感謝する心を育てるということとは違います。
先週、伝道月間の最初の説教をしてくださいました加藤常昭先生から私どもの教会のために多くの御著書をお送りいただきました。その中に、かつて私どもの祈祷会でテキストとして学びました、「雪ノ下カテキズム」が入っていました。先生が、午後の昼食のときに、教会員の中から、「雪ノ下カテキズム」を学んだことを伝えられたこともあってのことかと思います。あるいは、既に、この信仰問答を学ばれないで教会員になられた方も大勢おられますから、先生がお考えくださったものかもしれません。
ちなみに、これは最新情報で、先生から直にお伺いしたことですが、近くドイツ語で出版されることが決まっているとのことです。カテキズム・信仰問答、教理問答の本場、あるいは大先輩であるドイツ語圏において、日本人の牧師、神学者のカテキズムが出版されることは、大変すばらしいことです。その内容が評価されてのことです。内容は、まさに日本と言う場でひたすら神学し、伝道し続けた牧師が書いたものであるところにその一つの特徴があるように思います。これまでのカテキズムは、信仰の内容、信仰の対象を明確にすることに主眼を置くものでした。そしてそれは、至極当然のことであり、大切なことと思います。しかし、わたしの考えでは、このカテキズムの特徴は、信仰の与える結果としての内容、内実、救いそのものに焦点を与えているのです。それは、教会で求道されている方に何とか信仰の道、救いの道をたどらせたいという先生の伝道者の情熱がほとばしっているところにあると思います。余計なことかもしれませんが、本来私どもの先輩であるヨーロッパの人々がむしろ、聖書の信仰の深く豊かな実力、神が与えてくださる救いの喜びを見失っているのではないかと言う危機感が、加藤先生の「雪ノ下カテキズム」の刊行の下地にあるとしたら、一方で悲しむべきことです。
実は、今、スイスで新興宗教が力を増して来ているのだといわれます。スイスと言えばまさに、私どもの教会のルーツであるカルバンが教会形成に励んだ地であります。そのスイスで、教会ではなく、新宗教が流行しつつある、これは由々しきことです。我々もまた、オウムの問題などでその問題を目の当たりにいたしました。宗教的な修行によって精神世界に逃避すること。精神的な高揚や充実感を求めて若い世代が引かれていったことを見ました。あるいは、宗教ではなくとも、多くの人々が、心理学・カウンセリングの技術で、心の問題の救いや癒しを求めます。精神セミナー・能力開発セミナーなどはなお盛んです。果ては、短絡的に薬の力などによって心に高揚感を求める人々もおります。これらを一つに論じることは乱暴に過ぎるかもしれませんが、しかし共通することがあると思われます。それは、つまり、喜び、感謝、平安などを、自分自身の心の持ちようだとか、外側からの刺激、コントロールで保持しよう、解決しようとすることです。
さて、そのような状況で、雪ノ下カテキズムの問いの一、その第一章全体の主題は、「喜び」となっています。問い一は、「あなたが神に願い求める救いの喜びとは、いかなる喜びですか。」となっています。「救いの喜び」これが真っ先に取り扱われるのです。それは、おそらく加藤先生の理解に基づくなら、神が私どもに真っ先に与えたいと、神御自身が願っておられることを、扱いたかったからではないか、そう思います。そして、私もその通りであると思います。
さて、この手紙の読者、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れている」読者、生き生きとした希望を与えられている読者が生活している状況はどのようなものだったのでしょうか。人もうらやむ安楽な生活を楽しんでいたのでしょうか。生活になんの心配もないような恵まれた立場、階層にいたのでしょうか。実は、そうではありません。むしろ、おそらく読者のなかで少なくない者たちは奴隷でした。主人に買い取られて過酷な労働、しかも理不尽な要求を強いられ、反抗することも許されない厳しい状況を強いられていた奴隷であったのです。それに加えて、キリスト者となるということは、当時、多くの場合、迫害を受ける危険性もあったわけですから、彼らは、はたから見て、決して恵まれた人たちではありません。むしろ、その逆なのです。ですから、彼らの生活環境が、彼らの喜びの原因になっているのではないことは明らかです。そしてそれだからこそ、私どもは、とても気になります。どうして、それほどまでに喜びに生きることができたのか。
そもそも、この手紙を書き送った人物とはどのような人物なのでしょうか。それは、使徒ペトロです。ペトロは、主イエスの12人の弟子たちの中の筆頭でした。しかしながら、このペトロは、主イエスにどこまでもしたがって見せますと豪語しながら、主イエスが捕らえられてしまうと、逃げ出しました。裁判にかけられる場に忍び込んだ彼を、「あなたもあの人の弟子の一人ではないか」問いただされたとき、「そんな人は知らない、決して知らない」と主を否定し、裏切ったのです。そこまで、しかもそれを主イエス御自身に聞かれてしまいます。ペトロは自分のしたことに慄きを覚えて、激しく泣いたのです。自分のしたこと、自分の裏切りは、とりかえしのつかない悪、罪であると彼自身わきまえていたのです。そのような経歴、過去、傷を持つ者が、何故今、自ら、喜びに溢れて書くことができているのでしょうか。しかも、この手紙の読者は、この裏切った弟子から、主イエス・キリストのことを教えてもらい、この主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストから生き生きとした希望を与えられ、ペトロに負けないくらい喜びに生きているのです。いったい、そのような傷を負った人間が、どうしてなおキリストの弟子であることができるでしょうか。いったい、どの面下げて主イエス・キリストのところに戻れるでしょうか。
実は、ここにこそ教会の地上に存在している事実についての、最も深い謎を紐解く鍵があります。主イエス・キリストは、十字架で本当に死なれました。兵隊たちは、確実に殺したのです。なぶり殺したのです。ペトロはそれを見て、知っています。弟子たちは、主が十字架で処刑されたことを遠くに見て、知っております。主イエスを見捨てて、彼らは、逃げ出したのです。身を潜めたのです。隠れたのです。ところが、ほかでもないその彼らが、今こうして伝道している。使徒パウロのあの男泣きに泣いて、主イエスのもとから立ち去った男が、今、主イエスの御業を喜んで、大胆に、命を惜しむことなく宣べ伝えているのです。この変化こそ、キリスト教のもっとも深い神秘を紐解く鍵なのです。その謎、神秘こそが、キリストの復活という歴史的事実に他なりません。もしも、主イエス・キリストが復活されなかったら、いったい誰がどうしてこの現実を説明できるでしょうか。
もちろん、主イエス・キリストのお甦りの現場に立ち会った者は世界で誰もおりません。復活された主イエス・キリストにペトロをはじめ弟子たちは皆お会いすることが許されました。その他大勢の目撃証人がおります。しかし、この手紙の読者の中で、キリストの復活の目撃証人は誰もおりません。誰もいないのにもかかわらず、使徒ペトロと同じように喜びと希望に溢れているのです。いったい何が起こったのでしょうか。集団ヒステリーのような宗教的熱狂が起こったわけでもなく、みんなが一斉に主イエスを信じたということでもありません。この事実は、キリストが確かにご復活されたということ意外に説明がつかないのではないでしょうか。
言うまでもなく私自身も復活の主キリスト・イエスにお会いしたことはありません、現代のキリスト者の誰一人、復活者イエスさまに御会いした者はおりません。なぜなら、復活された主イエスは、今天に戻られたからです。しかし、私自身、この礼拝式で、神の言葉を聴くときに、心が熱くなります。救いの喜びが新しくされます。更新されます。そのようにして既に20年あまり、喜びの道を歩ませて頂いて来たのです。キリスト者である皆さんもまた同じであると信じます。この礼拝式で、復活の主イエス・キリストはその御言葉を通して私どもに確実に出会っていてくださるのです。このお方との出会いによって、救いの喜びは私どもに与えられるのであります。
使徒ペトロは、主イエスを裏切りました。そして、喜びも希望も失ってしまいました。罪と申しますと、何か、主イエス・キリストを十字架につけた人々のことや、主イエスをお金で売ってしまったイスカリオテのユダなどのことだけを考えてしまいやすいのです。もちろんそれは罪です。しかし、弟子たちの問題も、その根っこにあるものは、共通しているのです。彼らも罪を犯していたのです。結局、自分を中心に神、主イエス・キリストを考え続けたことです。このお方の前で、自分が根本から作りかえられることを拒む心です。新しくされることを拒む心です。弟子たちは、信仰とは、どれだけ、信じる気持ち、信じる心を強くするかにかかっていると考えていました。ペトロはその筆頭です。「どんなことがあなたの身に起こったとしても、わたしはあなたにお従いいたします。その覚悟はできています。」これが、彼の信仰告白でした。しかし、それは、自分の信心、宗教心です。それは、あっさり崩壊するのです。
しかし、復活された主イエス・キリストはそのような罪人を捨てられません。罪人を放って置かれません。そのような罪人、自分の罪のゆえに、真の喜びも生きがいもなくして、うずくまってしまっている者を探し続けてくださるのです。主イエス・キリストはそのためにも、復活されたと云って良いのです。そのようにして、主イエス・キリスト御自身が御自身との出会いの道を整え、作ってくださり、近づいてくださるのです。ペトロは、この復活された主イエス・キリストの訪問を受けて、救いの恵み、罪の赦しにもとづく言葉に言い尽くせない喜びに溢れたのです。この喜びは、神から与えられた喜び、神の喜びなのです。
聖書朗読で、ルカによる福音書第15章の一匹の迷い出た羊の譬え話を聴きました。主イエスは、たった一匹の迷い出た羊のために、血相を変えられます。野原に99匹の羊を残して、一匹を探しに行くことはほとんど常軌を逸しております。狼の襲撃にあえば、野原の羊99匹はひとたまりもありません。もちろんこれは、譬えです。しかし、主イエス・キリストは御自身を良き羊飼いとして自己紹介してくださったとここで私どもは読み取ることが許されます。しかもさらに驚くべきことは、見つけたときの羊飼いの喜びようです。これも常軌を逸したようなことです。一匹の羊のために、大勢の人たちを招いて宴席を設けたら、計算上では、割に合いません。損です。しかし、ここで、主イエス・キリストは神のもとからさまよい出ていた羊、それは、他ならない私ども罪人つまり、神から離れて生きている私どもの姿にほかなりませんが、この羊を見出したことを、取り戻したことを大喜びに喜んでおられるのです。つまり、主イエスの譬えで紹介される神とは、喜ぶ神です。何を喜ばれるのかと申しますと、神に背いて、神から離れて生きている私どもが神のもとに立ち返ること、神が私どもを取り戻してくださることです。そこに、神の喜びがあります。この喜びの大きさが、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」の実態なのです。内容なのです。ここで、見出していただいた羊と見出した神の喜びとがぴたりと結ばれているのです。ペトロは、裏切りました。そして自分に失望しました。もう、自分は、イエスさまに顔向けできないと、個人的に、心の中で、イエスさまに「ごめんなさい。イエスさまのすばらしさは決して忘れません。神を自分なりに信じて生きてゆきます。」このように思ったのではないでしょうか。しかし、主イエス・キリストは、このペトロに徹底的な罪の赦しを信じさせるために、彼のもとを訪問したのです。この主イエスの探してくださる御業がついに実って、ペトロはキリストの使徒として再出発、本当の意味で新しい出発をしたのです。この赦された喜び、赦して、神の子に取り戻すことができた神のご自身の喜びが、彼や、彼から主イエスのことを聴いた大勢のキリスト者たちを、生かし続ける、喜びの力となったのです。どれほど厳しい人生、命の危険すら帯びる迫害の只中にあっても、吹き飛ばされることのない喜びとなったのです。
そして、それは、2000年前のことだけではありません。今、私どもは、そのような主イエス・キリストの御業、そのご訪問を、まさにここで、受けているのです。主の日の礼拝式においてこそ、神は私どもに出会ってくださるのです。救いを与えるためです。罪の赦しの恵み、その喜びにあずからせるために、神御自身が私どもに先立って、出会ってくださるのです。
先週は、映画パッションのお話をいたしました。私は、主イエスが鞭で打たれて血みどろになっているシーンのあまりの激しさに本当につらい思いを持ちました。しかし、同時に、あれほどまで自分の罪の刑罰が恐ろしいことと、その罪を主イエス・キリストが身代わりにお受けくださったことによって、本当に自分の罪の刑罰は、過ぎ越してしまったことを思いました。この主イエス・キリストのお陰で、もはや私の罪を裁く唯一のお方は、父なる神は、私を無罪放免してくださることは間違いないと改めて思いました。
数年前、家族で、長崎に参りました。キリシタンの足跡をたどることが旅の一つの大きな目的でした。キリシタン資料館で、十字架につけられているほとんど等身大の人形が壁に掲げられていました。上の娘はそれを見て、心を動かされました。「十字架についたのはイエスさまだけじゃないんだ。イエスさまだけがすごいわけじゃないんだ。」子ども心に、イエスさまは、私たちのために十字架についてくださった方で、すごい愛の人、立派な、崇高なお方という印象があったのです。しかし、信仰のゆえに、神への愛と人への愛のゆえに十字架で苦しんだ人は、イエスさまだけではないのであれば、イエスさまが絶対的な存在ではないことになります。そのことがショックであったのです。
しかし、キリシタンが十字架にはりつけられたことと、主イエス・キリストのそれとはまったく別です。細かな議論をする暇がありませんが、しかし、もしも、主イエスがお甦りになられなかったら、確かに、殉教したキリシタンと主イエスとはほとんど変わりなくなります。しかし、主イエス・キリストは復活されたのです。それによって、あの十字架が私どもの罪の赦しが成立する為の十二分な手続きとなったのです。主イエスは苦しみをお受けになられました。映画パッションで移すことができるのは、人間たちからなぶりごろしにされる姿だけです。それは、まさに恐るべきことで、しかも、それを黙々と耐え、なお、彼らを愛し続けるお方を映すことに成功しています。しかし、決して映すことができないのは、十字架の上で、神に捨てられるその裁きの恐ろしさです。神から受ける刑罰を耐えられる恐ろしさです。私どもの罪は神の刑罰を受けるのです。しかし、神はその独り子に御自らの手で、まるで本当の犯罪人、まるで私という罪人であるかのように、罪なき独り子を罰しなさったのです。
そして、父なる神が、このお方の死を受け入れられて、死人の中から復活させられたのです。この死人の復活のゆえに、私どもの罪は赦されました。そればかりか、今、私どもは神との交わり与えられ、神の愛と恵み、神の祝福と平和を受けことができているのです。神の子とされているのです。この私どもの全存在が神に喜ばれていると知らされたのです。復活によって、私どもの将来は、死で終わるのではなく、命に到達する、永遠の命、主イエス・キリストと永遠に生きることがゴールとされたことが、保障されました。私どもの今の姿がどれほど、その栄光に輝く姿とは、程遠いものであっても、主イエス・キリストの復活のお陰で、私どもの将来は、まばゆく輝いているのです。その輝きが今の私どもを輝かせる、喜びに輝かせるのです。この事実を受け止めること、受け入れることが信仰であります。私どもは、この信仰の実り、結果、として魂の救い、命の救いを私どもは受けているのです。ですから私どもに喜びが与えられるのです。
今まで我々が知っていた喜び、求めて来た喜びは、すべて目に見えるものです。ペトロの手紙ではそれを一言「金」と言い表しました。どんなに金を持っていても、それは、永遠のものではありません。信仰の実りとして与えられる魂の救い、すばらしい喜びは、たとえ自分がどれほど、苦しい境地に陥ったとても、家庭のなかに不幸が起こったとしても、子育てに行き詰まったとしても、リストラの憂き目に会ったとしても、自分自身が病を得て倒れてとしても、家族が事故に会ったとしても、愛する者が旅立ったとしても・・・、しかしなお、この喜びは奪われないのです。まことに不思議な喜びです。神が与えてくださる喜びだからです。罪の赦しに基づく喜び、神の子とされている救いの喜びだからです。
たとえどんなに、この世で、望むようなお金、立場、贅沢を手に入れたとしても、この喜びを味わうことは決してできないのです。むしろ、喜びではなく、恐れ、不安を富ましめられることが多いのではないでしょうか。地上で、試練や苦しみは少ないほうが良いに決まっています。しかし、試練や苦しみの只中で、なお、喜んで生きることができる祝福を、神は私どもに提供しておられるのです。神は誰にでも、この喜びを無代価で与えておられるのです。神はわたしの存在を今、そのまま喜んでいてくださる、何と言う光栄でしょうか。何と言う幸いでしょうか。ですから、私どもには、喜びが溢れるのです。言葉に言い尽くせない喜びとなるのです。無尽蔵の喜びとなるのです。
ただし言うまでもないかもしれませんが、この喜びは、表面上のものではありません。いつも、ニコニコしているというものではありません。今日の世界や社会を見て、心に悲しみ、憤りを感じることなく、宗教の中に閉じこもるようにして、心に平安、感謝、喜びがあって、幸せです。最高です。なとど言って過ごせません。イザヤの預言によれば、主イエス・キリストは悲しみの人であったとすら言われています。隣人の悲しみの事実を深く共感しておられたからです。しかし、その想像することもできない深い悲しみのなかでさへ、心が崩れてしまうことはなかったのです。主イエス・キリストの中には、まさに神の喜びが溢れていたからです。この喜びが、悲しみを真実に悲しむ力にもなったのです。
今朝、復活された主イエス・キリストは、私どもをこの喜びへと招いておられます。神は、私どもがここにいることを喜んでおられます。神は、ご自身の御言葉を聴く私どもを喜んでいてくださるのです。ですから、喜びに生きる人は、主日礼拝式を軽んじることはできないのです。今、神の民が勢ぞろいしてここに座っていることを誰よりも喜んでおられるお方は神です。その神の喜びに今日もつながっているのです。
今、私もその喜びを味わいたい、私もその喜びと希望をもって、生きてゆきたいと願われたら、その願いそれ自身が神からの贈り物です。それを大切にしてください。そしてそれを、表明してください。声に出して神に申し上げることです。それを祈りと申します。そして、そのような祈りは、この皆でささげている礼拝式によって確かなものとされます。いへ、この礼拝式にそのような思いで出席されていること自体が、この喜びへの道筋なのです。
祈祷
あなたの御子主イエス・キリストを十字架に追いやった罪人である私どもにもかかわらず、なお、愛し、救い、神の子としてくださった父なる御神、私どもは今、罪赦されて、ここにおります。言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに溢れる経験をここで味わい始めております。時に、御言葉に背く罪によって、この喜びをひと時ではあっても失うこともあります。また時に、偽りの喜びになびき、真の喜びに生きる祝福を見失うことすらあります。どうぞ、私どもが常に、この場、神の民の祈りの家に留まり、あなたの命の言葉を聴き、生き生きとして希望、信仰を富ましめてください。たとえ私どもがどれほど、あるかないかの不確かな信仰しか持ち合わせていなくても、あなたの御子イエス・キリストの十字架と復活の確かな事実によって、決定的に赦され、魂の救いを得ていることを信じさせてください。そして何よりも、今朝、ここに、まだ、洗礼をお受けになっておられない方々がおられます。一日も早く、洗礼を受けて、神の民の一員とされることを祈り願うことができますように。救いの喜びを求めることができますように。主イエス・キリストの大きな喜びのなかにおかれている自分自身を発見させてください。その驚くべき恵み気づかせて下さい。信仰を言い表す喜びをお与えください。 アーメン