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「中会なくして教会なし」-これからの中部中会について-

「中会なくして教会なし」-これからの中部中会について-                        中部中会連合長老会発題
                   2000年3月20日 名古屋教会
             
 聖書朗読   使徒言行録 第20章17節-38節

 今回、私を連合長老会の大切な、集会にお招きいただきましたことを心から感謝申し上げます。皆様の主にある暖かなご配慮を感じ、本当に励まされております。昨年1999年第41回定期会におきまして、名古屋岩の上キリスト教会の日本キリスト改革派教会中部中会加入願いを満場一致で可決していただき、その月の4月18日に加入式、宣教教師就職式を挙行していただきました。そこに至るまでの皆様のお祈りにこの場を借りて改めて御礼、感謝申し上げます。しかも、今回、このような場に立たせて、小さな者に発言の場をお与え下さる皆様の親心と申しましょうか、主にある暖かなお心を本当に嬉しく存じます。
 さて、最初に、吉田長老より、なんでも自由にお話しくださいとのように伺っておりました。しかし、長老会だよりを拝見して、-これからの中部中会について-という主題であることに、気づきました。しかし、その趣旨はほとんど同じかと思います。私自身、思いつくままに、皆様に自己紹介のようなつもりで、お話しさせて頂ければと存じます。
 
この場には、教師はおりません。長老方に向かって、「これからの中部中会について」の発題をさせて頂くと言うことの固有の意義を思います。私は、今まで、長老と共に教会に仕えた経験はありません。それは、私がこれまで長老主義教会で生きたことがありませんから、その意味で当然のことであります。正直に申しますと、私自身の心のなかに、信徒である長老が教会政治を担い、牧師と共に教会を治めることは可能なのであろうかという、経験上からきます猜疑心がありました。教会を治める務めは中途半端な信仰の姿勢や、教理の修得のないところでは不可能である、してはならないという理解を経験上嫌というほど深めてまいりました。教会の中で、勿論牧師自身がもっとも厳しく問われることでありますが、「教会の信仰」つまりキリスト教会をどのようにして真の教会として形成することができるのかと言う筋道を弁えないところで、教会の働き、特に牧会的な指導監督を信徒がするならば、それは、どれほど教会を混乱させ、教会形成を阻むことか、その弊害をしばしば目にし、耳にしてまいりました。ですから、私は監督主義教会とそれへの反発から生じた所謂「会衆主義」教会を比べるならば、少なくとも、監督主義教会にこそ、キリストの支配を確立する制度としては比べることが出来ないほど、優れたものと考えております。つまり、教会は、教会固有の言葉、信仰の言葉、信仰の筋道によって形成される神の教会だからであります。そのような神的な共同体にこの世の評価、考え、手法が入り込むなら、それは、すこしづつですが、福音の真理から離れて行き、遂には離れていることにも気づかないまま流されてゆくことになると考えております。教会を治めるには、社会的な地位も、能力も、立場も基本的には全く問われないと思います。但し、このように言いながら、現実の教会の中での混乱が生じる場合、その殆どの場合は、世の中でも決して通用しない、極端に常識を失った発言、振る舞い、手法などがとられるものであります。ですから、この世の通常の常識は、その意味で教会の生活を立てて行く上で、基本的に共通している事ほうがむしろ圧倒的に多いことも、敢えて指摘しておいたほうが良いかもしれません。
 
しかし、このように体験したり、考えたりしてまいりました者でありますが、その思いは、中部中会加入を祈り求める過程のなかで、取り去られてまいりました。私は、皆様を拝見しながら、長老主義教会が実現できるなら、こんなに素晴らしい教会があるだろうか、まさに聖書の指し示す教会の理想の姿であると思わされてまいりました。
  私は、名古屋岩の上キリスト教会加入を配慮する委員会の席上で、一人の長老が私は、教会規定を読むと心が熱く燃やされると仰ったことが忘れられません。私がこれまで見聞きしてまいりましたのは、信徒だけでなく牧師が、教会規定だとか信仰規準だとか堅苦しいことは止めよう、それぞれがもっと自由に、もっと気軽に、活動できるような教会、集えるような教会にしよう、それが伝道になる、それが教会に多くの人々が集えるようになる方策にもなる、云々。それに対して、先程の長老の発言は、異質のものであります。私は、本当に感謝致しました。このような長老一人が生まれるために、それはどれほどの長居年月が必要なのか、その背後に牧師の祈りと指導があったに違いないとも思わされました。この事はほんの一例であります。その他にも、講壇交換で伺った教会において、長老方が段取りを整えて、伝道所の牧師としては、この中の一人でも岩の上教会に連れて帰らせてもらいたい、長老が志をもって、岩の上教会の開拓伝道に共に立ち上がっていただければどんなに、日本キリスト改革派教会としての教会形成に弾みがつくかと真面目に考えたものであります。勿論、それぞれの教会にとっては、掛けがえのない長老ですから、真剣に、担任の牧師に申したことはありません。
  御言葉の説教に召されて、そこに献身して生きる教師と、信徒として、御言葉の実りを自ら体現し、それを信徒においても実らせるよう牧師と共に働き助ける長老。この両者の正しい関係は正に福音の生み出す交わりの姿そのものであります。御言葉を真ん中にして、同じ志に生きる仲間が一つの教会に生まれる、それこそ教会の交わりの姿の模範であります。言い換えれば、長老と牧師の交わりの姿にキリストの教会が求め、憧れる交わりの姿が映し出されているのであります。それだけに、長老の職務、長老職就いておられる皆様には、大きな責任があろうかと存じます。牧師の語る御言葉の最善の聴聞者になることであります。それは、基本中の基本であります。もしも、牧師の説教が神の言葉として聴き取れないのであれば、その時は長老を退かねばならないでしょう、あるいは、その牧師の説教を中会の機関に上申して、正しい教理に基づいて聖書か説き明かされているのか審査していただかなければならないか、いづれかであります。長老は誰にまさって良き聴聞者であっていただきたいと思います。牧師が、神の御言葉を会衆に「おもねる」ことなく、純粋に語りきる上で、福音の共鳴板が必要であります。自分に引き寄せて説教の善し悪しを判断したりすることがないように、長老には教理の体得が必須であります。そのためにも、牧師の語る言葉に寄り添って欲しいのであります。そうなりますと、主日の礼拝式は当然でありますが、祈祷会の大切さはことのほか重要であります。そこで、教会のために心を合わせて祈るのであります。週日は本当に忙しく目の回るような日々を過ごす長老は少なくないかと思います。しかし、祈祷会が出席できない長老ではやはり、困ると思います。牧師と共に、教会員と共に祈ることがなければ、治会の務め、牧会の務めを牧師と共に担うことは実際には不可能となるのではないでしょうか。大変厳しいことを申しました。しかし、牧師も自分のために、自分の生活のためにこの尊い務めについているわけではありません。神の召命によります、献身しているのであります。その献身の志を共にする事が出来るのが長老ではないでしょうか。一人の献身した長老がいれば、牧師はどれほど、経済的な困難や、牧会上の困難があってもその献身、その志を貫くことができると思います。
  私はしかし、伝道所の宣教教師ですから、長老なしに開拓伝道をすすめております。そうなりますと、牧師一人の奮闘でも、なんとか教会に仕えることは可能なのではないかという疑問をもたれるかもしれません。その時には、このように答える以外にありません。それは、牧師の志を支える教会員がいると言うことであります。説教を聴き、それに生きる仲間がいる、それによって変えられてゆくキリスト者がいる、共に祈祷会を守ることに自分の教会形成の奉仕を見いだす仲間がいるからであります。もしも、このような共に重荷を担うことができる仲間、兄弟姉妹が与えられていなければ、(冗談ですが)開拓を止めて夜逃げをしていたかもしれません。
  さて、これからは、本題であります「これからの中部中会について」幾つかの提言をのべさせていただいて、今後の共通の課題として確認することが出来ましたら幸いであります。しかし、基本的に私共の中会は設立四十周年記念宣言を神と教会に表明致しました。その宣言の言葉に、私共の課題は記されていると信じております。
  しかし、なおそこでもっと強く宣言表明すべきであったのではないかという思いが拭えない事柄があります。それは、中会とは何かという根本的なテーマであります。私共は昨年、日本キリスト改革派教会中部中会に加入させていただきました。それ以前に私は、教会の方々に、それこそ耳にタコが出来るほど申したことがあります。
 
「中会なくして教会なし」「岩の上教会の教会形成と中会形成とは一つのことです。」
単立であった私共の教会は、単立のままであれば、それは厳密には「教会」以前であります。そこに何百何千人あつまったとしても教会にはなっていません。それが長老教会の教会観、教会理解であります。私共は教会なくして真の伝道をなすことはできないとも考えておりました。この辺りのことは是非、拙論、「日本基督改革派教会創立の歴史的事情と私の加入の動機について」加入の為の試験の論文を読んで頂きたいと思います。これは、長老、教師という中会の定期会の議員の方々だけがわきまえていれば良いものでは決してありません。長老教会に生きるものは全員が、中会という母なる教会に連なっている限りにおいて、自分たちが使徒的で公同的な教会に連なっている真の教会であり、それゆえにそこで施された洗礼、そこで祝われ与る聖餐は真の聖礼典たりうるのですし、つまり、主日礼拝式において真のキリストの臨在のもとに捧げる礼拝式に与っていることが体得、されることができるし、確信することができるのであります。中会という交わりから切断されたところで、私共は基本的にキリストの教会たる実質を失わざるを得ないのであります。つまり、事柄は、教会の生命線にかかっているのであります。それほどのものが中会なのであります。「中会」は中会会議においてその姿を明らかにする事は言うまでもありませんが、その本質は会議ではありません。中会は教会なのであります。このあたりのことは、短い時間で筋道をたてて語ることは私の能力ではかないませんし、本来、加入の際に論文を書くことが求められていたのですが、筆記試験にかわってしまいましたので、私もこの作業をい未だしておりせんので、私の残された宿題であります。しかし、私の観るところ、中部中会はこの意識においてなお未成熟ではなかったのか、あるいは、この認識を貫く勇気、志にかけていたのではなったのかという気持ちが極めて強いのであります。それは、私共の加入に際しましても、土壇場になって、私は加入を白紙撤回して、改めて考え直すことも大切ではないかと、教会員と同時に、係わってくださった中会の教師方に申したことがあります。それは、加入を志す私共岩の上教会、もっと言えば牧師である私が一人必死になって、何とかして教会を改革長老教会としての実質をえるらめに教理の教育の重要性を譲らず教会形成を目指し、加入に向かっている、それを、外側から応援してくださることは分かりますが、むしろ、加入まで教理の指導などを中会の教師を中心に中会側が主導してするべきではないのかという大きな主張があったからなのであります。それが、加入する教会にとって、実際に「中会なくして教会なし」という理念を肌身で感じる絶好のチャンスではなかったかという思いだったのであります。この件も、これ時間がありませんからこれ以上触れることはできません。つまり、真の教会形成、私共で申しますと改革長老教会の形成は各個教会の牧師と長老の指導だけでは不可能なのであります。つまり、小会だけでは、各個教会だけの努力、それがどれほど熱心なものであったとしても改革長老教会は建たないのであります。それを信じ合っているのが所謂中会主義、長老教会の長老教会たる所以なのであります。
 
ですから、そこで問われることは、お互いの教会が中会の中の諸教会とどれほど交わりを深める努力をしているかであります。中会といっても、広い範囲に教会が遣わされておりますから、具体的には地域の、近隣の教会の事であります。お互いの教会の課題をどれほど、教師、長老が心を配っているか、それが問われるのであります。この所で失敗するならば、中会主義は形だけのことでそこに与えられている豊かな祝福、賜物は画に描いた餅になってしまうのではないでしょうか。私は、各個教会の固有な課題を担うのは、どこまでも当該教会の小会であることを信じます。しかし、もしも、その教会が孤立しているのであれば、もしも、牧師に問題があったり、長老に問題があったりしてその教会をキリストの支配に服させることが困難であれば、その教会はそれだけで、克服の筋道を失うのではないでしょうか。ぎりぎりまで、牧師か、あるいは長老が忍耐してどうすることもできないところで、それが爆発してしまう、そうなってからでは遅すぎるのであります。
 
私共は、昨年名古屋教会と合同の修養会を行いました。そして、遂に今年は4月30日に、名古屋教会、八事教会、豊明伝道所、そして私共の四つの教会が合同の半日研修会を行います。これは、私の祈り、加入以前に、おこがましいですが中会形成と岩の上教会の形成とは一つのことという考えが、実を結びつつあるということであります。実に、同じ信仰告白と同じ政治規準を持つ教会だからこそ、このような企てが実現できるのであります。これは他の教会教団ではできないのであります。中の良い牧師、気心のしれている牧師の教会ならできるかもしれません。しかし、私共は教会の根本の課題、教理の学び、政治の学びを共に学び会うことが、日本基督改革派教会に連なる教会ならどの教会とも成すことが出来るのであります。これは他の教会では考えることもできない、想像もできない祝福なのであります。このような、相互の信仰の研鑽をうける交わりを築くことが中会形成のそして、それに連なる各個教会の真実な教会形成そのものとなるのであります。
  そのときには、他の牧師にも自分の会員や教会の問題を、ともに担いあって頂けることがあるかもしれません。長老の賜物が各個教会だけではなく他の教会でも用いられる道も開かれるかもしれません。そうなりますと、足し算式ではなく掛け算的に神の祝福、賜物は中会の諸教会の降り注ぐのではないでしょうか。
 
さて、最後に、伝道のことについて一言だけ触れて終わります。本当は、この事を中心に語ることのほうが、最も緊急のことかもしてません。改革長老教会はキリストの支配を確立する上で唯一とは申しませんが最善の聖書的あり方であります。しかし、もう一つの事も決して忘れてはなりません。それは、改革長老教会だからこそ、正しい福音の伝道を最も効果的に担うことの出来る制度であるという事であります。伝道の協力であります。特に、伝道所を支援する事であります。これは、勇気をもってもうしますが、私共は単立で開拓伝道を開始してこの四月で第七年目を迎えます。今年度教会は2001年12月までに教会堂建築に着手させて下さいと、祈りの叫びを上げております。この名古屋での開拓は生易しいものではありません。何よりも、私共は人集めの伝道をするわけではありません。真の教会の形成のための伝道に全力を注ぐのであります。目に見える、実りは少ないのは承知の上で、しかし、死んでも譲れない福音の真理があるのであります。そのためには皆様の祈りがどうしても、必要であります。名古屋にもう一つの日本基督改革派教会が誕生するために、そしてその教会がやがてさらに教会を生み出し、他の教会の支援をする事の出来る教会とさへ育つために、今の開拓の時期がとても大切なのであります。全ての業には時があります。私は、この時は、神の時であると信じております。摂理のなかで、実に中会の40周年記念の年に私共の加入が導かれました。私共はそのような記念すべき年であったことなど知る由もありません。おそらく、皆様も、このような年に、改革長老教会の形成をはるかにめざして自給開拓、孤軍奮闘して闘っている教会があることをご存知なかったと思います。全ては教会の頭、主イエス・キリストの意志であります。どうぞ、今後とも、岩の上伝道所の開拓のためにお祈りください。ビルの3階を借りて、礼拝を捧げるまことに小さな群れであります。皆様の祈りがどれだけ励ましになるでしょうか。 本日は、皆様にお目に掛かれただけでも、大きな励みであります。信徒である長老の献身の姿勢を見せられて発奮しない牧師はおりません。私もなお、この岩の上伝道所が名実共に日本基督改革派教会としての内実を備えるために、微力を注ぎたく願います。どうぞ、小さき者をお覚えくださり、お祈りのうちに加えて頂きたく心からお願い申し上げます。