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「日本キリスト改革派教会の創立と日本における福音主義教会形成の課題について」

「日本キリスト改革派教会の創立と
          日本における福音主義教会形成の課題について」

               2003年11月8日
福音主義神学会中部部会秋季研究発表 

 日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 牧師 相馬伸郎

第1節 日本における初期福音主義キリスト教の性格
  第1項 福音同盟会─ p 2
  第2項 合同運動── p 6
第2節 日本基督教団の成立 p 8
第3節 日本基督改革派教会の創立  
  第1項 改革派神学運動 p19
  第2項 創立宣言─── p24

はじめに
 予定されていた発表者の事情により、依頼を受け、責任上お受けしただけで、きちんとした学術的な発表の呈をなさないことをご了解されたい。 
拙稿は、1998年5月、筆者が、94年4月に開拓伝道をした教会と共に日本キリスト改革派教会中部中会に加入するために、要求された試験論文の一つ、「日本基督改革派教会創立の歴史的事情と私の加入の動機について」から抜粋、かつ全体の三分の一に編集したものである。なお、脚注等は全体の三分の一を占めるが、印刷の便のため割愛した。

       第一節 日本における初期福音主義キリスト教の性格

 本節は、この福音主義諸教会の宣教によって生み出された日本の教会の原点、即ち、日本における初期福音主義教会とはいかなる性格を有するものであったのかを考察する。

  第一項 初期福音主義教会の原点としての福音同盟会

 福音主義教会は、17-18世紀において正統主義教会としての固定化が進む。これに対して、敬虔主義運動が起こり、この運動は後期にはリヴァイバリズム〔信仰復興運動〕という形を取る。英国におけるメソジスト運動であり、米国の大覚醒運動である。また、このリヴァイバリズムは19世紀に入り、教会史始まって以来の宣教の結実を見るのである。使徒たちは、1世紀中に当時における世界の果て、地中海沿岸周辺まで宣教を展開した。しかし、19世紀リヴァイバリズムは、アジア、アフリカ、中南米へとまさに世界大の宣教活動を生み出したのである。
 そしてまさにこの世界宣教活動を推進する諸教会、諸教派の共同戦線として成立したのが、福音同盟会(The Evangelical Alliance)である。同会は1846年8月19日から9月2日にかけ、ロンドンにおいて創立大会を開催した。集まった者922名、そのうち教職は624名、信徒298名であった。出席者は、当時の欧米福音主義諸教派のほぼ大部分を網羅していた。この会の結成に大きな役割を果たした人物は、スコットランドのチャ-マ-ズ、ドイツのト-ルック、フランスのモノ-などである。彼らはそれぞれの国にあって有力な福音主義的指導者であり、信仰復興運動を支持していた。とりわけ、チャ-マ-ズとモノ-は自由教会の指導者であった。(ⅰ)
 この会の結成の歴史的な要因として、幾つかの信仰的対決の姿勢を福音主義教会内で強いられる運動が起こっていた事が指摘されよう。それは、オックスフォ-ド運動とユニテリアン主義である。前者は英国教会内における典礼強調運動であり、17世紀の高教会派の理念の回復を目指したものであった。後者は、特に米国における福音主義教会における脅威であった。なぜなら、彼らは正統主義的信仰即ち、三位一体論、二性一人格論を否定する主張をしたからである。(ⅱ)
 そしてまさに、我々の福音主義キリスト教はこの福音同盟会にかかわりを持つ諸宣教師たちによってもたらされたものに他ならないのである。例えばその具体的な一例を挙げるならば、日本に於ける最初の福音主義教会である横浜公会が出発するきっかけとなる初週祈祷会は、福音同盟会が生み出して世界に広めたものである。(ⅲ)
それではこの会の福音主義とはどの様な性格を持っていたのであろうか。その9つからなる教理基準(Doctorinal basis )を、前掲、中村の論文より引用する。  

Ⅰ【聖書は、神の霊感によってなったものであり、権威と十全性を有すること】
  福音主義教会は神の不可謬(1nfalliable )な言葉である聖書を除いては、いかなる他の権威も持たないことを確認した。

Ⅱ【聖書の解釈においては、各自に判断の権利ならびに責任が委ねられていること】
   この条項はロ-マ教会に対して、聖書の個人の解釈権こそ福音主義を理解する鍵との理解。この条項がその後の福音派諸教会に及ぼした「害毒」は計り知れないものがあろう。教皇による解釈の絶対性を否認した、福音主義教会の中からその後、教会的即ち信条を規範にして解釈すべきことへの不可欠性まで放棄してしまう教派がでた。(non creedal church)。それがⅠの主張、規定する規範(norma normans)正典のみを認めて、規定される規範(norma normata) としての信条の位置、拘束力を否定した。そこにこそ、この規準、同盟会の落とし穴があり、致命的な欠陥を我々は指摘しなければならない。(ここで40周年宣言「聖書について」の〔個人解釈権〕の問題性を指摘しなければならないが第一論文で触れることとする。)

Ⅲ【神は唯一にして、かつ三つの位格を有しておられること】
ニカイア信条の線に立ってユニテリアニズムを排除。

Ⅳ【堕落の結果としての人間性の全的堕落を信ずべきこと】
改革派的信仰告白の線に立ってペラギウス的(神人協力説)立場の排除。

Ⅴ【神の御子が肉体を取って人となり、人類の罪を贖い、かつ仲保者としてとりなし統治されること】
カルケドン信条の線に立ち、さらに改革派的信仰告白の線に立ってキリストの三職(預言者・祭司・王)を強調。

Ⅵ【罪人は、ただ信仰によってのみ義とされること】
ルタ-以来の宗教改革の根本原理の強調。

Ⅶ【罪人の回心と聖化における聖霊の働きを信ずべきこと】

Ⅷ【霊魂の不滅、肉体の復活、義人を永遠の祝福に、悪人を永遠の裁きに至らせる主キリストによる審判を信ずべきこと】

Ⅸ【教職制度は神が定めた秩序であること、また、洗礼と聖餐は永久に守られるべきこと。】
    制度的教会を否定する、クエ-カ-教徒、プリマス・プレズレン教徒等の排除。

 この教理規準は、基本信条と、宗教改革者達の大まかな信仰告白の継承である。信仰の内容としては、極めて、福音主義的と言いうるものである。
 しかし、ここで注意すべきは、福音同盟会の目的についてである。この会は、一つの全体教会、エキュメニカル教会、即ち諸教派の組織的合同を企てるものではなく、それぞれの教派に属する個人が、固有な信条に干渉することなく、相互間の協力と一致を推進し、それぞれの教理、礼拝、教会政治の多様性を保持しつつ一致を深めるという目的を持つものであった。(ⅱ)即ち、教会形成、教団形成を志向する運動ではなく宣教の協力体制を目指すという性格を有するのである。それ故に、この大会はいかなる意味においても、この教理基準が信仰告白や信条とみなされるべきではないことを明確に宣言しているのである。このような判断を下すことが出来た事の中に、この会が神学を重視する体質よりも、あるいは伝統、制度を重んじるよりも、体験、あるいは伝道、生活を重んじる体質を見て取ることが出来る。
実は、このような体質がまさに、日本の福音主義教会最古の横浜公会(現在の日本キリスト教会横浜海岸教会)に移入されたのである。公会は信条として福音同盟会の教理規準をそのまま採用した。まさに超教派主義あるいは無教派主義の教会史上特異ともいえる型のキリスト教福音主義が日本の福音主義教会の精神的伝統とも言い得る。
この事は、横浜公会出身の植村正久が、日本基督一致教会(改革長老系の三つの宣教団体と日本基督公会によって成立)の解消に対して、ドルト信仰規準、ウエストミンスター信仰告白、ハイデルベルク大小教理問答の詳細な信条から解放されたことを喜んだ逸話からもうかがい知れる。(ⅰ)そしてこの体質こそが、後の日本基督教団の成立を可能にし、いまもなお基本的には日本の福音主義教会全体にこの体質は保たれて行くのである。佐藤敏夫はその論の中で、熊野義孝を引き合いにして「根底にあるものは一つの伝統にとらわれない自由さであり、結局、福音主義的な立場に立っていた。しかも、この自由さ は、信条主義のような固陋さがない代わりに、ある危なさも持つものであるが、それはのびやかな発展性を保証するものである。その意味で、信条主義的でない東京神学大学は、信条や伝統を重んじ、時に応じて改革派、長老派、ルタ-派、高教会派に揺れ動きながら、その中でバランスを失わず前進してゆくのである。」と言う。(ⅱ)日本基督教団立の神学大学の信条主義的でない体質も又、福音同盟会からのものであると言って良いであろう。そして、我々は、この体質が多様な伝道活動、社会活動、文化活動へと諸教派、教会が協力しあって全くの未伝地であった日本への一定のキリスト教の感化を及ぼし得たと言う積極面を評価する事は不可能ではない。しかし、この体質こそが、なお続く教会的混乱、教会的実質の「崩壊」(ⅲ)を克服することの出来ない体質となっている事をこそ厳しく問わねばならない。このような、教会形成の視点を抜きにしたキリスト教理解では地上に「使徒的公同的教会」を形成する事は不可能である。(ⅳ)地上に福音が実を結び、その姿が明らかにされたものがキリストの教会にほかならない。教会形成の視点なき福音伝道は、文化運動、文化活動たりうるが、聖書的なそして歴史的な筋道から遠く離れて行かざるをえない。教会形成の視点なき福音伝道は、福音そのものから逸脱していると言うべきなのである。
  このように、日本の福音主義教会の精神的伝統には「単純な聖書主義、無教派主義、リヴァイバリズムの精神的土台として、福音同盟会の影響」(ⅴ)を、見ることが出来るのである。福音同盟会こそが、日本の福音主義教会の母なのである。これは単に、日本基督公会(1872-77 )→日本基督一致教会(77-90) →日本基督教会(90-1941) とつながる主流派(main line )に置いてのみ該当することではない。当時の組合教会、メソジスト教会にもこの精神は影響を及ぼしていたと考えられる。戦後宣教団体によって起こされた「福音派」諸教会も、この会の影響を色濃く受けている。(ⅵ)   8

            第二項 初期福音主義教会の合同運動

 上述の通り、福音同盟会は諸教派の組織的合同を企てるものではなかった。しかし、日本にあってはこの運動が初期の教会合同運動において重要な役割を果たしているのである。(ⅰ)以下二つの初期福音主義教会の教会合同運動を考察する。

 a,1874年の教会合同運動 
 1874年に関東の二公会と関西の二公会に合同運動が起こる。横浜と東京の公会は1872年、73年に創立されそれぞれに無教派主義(公会主義)を唱えていたが、教会政治と言う点では長老主義的要素を持っていた。なぜなら、長老教会とオランダ改革教会の宣教師たちがこれらの教会を指導していたからである。これに対して、神戸と大阪にアメリカンボ-ドの宣教師たちによって設立された二教会は、一応関東の二教会と同一の名称、信条を採用したが、必然的に教会政治は会衆派的要素を持っていた。(ⅱ)
この二つの流れは、それぞれの教会の信仰箇条であり、計画された教会合同の際の共通 の信条として期待されていた。しかし、結論的には失敗に終わり、関東の二公会は日本 基督一致教会(改革派と長老派の合同)、関西は日本組合基督教会として、それぞれが教派形成を目指して行く事となる。
 b,1886年の教会合同運動
1880年代は鹿鳴館時代にあたり、教勢は大躍進を遂げる。当時の基督者数の三分の二以上を、一致教会と組合教会が占め、この時期に再び合同運動を展開した。1886年「日本基督教会(仮称)設立趣意書」が全国の両教派に属する教会に送られた。それによれば、伝道の好機を迎えた日本の教会が協力して福音を宣べ伝えるために、教派による分裂や競争がもたらす弊害を未然に防ぎ、教会の一致連合をはかるべきであると言うものでありここでも信仰規準は、福音同盟のものを提案している。(ⅲ)
  しかし、これも又、失敗に終わっている。この失敗の原因の一つは教会政治の不一致、 とりわけ会衆主義政治を取る立場にとって、一つの制度としての一致教会、教団を形成することは極めて困難であるという事であり、さらにそのミッションボ-ドよりの援助による運営に支えられる比率も会衆派教会により大きかったのであろう。合同に失敗した日本基督一致教会は厳密な改革長老教会から、幅広い合同を受容できる日本基督教会へとここで、大きく姿を変えることとなる。(1890)

 以上、我々日本の福音主義教会が、その最初から公会主義、無教派主義の影響を受け、日本人自らも積極的にこの立場を保とうとした事が明らかにされた。
 しかし、残念ながら、この公会主義(ⅳ)は、神学的教会理解というよりも、実践的、伝道の戦略的な目的が前面にあったものである。それゆえに、教会形成としての実を結ぶ事は不可能であったのである。教会は、制度としての確立、信仰告白によって規範される信条を整備し、その告白における一致と又、その告白を、具体的、現実的教会形成に生かすための政治制度の一致にまで至らなければ、真実の各個教会もひいては、真実の合同教会なり、教団なりは形成不可能となるであろう。(ⅰ)
 ちなみに、1905年に組織された東洋宣教会(ホーリネス教会)は急速に成長してゆくが、この会の一致の絆は信条的一致ではなく、言わば心情的一致、監督者であった中田重治のカリスマ的権威であった。それ故に1930年代に四分五裂したのである。(ⅱ)

 さて、我々は、「福音同盟会こそが、日本の福音主義教会の母なのである。」と確認した。我々の日本の最初の教会が、所謂、公会主義(ⅲ)を目指して成立した、ここにこそ我々の教会形成の課題の一切があるのである。確かに、宣教の処女地である日本に、諸教派が一斉に伝道を開始したのでは伝道される側には、大きな戸惑いを与えることとなることが予想される。しかも、宣教の内容はかの「9か条」で福音主義教会の信仰的エッセンスがあり、極めて福音的なものであり、正統的な福音理解と言い得る。その意味では、この在り方を現今のエキュメニカル運動の先駆けとして評価することも出来ないことではない。しかし、公同的教会の形成の為の信条や、教職制度、言わばformの面での価値認識が薄い、若しくは理解が欠落しているのである。それは、福音同盟会が生まれた神学的、教理史的背景の故であり、それに加えて彼らがどこまでも、「キリスト教社会(コルプス・クリスチアヌム)」から派遣された宣教師であり、「初めに制度的教会ありき」、という状況で生まれ育った人々であるということも無視できないであろう。しかしながら、「歴史的教会の形成は単なる無教派原理では不十分であり、また無伝統の簡易信条では、この任に堪えない。」(ⅳ)とする事は明々白々である。「日本のキリスト教会はかくして、教会的組織、制度、信仰、訓練に弱く、歴史的現実を重んじることを学ばなかった。~そこで教会とは何か、そのあり方に関して何の研究も、努力もなされず、ただ形態の上での拡大発展のみを図って、内容に関しては、まとまった見解さえも成立せず、法的な概念規定さえ考えないくらいである。」(ⅳ)と言う石原謙の言葉を現代(ⅴ)もまた同じ様に警告として聞かなければならないのが実情なのである。

             第二節 日本基督教団の成立 
 日本基督教団の成立は、日本の教会史における最大の事件の一つであろう。この教会は1941年6月に成立した。そして現在もなお、存続し、日本の教団中最大規模の教団(教派)である。(ⅰ)「キリスト教年鑑1991年版」による同教団の沿革の説明にこうある。「1859(安政6)年に来日したヘボン・ブラウン・フルベッキ等の宣教師は、海外における教派の弊をわが国に伝えることを欲せず、無教派的教会の設立に尽力した。
したがって明治初年における教会は皆、「公会」といわれた。しかし、海外から各派の宣教師が多数渡来するようになってからは、この努力も長く維持することができず、各種の教派の教会が全国各地に移植されるようになり、近年に至るまで教派分立時代が続いた。」
この教団が、ここにも端的に明らかにしているのは、「教派の弊」という根本的認識である。「無教派的教会」こそが、日本の最初期の教会(公会)であり、これを理想化していることが窺い知れる。その意味で、「近年に至るまで教派分立時代が続いた。」との表現の中には、日本基督教団の成立によって教派の弊が打破され、理想の無教派的教会が現出したという理解が込められていると言って良いであろう。
 しかし、上述の通り、無教派的教会を理想とすることは歴史的キリスト教の歩みから見ても、歴史的教会の形態の必然性から言っても、全く根拠のない言わば、素朴な素人の空言でしかない。確かに、自己の教派のみが唯一のキリストの教会であり、この教会に属さなければ、救いに至ることは出来ないと自称する「教派主義」は、荒唐無稽な議論であろう。地上のいかなる教会もなお完成した教会ではなく、途上の教会であり、勝利の教会ではなく、戦闘の教会である。特定の地上の目に見える教会をもって、即、使徒的公同的教会であるとすることは許されないのである。むしろ、そのような主張こそが自らの非聖書
的、異端性を暴露するものと言うべきであろう。そこまで行かなくても、自らの教会、教派の成長をのみ考える教会の在り方は、ヨハネによる福音書第17章20節以下の「全ての人を一つにしてください。」との主イエスの祈りを裏切り、無視する事であり、厳しく斥けられねばならないことも確認すべき点である。しかし、歴史的教会がその形態を獲得するための筋道は教派形成以外にはありえないのである。「故意」からではなく、上記の認識を持つとするなら、それは余りにもお粗末な、幼稚な教会理解と断ぜざるをえない。
むしろ自教団の正当性、正統性を根拠づけるために恣意的に、例えば「キリスト教が各宗派に別れ相争うようであっては情けない・・・」と言う、言わば一般常識的な判断に訴える手法を取ったのではないかと、勘繰りたくもなる。実際筆者は、日本基督教団の教会で洗礼を施され「信徒手帳」の沿革を読み、教団こそ、正統的な教会であると受洗当初は考えていた。それは、他派はバラバラに分裂して、セクトのようであると考えたからに他ならなかった。
 なお、同沿革をして語らしめる事とする。「1923(大正12)年、日本基督教連盟が組織されると教会合同の議が諸方から提唱されるようになり、同連盟主唱のもとに教会合同の研究が熱心に行われはじめた。しかも、この実現は容易な仕事ではなかったが、1939(昭和14)年宗教団体法の実施された頃から、教会合同の必要が切実に感ぜられ、その機運が日とともに熟してきた。1940(昭和15)年に入るとキリスト教に対する官憲の圧迫が露骨になり、教会の情勢は日々緊張を加えてきた。同年8月には、各派代表者の間に教会合同の懇談が重ねられるようになり、その結果、同年10月17日には
紀元二千六百年奉祝全国基督教信徒大会において、国内全教会合同の決意を表明、その翌日には各教派の代表者による合同準備委員会が組織されて、日本基督教団結成の準備が進められた。1941(昭和16)年6月24・5両日、創立総会が開かれ、30有余の教派を網羅する日本基督教団が成立した。同年11月25日の文部大臣の認可により、国家の『公認』する宗教となった。」
 この文章に明らかなのは、日本基督教団の成立は「日本基督教連盟」(ⅰ)の組織による教会合同運動にその原因を確定している事である。しかし、実際は「宗教団体法」の網をかぶせられ国家的戦争協力体制に組み込まれた結果なのである。国家が戦争遂行のためなりふり構わずに信教の自由を弾圧するための天下の悪法に教会が屈したのである。(ⅱ)
 当時の日本のキリスト教会がどれほど厳しい精神的圧迫を受けていたかは想像に難くない。筆者のような戦後の人間に当時の教会指導者並びにキリスト者たちを他人事のように批判することは許されないことは勿論のことである。しかし、「紀元二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」とあるように、天皇による日本の統治を奉祝する事をもって、キリスト教信仰を日本に認知してもらい、「文部大臣の認可により、国家の『公認』する宗教となった」事を、喜んだ厳然たる事実がある。その在り方を徹底的に批判することなくして、この日本に真の教会、キリストの主権に服する会を形成する事は考えられないのである。
 
何故、日本の諸教会は日本基督教団の成立を許したのであろうか。それは何よりも、信仰告白の一致によってのみ、教会は一致を確立し、形成の土台を据えることが出来るとの上述の理解を「公会主義」によって損なわれ、真実の教会形成的な神学的営為を積み重ねる努力を怠ったからである。それゆえにまた日本の教会は容易に時代や国家に流され、利用され、或いは結託さへするのである。教会の国家よりの「自立」と「自律」の原理を確立しない所に、教会の対社会的使命を担うことは不可能なのである。
この意味で、この時点で日本に歴史的形態を獲得した教会は、なお未成立であったと断ぜざるをえないのである。(ⅰ)
 このような成立の経過を辿った日本基督教団は、戦後続々と多くの教会、教派の離脱を見ることとなる。その中には、純粋に神学的理由で日本基督教団に在ることを拒否もしくは批判して出た教会は例外的であった。多くは、旧教派の再興を目指してのものか、外国ミッションとの関係上教団に留まることが得策でないと判断した保守的教会であった。しかし、教団は今日なお、合同教会として存続している。それは、基本的に諸教派の合同教会たる在り方、その意義を積極的に認めているか、少なくとも否定していないということであろう。摂理の視点から捉える者も多い。
 しかしながら、我々は日本基督教団のこの在り方を認めることは出来ない。幾つかの理由がある。教団は様々な試行錯誤ののちに遂に1954年、日本基督教団信仰告白を作成したのであるが、これには「拘束性・規範性」が認められてはいないのである。日本基督教団信仰告白はその所属教会に「奉じ」られなければならないのであることは憲法上明確化されている。しかし、「奉じ」るとはきわめて曖昧な表現である。これは教団内にある、全体教会の定める信仰告白を認めないという立場を持つ、旧組合教会・バプテスト教会
からの猛烈な反発による窮余の作であるからである。信仰告白が教会形成の機能を果たすために不可欠なのは、一にその「拘束性・規範性」を認めるか否かにかかっているのである。確かに、この告白は福音主義信仰の内実を持った優れた告白である。1890年の旧日本基督教会信仰告白の線に立った告白と評価することができるものである。しかし我々の根本的な批判は、このような簡易信条で果して歴史的教会形成が可能であるかという議論以前の問題、即ち信仰告白の意義についての無理解にあるのである。
 さらに付言すれば、その「教憲」前文には、冒頭「公同教会」を定義し、1941年「御霊の給う一致によっておのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った。かくして成立したのが日本基督教団である。」と言い表す。第1条も、「本教団はイエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって・・・」と宣言する。しかし、この文章は意味が通じるのであろうか。即ち、自らの地上の教会を公同教会として同定、断定する事は、果して神学的に可能なのであろうか。しかも、客観的に見ればなお形式的合同を遂げたにすぎない教団をもって、御霊の給う一致によって公同教会の交わりに入る
に至ったと自称すること、合同教会即公同教会という図式を持つ事はおよそ、教会的発言、神学的議論とは見なせないものである。正確に言えば前者は「合同教会の交わりに入るに至った。」であろうし、後者は「公同教会に連なる教会であって・・・」とすべきではないか。
 さらには、憲法第4条において、教会政治として「会議制」によりその政治を行う、とある。ここでも、およそ、歴史的教会が知らなかった教会政治の形態が現れる。「会議制」とは一体何か、およそ、近代社会は議会権能をもって構築される事を旨としている。民主主義政治は会議によって成立するのである。しかし、歴史的教会の政治はその会議をどの様な制度によって確立したのかによって、即ち教会政治の形態によって教派の違いをも明確にすることとなる。司教政治、長老政治、会衆政治の三つの政治のいずれか、若しくはその複合的な在り方を模索する教会もなおあるであろう。いずれにしても、どのような教会政治の筋道を確立するかによってその教会の有り様が現れ、教会の自己理解が明らかにされることとなるのである。しかし、「会議制」と明文化した時、それは何かを語ったというよりも、何も語っていないことにならないだろうか。むしろ自分たちの教会はキリストの主権を明らかにする制度を確立していないし、それを求めてもいないと言っていることになるのではないだろうか。会議をどの様に行うのかと言うことは、即ち教会的権能、権威を明確にすることに他ならないのである。教会の権威は赦罪の権威である。罪の赦しが教会の絶対的な権威なのである。その、権威を確立する筋道としての職務制度、教会政治が揺らぐならば、福音的な権威もまた揺らいでしまわざるをえないのである。この確立を怠ったままで、たといどれほどの人間的誠実を持って教会に仕えたとしても、教会の権威を担う事は不可能である。何故なら、教会の権威は神にのみ由来するのであり、神の理(教理)の筋道を踏み外した所に、神の教会があり得る筈はないからである。人間側の都合で、神の教会を形成しようとすることはおよそ無謀な企みと言わざるをえない。
 教会は福音の宣教に専心すべき事は論を待たない。しかし、いかに教会がその伝えるべき福音の内容の中心、即ちキリストによる罪の赦しを正しく伝えたとしても、それを保証すべき教会が観念的なものに止まっているのであれば、罪の赦しの確かさもまた観念的、主観的なものとならざるをえないのである。上述の如く、日本の教会には制度・教理への無関心或いは軽視がある。聖書があれば、教会は立つと考えるのである。「聖書主義的」な体質があるのである。聖書と聖霊さえあれば教会は成立すると考えるのである。しかし、それはほとんど不可能である。何故教会が聖書を正典としたのか、次章で触れる事となるが、ここでのかかわりで言えば、権威の所在を明確化する為である。その権威とは赦罪の権威に他ならない。赦罪の権威を確立するために、古代教会は司教制度、教会の権威の確立を要請したのである。教会政治の乱れは、単に人間的な道義の乱れではなく、霊的な乱れなのである。それだけに、教会の生命線であると言って決して過言ではない。(ⅱ)
 
 さて本節を終えるにあたり、我々は現在の日本基督教団の成立とその混乱を傍観者的に、宗教団体法でなされたゆえの神の理にかなわない仕方での当然の結果であると見なして済ませてはなるまい。我々の共通の課題である、公同の教会の形成と祖国日本の救いのためにはこの教団を視野に入れないことは教派主義者との誹りを甘んじなければなるまい。教団が戦後何故、一気に解体せずに今日のように残ってあるかは様々な要因があり、その筆頭となる要因は上述のとおりである。しかしそれだけではなく、例えば戦後エイトミッション(ⅰ)など海外からの財的支援が日本基督教団を窓口にして成されたことなどは現実的なしかも重要な意味を持つ。この事は残った人々だけの問題ではなく、旧教派へと復帰した多くの教団教派もまたミッションとの協力関係を復帰するためであったのである。しかしながら加えてもう一つの要因は、旧教派、教団の在り方り、日本基督教団の在り方のほうが牧師、信徒にとって居心地がよかったからではないだろうか。このような、「居心地」という主観的な事柄は歴史研究、論文の対象にならないかもしれない。しかし、筆者はかつて旧メソジスト教会の教職・信徒の少なからずが、旧メソジスト教会の監督主義の在り方に不満を持っていたので「ほっと」して教団成立を歓迎したのだとの「話」を第三者から聞いたことがある。これは十分に想像できるのではないだろうか。すなわち、ある種の息苦しさからの解放があったのであろう。筆者は、ミッション協力の「うま味」以上にこちらの方に留まる要因が強かったのではないかと推測している。
 教団にはその他「ホーリネス教会」「福音教会」「救世軍」なども残った。資料に当たるいとまはなかったが、それぞれの教派は教会形成の筋道を重んじていない旧教派、教会の在り方より日本基督教団の憲法、規則、会議による運営などに魅力を覚えたのではないだろうか。その意味で、そのような旧教派の行き方よりまだ教団の行き方が健全であるとの判断が働いたのではないだろうか。これは、なかなか文書に残らないので研究対象にはならなかったが、むしろ、とても大切な研究課題であるかと思う。
 何故そのようなことを結びで言うかと言えば、教団には取り分け地方においては(都会の教会は大きな教会が多く)、福音に献身し、小さな教会の形成に純粋に一生を捧げた多くの牧師や素朴に福音を生きようと励んだ信徒たちがいるからである。この方々にとって日本基督教団は紛れもなく母なる教会であり、その労力によって、福音宣教は担われ続けているからである。しかし、それだけに、日本基督教団の形成に責任を担うことは苦しみに満ちた在り方を強いられるが、なお、取り組むべき教会の主からの召しで在りつづけるであろう。(ⅱ)
 このように、日本の福音主義教会は宣教開始以来既に、100年以上たったにもかかわらず、「教会形成」はなお教義学的にも実践神学的も、「宿題」として我々の現前にあるのである。しかし、この宿題に最も深刻に、最も真実に、最も早く着手した少数の先達がいた。彼らこそ、日本基督改革派教会の創立者達である。そして遅れる事5年、日本基督教会もまた着手し始めたと言えよう。しかしながら、なお、日本の教会全体から見れば、ごく一部分なのである。              

            第四節 日本基督改革派教会の創立

第一項 改革派神学運動 
およそいかなる教会、教団も、歴史的母体を有さないものはない。神学的に見ればあってはならないことであろう。歴史的に見れば、あり得ることであるがそこでも、自らの信仰、あるいは伝統を歴史的教会の信仰と伝統とにどのように切り結ぶことが出来るのか、その弁証が成せないものは、その新教会、教団は「異端的」との誹りに甘んじなければなるまい。日本基督改革派教会信仰規準の前文の中には、「改革派教会」の名称の由来を説明する一文がある。(ⅰ)創立者たちが、歴史的正統的教会の設立をどれほど憧れ、又、自らの責任として痛感していたのかは、創立に至るまでに実に敗戦後僅か八ケ月を要しただけであることにも自明である。
 それなら、日本基督改革派教会はどこから生まれ出たのであろうか。創立者たちの多くが旧日本基督教会の教師たちであったことから、この教会が旧日本基督教会を母体として持っていたことは異論の余地がない。
 彼らは、旧日本基督教会が「十五年戦争」から「太平洋戦争」へと進み行くなかでその簡易信条と緩やかな長老政治によってますます、教会としての実質が不明瞭になってゆくことに対する危惧を深めて行った。そのような、教会認識を育てた背景には、彼らの教会論の成熟があった。それを養い育てたのが「改革派神学運動」(ⅱ)に他ならない。   
しかしながら、小さなしかも若い牧師たちのこの運動が、大所帯の旧日本基督教会の取り分け指導層を動かすことが出来なかったことと、しかし何よりも、戦争とそれにともなう教会合同運動の前に、実を結ぶ事ができずに終わった。
 彼らの神学的な視野の確かさをもっとも良く明らかにする事となって事件は、旧日本基督教会第五十四回定期大会における教会合同への条件整備の議論にあるであろう。大会に提出された議案の中に次の事項がある。
「第三項
  イ、教派合同はプロテスタント諸教派のすべてを包括するよう努力すべきこと。
  ロ、機構は宗教団体法の許す範囲において会議制度を取るべきこと。
  ハ、信仰告白は使徒信条にプロテスタントの立場を明白にする一文を付加すること。」
 彼らは修正案を提出して、無原則に転落する教会の現実をくい止めようと立ち上がった。「この修正案の生命というべき部分は、『第三項 ハ』の修正である。 
二、福音主義
プロテスタンティズムの真髄たる聖書の規範性、救の恩寵性、教会の自律性を骨子とせる告白文と使徒信条とをもって信仰告白となすこと。」(ⅰ)とあるように、この修正案の中の「聖書の規範性、救の恩寵性、教会の自律性」こそ、後の日本基督改革派教会創立、形成期において教会に重要な骨格を与えた自己理解であった。この三つはことさら、改革・長老教会の主張を盛ったものではなく、近代以降の福音主義教会であれば、共通の理解である。当時の旧日本基督教会内における、戦いの支点をここに求めたことは、有効な橋頭堡を据えることであり、判断の確かさを評価できる。(ⅱ)
 この神学運動は挫折を余儀なくされたが、この神学的営為がやがて直ぐに、日本基督改革派教会の創立と言う日本教会史上画期的な出来事を呼び起こす為に用いられる事となる。日本基督改革派教会創立宣言や、日本基督改革派教会信仰規準の前文を読めば、この改革派神学運動の確かな実力は明らかである。改革派教会は一朝一夕にしてなるものではない。そのための神学的準備、周到な手続きが求められよう。日本基督改革派教会の創立もまた、好機到来とばかりに離脱し、組織形成出来るものでは決してない。しかし、わずか敗戦後一年以内に創立大会が開催され、日本基督改革派教会信仰規準の前文が起草され、
その後一ヵ月足らずのうちに日本基督改革派教会創立宣言が内外に発表された。その教会的神学の厳密さ、そればかりか教会を越えて全宇宙的な広がりを持つ、「有神的人生観・世界観」の主張・・・。神学が教会の学であること、教会形成の学であることを鮮やかに証し出来た事は、殆ど類例のない快挙である。日本には、教義学の分野では熊野義孝と言う巨人がいる。広義の改革教会の伝統の神学者である。日本の改革・長老教会のみならず、日本基督教団の神学的営為に大きな影響を与えた、世界的に通用する独創的神学者である。
(カール・マイケルソンの「キリスト教神学への日本人の貢献」参照)およそ、改革派伝統に生きる者の必読書ではないかと思う。しかし、熊野神学は「教会・教派」形成の実を未だ結んではいないのである。(これは、旧日本基督教会の伝統にある方々の今後の課題かもしれない。)むしろ、独創性はないが教会形成の土台を現実的に、実戦的に整備する神学者、言葉の正しい意味で言えば「真の神学者」の栄誉が帰せられて良いのがこの神学運動の事実上のリーダーたる岡田稔であろう。岡田神学は日本基督改革派教会の形成に神学的基盤を据えたのであり、神学の尤も純粋な最善の機能を果たしえた教会的神学であり、歴史的な評価をその「実り」で明らかにすることもできる希有の日本人神学者である。
しかも、その「神学」の性格から必然であるが、彼の神学は書斎における個人的思索からのみ生み出されたものではなかった。それは、神学運動を担う共同体、言わば神学する共同体によって生み出されたのであった。日本基督改革派教会は歴史的に見れば、旧日本基督教会から生まれたのであるが、神学的に見れば、この神学的共同体によって生み出されたと言ってもよいのである。常葉隆興・松尾武・春名寿章らと岡田稔の四名が「日本基督改革派教会創立宣言」を短時日の内に起草する事が出来た事のうちにも、いかにこの共同体が神学的な確信と志とで結び合わされていたかが例証されている。上述「修正案」も、
創立後すぐに加入を遂げた田中剛二との共同の業であったのである。この創立者たちの神学共同体こそ日本基督改革派教会の真実の母体なのである。
 このような、創立の背景を持つことのなかに改革派教会の性格が鮮やかに映し出されている。即ち、改革派教会は、人間的な好悪、義理人情、親分子分、勢力関係からは生み出すことは出来ない。人間的な能力、人間的な恩義によっては生み出せない教会こそは、神の奇跡、聖霊の恩恵的奇跡によってのみ立つ事を証する教会となりうるのである。神のものなる真の教会として姿を現すこととなるのである。現在の我々の重要な課題の一つは、この神学する共同体の形成に掛かっているのではないか。改革派伝統に生きるとは、このような「交わり」の伝統に生きる事をも意味するからである。

第二項 「日本基督改革派教会創立宣言」

 既述の如く、日本基督改革派教会の創立は画期的な事件であった。それは一言で言えば、日本基督公会以来流れてきた、「無教派路線を克服」し、もう一方の日本基督公会の流れである「改革長老教会の伝統を厳密に」継承する教会の創立であった。その歴史的意義は、日本の教会史上の「メインライン(主流)を成就」した所にあり、神学的意義は、日本人のみの手による初の「歴史的教会の成立」を見たことにある。
 この教会の創立における比類なき点は「日本基督改革派教会創立宣言」を内外に向けて明らかにしたことでもある。この宣言によって、自らの教会とはいかなる教会であるのかを明確に規定して見せたのである。創立の意義、目的を、神学的宣言をもって、公にして見せた教会は類例がない。それ故に、日本基督改革派教会とはどのような教会かを知ろうとする道はこの「日本基督改革派教会創立宣言」を読むことをもってなされれば良いのである。ここには、この教会の形成の意義とそのための道筋とが、確かな視点に立って説き明かされ、又目標とヴィジョンとが、心燃ゆる筆致で歌いあげられている。
 そしてそれは、今後の日本基督改革派教会の形成の指標となり、形成の実質を測る座標軸にもなる。教会の地境を移させない「重し」でもあり、常に改革と形成へと促し、自己批判を招来する「重荷」ともなりうる。我々は、創立者たちが提示した「日本基督改革派教会創立宣言」の狭いけれども安全で確かな道を歩めばよいのである。そのためには、この宣言に学び、改革派の実質を獲得する為に感謝と喜びをもって宣言が描いてみせたヴィジョンを成就するするための献身の訓練と方策の研鑽に励まなければならない。この宣言が日本基督改革派教会に与えられていることをどれほど神に感謝するべきか、それは、行
き悩む諸教会、諸教団、諸教派の現実を見れば一目瞭然のはずである。道を失って解体、崩壊する教会が少なくない教界の現実に目が開かれればその恵みの重さと責任の重さに襟を正さざるをえないはずである。(ⅰ)

 9 a,主張の第一点「有神論的人生観・世界観」
 「日本基督改革派教会創立宣言」はまず、「今後、より良き日本の建設のために我等は誠心誠意歴史を支配し給ふ全能にして至善なる神の御心に適ふ者とならざる可からず。その誠命の如く神を敬ひ、隣人を愛し、単に精神文化的部面に於いてのみならず、『食ふに も飲むにも、何事をなすにも凡て神の栄光を顕す事』を以つて至高の目的となさヾる可からず。此の有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確なる基礎なりとは日本基督改革派教会の主張の第一点にして、我等の熱心此処に在り。」と述べて、「キリスト教有神的人生観・世界観」を称揚する。
 教会の創立の宣言としてはいささか奇異な感じがしないわけではない。何故なら、主張の第二点即ち教会形成論を宣明する事のみが通常のあり方であろうからである。
 それなら、何故このような宣言がなされたのであろうか。それにはまず、時代背景が覚えられねばならない。宣言冒頭に「終戦後既に九ケ月、敗戦祖国」とある。日本基督改革派教会の創立は敗戦の精神的社会的に、混乱と疲弊の極にあったまさにその時になされたのである。その時とは、祖国同胞にとって「生きる」事の意味と目的とが根本的に問い直されたときでもあった。現人神たる絶対天皇制の権威の下に「生きることは天皇陛下のためであり、その為に死ぬことも又名誉である」と教え込まれた日本人が、敗戦を機にどれほど価値観の崩壊の危機に見舞われたことであったろうか。また、それは、日本が占領国米国に促されて、絶対天皇制国家から民主主義国家へ転換することを「種々なる構想と方途によりて計られつヽ」あったその時でもある。教会の社会的使命がまさに問われた時なのである。そして、創立者の燃ゆる確信と自負は、教会こそ、歴史的改革派教会こそ祖国再建の礎石になりうるし、ならねばならないと言うものであったのである。 そして、その確信と自負は「傷ついた」或いは「罪の意識に彩られた」ものでもあったであろう。「今次の大戦に当りては、宗教の自由は甚だしく圧迫せられ、我等の教会も歪められ、真理は大胆に主張せられざりき。我等は之を神の聖前に恥ぢ、国のために憂ひたり。」とあ
る如くである。(ⅰ)
 戦争協力と言う国策によって合同を余儀なくされた日本基督教団からいち早く離脱して、日本基督改革派教会を創立した事こそ、既に悔い改めの表明であり、責任の取り方であったと見る事は誤りではないであろう。しかしその意味で、戦争責任の悔い改めの実を結ぶことは、日本基督改革派教会に生きる全信徒の前に常に提示されている課題である。ついでに言えば、当時これほどの高い志を掲げて歩みだした教会もなかったかと思う。(ⅱ)
 第二の理由、そして最も大切な点は、おそらく旧日本基督教会の行き方、在り方への改革派神学からの批判であったのではないだろうか。旧日本基督教会の良き伝統それは堅実なる教会の形成にある。勿論、社会運動家としての賀川豊彦などを輩出し、社会的な有力な指導層を教会に獲得したのもまた旧日本基督教会であった。組合教会が教会の形成に焦点を絞りきれないままに伝道したことに対して、曲がりなりにも改革長老教会の伝統に与ったことによって教会形成に伝道の焦点を合わせることが出来たのが旧日本基督教会の強みであろう。しかし、その「教会中心主義」が国策に抗う論理を提供することなくむしろ、教会と国家とを二元論的に考える方向性(ⅰ)に導いて、教会形成に破綻したのは何故であったのか。創立者たちはその事をここで明らかにしつつ、日本基督改革派教会がその「教会中心主義」の破綻原因を、「単に精神文化的部面に於いて」の狭い領域に教会論を構築した事によると見たのではないだろうか。この宣言のなかで唯一の御言葉の引用(『食ふにも飲むにも、何事をなすにも凡て神の栄光を顕す事』=コリント前書第十章三十一節)がこの第一主張においてなされていることからも、人間生活の全領域を神の栄光に結び付ける事の重要性へ、不可欠性への並々ならない確信の表明と見て間違いあるまい。
「いささか奇異な感じ」を与えることとなるにもかかわらず敢えて、人間生活の全領域を神の栄光に結び付ける在り方即ち、キリスト教有神的人生観・世界観の確立を創立主張の第一点とした背景、動機をこのように筆者は考える。そうであれば、真に卓越した旧日本基督教会批判であるのではないか。そして、この線から「此の有神的人生観乃至世界観」を見るなら、決して「日本基督改革派教会史」が言うような「ふたつの主張は、たがいに引きあい、ときには反発する。」(p73 )のではないのではないか。「宣言において、質
量ともに優位を占めているのは『第二点』教会形成論であり、第一点は文字通り『点』として書き込まれているにすぎない。しかし、この『点』は、もうひとつの、より明瞭な輪郭をもつ主張点にたいし、問い掛け、挑発し、狭義の教会形成論の枠を突破するよう、絶えず働きかけているのである。」のではなく、むしろ、教会形成論の揺るがぬ『立脚点』なのではないか。教会をして二度とサタンに隷属し、戦争協力の下部組織に転落させないための確かな土台を据えるための『立脚点』なのではないであろうか。筆者の推測があながち的外れではないことは、第一点の最後の一文が「教会の自律性を尊重する者り。」
とあるところからも支持されよう。 8

 教会の自律性とは岡田稔のかの「福音主義プロテスタンティズムの三原則」「聖書の規範性、救いの恩寵性、教会の自律性」の主張の第三原則なのである。この第三原則の確保こそは古代教会がまさに命をかけて整備した「教会成立の三用件」としての「正典(キャノン)・信条(クレドー)・制度(オルドー)の内の第三用件「制度」に相即していよう。
この三つは、すべてそのまま正しい真の礼拝の成立のための用件でもある。真の礼拝とはそこで主イエス・キリストにまみえることの出来る公同礼拝の意である。主イエス・キリストにまみえるとき、我々は救われ、その救いは揺るがない。赦罪の権威を明らかにするのが「聖書の規範性、救いの恩寵性、教会の自律性」であり、「正典・信条・制度」なのである。ついでに言えば、宗教改革者が定義した「教会の標識」としての「説教と聖礼典」もた、「真の礼拝=公同礼拝」がどこにあるかの標識なのである。真の礼拝があるところとは言葉を変えれば、生ける「キリストの臨在」のあるところの意である。説教も聖礼典もこのキリストの臨在を告げる「ことば」に他ならない。証言せしめる聖霊が、証言する聖書を通して、証言されるお方キリストの臨在を明らかにしてくださるのである。その恵みの通路が教会であり、その教会は自らが立てた説教者をして説教を語らしめ聖礼典を執行せしめる。そしてそこに救いの出来事、礼拝を現出せしめてくださる。それ故に「教会の生命は、礼拝にある」(ⅰ)のである。マルチン・ルターが聖書によって「救いの恩寵性」を再発見した事による宗教改革運動は、ジャン・カルバンを待って、一応の完成を見る。それは「救いの恩寵性」すなわち福音の確かさは「聖書の規範性」を認めるところによってのみ、成立するからである。カルバンは、ルターに勝ってこれを強調した。それゆえに聖書への徹底的服従が「教会の自律」を要請することにもつながったのである。
 「聖書のみ」を主張する限り、国教会の在り方を容認するルター派においては、この「教会の自律性」の問題は現代までもなお残された課題となるはずであろう。そして「救いの恩寵性」も「聖書の規範性」も、厳密に言えば「教会の自律性」によって確保されなければその客観性を証言することが出来ないのである。「見ゆる教会」はここまで来なければならない。まさに公同教会に連なる教会はその「公同性」を見せなければならないのである。「教会の自律性」とはその使徒的公同的教会の獲得すべき標識なのである。 
そこでジュネーブにおけるカルバンの戦いは、実に長老会(プレズビテリー=中会)形成の戦いとなったのである。「教会の自律性」を獲得する事が宗教改革の完成となるとの理解があったからである。

b,主張の第二点「一つなる見ゆる教会」 

「抑々人類は神の聖前に一体にして、等しく罪の奴隷たり。」から「源清く且つ正しき進展を経来れる基督教々理を堅持する教会として果敢なる進軍をなし、健全なる発達を遂ぐる事こそ、祖国と同胞に対する我等の愛の至高の表現なり。」までが、「日本基督改革派教会創立宣言」の主張の第二点である。そして、この第二点こそが宣言の中心である。それはその分量からして正に一目瞭然である。その中でも、その核心を述べたのが「神のみ明らかに知り給ふ所謂『見えざる教会』は全世界に亘り、過去、現在、未来なる全歴史を通し、地上と天上とを貫きて聖なる唯一の公同教会として存在す。然れども、我等は地上に於て、見えざる教会の唯一性が、一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せらる可きを確信す。是日本基督改革派教会の主張の第二点なり。」である。
 筆者は使徒的公同的教会の形成を悲願としつつ、牧師の歩みを定めてきた。そのような者がこの見事な一文を読んでどれほど感激したことか。「その通り!」の一言であった。宣言は、教会の創立宣言であり、いみじくも、「源清く且つ正しき進展を経来れる基督教々理を堅持する教会として果敢なる進軍をなし、健全なる発達を遂ぐる事こそ、祖国と同胞に対する我等の愛の至高の表現なり。」にあらわになっている通り、教会形成への並々ならない集中力を示している。一切は、ここにかかっている。そのように読むことができたのである。教会がこの日本に存在する。その教会が日本に広まる。それこそが我々の  「祖国と同胞に対する愛」に他ならない。我々でしかできないことを、旺盛にする。我々でなくともできることは極力彼らに譲り、我々は教会の形成に召されてあるのであるから、そこに集中して良いのであるし、集中すべきなのである。それは、私の確信に他ならないのであるが、宣言の確信とも軌を一にすると信じるのである。
 およそいかなるキリスト者、教会、教派であろうとも、「我等は地上に於て、見えざる教会の唯一性が、一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せらる可きを確信」する所がなければ、この地上にあって、主イエス・キリストの救いに与った目的を果たすことはできない。教会が必要であるとは、本来人間の要求に神が恵みをもって答えてくださったのではない。それは、神の必要に基づいている。しかしそれは同時に、罪人たる我々の祝福、幸い、喜びそのものとなり、その神の家、キリストの体、聖徒の交わりたる教会をこの地上に形成するのである。神の喜びが教会である。我々はその喜びに教会において与り、その喜びをもって又教会に生きる。その喜びは神礼拝において与えられ、喜びの神の喜びを満たすこととなる、喜びは人を生かす故、伝道になる。礼拝がそのままキリストの臨在を証する、喜びを伝える場となる。人の主な最高の目的が神の栄光を現す(ⅰ)ことであるなら、それは礼拝においてこそである。永遠に神を喜ぶ事であるなら、まさに神礼拝こそがその極点である。それ故に、真の礼拝を成立させなければならない。真の礼拝は真の神の教会によって成されると信じる。
真の教会はまた真の礼拝によって出現するのである。その意味で、教会が教会としてもっともその姿を鮮やかに映し出すのは主の日の礼拝式においてである。「日本基督改革派教会創立宣言」は見えない教会を信仰の対象にして奉ってそれで済ませることをしない。それは、必ず一つの見える教会としてその輪郭を明瞭にし、その在り処を明らかにすることにこそ、その熱心を注ぐ事を表明するのである。教会形成に献身することを内外に、何よりも神の御前に、喜びと感謝、そして悔い改めを持って表明してみせているのである。
 ここで、改めてなぜ、宣言がこれほどまでに「一つなる見ゆる教会」へのこだわりを有するのかを問いたい。宣言は、「一つなる見ゆる教会」が確保すべきこととして「一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活」の三点を数える。何故この三点なのか。「之を以つて唯一の聖なる公同教会の枝たる事実を確信せしめられ」ることを求めてのことなのである。この文章はニカイア信条の「使徒よりの唯一の聖なる公同の教会を信じる」と告白するほぼそのままを継承している。ニカイア信条は基本信条中、典礼(礼拝)に於けるもっとも相応しい信条であり、正に全教会が唯一アーメンと唱和することのできる基本
信条である。創立者は、ニカイア及びカルケドンの神学、即ち正統神学に立脚していることを何よりも大切なことと確信し、自らは正にそれを根幹として教会の形成に仕える教会との自負を見せているのである。
 もう一度問う、それなら、何故「公同教会の枝たる事実を確信せしめられ」ることに「こだわる」のであろうか。それは、公同教会に連なっているとの自覚が、信仰の正に生命そのものに関わる事態であるとの「卓見」(むしろ、創立者たちにとっては基本中の基本であったのであろうが・・・)によるのである。即ち、「我等の救いの確さを立証せん事を願ふ」からに他ならないと言う。ここに、教会の本質を捉える創立者たちの並々ならない神学的、実際的眼力の確かさがあるといってよい。しかも、実はそれは全く常識に属することなのである。しかし、我々の福音主義的諸教会はその常識を常識にすることがで
きずに、道を彷徨っている。「日本に於ける新教教派の完全合同を目指したる合同運動は、日本基督教団の成立により一応目的を達成せるものとなす者あり。されど今日に至るも尚右の意味に於ける一つ教会たるを得ず。此の全面的不成功は求むるに道を以つてせざるに由ると言ふの外無かる可し。」これは、五十年後の今の事ではなく、敗戦後一年も経たない当時の断定である。これを、予言として見ても、見事に的中したと言って過言ではない。
 その理由は「求むるに道を以つてせざる」この一点にあるとの指摘である。この発言の重みは当時の状況を知らない世代には、ピンとこないかもしれない。しかし、ほとんどすべての教会がなお日本基督教団に留まっていたその時に、僅か八教会、数百名にしか過ぎない小さき群れが数千の教会、数十万の信徒を有する日本基督教団に噛みついたのである。
しかも、この僅かな教師たちの離脱などは日本基督教団にとって、痛くもかゆくもない小さな出来事に見える。しかし、多くの人々からの分派主義者との中傷に甘んじなければならなかったのである。それは、彼らの主張が所謂教会史上のセクト、分派型、非制度的教会ではなくて、純然たる改革長老教会を目指したものであったからであろう。
 「道」を踏み外したところで、どれほど時間をかけてみても財力を持ってしたとしても、どれほど誠意を込め熱心に尽くしたとしても、「神の」教会は出来ないのである。逆に神の「道」、「理」に適った仕方でするならば「私は、この岩の上に私の教会を建てる。」
と仰るキリストの力、御言葉の力が教会を建て上げてくださるのである。それ故に、教会は神の御言葉が正しく語られ、聴かれるために、神の御言葉が機能するための場所を整え、道をつけるのである。それが、「一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活」の三点であることは創立者にとって自明の事であった。これらはすべて「見える」ものである。
聖霊直接主義者(神秘主義者)達は「見える」ものの価値を軽視する。見えないものが霊的であると直線的に単純に判断する。しかし、キリスト教の本質が「媒介」にあること、およそ歴史的形態たる教会を考える際の前提条件が「直接」ではなく「間接」、「無媒介」でなく「媒介」であることを承認する事がなければ、神の(=霊的)教会は地上にその輪郭を明らかにすることは出来ないのである。教会の制度を整える業に励むことが即ち、「我等の救いの確さ」と言う、根源的な福音の事態、「霊的」な事態を「立証せん事」と軌を一にするのである。教会の制度を、非霊的、反霊的(ここまで来ると異端になろう)
に捉えるような、敬虔主義や、神秘主義(ここまで来ると異端になろう)を我々は何としても、克服しなければならない。
 その意味で、我々はこの表明がいずれの教会、教派にも必要不可欠であることを信じて疑わない。そして、この事における一致があるならば、どれほど離れた立場に立つ教派伝統を有した人々とも、粘り強く対話を試みるべきである。そして、「この日本に神の教会を」との祈りを重ねる人々とならいつでも喜んで議論協議を重ねる用意と態度を、この宣言は喜んで表明しているのである。即ち、「以上の略述によりて明白なりと言う可きは、我日本基督改革派教会は毫も、所謂分派的精神に由来するものに非ざる一事なり。道に従って成る教会の公同性、一致性は我等の最も重んずる所、我等の教会観の真髄なり。」ここで、「我等の最も重んずる所、我等の教会観の真髄」としているからである。今なお、同じ改革長老教会の中にすら、日本基督改革派教会を「教派主義」のように誤解する方がおられるかもしれないが、少なくとも、ここに明らかなように、日本基督改革派教会が最も重んじその教会観の真髄とも言えるのが、「唯一の」(ニカイア信条)「見えない」(カルバン・改革派諸信条)教会を「一つの見える教会」(「日本基督改革派教会創立宣言」)として具現する事への熱心である。これは、主イエスの「すべての人を一つにしてください」(ヨハネによる福音書第17章)との祈りの実現にあるといっても良いほどなのである。 
我々の教会は、その開拓伝道の最初期には、改革派・長老派等の歴史的福音主義教会の形態である「教派」の形成を殆ど一言も言わなかった。複合的な理由がそこにあるのであるが、筆者の教会形成の筋道は、まず、ニカイア信条の「使徒よりの唯一の聖なる公同の教会を信じる」という、全キリスト教会が「最低限」目指すべき、整えるべき公同教会に連なる、教会形成にあった。(それが、ニカイア信条を今日の教会の基礎にしようと呼びかけた日本基督教団改革長老教会協議会運動への傾斜に繋がる。)もし、この最低限が本当に必要であり、これなくしてキリストの教会を標榜する事は許されないと自覚するならば、次に我々が何故、ローマ・カトリック教会に「帰正」せず、東方教会にも「帰正」しないのか。なぜ、所謂プロテスタントの立場を自覚するのかが問われるであろう。それは必然的に、プロテスタント発生の根拠となる宗教改革に遡らねばならない。我々は単立・独立教会として現にある以上、自らの教会とは何かを、神と人との前に、何よりも自分たちの「救いの確さ」を確信するために、明らかにしなければ責任的教会の形成、この地域社会に伝道することは出来ないのである。それは、「良心」上もできない。人々に「福音」を知らせても、そこに招くべき教会が所謂、聖書的、歴史的実態の定まらないものであったのなら、伝道することがかえって、神の選びの民を混乱させることになると信じるからである。(それなら、何故、今、伝道に励んでいるのか。それには、我々が教会に成ろう<on being>と励んでいるからであると言う。神の憐れみのなかで、赦しの中に生きていることを信じてのことである。また、伝道の急を要することをも信じるからである。それだけに、中会の形成・加入を一日も早く実現しなければならないのである。)
 「一つの見える教会」の具現化。これこそ、日本基督改革派教会創立の意義の「急所」であり、「真髄」なのである。繰り返して言うが、日本基督改革派教会は決して「教派主義者」の集いではない。
 
しかし、それなら何故「改革派」なのか。しかも、広義の「改革派」ではなく、厳正な「改革派」であることを目指したのか。広義の改革派と言えば、「欧州大陸にては、その四分の三を占むる新教教派中最大の教派なり。」であり、さらに、ルター派や再洗礼派以外の教会は何らかの意味で狭義の改革派との歴史的関係を有するものなのである。アルミニウスも改革派から出たし、ジョン・ウエスレーも改革神学によって改革された英国教会の司祭であったし、組合主義教会、バプテスト派も神学的には改革神学を母体にしている
のである。(しかし、勿論、これらは普通広義の改革派とは呼ばない。)
 改革派教会は信条主義教会ではない。信条主義とはルター派のように、どの時代どの国においても自己の教派的アイデンティティーをいずれも16世紀中に制定された「ルター派信条」(アウグスブルク信仰告白・ルターの大・小教理問答・シュマルカルデン条項・一致信条等)に求める。これ以外の新しい信条の生産を事実上放棄したあり方である。これは硬直したあり方として、我々から批判されることであるが、しかし、中々に現実的でもある。何故なら、このようにして、信仰告白を閉鎖しておくことによって、異端を排除し、アイデンティティーの確立、その伝統の継承を極めて容易にするからである。(ⅰ)
 それに対して、改革派教会は告白教会である。告白教会とは「我等日本基督改革派教会ハ我等ノ言葉ヲ以テ更ニ優レタルモノヲ作成スル日ヲ祈リ求ムル」教会のあり方の事である。その意味で、この「日本基督改革派教会信仰規準の前文」の一節は極めて重要な一文なのである。自らを真実の改革教会と名乗れるのは、この一文があるからであると言っても誤りではないであろう。改革教会とは自ら、例えばただ単に、「聖書ニ於イテ教ヘラレタル教理ノ体系トシテ最モ完備セルモノ」としてウエストミンスター信仰基準を採用していると言って、その実質を得ていると言う事は許されないのである。
 改革派教会は生きた教会である。教会をして教会たらしめる「命の伝統」に立脚するゆえに命溢れる教会となる(はずである)。我々は、信条主義者でも、伝統主義者でもない。
しかし、それだけにこの道はたやすいことでもない。それは、この道から多くの分派、異端が別れ出ていることからも自明の事である。(ⅱ)ここにおいて、なぜ、広義の「改革派」ではなく、厳正な「改革派」であることを目指したのかが自ずと見えてくるであろう。
改革派は真の神の教会である事を追い求める故にサタンの攻撃や誘惑もまた激しい。教会が「死せる正統主義」と非難されるように、礼拝、説教に聖霊の命を証する事に弱さを覚えるとき、そこから敬虔主義、果ては神秘主義者すら輩出した歴史があるのである。改革教会のあり方は、新しい独自の教会、教派を興す可能性と常に背中合わせなのである。そこでこそ、「創立宣言」が「一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活」の三点を、なぜ備えなければならないとしたのかが見えてくるのである。「一つの見える教会」の具現化のためである。消極的に言えば、異端の阻止の為なのである。(この関連で、長老主義政治の不可欠性に言及すべきであろう。)
 その意味で、この道を日本基督改革派教会がこの50年、「信仰の宣言」と言う形で、自らの言葉を以て新しい神賛美を生み出す努力に励んでこられた熱心に対して、脱帽のほかない。その意味で、日本基督改革派教会とは見事に改革派的な教会なのである。 
 さて、今までは、「創立宣言」の眼目が公同教会即ち「一つの見える教会」の具現化にあることを明らかにした。そして何故に「改革派」なのかの言わばその消極的な意義についてのみ触れた。しかし、最後に短くその積極的意義について述べたい。
 ニカイア信条は、教会についての信仰の告白として「使徒よりの唯一の聖なる公同の教会を信じる」と言う。公同の教会は「使徒性」を有するのであるということである。ここで問われることは「使徒よりの」の意味についてである。「使徒継承の」とする教会はローマ教会、東方諸教会、聖公会である。福音主義諸教会はそのような歴史的使徒職の継承を否定して成立した。我々の理解する「使徒よりの」とは、「使徒的信仰の継承」の事に他ならない。使徒的とは、良く言われる「聖書的」と言う言い方に「近い」(ⅲ)のであるが、聖書の福音を正しく伝える(ⅰ)事を以て「使徒性」の指標とするのが一般である。
 それなら次に、聖書の福音とは何かが問われることになるはずである。そこで、教会形成に必要不可欠となるのが信仰告白なのである。この信仰告白即ち教理の体系を保持する(制度を確立する)事によって我々は聖書を正しく説教し、正しく聴く事の出来る客観的場所を確保することとなりうるのである。その意味でこの信仰告白は時代が進むごとに必然的に、より精密にならざるをえない。それは、消極的に言えば、異端的な教えとの闘いの故であり、積極的に言えば教会の聖書啓示への理解の進展があるからである。(ⅱ)
 創立者たちは、自らの公同性を使徒的信仰の継承においてこそ具現可能とし、しかもその最も鮮やかな輪郭を世に示すための、「一つ信仰告白」としてウエストミンスター信仰基準を採用したのである。しかも、改革派諸信条のなかでどれでも良いとしたのではなく、ウエストミンスター信仰基準に定めた。(ⅲ)なぜ同基準なのかを説明した文章が「日本基督改革派教会信仰規準の前文」である。これほどまでに、教会と聖書と信条との相互関係を簡にして要をおさえて説明した文章を筆者は知らない。    9
 「神ガ己ノ教会ニ与ヘ給ヒシ神ノ言ナル旧新両約ノ聖書ハ教会ノ唯一無謬ナル経典ナリ。聖書ニ於イテ啓示セラレタル神ノ言葉ハ教会ニヨリ信仰告白セラレテ教会ノ規準トナル、是教会ノ信条ナリ。教会ハ古ヨリ使徒信条、ニカヤ信条、アタナシウス信条、カルケドン信条ナル四ツノ信条ヲ教会ノ基本的、普遍的信条トシテ共有シ来タレリ。宗教改革時代ニ至リ、改革派諸教会ハ其等諸信条ノ正統信仰ノ伝統ニ立チ且ツ是等ニ止ラズシテ純正ニ福音的、否全教理ニ亘リ更ニ純正ニシテ且ツ優レテ体系的ナル信条ノ作成ニ導カルルニ至レリ。其ノ三十数個ノ信条ノ中ニテウエストミンスター信仰基準ハ聖書ニ於イテ教ヘラレタル教理ノ体系トシテ最モ完備セルモノナルヲ我等ハ確信スルモノナリ。我日本基督改革派教会ハ我等ノ言葉ヲ以テ更ニ優レタルモノヲ作成スル日ヲ祈リ求ムルト雖モ此ノ信仰規準コソ今日我等ノ信仰規準トシテ最適ノモノナルヲ確信シ賛美ト感謝ヲ以テ教会ノ信仰規準トス。」                            8
 「日本基督改革派教会創立宣言」による教会形成、それは全く「教派主義」的あり方と対峙するあり方を持つ。即ち、「一つの見えざる教会」の「具現」化のために、「一つの見ゆる教会」の形成を目指す、開かれたあり方なのである。そしてその最高の形態を実現する筋道こそが「改革派」と確信しているのである。教派の徹底こそが実は最も、「一つの見えざる教会」の具現化への近道であり、王道なのである。この道を歩もうとする方々とならまさに教派を越えて一致を見いだせるし、励まし合いながら(神学的対話をすること)福音宣教に励むこともできるはずなのである。勿論、改革派路線が決して、唯一の道
ではない事は言うまでもない。ただしかし、我々は最高の形態と確信するのである。その確信のないところで改革派の牧師である事は又不可能であろう。なぜなら、この道は高く険しいからである。人間中心から徹底して神中心へと転換する事は正に聖霊の奇跡、神の可能性のみによるからである。それ故に牧師・長老・執事・会員の神の民全員が総動員され、それぞれの職務の固有の務めを自覚して、それを良く果たすことが不可欠なのである。
そのようにして、励まし合い、戒めあって進むことが不可欠なのである。
 本章を閉じるに当たって、付言したい。「孤軍奮闘」との言葉がある。この言葉に相当する西洋の慣用句は「アタナシウスは世界を敵にまわす。」だそうである。アタナシウスこそはニカイア信条成立の立役者であり、基本信条のアタナシウス信条とは言うまでもなく、彼の名が冠されてのものである。即ち、彼こそは正統主義信仰の第一の恩人とも言いうるのである。ところが、彼は当時の「教会会議」や「王」から迫害されて、実に生涯に5回の追放、流刑の憂き目に会ったのである。我々は、単純に正統信仰こそが「教会」に 受け入れられ、人々にも認められやすいとの意識を有しているのではないかと思う。しか
し、歴史はそれを証言してはいないのではないだろうか。ただ、そこにこそ、我々は神の恵みの力を見るのである。まさに、教会が教会となりえるのは神の恵みの故なのである。奇跡なのである。我々は「この道」を進みたい。
 あの50年前の創立者達が見た日本とその教会の状況と今日の状況を比べて見るとどうであろうか。さらに、混迷を深めているのではないだろうか。しかも、その混迷はこの世よりなお、諸教会に色濃く出ているのが正直な認識であろう。我々の使命がどれほど重く、且つ光栄に満ちたものであるかをいよいよ自覚してまいりたい。
 地上の教会は罪、過ちに染まっている。他教派の事を言っているのではない。我々を含めてのことである。キリストの花嫁としてのふさわしさを問うどころではない、悲しい現実が確実にあるのである。しかし、なぜなお、そのような教会が許されて存続してあるのか。その理由の一つは、「父よ。彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」との教会の頭にして主なるイエス・キリストの祈りの故であると思う。それだけに、我々はこの十字架上の祈りを常に覚えて、「謙遜」に、しかし「勇気」を持って「この一事」即ち<一つなる見ゆる教会の形成!=日本基督改革派教会の形成、中会形成>に励んでまいりたい。