過去の投稿2005年3月25日

「おめでとう、恵まれた人」

「おめでとう、恵まれた人」賛美歌 

                 ルカによる福音書第1章26節-33節
               
                      主の2003年12月21日

 クリスマスおめでとうございます。今日はクリスマスをお祝いする日曜日です。この祝福を告げる言葉を最初に聞いたのは、マリアでした。天使はこう告げました。「おめでとう、恵まれた人」この祝福の言葉は、決して、彼女だけのものではありません。神の御子は、2000年前に、人となって私どものためにお生まれ下さいました。それは、他ならないあなたを神の子にするためです。神の御子イエスを信じるなら、あなたも神の子として新しく生まれることができるようになります。ですから、改めて、あなたにご挨拶いたします。「クリスマスおめでとうございます。」

 さて、私どもの日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上教会に、今年、赤ちゃんが4人誕生しました。教会員は、その誕生のために祈り続けまいりましたから、元気に生まれて来てくれたことで、教会は、それは大きな喜びに包まれました。

 ところが、今年の10月のことです。その一人の赤ちゃんの誕生の際に、まったく予期していなかったアクシデントが起こりました。安産で生まれて来たのも束の間、その晩に口から血を吐いたのです。産婦人科から急遽、赤ちゃんだけ大学病院の集中治療室に移されました。連絡の電話を受け、姉妹の病床に駆けつけました。産婦人科の病室というのは、誕生の喜びに包まれた場所です。しかし、彼女の部屋にだけは、赤ちゃんがいないのです。誕生の喜びに包まれていたその部屋は今、急転直下、葬式の可能性、死の恐怖すら漂っているのです。

 実は、彼女は昨年のちょうど今日、洗礼をお受けになられました。罪を赦され、神の子として新しく生まれたのです。つまり、あのマリアのように、神から「おめでとう幸いな人、幸せ者」と呼んでいただいた方なのです。これにまさる祝福は地上にありません。

 しかし、このような状況に陥った方に対して、信仰のない方であれば、もしかすると、「あなたたちは何という不幸な家族なのか。なんと不運な人たちなのか」と、たとい口では言わずとも、心に思うことがあるかもしれません。いえ、彼女自身、もしも真の神を信じる信仰が与えられていなかったとしたら、そのように自分をみなしてしまって、恐怖と不安に押しつぶされるしかなかったかもしれません。

 しかし、私共はそこですぐに祈り始めることができました。自分達はたとえこのような厳しいアクシデントの中にあっても、神から祝福されている人間である事を信じることができたからです。

 どうしてそのように確信できるのでしょうか。それは、クリスマスが事実、この地上に起こったからです。つまり、父なる神はその独り子を、私どもの受けるべき罪の刑罰の身代わりにするため、十字架におつけになられたのです。そのために、御子イエス・キリストはこの地上に人間として、赤ちゃんとして生まれてくださったのです。これこそ、私どもへの愛の証拠であります。これこそ、私どもが祝福された人間である証拠なのであります。私どもが幸せ者である証拠は、このクリスマスの事実にあります。この事実に支えられてこそ、私どもは神が最善をなして下さることを信じ、癒しと助けを祈ることができたのです。

 あなたも神に祝福されているのです。おめでとうと告げられているのです。
感謝な事に、私どもの教会の赤ちゃんはその10日後に退院して今すくすくと成長しています。