ある夜の事、一人の人が、主イエスの許を訪ねて参りました。彼は、当時のユダヤの社会で最も地位のある、権力者の一人です。ユダヤの国の最高の権威を担う機関、言わば国会議員にあたる人です。しかも、ファリサイ派の議員、つまり、当時のイスラエルの宗教家の中でも最も厳格に聖書を守り生きようとする人です。主イエスはこの人のことを、イスラエルの教師と呼んでおられます。正にイスラエルの宗教的な指導者の一人であったのです。勿論、人々の支持があってのことかと思います。尊敬されていたのです。人格においても、聖書の知識においても、いずれも教師としてふさわしい力量を備えた人物です。しかも、その年齢は、おそらく主イエスよりずっと年を重ねていたのかも知れません。その人の名は、ニコデモ。功なり名も遂げた押しも押されもしないイスラエルの教師、つまり聖書にも通じている指導者が、主イエスの許にやって来る。いったい何の為でしょうか。
その当時、イエスと言えば、水をぶどう酒に変えてしまった人、奇跡を起こす人として有名になっていました。さらに、エルサレム神殿から商売をしている人を追い出し、46年間掛かって建てられた壮大なエルサレム神殿をたったの三日で建て直してみせると、豪語した言わば新進の宗教家として見ていた人達も多かったのです。おそらく、もう既にニコデモの仲間たちの中の多数がこのイエスの活動を制限する必要性を思っていたのです。それどころかもうすでに殺意をもって、イエスを見ていたファリサイ派、イスラエルの宗教指導者達は少なくありませんでした。
ですから、このニコデモが午前中でも午後でもなく、夜に主イエスの許を訪れたことは偶然のことではないのです。人目につかない夜以外、つまりお忍びでやって来る以外には無かったのです。なぜなら、そんな事が議員仲間に知れ渡ってしまったら、世間の知るところとなってしまったら、どんなに顰蹙を買うことになるか、いやそれどころか長年に渡って営々と築き上げてきた信頼、名誉、地位を一瞬にして奪われてしまいかねないのです。だから、夜なのです。こっそりと、来ざるを得なかったのです。おそらく、イエスと共にいた弟子たちの中で誰一人として、まさかあのニコデモ、あの70人議会の議員の一人のニコデモが我々の主イエスの許に来ていたなどとは、この時には知らなかったかと思うのです。
その夜、若い、駆け出しのイエスと、老練の、評価の定まったニコデモとが一対一で、神について真剣な議論を始めるのです。しかし、ニコデモは本当に素直です。驚くほどに、謙虚です。私どもはこの老齢の教師の謙虚な、学ぼうとする姿勢を深く見習わなければならないのではないでしょうか。ニコデモは言います。「ラビ。」これは、我々が誰にでも使うような「先生」と言う言葉とは違います。宗教上の教師、イスラエルの民の指導者と言う意味です。滅多なことでは、使うことができない、公の称号なのです。おそらくニコデモ自身も、ラビと呼ばれていたでしょう。ですから、ラビと言う称号は決して軽々に使う事が出来ない称号であることは、誰よりも彼が知っていたはずです。その彼が、イエスに向かって最高の尊敬を込めて呼ぶのです。真に真剣な求道者、真理探究者がニコデモであります。
ニコデモは、その日の夜、何を考えていたのでしょうか。もはやいても立ってもいられない、他の誰のところでもなくイエスの所を訪れたかったのは何故なのでしょうか。人々が寝静まった夜です。現代の我々の夜の感覚と当時の感覚とは全く異なっていたかと想像できます。今、夜になっても、街灯があります。コンビニも何軒もあります。当然、家には電気がついて明るいでしょうし、テレビは娯楽を提供しています。つまり、夜といっても我々は、落ちついて、じっくり自分の人生について考える事が少なくなってしまっているのです。少なくとも青年期には、生きるとは何か、人生とは何かと本当は考える絶好のチャンスであるはずですが、皆、忙しいのです。学校があります。受験があります。あるいは、そんな事を考えるのは暗いというようムードが漂っているでしょうし、遊びも沢山あります。いや、人生を真剣に考えるのは何も青年期だけではありません。どんな年齢の人でも、それを考えることは、人間にとって当たり前のことですし、大切なことです。私共キリスト者にとっても同じです。
このニコデモは我々日本人とは違って、無神論者ではありません。ニコデモは神を信じています。ニコデモは考えました。神を信じている彼にとって、最大の、根本的な、絶対的な、究極的な関心はこれです。「自分は果して本当に神に救われているのか、100パーセント自分は本当に永遠の命を受け継ぐことが出来るのか、このままで確実に神の国に入れるのか。」これが、定まらなければ、人間は死ぬことが出来ません。
おかしなことを言うと思われるでしょうか。「人間は誰だって、死ぬんだから、死ぬことが出来ないなどという言い方は矛盾だ。」そうです。人間は誰でも、本当に、100パーセント、確実に死んでしまいます。これほどに絶対的な事実はこの世界にほとんどないと言っても言い過ぎではないかと思います。しかし、この避けて通れない決定的な事実を我々は良く考えることはないのではないでしょうか。よく考えないどころか、全く考えない人のほうが多いのではないでしょうか。「そんなことは考えても、解決がつかない、その時になって、ぎりぎりになって考えたらよいではないか」と言う人もまた少なくありません。しかし、本当でしょうか。いいえ、それは間違いです。自分の死を考えることは、死後の世界を考えることは、今この時を揺るぎなく、確信をもって生きるためには、どうしても必要なのです。
我々日本人の大多数は死と向かい会っていないと言われます。何故でしょうか。死を考えなくさせる最大の理由は、我々の罪が生む、恐怖心です。死は恐怖です。死んだ後、自分がどうなるのか分からないのです。
宮沢賢治の有名な詩に「雨ニモ負ケズ」があります。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫なカタラダヲモチ~」その中で賢治は、このように言うのです。「南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイ〃トイヒイ」とあります。多くの日本人は心うたれるのではないでしょうか。私も心うたれます。しかし、この箇所に来て、牧師である私はどうしてもこれには頷けないのです。そういってあげられたら確かに「お慰め」にはなるかもしれない、しかし嘘を言ってその場をしのぐわけには決してまいりません。
ニコデモは、ユダヤ人です。神を信じている人です。しかも、指導者です。教師です。確信をもって、迷える人々を聖書によって導かなければならない立場です。しかし、この人に夜が訪れています。不安が訪れています。この人には、確信が欲しいのです。自分自身が、もはや死を、他の誰の死でもなく自分自身の死を、昼間の仕事を終えて、夜に考えているのです。私共は、このニコデモのようになりたいと思います。皆さんにも、この朝、このニコデモになってほしいのです。先ず、自分自身に問うて頂きたいのです。面子をすてて、裸になって考えてほしいのです。「自分は死を真っ正面に見据える事が出来るだろうか。」どうでしょうか。今、健康な状態で死を考えることが出来ないのであれば、死を直前にしても、真実に死と向き合うことはおそらく期待できないと思います。死を無視するか、死後の世界を否定するか、何の根拠もなく自分は天国に行くとか、あるいは何の根拠もなく生まれ変わってまた人間になるとか自分勝手に考えて死を迎えるのです。自分に都合の良いような考えで、自分で自分の気持ちを楽にさせるだけです。しかし、自分で自分を救うことはできません。救われるような気持ちだとか、救われたような安心が与えられる考え方とか教えだとかは、本当の死と、死んだ後の事実に立ちおおせることは出来ません。つまり、小手先のことでは本当に死を死ぬことは出来ません。
それなら、人間として聖書の言う正しい意味での、死を死ぬことが出来る人とは、一体どんな人なのでしょうか。
主イエスは、この謙虚なニコデモ、しかしまだ挨拶しかしていないニコデモに、いきなり本論へと導きます。一気に、ニコデモの夜の部分、ニコデモが不安になってしまっているその部分に入って下さるのです。いや一人ニコデモだけではありません、私も皆さんも、いや全人類が最も聴きたがっている、究極の問いに真正面から、逃げも隠れもせず、ずばっと突入されるのです。
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない。」神の国を見る、これは単純に申し上げれば、神の国に自分自身が入るという事です。ニコデモの夜、ニコデモの不安とは「自分は果して本当に神に救われているのか、100パーセント自分は本当に永遠の命を受け継ぐことが出来るのか、このままで確実に神の国に入れるのか。」と言う事です。主イエス・キリストは彼の心を一切ご存じです。ニコデモにとって、イエスとは初対面でしょうが、主イエス・キリストにとっては、ニコデモのことはすべてご存じなのです。すでにヨハネによる福音書の第1章でナタナエルを弟子にしたときのやり取りの中で、主は「私は、あなたがイチジクの木の下にいるのを見た。」と仰られました。私共は教会に来る前から既に主イエスに知られています。だから、素直になってよいのです。裸になってよいのです。そして本当に聴きたいこと、いや、聞かなければならないもっとも大切なことを正直に聴けばよいのです。主は、ニコデモの心の奥深くに仕舞い込んで、誰にも相談できなかった、悩みにストレートに答えられたのです。「神の国」本当に入りたいのだが、はたして私は大丈夫であるのか否か。
主イエスは真理をストレートに語られます。「人は、誰でも新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ない」と、仰るのです。躓くような、言葉です。ニコデモは学者、教師です。もう少し、気のきいた話が出来ないのか、もう少し、知的な聖書の議論が出来ないのか、そう思います。ですから彼は、見事に躓きます。「年を取った者が、どうして生まれることが出来ましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれる事が出来るでしょうか。」主イエスの言葉が理性では愚かといえば、彼の応答もまた愚かになってしまいました。人間は、年を取っていても、若くても、もう一度、生まれなおすことなど出来ません。ニコデモが、「もう一度、母親の胎内に入って生まれる事が出来るでしょうか。」と言った言葉のなかに、私は主イエスへのある種の失望が読み取れると思います。失望どころではなく、すでにある種の軽蔑が込められていると思います。ニコデモはわざわざ、イエスに付き合って愚かなことを言ってみせているという意識でしょう。「もう一度、母親の胎内に入って生まれる事が出来るでしょうか。」この言葉は主イエスへの軽蔑の言葉です。
主イエスは、人間には愚かですが、真理しか語られません。賢くなってしまった、人間には神の真理はあまりにも愚かなのです。パウロが「十字架の言葉は滅びるものには愚かな言葉であるが救われるものにとっては神の力」、とコリントの信徒への手紙一の1章で語っている通りです。
主イエスは、このがっかりしてしまった、賢いニコデモを何としてでも説得しようと、信じさせようと、試みられます。それが、5節から8節までの御言葉です。「はっきり言っておく、誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」「水と霊」と言われて、ますます分からなくなったのかもしれません。これは、二つとも、神の霊、イエス・キリストの霊、聖霊を指し示す御言葉です。水とは、聖霊の譬えです。次に出てくる「風」もまた聖霊の譬えです。しかし、この水は私共にとっては洗礼の水と理解しても間違った解釈だとは思いません。洗礼は、真の教会が正しく授け、授けられる者が信じるなら、間違いなく聖霊の注がれる通路になり、道具になります。
もとに戻って、霊とは神の霊、聖霊です。つまり、主イエス・キリストは新しく生まれるとは、この肉体の再生、肉体が再び生まれ、新しくなるということではなく、神によって新しく生まれることを教えられるのです。もともと、「新しく」という御言葉は「上から」とも翻訳することの出来る言葉であります。「人は、誰でも新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ない」とは、上から、つまり神から生まれると言うことです。そして、神も霊も、目に見えません。しかし、目に見えない事こそ、大切なのです。主は私共を説得するために風を例にあげられます。風は目に見えません。風を見た人はいまだかつて誰もいません。しかし、風が吹けば、分かります。頬を撫でるからです。木の葉が揺れるからです。その時には、確かに、分かります。神の霊は、信じる者にはそのように働いてくださいます。
昔、イギリスのある町で一人の少年が空に向かって手を動かして興じていたそうです。そこを通りがかったある紳士が、こう言ったのです。「君はこんな所で変なかっこをして、一体なにをしているのかい」「おじさん、見ていて分からないの」「分からない」その日は、霞が出ていて、空を見上げても何も見えないのです。少年は言いました。「あのね、凧を挙げているのさ」「凧っていっても、見えないじゃないか」「うん、見えないよ。だけど手応えがあるもの」
信仰に生きること、聖霊によって新しく生まれ、生きることはこれと似ています。目には見えませんが、手応えがあるのです。それは最後まで、信じる人にしか分からない、伝わってこない手応えです。実際に自分自身が凧の紐を引っ張る以外には分かるはずがありません。霧が立ち込めているところでの凧上げの恰好は分からない人には、ばかばかしいように見えるかも知れません。しかし、糸を引いてください、そうすれば分かるのです。
また信仰に生きること、聖霊によって新しく生まれ、生きることは、凧そのものとも似ています。凧はどんなに立派なものでも、風に吹かれなければ、空中に浮かぶことは出来ません。しかし、ここは風が吹く場所です。教会とは、聖霊なる神が共におられる神の家です。もしあなたが、ここで風に吹かれるなら、神の聖霊に吹かれるのなら、あなたは高く高く舞い上がることが出来ます。不可能が可能になります。奇跡が起こります。つまり、あなたは本当に神によって新しい人として生まれるのです。神さまの子どもとして生まれることになるのです。洗礼の水を信じて注がれるなら、あなたはこの手応えを味わう人生が始まるのです。神の国に入るには、神のような人でなければ入れないのです。神のように聖い人でなければ、入れないのです。それは、ニコデモにも少しは理解でいるでしょう。彼は、だからこそ宗教生活に励んでいるのです。聖書の教えを守って、ユダヤ教の戒律に忠実になることによって、神の国に入れるような準備を重ねているのです。しかし、問題はこのレベルで確実なのか、大丈夫なのかと言う迷いです。不安です。しかし、神の国は完全に聖くなければどうして入ることが出来るのでしょうか。中途半端に、あの人よりは、この人よりは自分のほうが真面目に生きているし、ひとかどの評価を既に受けているのだから、云々では神の御前に全く通用しません。意味がないのです。聖くない者が、神の国に入ることが出来たら、もはやそれは神の国にならないのはないでしょうか。地獄と変わりがありません。可能性は、一つのはずなのです。神の国に入るのには、完全に神の子にしてもらうことです。完全な神の子どもであれば、神の国に永久に住むことが出来るのです。
さてしかし、ニコデモは信じることが出来ないようです。むしろ、彼の躓きは決定的になったようです。もはや、最初のラビと言う尊敬を込めた呼び名を撤回するような、反発を込めた言葉の響き「どうして、そんなことがあり得ましょうか、あるわけがない」と言うのです。
真に不思議なことに、10節以下にはもはやニコデモは消えてしまいます。「もう、信じられない」と言って夜のしじまの中に出ていってしまったのでしょうか。しかし実は、それ以上に不思議なことがあります。それは、11節以下の御言葉が一体誰が語った言葉か、分からなくなって来る事です。11節で本当は主イエスお一人の説教であるはずなのに、御言葉はこう言います。「私たちは知っていることを語り、見たことを証しているのに、あなたがたは私たちの証を受け入れない。」「私たち」これは明らかに、この福音書を生み出した「教会の言葉」です。私たちとは著者ヨハネが属していたキリストの教会のみんなのことです。「あなたがた」これは、おそらくがこの福音書を生み出した教会が挑戦を強いられた、ユダヤ教の人々に向かって語られた言葉でしょう。
さて教会は、躓きの言葉を語り続けます。「地上の事を話しても、信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」まさに、ここでのニコデモはそのとおりになってしまっています。かつての私共もまた同じでありました。ニコデモと同じでした。しかし今、私共キリスト者は、この時のニコデモと違って、信じることが出来ています。それはなぜでしょうか。それは、主イエス・キリストが十字架につけられたことを知らされたからです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」と主イエスはおっしゃいました。これは、旧約聖書民数記にある救いの奇跡物語です。神の審きとしての毒蛇に噛まれた者もしかし、木の上に掲げられた青銅で造られた蛇の像を見上げるだけで、癒されたのです。そんな、馬鹿馬鹿しいことはないと神の御言葉を軽蔑した者たちは死んでしまったのです。主イエスは、十字架の上でご自身を私共の罪の支払う神の刑罰としての死を受けられました。あの十字架を私共がただ信じたから、ただそれだけでこの神の子と言う立場が与えられ、それ故に自動的に神の国の住民としての特権を既に今ここで受けているのです。死んだ後ではありません。今、受けているのです。かしこい人には愚かなことかもしれませんが、十字架を信じたら事実手応えがあるのです。聖霊の導きという手応えです。2000年間教会は、この手応えを以て信仰の旅路を神の国に向かって前進しているのです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」教会は、このニコデモと主イエスの対話の物語のなかで、全聖書を一言で要約する言葉と言われる、この福音の中の福音の言葉を語ったのです。どうしてなのでしょうか。ニコデモが登場するのはこの後、主イエスが十字架で死なれて取り下ろされる場面です。ニコデモは、そこで見たのです。十字架を見たのです。モーセの青銅の蛇ではなく、生ける神の御子の十字架の死を、自分があの夜に訪れて直に聴いたあの人、不思議な言葉を語ったあのイエスの死を仰いだのです。そして彼は救われたのです。新しく生まれたのです。十字架のイエス様の苦難の中に現れ出た、神の計り知れない愛、何としてでも愚かな自分を永遠の命に生かすために、御子を捨てられた父なる神のそこ知れぬ愛を見たのです。
この物語はキリスト者ニコデモの信仰告白に裏付けられた、自分の体験を基に、記されていることは疑う余地がありません。自分が、どうしてキリスト者となったのか、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と言ってイエスから離れて許の鞘に納まった自分が、どうしてこの国会議員としての地位を捨てても惜しくない、キリストの弟子の一人として教会で生きることを誇りとし、喜びとなったのかを知ってほしいと願ったニコデモがいたから、この物語は今日このように聖書のなかに収められたのです。このヨハネによる福音書が記された教会員の一人にニコデモがいたのです。ニコデモは読者の一人一人に、これを聴く教会の仲間の全てに向かって「あなたも私のように神の国に入って欲しい、永遠の命に与ってほしい」と訴えているのです。招いているのです。ニコデモとヨハネはもう一体になって「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と歌いだしているのです。この御言葉は真実であると自分をさらけ出して、証しているのです。そしてこの証は私の証でもあります。世界中のキリスト者の告白なのです。この名古屋岩の上教会の教会員全ての証言でもあるのです。だから、伝道に励んでいるのです。
もしも今、あの夜のニコデモと同じように「どうして、そんなことがあり得ましょうか」と反発する人の上にも、神は愛を注いでいてくださいます。ですから、どうぞあなたもこの喜びの声を挙げたニコデモになってほしいのです。それは、私共の罪を赦すために、その罪汚れのない聖いお命で償ってくださった主イエス・キリスト十字架を信じることです。そのようにして、完全な神の子にしていただけばよいのです。神によって新しく生まれ変わらせられてしまえばよいのです。それが今神からのあなたへの招きです。
すでに、神によって生まれたキリスト者の私共は、この招きの言葉はもはや卒業してしまったと考えてはなりません。「新しく生まれさせられた」私共は、日々、「上から」「聖霊と御言葉によって」新しくされ続けることです。私共の教会の名称の改革派とは、まさにその事を言っているのであります。常に御言葉によって改革されつづける、新しくされつづける、そのようにして岐阜加納は形成されてまいります。今日の説教もまた、皆様の祈りに支えられて、皆様と共に語りだしたのであります。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神。あなたは、たった一人のニコデモを救うためにも、自ら十字架に赴かれ、そこで贖いの死を死んでくださいました。それは、ニコデモを新しく生まれさせるためであります。ここにおられるお一人一人を完全な神の子とするためであります。心から感謝致します。どうぞ、集われたお一人一人が、主イエス・キリストを見上げ、十字架の愛を見上げて、私のための十字架の御業であったと認めることが出来ますように、信じることが出来ますように。あのニコデモのように、神の愛を、イエス・キリストの愛を喜び歌うことが出来ますように。 アーメン