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「神の信頼-現代人の憧れを満たすもの-」

「神の信頼-現代人の憧れを満たすもの-」

2003年5月25日
テキスト マルコによる福音書 第16章9節~18節

 神は、一人一人それぞれに、異なった仕方で、聖書や教会との出会いを備えて下さいます。最初から、個人的なことを申し上げて恐縮ですが、私が聖書を読むきっかけとなりましたのは、一人の小説家との出会いが大きくありました。それは、太宰治です。高校生の時、この作家のものを夢中で読みました。文庫本になったすべての作品を読みました。さらには、夏休みを利用して、友人と青森の津軽、当時、旅館になっておりました太宰の生家を訪ね、宿泊したこともあります。この太宰と言う作家は日本の作家の中で、特に聖書を読んだ人でありました。私と聖書との出会いは端緒は、この太宰から始まります。やがて太宰が一時傾倒した内村鑑三という明治のキリスト教伝道者の著作に親しむようになり、ついに自ら聖書を繙くようになりました。
 生ける真の神は今朝、ここにお集まりのおひとりお一人を愛しておられます。それぞれに救いの御計画、祝福のご計画をもっておられます。その証拠は、今、他のどの場所にいるのでもなく、この礼拝堂に座っているということ、この事実にあります。私は今、そのような皆様との出会いが与えられ、共に、礼拝式を捧げることが許されておりますことを心から感謝致しております。人生は出会いによって決まると言われます。このかけがえのない出会いを大切にしたいと思います。そして何よりも大切な事は、この礼拝式における「出会い」のかけがえのなさ、その幸いとは、皆様とこの私との出会いではなく、皆様とこの教会との出会いですらなく、私共が今ここで、生ける救い主イエス・キリストと出会うことができると言う、主イエスとの出会いの幸いなのであります。神は、御言葉に心を開いて、耳を傾ける者を、必ず、主イエス・キリストがここにおられることに気づかせてくださいます。罪の赦し、神の子とされる喜びへ、信仰へ、救いへと導いてくださいます。

 さて、今朗読されました、マルコによる福音書によりますと、復活された主イエス・キリストは、弟子たちにこのような命令をなさいました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」それなら、主イエスがそのような命令をなさったのは、誰に対してであったのでしょうか。それは、他でもありません。ご自身を裏切ったばかりの弟子たちに対してでありました。一番弟子として自分を認めていた使徒ペトロは、主イエスに「私はたとえ誰がつまづいても、自分だけはどんなことがあってもお従いします。」と言い切っていました。ところが、一人の女性に「あなたもあの男の仲間ですね」と言われたときに、主イエスのことを「そんな人は知らない。」と切り捨てたのであります。それはこの時の、つい三日前のことであります。
 そればかりではありません。マルコによる福音書によれば、復活の主イエスに一番最初に出会ったのは、マグダラのマリアでありました。彼女は、主イエスの復活を知って、その喜びを独り占めに出来ませんでした。彼女は走りだしました。主イエスの愛しておられた11人の弟子たちのところに向かってであります。ところが、彼らは、主イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じませんでした。
 ここには、二重の不信仰があります。一つは、主イエス御自身が復活すると予告したことばを、彼らはまったく信じていなかったということ、つまり、主イエスを復活する神の子、救い主として信じていないという決定的な不信仰であります。第二は、仲間の言葉を信じられないという人間への不信であります。信仰の仲間の言葉にも心を閉ざし、耳を閉ざすいわば「人間不信」の姿は、12節からの短い物語のなかにも強調されています。その後、こんどは、彼らのうちの二人が復活の主イエスにお会いしました。そして彼らも、走り出しました。弟子仲間のところに向かってであります。ところが、弟子たちはその彼らの言葉すら、信じなかったのであります。主イエスが十字架で殺された今や、キリストの弟子たちの集団は、主イエス・キリストへの信仰はおろか、お互いの信頼関係もまた、見事に破綻してしまったのです。お互いの言葉を信じることができなくなり、心を頑にし、心を閉ざして惨めに佇んでいるのであります。

 実は、神を信じることができない、目に見えない真の神を信じることができないという事は、単なる宗教の問題として片づけることはできません。実はその時には、人間お互いどうしの言葉を信じることも出来なくなる、人間同士信じ合えない、分かり合えなくなる、人間社会の根本問題に係わることなのであります。おそらくこのことは、今いちいち説明する必要はないと思います。現実のお互いの生活におきまして、職場の中での人間関係、ご近所付き合い、親戚付き合い、果ては夫婦の間、親子の間にさへ、不信、疑いの心が起こり、その関係が損なわれている例は枚挙に暇がないと思います。お互いに信じあえないことで悩み、傷つき傷つけてしまっているのではないでしょうか。しかもそれは、個人と個人の間の問題に止まりません。一つの組織と他の組織、一つの国と他の国との関係においても同じであります。
 たとえば、第1次世界大戦を経験した世界は、国際連盟を組織しました。人間の世界は、戦争によって破壊されるかもしれない、人間は歴史の進展進化とともにますます賢くなって、ユートピアがおとずれると言うことはあり得ないと20世紀初頭、真剣に考えられたからです。しかし、それにもかかわらず、戦争はなくなるどころか、さらに、酷たらしい第二次世界戦争を人類は経験せざるを得ませんでした。そこで新たに国際連合が組織されました。ところが、21世紀、国連をないがしろにしたアメリカの国策によって、世界全体が戦争と破壊の脅威のなかにこれまで以上に深く組み入れられてしまっています。
 人間が最も恐れているもの、それは何でしょうか。それは人間であります。今日、自然災害や病気にまさって人類は、人間を恐れているのであります。人間同士がお互いにとってまるで獣のように向かいあってしまっているのです。お互いに理解し合えない、「言葉が通じない」、つまり心が通わない、信頼しあえないのであります。現代の青年の一つの特徴とまで指摘されているのは、傷つくことも傷つけられることも怖がって、心の内からの言葉を発することも出来なくなって、深い友人関係を築けなくなっているということです。
 考えて見ますと、私どもは、子どもの頃から、疑うことを学びます。学校では、疑うことが、もっとも大切だと、これが人間の理性だと教えられるのであります。「我思う故に我あり」これは有名な哲学者、近代の哲学を開始したと言われる人のことばであります。思うとは疑うことであります。疑うことこそ、真実、真理への道であり、疑う自分の存在の確かさを、人生の確かさとして据えるのであります。しかし、果してそれは、本当に人生の土台となる考え、「真理」なのでしょうか。

 さて、先ほどの、二重の不信仰に佇んでしまっている弟子たちに、復活された主イエスは、耳を疑うような驚くべきことを仰っいます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」つまり、世界で最も大切な働き、即ち主イエスの伝道の働きを他ならないこの弟子たちに委ねられるというのであります。3年間の共同生活を営んだ結果にもかかわらず、師であられる主イエスの言葉を信じられなかったばかりか、お互いのことばをも信じきれない、このふがいない弟子たちに向けて仰っられたのであります。
 これは、人間の常識では考えられないことなのではないでしょうか。もしも、いわゆる会社の人事を司る人が人物選考をするのであれば一体、このような人々に大切な仕事を委ねるでしょうか。それはありえない。むしろ信用できないと言って確実に落としてしまう。これが常識というものではないでしょうか。いったい、主イエスのような見方で、人を見るのなら、「あの人は人を見る目がない人だ」ということにならないでしょうか。実に、人間は人間を信じることができない、これこそ我々の根本的な問題であります。人間は人間を信頼し抜くことができない、そうであれば、その人間が神を信じること、信じ抜くことはなおさらできないのであります。これが我々につきつけられる最も深い問題なのであります。
 私どもはここで聖書の、聖書だけが告げる不思議なメッセージを聴き取りたいと思います。一言で申しますと、「人間を純粋に信じることが出来るのは、人間を信じ抜くことがお出来になるのは、ただ主イエス・キリストの神のみでありたもう」というメッセージであります。主イエス・キリストだけが、御自分を裏切った弟子、仲間同士をも信じ合うことのできない者たちを信じるのであります。信じ抜かれるのです。主イエス・キリスト、神のみが人間を信用し、信頼して、世界でもっとも大切な任務へと召しだすのであります。
 
 この神の人間への徹底した信頼によって、キリストの使徒とされた人にパウロという人がおります。この人は、やがて世界伝道旅行へと旅立ち、キリスト教を世界的な宗教の礎となった働きをした人です。このパウロは、主イエスを裏切った者ではありません。しかし、彼は、憎む者でありました。キリスト者を憎んだのです。イエス・キリストを憎んだのであります。そしてキリスト者とその教会を迫害し、殺害に加担すらしたのであります。復活された主イエス・キリストは、そのパウロにも現れてこう仰いました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」そこでも、主イエスはこの迫害者をご自身の証人、福音の証人、伝道者にすると仰っるのであります。
 新約聖書の使徒言行録にはこのパウロが、復活の主イエス・キリストと出会った出来事を実に3回も記しました。それはまるで、初期キリスト教の世界宣教の原動力が、主イエス・キリストの語りかけ、あのことばにあるのだといわんがばかりのようにも思えます。つまりこのような言葉です。「パウロ、パウロ、私はあなたを信じている。あなたは、私の証人となる、遠く世界の果てまで、復活を教え、福音の喜びを響きわたらせる人となる。私はお前を信じる。」
 聴き間違えないで下さい、はじめにパウロが主イエス・キリストを信じたのではありません。まず、主イエス・キリストが彼を信用した、信頼した、信じたと聖書は告げるのであります。人間は同じ人間を本当には、信じることはできません。信じ抜くことができません。だから、逆に神や宗教を信じることに走ると言ったら言い過ぎでしょうか。繰り返しますが、いったいそのような宗教、信仰、信心とは、言葉の正しい意味で信仰、信心と言えるのでしょうか。厳密に申しますならば、人間は、人間を、いわんや神を信じるはできないのであります。しかし!神さまは人間を信じることがおできになられるのであります。これが、私共キリスト教信仰の要、元、土台なのであります。これこそが、私共キリスト者、キリスト教の「信仰・信頼」の根拠なのであります。

 私は、最近、最初に申しました太宰治の短編小説の「走れ メロス」を読み返しました。短い作品ですから、今回は朗読したのです。私は、改めてこの作品を読んで、この短編を記した時の太宰の心の深い憧れ、本当に夢見ていた世界について深く考えさせられました。この作家がもしも、キリスト者に導かれて聖書を読み、教会に導かれたのなら、どうなっていたのだろうかと考えざるをえませんでした。
 少し、粗筋を申しましょう。メロスの肉親は、たった一人の妹だけでした。その妹が結婚することとなり、その準備を整えに町に出ます。その町は二年前に来たときには、夜でも皆が歌を歌うような賑やかな町でした。ところが、ひっそりと静まり返っていました。何故なら、王様のディオニスが、自分の息子、妹、妹の息子を、果ては妻をも殺すような暴君になってしまっていたからです。人を信用することができない、それがこの王の殺人の原因でありました。これを聞いたメロスは王ディオニスを殺さなければならないと考え、宮殿に向かいます。しかし、逆に捕らえられ死刑に処せられることになります。彼は、処刑の前に、三日だけの猶予を求めます。そこで、彼の身代わりに、親友のセリヌンティウスを人質にするように提案します。王は、ほくそえんで心につぶやきます。「どうせ逃げるに決まっている、人間がどれほど信用することが出来ないかを、これ以上市民に教えることもない」そこで、王は「少しだけ遅れてもどってくるが良い」と言って、メロスを釈放するのです。メロスは、脱兎のごとく、村に帰り大急ぎで、結婚の準備を整えます。そして、宮殿で人質になっているセリヌンティウスのもとに帰るのです。ところが、折からの豪雨で川は反乱します。盗賊も現れ、彼の行く手にたちはだかります。そのような困難を何とか切り抜けたのですが、遂に、疲労困憊して、眠ってしまうのです。そして、はっと目を覚ましたときには、日も傾いていました。もはや急いでも、間に合いそうにない。そのとき、心のなかに誘惑が囁きます。「ここまで頑張ったのだ、仕方がない、引き換えそう。」しかし、一息ついた彼は、立ち上がります。心にこう言います。「私を待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。わたしは信じられている。私の命なぞは問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は信頼に報いなければならぬ。今はただその一時だ。走れ!メロス 私は信頼されている。私は信頼されている。」「信じられているから走るのだ。」

 ここに、太宰の深い憧れが読み取れます。暴君のディオニスはこう言いました。「人の心はあてにならない。人間は、私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ」このセリフには強い説得力があります。しかし、人間らしく生きるためには信じることが不可欠でもあるのです。信じられている、それこそが人間を生かす力となります。走らせる勇気となります。人間は自分自身のためだけなら、生きる底力が湧かないのであります。人間は、誰かの為に生きたい。特に信じられている誰かのためにと思うときにこそ、生きようとする、生きる勇気が湧くのであります。もしも、メロスにたった一人の愛する妹、そして親友のセリヌンティウスがいなければ、果してこのような生き方が貫けたでしょうか。

 しかしそれなら、私共にはメロスにとってのセリヌンティウスのような親友がいるでしょうか。あの妹のように愛する者がいるでしょうか。今、「はいおります。」と即答出来る人は幸いな方と思います。しかし、もしかすると「私にはいません。」とうつむかれる人もおられるかもしれません。しかし、ここにいる私共誰にでも一人のセリヌンティウスがおります。否、セリヌンティウス以上のお方がおられます。そのお方のお名前は、主イエス・キリスト。
 セリヌンティウスはメロスが戻ってくると信じて身代わりに十字架にはりつけられることを拒みませんでした。それなら、私共の主イエス・キリストは如何でしょうか。このお方は、私共が戻って来ないことをご存じでした。その上で自ら進んで十字架についてくださったのです。頼まれもしないのに、ご自分の方から、私共の罪を償うために、十字架に事実、はりつけられたのであります。十字架の上では、主イエスは「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分で何をしているのか分からずにしているのです。」と祈ってくださいました。呪ったのではありません。執り成し祈ってくださったのであります。つまり、信じ抜いてくださったのであります。主イエス・キリストは弟子たちに裏切られ、捨てられた十字架の上でなお、彼らを愛し、彼らの将来を信頼しておられるのであります。このような十字架の主であればこそ、復活されたた後もまた、裏切った弟子たちの前に立った時に、同じように、愛を示し、信じ抜くことがおできになられるのであります。
 そして、この主イエスの自分たちに向かう信頼を弟子たちが知ったとき、その信頼に触れたその時、弟子たちは生まれ変わったのであります。生まれ変わらせられたのであります。この「神の人間信頼、神の弟子たちへの信頼」が彼らを全く新しい人に造り変えたのであります。キリストの真実、キリストの私共への信頼がこれを受け入れた者をして神の子、正しい者と造りかえてしまうのであります。実に、神に信じられていること、それを知って初めて、私共もまた神を信じることができるのであります。これこそ、聖書が明らかにする真の信仰なのであります。神に信じられていること、言葉を換えれば神に徹底的に愛されていることを知って初めて、私共は走りだすことが出来るのであります。キリスト者とはそのような人、キリストの真実、キリストの信頼、キリストの恵みを知った人に他なりません。

 さて、あのメロスはセリヌンティウスがまさに十字架にはりつけられるその時に、宮廷に飛び込んで来ます。間に合ったのです。それを見ていた群衆は、「あっぱれ。ゆるせ」と口々にわめきます。そして、彼の縄は解かれるのです。ところがメロスはセリヌンティウスにこう言いました。「私を殴れ」。何故か。それは、彼の心に一瞬、裏切りの心がよぎったからなのです。そこで彼は願いどおり、メロスを力一杯、刑場に響く音で殴ります。すると、こんどは、セリヌンティウスがメロスに「私を殴れ」と申します。同じように、彼の心にも一瞬不信の思いがよぎってしまったからです。殴られなかったら、抱き合えないのです。こうして互いに殴ったあと、彼らは抱き合って嬉し涙を流します。おいおい声を放って泣きました。
 主イエスはここで、不信の弟子たちの「その不信仰とかたくなな心をおとがめに」なっておられます。そしてこのように仰いました。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」これは、叱責です。これは、主イエスがとうしても仰っらねばならない命令、叱責であります。不信仰は罪だからです。主イエスの御前にかたくなな心のままで留まっていてはならないのであります。それは、見過ごしには決して出来ない罪なのです。笑い事ではないのです。
 弟子たちにとって主イエスの叱責は、どれほどありがたいことばであったろうかと思います。叱責されないということは、見放されたことであります。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われなければ、私共もまた主イエス・キリストと新しい関係を結ぶことはできないのであります。弟子たちの裏切りと不信仰は、主イエス・キリストによってこのようなあり方、仕方で克服されてしまうのであります。これは、どこまでも叱責です。叱りつけられるのであります。しかし、それは、愛に基づくものです。赦しに裏付けられた叱責なのです。主イエスはこの不信仰の罪を犯した弟子たちの罪を赦すために、御自身の命を十字架において捧げて下さいました。主イエスは、彼らの身代わりになって罪の審きを受けて死んでくださったのであります。このキリストの赦しが確立しているからこそ、主イエスは弟子たちを叱責することがおできになられたのです。弟子たちもまた、この叱責を受けてきちんと立ち上がることができるのであります。
 
 この二人の様子を見ていた、王は顔を赤らめて言います。これが、この作品のハイライトであります。王は言いました。「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」実は、ここで王にも深い憧れがあったことが示されます。もしかすると、自分でも気づいていなかったかもしれません。しかし心の奥底に秘められていた憧れが、今、一気に噴出したのです。それは、人間同士が本当に信じ合うこと、友情、信と実とによって築かれる共同体、人間社会の実現であります。この王の深く心の底に隠し持っていた憧れ、自分では既に失っていたと思い込んでいた憧れを、メロスとセリヌンティウスの友情が呼び覚まし、満たしたのであります。
 これは、一人この王だけの問題ではない。これは、人類の憧れに他なりません。人類は、その最も深いところで、この憧れを抱きながら、苦しんでおります。憧れの形としての国連をつくってなお、戦争、紛争はなくなりません。人間がお互いの敵となり、殺しあっています。しかし既に、世界の憧れ、信頼の共同体、信じ合う平和の社会は、イエス・キリストによって開始されております。既に、主イエス・キリストの十字架と復活の御業は成就され、聖霊は注がれたゆえに地上にキリストの体としての教会が誕生しているのであります。教会とはどのような集いなのでしょうか。キリストの教会とは、神の愛と真実、神の信頼を身に受けて、罪赦され、神の子とされ、新しい人間とされた者たちの集いであります。神に信じられている、愛されていることを知らされた者たちが集められた神の民の家であります。ここにおいて、私共は、真実の交わり、即ちキリストを中心とした交わりを造り始めているのであります。ここにおいて、キリストを主と告白する家を築くのであります。その時には、教会はお互いを兄弟姉妹、キリストに結ばれた神の家族として見なす新しい眼差しを与えられます。そのような、自分たちになりたいと憧れ、そしてそれを求めて、戦いはじめるのであります。その戦いは愛の戦いであり、そのような交わりをもって、世界に開かれるのであります。ついにあの王が彼ら二人の間に人間の真実を見、憧れを見た時、口にしたことば、「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」この願いを起こさせるために、教会はますます教会の形成に励み、伝道に励むのであります。
 いかがでしょうか。ここには、洗礼を施されて、既に走り始めている方も、まだそうでない方もおられるでしょう。しかし、ここにいる誰一人としてこの神の愛の眼差しから漏れている人はおられません。あなたも真の神から信頼の眼差しで見られているのであります。ご一緒に、仰ぎ見てください。神の信頼の眼差しに気づいてください。キリスト者とは、神に信じられているから神を信じる。神に愛されているから神を愛し、信じて走る者であります。

 祈祷
 私共は真実の意味で、隣人を、自分自身を、そして何よりも神よ、あなたを信じきることができません。罪人だからであります。しかし今朝、その罪人である私をあなたが愛し、信頼し、真実を貫いて下さったことを改めて教えられました。どうぞ、新しく来られた方にも、キリスト者にも、この恵みの事実に深く気づくことができますように。走り始めている者は終わりまで走り抜かせてください。うずくまっている方には、この朝、あなたが触れて下さって、この教会の交わりの中で、共に喜んで走りはじめることができますように。私どもの教会が、福音の為に走り続ける教会として、人類の憧れを満たす主イエス・キリストが共におられる聖なる交わりとして形成してください。アーメン。