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「キリストの実を結ぶ民」

「キリストの実を結ぶ民」

2003年6月1日
テキスト イザヤ書 第5章1節~6節
ヨハネによる福音書 第15章1節~10節

 一月ぶりに、ヨハネによる福音書に戻ります。4月27日に学びました第15章1節~10節からもう一度学びます。そこで、改めて確認しておきたいと思います。この有名な説教はいつ語られたのでしょうか。それは、夕食の席でした。そこでぶどう酒が飲まれました。しかも、単なる夕食ではない、主イエスの地上での最後の夕食の席でのことであります。主イエスは、お別れの説教、最後の説教をここでなさっておられるのです。どのような思いで主は、弟子たちに語られたのか。それは、ヨハネによる福音書がこの最後の夕食の席での物語の冒頭、13章1節でこのように記したとおりのものであります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この上ない愛、極みまでの愛、最高の愛、至高の愛で弟子たちを愛し抜かれたのです。実に、その愛の言葉がこのぶどうの木の説教なのであります。

 聖書をひも解いてまいりますと、その最初に位置する旧約聖書から始まりまして、「実」「結実」「実り」と言う言葉が数多く出てまいりますことに気づかれると思います。そこで例えば、すぐに思い起こす事ができるのは、エデンの園の情景でありましょう。そこは、食べるに良い実をもたらす木に満ちていました。ところがアダムとエバは、食べてはならないと禁じられた唯一の善悪の知識の木の実を食べてしまいます。神に罪を犯したのです。この人間の罪によって土地は呪われるものとなってしまいました。つまり、土は良い実りを生え出でさせることが困難になってしまったのでした。
 聖書のこの始まりの物語を受けて、その後に続いてまいります聖書の文書には、実り、実を結ぶという言葉が散りばめられています。聖書の大きな物語は、かいつまんで申しますと、神は、その民に良い実を実らせるよう働いておられる。当然その民は良い実を実らせる事が期待され、要求されている、ということです。このような物語は、新約聖書においては旧約聖書以上に出てまいります。しばらく中断しておりました祈祷会での学びのヨハネの黙示録の最後、つまり、聖書の最後の章の22章には、このような箇所が出てまいります。神が私どもに与えてくださる新しい世界、新しい時代、その新しい天と新しい地には、水晶のように輝く命の水の川が都の中央を流れていると言うのです。その両岸には、命の木が植えてあり、実に毎月実を結ぶ、年に12回実を結ぶと表現されております。しかも、その実は、諸国の民の病を癒す、治すことができると言われます。それは、エデンの園をも上回るようなまことに驚くべき豊かな実りのイメージです。私ども教会生活の言葉、祈りの言葉として、実を結ぶ、実りと言う言葉はしばしば口にのぼることは当然かと思います。その意味で、本日の主イエスのなさったぶどうの木の譬えの物語も、旧約聖書以来の神の激しい御心が改めて示されていると読む事ができます。
 このほんの短い説教の中にいったい実を結ぶと言う言葉が何度繰り返されていることでしょうか。実に8箇所に上ります。この小さな説教の中で、主イエス・キリスト御自身、どれほど真剣に願っておられるかを思います。「あなたがたキリスト者がどれほど実を結ぶものとされているのかを知って欲しい、それゆえに実を結ぶものとして豊かに生きて欲しい」こう痛切に願っておられる故に、ここでこの説教をもって訴え、招いておられるのであります。
 私はここで、主イエス・キリストがお話された説教によって、おそらく皆様も良くご存知の詩篇、詩篇第一編を思い起こしました。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」これは単に私が思い起こしたのではなく、もしかすると主イエス御自身が思い起こされたのではないかと思います。「時が来れば実を結び、その葉はしおれない」と歌うのです。詩篇第一編のこの詩は、詩篇の150の詩の最初の詩であるだけに、詩篇全体の通奏低音となっております。神の教え、御言葉、律法、掟を口ずさむ人、御言葉を心に信じて行なう人は、必ず実を結ぶと歌うのです。これは、聖書の信仰そのものであります。つまり、実を結ぶ事のないキリスト者など決してありえない、これが、信仰者の確信なのです。信仰者の、詩人の経験なのです。そしてそれは言うまでもなく、神の約束だからであります。そうであれば、信仰者の中の信仰者であられ、真の神よりの真の神であられる主イエス・キリスト御自身が、この詩篇第1編を自ら歌われ、この詩を書かせられたお方と言って良いと思います。そして、御自身がこのテキストにおいて、この詩篇第1編を歌いなおされたと理解することができると思います。信仰者、キリスト者のイメージ、それは、流れの辺に植えられた木、その人のすることはすべて繁栄をもたらすというイメージと言って良いと思います。ですから、そこで明らかになるのは、「実を結ばないキリスト者」と言うようなことはありえないのです。それは、例えば「黒い雪」とか、「真っ青な夜空」とかが、存在し得ないようなものです。まさに言葉の矛盾となるのです。
 あるいは、主イエスは、ぶどう園と農夫のたとえをも語られました。ここでは、神がどれほど私ども神の民に収穫を求めておられるのかが鮮やかにしめされております。このような物語であります。ぶどう園の主人が農夫に農園を任せておりまして、収穫のときにその実りを受け取るために、僕を派遣したところ、農夫は僕を袋叩きにして帰しました。さらに僕を送っても同じようにしました。さらに送ったとき、今度は殺してしまいました。最後に愛する一人息子を送ったときに、農夫は遂に、その独り子をも殺してしまいました。主イエスがここで何を教えようとなさったのか、これは、私どもにはよく分かると思います。つまり、主イエス・キリストは、これを父なる神が御自身を十字架に送られたことを譬える物語、その予告として語られたのです。そこで、ポイントになるのは、ぶどうの実の収穫です。結実です。つまり神は、私ども神の民に収穫を、結実を求めておられるのです。それを要求なさるのです。要求する権利を神はお持ちなのであります。ところがしかし、我々は、その結実を実らせなかったりするのです。あるいはその実を自分勝手に利用したり、その収穫を横取りしようとさへするのであります。いえ、そればかりではありません。最大の罪は、我々は父なる神が与えてくださった独り子主イエスを十字架で殺してしまうのであります。これは、2000年前のことだけと理解することは許されません。今、そのようにしているのです。主イエスに従わなければならないのに、従わない事は、主イエスを無視することです。主イエスを無視することは、黙殺という言葉がありますが、主を殺しているのです。キリスト者とは、ぶどう畑に植えていただいたものとして、主イエスを信じ、つながって、その支配に喜んで服すること、そのようにしてたわわなキリストの実を結ぶ者のことです。

 主イエスは、ここでまさに実りについて説教されます。私どもに要求されている「結実」について正面から語られます。主イエスは実を求めておられるのです。それなら、今朝、このことが問われている事は明らかであります。私どもは、果たして豊かな結実を結んでいるのか。
 もしかするとある人は、こう仰っる方かもしれない。「わたしはまだまだですが、その内に、つまり時が来れば何とか実を結ぶと思います。」またある人は、真面目に仰っる方もおられるかもしれません。「もう何年も、何十年も、教会生活をしているのですが、ちっともダメです。火の中に投げ込まれてしまうのかもしれません。」またある人は、このように仰っるかもしれません。「はい、キリスト者になってから、実を結ばせていただいています。やることなすこと、上手く行っています、怖いくらいです。」今、描き出した三つの答え、いずれも、大きな問題をはらんでおります。端的に申して、間違った理解です。

 そのことを問うときに先ず確認しなければならないのは、ここで主イエス・キリストが示された実りとはどのようなものなのかであります。そこで、最初に触れたいのは、あの洗礼者ヨハネが悔い改めにふさわしい実を結べと叫んだときの、「悔い改めの実」についてであります。この実とは、いつも、どの実にも、悔い改めの香りが立ち上る、神への悔い改めの味わいがするものということです。これが真のぶどうの木の結実とこの世、単なる人間の実らせる結実との差です。人の目に、どんなにすばらしい結実、業であったとしても、そして事実、人間の正義と公平、福祉と芸術などの点で、すばらしいものであったとしても神への悔い改めの香りが立ち上らないものは、キリストの実とは異なると言わざるを得ないのです。
 あのぶどう園と農夫のたとえで、主イエスが「神の国にふさわしい実を結ぶ民族」と仰ったとき、神の国にふさわしい実とはいかなる実なのでしょうか。あるいは、良い畑、悪い畑の譬えの中で、30倍、60倍、100倍の実を結ぶと言われる、その実とはどのような実なのでしょうか。それは、第一に、ぶどうの木が結ぶ実であります。ぶどうの枝は、ぶどうの木につながっている間に実らせるのです。たわわなぶどうの房は、ぶどうの木の力です。ぶどうの枝が、ぶどう以外の実りを実らせることはできませんし、してはなりません。つまり、この実はキリスト御自身が結ばせる実であります。そうであれば、この結実は、「いやぁ、信仰を持ってから、人生は好転しました。やることなすことうまく行きます。運勢が上向きました。」言うまでもなく、このようなどこかの怪しげな宗教の呼び込みのような結実を期待したり、いわんや、それがキリスト者の実らせる実り、神が求めておられる実りであると考えるなら、それは、信仰の学びを最初からやり直さねばなりません。主イエス・キリストをどのように知ったのかが根本から問い直さざるを得ません。主イエス・キリストを見失っているのであります。
 それを聖書において明らかにしたのは、使徒パウロでした。ガラテヤの信徒への手紙第5章で、パウロは、肉の業つまり、罪の実り、罪がもたらす行いを数えました。もちろんそれだけで言い尽くしたことにはならないでしょう。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」何よりもここでいの一番にあげられたのは、愛であります。それは、主イエス・キリストがこの説教で、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていると仰ったこととまったく通じます。神への愛と隣人への愛これこそ、主イエス・キリストが実らせてくださる実りの筆頭、第一なのです。神への愛は、ここでは、主イエス・キリストの弟子となることと置き換えられます。豊かな実を結ぶことと、キリストの弟子となることは一つのことであります。実を結べた人が弟子になれるのではありません。弟子と結実とは同じことであり、それを言い換えたのです。順序ではありません。キリストの弟子は、つまりキリストにつながるものは、必ずキリストへの愛に生きるし、その結果自分を愛するように隣人を愛することへと動かされてしますのです。これは、キリスト者が全員経験させられていることのはずであります。どれほど、愛することにおいて失敗しても、しかし、なお、キリストを愛し、それゆえにキリストの愛しておられる自分と隣人を愛さなければならないという志、この愛する戦いへのファイトが生まれるのです。これは、キリストがつながっている私どもに注いでくださる愛があるからであります。
 このことがわきまえられるなら、自分はまだまだ実を結んでいませんと言う必要はなくなるはずであります。私はもう何十年も信仰生活をしているのですが、火に焼かれるような者ですと言えなくなります。何よりも、自分が火に焼かれるかもしれないという恐れを抱いて生きることは、私どもに許されていません。愛には恐れがないと、使徒ヨハネは言いました。火に焼かれるとは、地獄、永遠の刑罰に落ちることです。キリスト者が自分をそのように考えることは許されていません。もしも、考えてしまわざるをえない罪を犯しているなら、それは、どんなことをしても、「その状態を脱出させてください」と、悔い改めの祈りに集中するようなまさに危機的なときであります。永遠の滅びは、私は経験がありませんが、耐え難いことであると思います。

 実際のいちじくの木には、きちんと実らせる時期が定まっています。しかし、キリスト者は、キリストにつながった瞬間、その瞬間から、キリストの弟子としての資格が与えられ、結実も与えられているのです。もちろん、それは時間の経過とともにますます豊かに実らせられます。それを目指して私どもは希望をもって毎日を御言葉と祈りによって進んでいます。けれども同時に思います。主イエスへの愛は、あの洗礼を受けたときの幼い信仰のときと、今の信仰における愛もかわっていないかもしれない。成長がないかもしれない。しかし不思議にまた同時に思います。讃美歌にあるように、これほど主イエスを愛するのは今日始めての気持ちがする。これは、私どもの礼拝経験を歌っているのです。キリストとつながっている私どもは自ら驚かざるを得ないのです。キリストを愛する自分を発見するからです。神を愛する愛はもともと自分のなかに備わっていたのではなかったからです。私どもはキリストの弟子とされてしまっているのです。そうであれば、きちんと実りたい。もっともっと実りたい。
 
 ここで、主イエスはこれによって、「私の父は栄光をお受けになる」と仰いました。ウエストミンスター大・小教理問答、子どもカテキズムの問い1は、人生の目的を、神の栄光を現すこととしています。特に、私が書きました、子どもカテキズムの問い2はこれを受けてこう続きます。「どうしたらそうなりますか。」「主イエス・キリストを信じて救われること、神さまの子どもとされることです。」ここで、はっきりと主イエス・キリストとつながることを明らかにしました。主イエス・キリストを信じることであります。これが神の子であり、キリストの弟子なのであります。私どもは今、神の子です。キリストの弟子であります。その本質において、誰もが既に豊かな命の実りを等しく結ばせられました。ただしその豊かさにおいては、ひとりひとり差があります。確かに、歴然とした差があります。もちろん、私どもは、お互いに比べることは致しません。それは、意味のないことです。しかし、真実に求めます。神の栄光を現す事が出来る特権を与えられた以上、自分の最大限の努力を持って、志を高くして、ただ神の栄光を求めて生きるのです。そして、繰り返しますが、それは、キリストとの結合を深めることに、主とつながることにかかっています。キリスト者としての豊かな実り、信仰の成長は、神の言葉を豊かに聴き取ることに掛かっているのです。主イエス・キリストとつながることは、主イエスの御言葉を豊かに宿らせることに掛かっているからであります。
 主イエスはこのぶどうの木の説教を最後の夕食の折に話されたことを最初に確認致しました。極みまでの愛をもって、この御言葉は語られたのです。主イエス・キリストは、私どもにさらに豊かに実らせるために、神の御言葉である説教と祈りと礼典を用意して待っていてくださいます。そしてまさに今、神の栄光を自分の最高の生きる目的とし、それを実践する力を与えるために、主イエスは、聖餐の食卓を整えて待っておられます。今共に、感謝と深い悔い改めをもって、切なる期待と求めを持ってこの食卓に着きます。私どもの力、営みが実らせるのではありません。主の復活の命、主イエス・キリストが獲得された結実を今ここで、私どもに注ぎ込んで下さいます。そのようにしてキリストの結実が、他ならないここにいる一人一人を通してたわわに実るのであります。このキリストが私どもになしてくださる御業を信じて、今、聖餐を祝います。 
祈祷
 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、私共は今、真のぶどうの木の枝としてつながっております。私どもの遣わされている世界は、その価値観は、人生の成功をお金、地位、自己実現の充足感で計ります。人間の欲望のはかりで計ります。私どももまた、足もとをすくわれます。しかし、真の実りはキリストにつながることであります。あなたこそが、人間の実らせるべき実りを収穫されます。人生の最終結果は、あなたが審判なさるのです。どうぞ、そのことを絶えず思いながら、キリストが実らせてくださる真の実りを豊かに実らせてください。                      アーメン。