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「キリストの選びと任命にあずかった教会」

「キリストの選びと任命にあずかった教会」

2003年6月8日
テキスト 使徒言行録 第2章1節~6節
ヨハネによる福音書 第15章1節~10節

 本日は、聖霊降臨祭を祝う礼拝式であります。今日の主の日は、世界中の教会で特別に待ち望まれ、そして今、祝われていることと思います。私どもは、第一主日と教会の祝祭日には聖餐を祝います。先週に続いて、今日も皆様と共に聖餐を祝うことができますことを心から嬉しく思います。

 さて、与えられておりますテキストは先週と同様、ヨハネによる福音書第15章、まことのぶどうの木のたとえです。これは、ヨハネによる福音書における教会論、つまり「教会とは何か」を教えているものと言われております。教会は、ぶどうの木なるキリストとそれに繋がっている私どもによって地上に存在しております。この木とつながっている枝がキリスト者であり、この木と枝をあわせて教会と申します。
 実は、私は今回の説教準備を通してはじめて考えさせられたことがありました。まことにうかつであったと自ら恥じております。それは、聖餐の礼典で頂くぶどうのジュースについてです。この説教は、主イエスが弟子たちと最後の晩餐をなさった直後でなされたものであります。そこで、「あなた方は私自身であるぶどうの木の枝である」と仰って続いて私どもに「あなた方は必ずぶどうの実を豊かに結ぶ」と約束し、励ましてくださいました。その主が、弟子たちの教会に聖餐の聖礼典を定められました。「これはあなたがたのために流す私の契約の血である」と仰って、聖餐の礼典において、ぶどうの実であるぶどう酒を飲むようにお求めになられたのでした。この時の弟子たちは、そこでこそ良く理解できるようになったと思います。つまり、主イエスは、自分たちにぶどうの実を実らせるために、ぶどうの実でつくられたぶどう酒を振舞ってくださるということ、そのなかに、一つの真理が明らかにされているのであります。つまり、私どもキリストの弟子達が、良き実を結ぶと言うことは、主イエス御自身が準備して飲ませて下さる杯、このぶどうの実りを飲ませていただくことによってこそ実現できるものなのです。つまり、私どもが自分の力で実らせられるものではないのであります。主イエスが実らせてくださったものを飲ませられる、注がれる、注入されることによって、まるで自分が実らせたかのように豊かな実を結ばせられるのであります。その事を、聖餐の度ごとに繰り返し思い起こされ、教えていただいているのです。真に幸いな事に、私どもは、今日も主の聖餐の食卓に招かれております。主イエスは、聖餐の度に、わたしは真のぶどうの木、あなたがたはその枝であると、説得し続けてくださるのです。「わたしこそが、あなたがたに豊かな実を結ばせるのだから、皆、この杯から飲みなさい。私を信じて、私との交わりに生きてゆきなさい」このように説得してくださるのです。ですから、キリスト者は、心してこの聖餐に与りたいのです。そして、未だ聖餐にあずかる事ができない方々は、一日も早くこの命の祝福に与っていただきたいと思います。
 聖餐のぶどうのジュース、ぶどう酒は主イエス・キリストの十字架で流された契約の血を象徴しています。主イエス・キリストは、真に豊かな実りを実らせてくださいました。それは、他でもありません、御自身の命をもって贖いとってくださった神の教会、御自身の教会という実りであります。この教会の一枝として私が、皆様ひとりひとりが加えられています。主イエスは受肉から始まり、十字架に至る苦難と十字架の死、そして復活と昇天の栄光によって、私ども一人ひとりに罪の贖い、罪の赦し、永遠の命という、この世界の中で最高に尊い、最も高価な実りを、実に無代価で、何の咎めもなしに、何の条件もつけずに、豊かに振舞ってくださったのです。今ここで、振舞い続けておられるのであります。そのようにしてあがなってくださった神の民、教会は今や、一本のぶどうの木が遠くまで枝を伸ばしている、あのぶどう畑の棚田のように世界中に張り巡らされています。国境を越え、時代を越え、民族を越えて世界中にキリストの教会が形成されている事実こそ、主イエス・キリストの獲得してくださった実りであり、十字架の御業、主イエスの苦難と死、復活と栄光の御業に他なりません。
 先週、NHKの昼のテレビ番組で、長崎の小さな島にあるカトリック教会が映っているのを見ました。全島民700人の7割がカトリック信者であるその島の人々が今日のこの日のために、教会の庭の手入れをなさっておられました。その教会堂は、100年あまり前に、4万個のレンガを焼いて、信徒たちが自ら積み上げたものだそうです。聖堂の中のミサを執行する祭壇はもとより、内部の空間も外観をも自分達の出来うる限りの財を捧げて美しく整えております。また、島の保育園の子どもたちがカトリック聖歌を教会堂の中で歌ってみせてくれていました。その島の歴史家の方で信者の方が、「この子たちが将来、この教会を支えてくれるのです」と誇らしげに語っておられたのが実に印象的でした。長崎に主イエス・キリストの御名が唱えられるようになったのは、既に450年以上も昔のことです。この世界の果てにある国にまで、はるばる宣教師が来たのです。そして、日本人が心の底から、主イエスとその教えに、それを伝えたキリストの弟子たちに感動して、強固な教会が作られはじめたのです。十字架の実りであり、聖霊の御業であります。
 私どもの教会もまた同じであります。まだ10年にも満たない若い開拓教会ですが、キリストの実り、聖霊の御業によって、今朝ここでキリストの臨在する神の民の祈りの家で、祈りを、主日礼拝式を捧げているのです。これにまさる幸いはありません。
 そして、実に、今朝は、そのような教会が歴史上、地上に形をとって誕生した記念日、それが今日の聖霊降臨祭なのであります。本日、聖書朗読として使徒言行録を読みました。そこで、何が書いてあったのでしょうか。聖霊が降臨された結果地上の何が、どうなったと言うのでしょうか。聖霊は、主キリストが獲得してくださり、実らせてくださった御業をこの地上に具体的に当てはめてくださるお働きをなさいます。しかし、その十字架と復活のキリストの御業は単に、ひとりひとり、ばらばらに、それぞれを別々に救って、当てはめてそれで終わるものなのでしょうか。まったくそうではありません。使徒言行録は鮮やかに証しています。聖霊が降臨されたとき、そこに何が実ったのか。聖霊の降臨によって、地上にキリストの教会が出現したのであります。教会が形成され始めたのであります。つまり、主イエス・キリストの御業の目的も、聖霊の御業の目的も、ここに神の教会を形成するために他ならないのであります。私どもが、開拓伝道のその最初から祈り続けております、「ここに神の教会を、ここに聖餐を囲む共同体を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの教会を形成させてください。」と祈り続けていることは、まさに、神の地上における働きの最大の目的である御業の拡大、前進を祈っているのであります。
 さてしかし、主イエスは、ヨハネによる福音書において、教会という言葉は用いられません。それなら、神の民の祈りの家、教会を何と表現するのでしょうか。それは、「弟子」であります。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」福音書とりわけヨハネによる福音書の中には、「弟子」と言う言葉が繰り返し登場します。
 再来週、加入式が挙行されようと致しております。真に感謝な事に、教会員が4名増えます。成人会員と小児会員、そして幼児洗礼入会者が与えられます。そのために、ほとんど今までの最短の時間でしたが、学びの時を持ちました。来週、お二人には、入会志願書を提出していただき、そして試問会を開き、そこで最終の決定を致します。お二人とも、これまで、すべての洗礼入会志願者、加入志願者、転入志願者の方々と致しました一つのプリントを用いて学びと確認の時を持ちました。その文書の冒頭にこう記しています。「あなたはこの度、当教会の会員として、教会の形成に参与することを申し出られました。」つまり、洗礼を受ける志願も、他教会の会員の方が私どもの教会に入会を志願される場合もいずれも、この教会の形成に参与する特権に生きることを志願するのです。つまり、信仰とは私的、個人的なことがらではなく、公的、共同体的、教会形成的なものなのです。今日の文脈で申しますと、キリストの弟子として、この教会で生きることを志願するのです。志願の「志」はこころざしと書きます。教会は志を同じくする者の集いであると言っても間違いではありません。そこでの志とは、ひとつキリストの思い、キリストの志を共有するということであります。そしてそれこそが、キリストの弟子の姿に他なりません。この弟子たちの集い、共同体が教会なのであります。

 ただしかし、そこでこそ改めて丁寧に申さねばなりません。確かに教会の入会は、志願者が自ら志願しなければ果たされません。しかし、キリストの救いは、自ら志願し、それによって受けることができるものなのでしょうか。これは、私どもの救いの理解、福音の理解にとってその最も基本的な問い、根本的に重要な問いであります。言うまでもなく、キリストの救いは、私どもが自ら志願して、選び取って、獲得することはできません。まったく不可能であります。私どもには、そもそも、神を信じる能力がまったくありません。完全に堕落した罪人である私どもは、救いに対して何の能力も、ましてや賢さ、功しは持ち合わせておりません。それなら、何故、今日私どもはここにいるのでしょうか。何故、聖餐に招かれているのでしょうか。それは、16節において明らかであります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」キリストが私ども枯れていた枝、捨て置かれてやがて焼かれるだけであった枝、死んでいた枝を拾い上げてくださったのです。拾い上げて御自分と結び合わせ、つなげてくださったのです。それによって、私どもは今このように霊的に生きる者となったのであります。つまり、そもそも私どもの方で、キリストの救いへと志願したのではなく、キリストに選ばれて救われて、キリストの弟子とされたのであります。「あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」これこそ、私どもの信仰の土台です。
 
 主イエスに選ばれた弟子たちである私ども、これが、主イエスが描き出してくださった私ども教会のイメージであります。ぶどうの木に連なる枝のイメージなのであります。そしてそのような弟子に、主は、驚くべき約束をしておられます。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」何でも与えられると仰ったのです。これは、なんと言う大胆な約束でありましょうか。どこかの新興宗教か、教祖であっても、これほどまでにストレートに約束するような事は考えられないのではないでしょうか。「あなたのお願いを何でも聞いて上げる」こんな宗教があったら、さぞ、信者が増えるか、あるいは、破綻するか、どちらかなのではないでしょうか。何でもお願い事を聞いてくれる人、宗教なるものがあるのなら、これぞまさにご利益信仰、ご利益宗教そのものでありましょう。しかし、主は、ここで、嘘ではなく、宣言なさっておられます。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにとあなた方を任命したのである。」主イエスは御自身が弟子として選び、任命した者たちをご存知なのです。それは、このような人ではありません。「キリストの選びに与ったわたしは、父なる神さまにお祈りすれば何でもかなうように祝福されている。だから、クリスチャンのわたしには願う物は何でも与えられるすばらしい特権がある。」このように、信仰を個人主義化したり、あるいは、信仰を自分の人生の幸福実現の装置、心の平安の拠り所のように考えたりする人、弟子はいないはずなのです。
 ここで、主が「わたしの名によって」と仰ったことが大切です。主イエスの御名を唱え、父なる神に祈り求めることとは、どのようなものなのでしょうか。自分勝手なお願い事をくどくどすることなのでしょうか。果たして正しく主イエスの御名を唱えるとき、そのような祈りができるのでしょうか。ここが急所です。主イエスの御名を唱え、大切に、畏れを持って唱えるなら、私どもはどうしても、主イエスの御心を知りたくなるはずです。主イエスが願っておられる事を祈りたくなるし、祈らねばならないと教え諭されるはずであります。それなら、一番大切な、主イエスの御心とは何でしょうか。それこそ、主イエスが私どもに聖霊を注いで下さった目的そのものにほかなりません。聖霊の降臨は、即、教会の誕生の祝いでした。繰り返しますが、聖霊の御業は確かに、私どもひとりひとりに注がれ、働き、導いてくださっているのですが、それは、教会をここに誕生させ、形成させるためのものなのです。これが、聖霊のお働きの目標なのです。だから、主イエスは、何でもお願いしなさいと仰ったとき、その「何でも」とは、弟子への深い信頼に基いての言葉であると思います。弟子は、その師に真似る者です。師の心、志を自分の志にして生きる者です。愛に生きるのです。教会のために生きるのです。

 最後に、覚えましょう。ここで、私どもの師なるイエスさまがなしてくださったことは、十字架でした。命を捨ててくださったのです。その目的もまた、教会の誕生、教会の形成であります。主イエスの命が犠牲になって、教会はこの世界に出現する事ができたのです。それは、実に、友のために命を捨てる行為でした。「人がその友のために命を捨てるこれ以上の愛はない」とは、まさに、主イエス・キリストが示してくださった愛に他ならないのです。それは、主イエスがこう仰ったことであります。「あなたがたを僕とは呼ばない、僕は主人の心、志が分からないが、私どもに主イエスの御心、父なる神の教えをすべて教えられたからである」と主イエスが仰っいました。つまり、私どもは主イエスの弟子であり、そればかりか一方的に友と看做され、友と呼ばれてしまっているのです。だからこそ、この翌日に、私どもの友になってくださったイエスさまは十字架で自らの命を捨ててくださって、この言葉を真実なものとしてくださったのであります。
 ヤコブの手紙第2章においてヤコブはこのように言います。アブラハムは神の命令どおり自分の息子イサクを捧げた事によって、神の友と呼ばれた。私どもは、誰でもアブラハムのような信仰者であると言いきれることは難しいと思います。アブラハムはまさに信仰の始祖であり、いつまでも信仰の巨人です。しかし、主イエスは、この私どもを友と認め、呼んで下さったのです。それは、私どもが自分自身や、自分の一番愛する者を犠牲にしたからではありません。逆であります。主イエスが私どもの犠牲となってくださったのであります。そのようにして友となってくださったのです。
 主イエスは、私どもを救いの内に、弟子とするべく、そればかりか友とするべく選んでくださいました。主イスラエルの弟子、友として生きる者は、独りぼっちの弟子としてではなく、弟子集団の中で生きるのです。そしてこの弟子たちは、師であり主であられるイエス・キリストの教会に仕え、教会に生き、教会に奉仕します。聖霊によって生まれた教会に、キリストによって拾われ、つなげられ、弟子とされた私どもは生きるのです。しかも、この教会を通して生きる私どもが結ばせられる実りは永遠に残る実りとなります。
 この実りは、実に多用な実りとなります。ひとりひとり個性的な実りとなります。先先週の説教で、この実りは、悔い改めの香りがすると学びましたが、もう一つの特色は、愛の香りです。どんな実りであっても、キリスト者が結ぶ実は、互いに愛し合うという実りとなります。キリスト者が、この実りを豊かに結ぶことによって、この世の人々は私どもをキリストの弟子として認めてくれると主イエスは仰いました。そして、そのように認める人々の中から、私どもと同じように、弟子として選ばれ、弟子の仲間に加えられる人々が起こされて来るのであります。
 私どもは、「これ以上に大きな愛はない」と仰った主のその愛を受けて、今ここにおります。主の命を与えられて、弟子として、友として生かされております。ただ今、聖餐を祝います。それは、友のために自分の命を捨てる主、これ以上大きな愛はないその愛を、その身を持って示してくださった主の御業を受けることであります。この聖餐にあずかる私どもは、ますます教会形成へと駆り立てられ、この聖なる御業に与らせていただく以外に生きようがないのであります。

 祈祷
 教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、私どもを御子の御体、真のぶどうの木である教会において救い、弟子としての実りを結ばせ、養って下さいますことを感謝申し上げます。まったく弟子として相応しくない者を選んでくださり、友となって下さいました。どうぞ、この一方的な恵みの選びと任命を受けた者として、主にして師なるイエス・キリストの志を自らの志に替えて教会の形成に励む事ができますように。愛に生きる戦いを何度倒れても立ち上がって、そこから始める者としてください。そのために今、御子が整えてくださった聖餐にあずかります。私どもをキリストの教会として養い、育て、教会の交わりを築いて下さい。               アーメン