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「湖の上を歩くキリスト者」

「湖の上を歩くキリスト者」

2003年6月15日
尾張旭教会講壇交換
マタイによる福音書 第14章22節~33節

 主イエス・キリストがガリラヤの湖の上を歩かれた記事は、マタイによる福音書には勿論、マルコによる福音書にもヨハネによる福音書にも記されております。弟子たちにとって極めて忘れがたい思い出であったのでしょう。本日のテキストのマタイによる福音書の物語は、主イエス・キリスト御自身だけが海の上を歩かれたのではなく、実に、使徒ペトロもまた、海の上を歩いたのだという、大変愉快で、何よりも驚くべき出来事が記されております。
 主イエスは、今、男性だけで5000人余りの人々に食べものをふるまわれたばかりであります。この驚くべき奇跡を目撃し、自分自身が体験する事となりました群衆は、このイエスさまをますます只者ではない、大変な力ある指導者であり、我々の救済者、解放者になってくれるべきお方であろうと、認識を深め、圧倒的な支持をもって迎えられました。ところが、主イエスは、そのような群衆の期待、評価を決して喜ばれません。むしろ、主イエスは群衆を解散させ、御自身も彼らから身を隠そうとされました。そして主イエスは今、弟子たちを強いて舟に乗せ、ガリラヤ湖の向こう岸に先に行かせられます。
 ここで、主イエスは何のために、弟子たちだけを先に行かせられたのでしょうか。それは、独り祈るためであったとマタイによる福音書は告げます。いったい何の為に敢えて、弟子たちを残し、弟子たちから離れて祈られたのでしょうか。

 さて、主イエス・キリストが一人寂しい所で祈っておられる間、舟は既に数百メートル漕ぎ出していましたが、逆風のために、波に悩まされています。いかにベテランの漁師達が多い弟子たちにとっても、ガリラヤ湖という特別の自然環境がもたらす風には、難儀をしていたわけです。それをご覧になられる主は、夜が明ける頃、湖の上を歩いて彼らの所に近づいて行かれます。弟子たちは、その光景を見て、声を挙げます。叫びます。「幽霊だ」この叫びとは、恐怖であったとマタイによる福音書は告げます。主イエスを幽霊と思って怖がったのです。これは、弟子たちにとってどんなに恥ずかしいことであったろうかと思います。イエスさまを幽霊と指差し、叫ぶなどということを弟子たちが、しかも、あの驚くべき奇跡、5000人の給食を体験して、わずか一日経つかたたないかのうちに、こんな情けない、恥ずかしい見間違いをしたのです。
 さて、今日の私どもキリスト者は、この主イエスの行為をそのまま、ほとんど何の違和感もなく受け入れることができるのではないかと思います。何故、主イエス・キリストが湖の上を歩かれたと言う驚くべき事実を信じ、受け入れることができるのでしょうか。それは、聖書の神が、天地の創造者であられることを知っているからであります。そしてその神を自分自身が主イエス・キリストというお方を信じて救われた事によって、心の底から受け入れることができたからであります。主イエス・キリストによる魂の救い、罪の赦しを受ける事ができなかったならば、キリスト教信仰、聖書の信仰は成り立たないとすら言えます。死人の中から復活された主イエス・キリストであれば、水をぶどう酒に変えることも、海の上を歩く事も、死後四日たった人間を甦らせることもたやすいことです。この方は、被造物なのではなく、創造者だからであります。
 ここでわきまえておきたい事は、聖書が我々に問う事とは、「あなたは人間が海の上を歩く事ができると信じますか」などと言うことなどでは全くないことです。あなたは、生ける全能の、創造者なる神を、イエス・キリストを信じますかという問いなのです。主イエスがどなたであるのかを、主イエス・キリストが教えてくださった通りに信じ、受け入れますか、これが聖書の信仰であり、聖書からの我々への問いかけであります。神を信じるとは、イエス・キリストにおいて神を信じることに他なりません。主イエス・キリストを信じることなしに、私どもは正しく真の神を崇め、拝む事ができません。
 
 さて、恐怖に慄く弟子たちに主イエスが仰った言葉は実にすばらしい言葉でした。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」「安心しなさい。」「あなた方に平和があるように」「シャローム」です。我々にとってはなんでもないような日常の挨拶の言葉を、ユダヤ人は、神の平和が、つまり神との良い関係があなたにありますように申します。これがシャロームの意味です。あなたがたに神の平和があるように。主イエスが今、このような状況において、シャロームと仰ったことは私どもがよく心に留めておいて良いことです。人生を船旅に譬えることはしばしばなされます。海の上は、我々にとって、基本的には恐怖であります。何よりも、聖書の時代の人々の考えには、海には恐怖、不安、破滅、死というイメージを強く持っておりました。そこで、ヨハネの黙示録などでは、終りの時、主イエス・キリストが新しい天と新しい地を創造されるときには、海が消滅するとさへ記されています。これは、ただ字義通り解釈すべきではなくて、そこで伝えようとしている事柄、つまり、その時には、死も恐れも不安もなくなると言う事であります。しかし、その時までは、私どもの人生は海の上を船で進むような恐怖、恐ろしさが必ず付きまといます。突風が吹く事がしばしばであります。予期せぬ事が起こります。これが、我々が置かれている現実であります。生きることは厳しい現実を生きることなのです。しかし、突風が吹いているときに、主イエス・キリストが近づいて「安心しなさい」「神の平和があるように」と祝福の言葉を告げてくださるのです。その時には、突風のままで、私どもに心の安心、罪の赦しに基く、神との平和がもたらされるのです。それは、突風が止むという事を必ずしも意味してはいないのであります。
 次に、「わたしだ」と主イエスの声が響きます。そして、ヨハネによる福音書を通していったいこの「わたしだ」という言葉、自己紹介を何度学んだかと思います。「エゴー・エイミ」と言う言葉であります。「わたしだ」これは、普通の言葉、日常会話とは全く違った響きを立てております。弟子たちにしてみれば、湖の上を歩いて近寄って来られるのがイエスさまであることは、当然知っております。しかしここでの「わたしだ」と言う言葉遣いは、実は旧約聖書を知らないとその意味と重さは分かりません。「わたしだ」これは、あの、モーセの召命体験の物語を思い起こさせる言葉なのであります。モーセは、神の山ホレブにおいて燃える柴の中から、神の語りかけを聴きました。彼は、そこで神に、「どうぞあなたの御名を教えてください」と懇願いたしました。そこで、開示されたのが、「わたしはある。」でありました。(出エジプト記第3章14節参照)神は、「在りて在る者」存在者なのであります。何者にも依存せずに、ご自身のみで存在されるただお一人のお方、それがお出来になるお方、それが、「わたしはある」と言う神の御名であります。実に、主イエスの「わたしだ」「エゴー・エイミ」と言う言葉は、モーセに明らかにされた、この神の御名の宣言そのものであったのです。しかも、モーセはそこで必死になって、「自分は何者でしょう、こんな小さな私がエジプトの手から、イスラエルを救い出す事など到底できません。」と神の召命を拒みました。しかし神はこう仰いました。「わたしは必ずあなたと共にいる。」主が共にいてくださることこそ、モーセが神に遣わされた証拠となると約束され、説得致しました。実に、「わたしはある」「エゴー・エイミ」と言う御名の宣言は、同時に、「わたしはあなたと共にいる」と言う約束の宣言と一つにつながっているのであります。つまり、主イエスが彼らに、「わたしは神である。」と仰たことは、「わたしはあなた方と共にいる」と仰たことと一つの事なのであります。だから、「恐れることはない」のであります。主は、彼らにはっきりと教えてくださいます。「わたしはあってあるもの」「わたしこそ神、あなた方と共にいるあなた方が、勝手に進んでも、なおわたしはあなたたちを見捨てていない。」

 さて、ここでペトロが登場します。ペトロはここで弟子たちの代表となっています。そして、そればかりか、私どもキリスト者全員の代表としてここで彼はあることを体験させられます。そうです。彼もまた、主イエスと同じように、海の上を歩くのです。今、ペトロは私どもの代表として登場すると申しました。一体どういう意味なのでしょうか。それは、先ほども申しましたとおり、海とは、恐怖、死、危険の象徴であり、そのような人生そのものの象徴なのです。ペトロは実にその上を船で進むのではなく、自分の足で歩いて進む経験をさせられるのです。
 「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」なんと言う大胆なお願いでしょうか。どうしてこのようなお願いをしたのか、それは、分かりません。しかし、この時のペトロの中に、目の前でなされている主イエスの神の子らしい驚くべき奇跡に心が高ぶって、イエスさまがお命じになられたら、このわたしですら海の上を歩くようにしてくださることがおできになられる、そのようなお方であるとの信仰をもったのでしょう。あるいは、まったく素直な心で、すぐにこのイエスさまのお側近くに寄らせていただきたいとも思ったのかもしれません。
 すると、主イエスはお命になられます。「来なさい。」そしてペトロは、イエスさまを別にして人類史上初めて海の上を歩いた人間となります。
 これは、どうでも良いことですが、ある人が自分も信仰が熱心になったら海の上を歩けるようになるかも知れないと考えて、実際に実行した人がいたと昔ある書物で読んだ事があります。それは、信仰ではなく、まさに熱狂でしかありません。その同じ書物は同時にこうも書いていました。そのようなことはイエスさまの命令でなければできない。しかし逆に言えば、自分自身に神がそのような声をかけられたら、これは可能になる。私どもは、主イエスが今日、そのような命令を誰かになさるとは信じません。今日、誰かをペトロのように主イエスが海の上を歩かせるような事をなさる必然性はまったくないからであります。これは、ペトロの物語を通してただ一度、私どもひとりひとりに神がその真理、御心をお示しになられた出来事なのであります。
 それならそれは、どのような真理でしょうか。それは、キリスト者とは、誰でも、このペトロの経験をさせられている者たちであるという真理、事実であります。もちろん、申したとおり、私どもは熱狂主義者ではありません。海の上を歩くキリスト者、これは、私どもの地上の生活の象徴なのであります。
 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3:20)「キリスト者の国籍、本国は天にある」とは、有名は使徒パウロの言葉であります。私どもは、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を施され、聖餐にあずかっています。それは、主イエス・キリストと結合している、一つとされているということであります。それなら、その主イエス・キリストの肉体は今どこにおられるのか、言うまでもなく、天であります。つまり、私どもは今、主イエス・キリストと結ばれておりますから、肉体は地上にありますが、魂においては、霊においては、天にいるのです。主イエス・キリストにおいてつながっているので、天上の礼拝式と私どもはつながっているわけです。この事実、もちろん目に見えない事実であります。しかし、事実であります。これが、私どもの現在の、究極の、現実の姿に他なりません。イエス・キリストを信じて洗礼を施されている者であれば、この確信において定まっていようがいまいが、それによって、変わったりするようなことではないのです。キリストがしてくださった事実なのであります。だから、使徒パウロが涙を流して語りました。記しました。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。~何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」海の上を歩くとは、現実のこの地上に生きながら、しかし、「この世」に縛られず、捕らわれず、パウロが言う、恥ずべきもの、つまり、この世が追求する価値観の虜にならないということです。ヨハネの手紙1、2;16が言うように、「肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」ペトロが海の上を歩き始めてしばらくすると、「強い風に気がついた」とあります。つまり、それまでは、ただイエスさまだけを見て歩き始めたペトロが一瞬、その視線をそらしたということであります。言わば、この世の関心が湧いた、この世へと視線をそらしたということであります。その時に、彼は一気に沈没します。つまり、この海の上を歩くことは、ただ、主イエス・キリストをまっすぐに仰いで、この主に向かって生きている限り可能であるのです。キリスト者が信仰によって、この地上を旅することもまったく同じことであります。
 もとより、私どもは、決して世捨て人ではありません。むしろ、改革教会の信仰は、この世を神の良き創造の秩序に立ち戻らせ、世界における神の恵みの支配を、生活のすべての領域で証しすることをはるかに目指す信仰であります。しかし、この世に遣わされるキリスト者、教会は、常に神の栄光のためにという志、方向を見失うと、結局、していることは、自己実現、自分の欲望、自分の計画の達成となります。そこで、本当に恐ろしい事は、おぼれかけていることに気づかなくなることであります。海でおぼれる人は、自分がおぼれているのかそうでないのか、自明のことです。しかし、信仰の歩みは、自明のことではありません。他人から見て、とても熱心な良い信仰者、教会人であると見られていた人が、実は、そうではなかったと言うような事件が例外ではありません。自分自身が、霊的な健康はどうなっているのか、体温計のように、すぐに調べられるわけではありません。だからこそ、私どもは、注意して、恵みの手段にあずかるのです。恵みの手段を用いるのです。礼拝式、御言葉と聖餐の恵みに固執するのです。それは、主イエス・キリストをまっすぐに仰ぎ見るためであります。主イエス・キリストを天において仰ぎ見ている人は、天から、主イエス・キリストから支えられている人であります。主イエス・キリストの御手が私どもを天からつかんでいてくださるので、私どもキリスト者は誰でも、今、海の上、人生の海の上、嵐であっても凪であっても、変わらずに、進んで行くのであります。問われることは、お互いひとりひとりの人生の状況がどれほど、試練にあい、苦しみが続き、壁にぶつかり、将来が見えず、不安に慄くような現実であっても、私どもはその現実で沈んだりしません。天から握られているのです。上から捕まえられているのであります。
 私どもは、天にまします御父とその右に座したもう主イエス・キリストを仰いでいるかぎり、捕まえられている事実に気づきます。しかし、万一、私どもの視線をそらして、この世の人達が追及するその道を、同じように追い求めはじめるなら、沈みます。しかし、私どもの責任で、不信仰、不注意、怠惰、弱さ、罪によっておぼれかけてしまうその時には、どうすれば良いのでしょうか。叫ぶことです。「主よ、助けてください」と叫ぶ事です。自分がどれほど惨めになっているかを、正直に認め、その惨めさに築かせてくださった、天の父、聖霊のお働きに心の底から感謝し、「主よ、助けてください」と手を差し伸べて良いのです。その時には、主イエスは、ペトロにして下さったように、私どもにも、すかさず、手を差し伸べてくださいます。そして、「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と叱責を聴き取るのです。「疑うな、主イエス・キリストが共にいるかぎり、海の上を歩いて主イエス・キリストのところにたどりつくことを疑うな、自分の手、能力、考え、計画で自分の人生を完成させるな、評価するな、真の裁き主なる主なる神の御前で生きよ」そのような主の叱責を受け止めながら、私どもは今年もそれぞれの信仰の旅路を歩むのであります。しかも、独りぼっちでは歩みません。神の民の祈りの家、皆様の教会、この教会の仲間と共に、この教会のために歩むのです。その繰り返しの歩みの中で、私どもに、平安の日々が約束されています。「風は静まった」とあります。主イエスと共に生きるなら、この世の風によって、私どもがおぼれることはありえません。
 主イエスは、この出来事を彼らから離れたところで祈りのうちに見ておられました。今も全く同じであります。主イエスは、私どものために天の父なる神の右に座して今まさに、とりなしの祈り、祭司としての職務をまどろむことなく継続しておられます。だから、海の上を歩いているのであります。歩けるのであります。

 実は、このテキストからの説教は、今年の1月、名古屋岩の上教会でも致しました。それは、会堂資金が未だ、十分には満たされていない状況で、建築がなされていると言う、まさに、ハラハラさせられる真っ最中の時でした。お昼の時間に、そのような時をと、大西先生から承りましたが、名古屋岩の上伝道所の土地建物取得に至る一連の物語も、まさに海の上を歩く歩みそのものでありました。そして、今は、建っております。実に、主イエスの御業であります。心から感謝致しております。
 しかし、いわゆる不動産を得ましたが、不動産を頼りにして教会は旅を進めるのではありません。不動産、動かずと書きますが、それも朽ち、震われます。かつては単立として何の頼りもありませんでしたが、中部中会の仲間たちが与えられております。しかし、それでもなお、仲間たちに頼ることが信仰ではありません。天を仰ぎ、私どものために祈っておられる主を仰いで進むのが、つまり海の上を歩くのが信仰なのであります。
 教会の頭なる主イエス・キリストは、「来なさい」と、私どもを招いておられます。それは、神と人とのために生きる新しい生涯であります。教会の形成に自分の全生活が用いられるというこの上ない特権、最高の使命が与えられているのです。わたしどもお互いは、この世に根拠を置いて、この世に足場を固めて旅をするのではありません。言わば、天に足場をしっかりと根ざして、主イエス・キリストに上から捕まえられながら、海の上を、その一歩を踏みしめて歩き出すのであります。

 祈祷 
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもが何を頼りにして生きているのかをあなたから、問われます。熱狂主義ではなく、深い主イエス・キリストとの交わり、霊的な養いを受けて、信仰によって生きること、海の上を歩き続けさせてください。あなたに対する新しい信頼、強い服従、自分の人生に対するあなたのご計画を認めさせて下さい。どんな時でも、主イエス・キリストを仰ぎ見て、魂の中に確信、平安、喜びが溢れますように。許されますならば、肉体も心も健康を与えられ、あなたと人々のために、あなたとあなたの教会のために奉仕に生きることが出来ますように。アーメン