「キリストの復活ー希望の根拠ー」
2005年3月24日
復活祭礼拝式
聖書朗読
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
マタイによる福音書第28章1節~10節
テキスト
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。
ペトロの手紙一 第1章3節~6節a
先週は、教会の歴史のなかで、特別に重んじられてきた一週間、受難週を、まさに特別の思いを込めて歩んでまいりました。洗礼を受けて初めて、受難週を過ごされた方もおられます。また、既に、何年もこの受難週を過ごされた方もおられます。私どもの教会は、特別に受難週を過ごすプログラムを持ってまいりませんでした。実は、先週、そのことは改めて検討する必要があるかもしれないと、思わされました。なぜなら、教会が、その一人ひとりが受難週を、少なくとも一週間を、十字架を直視する祈りを深める生活を続けることができれば、信仰の成長、飛躍、深まりがはっきりと現れるに違いないと思わされるからであります。キリスト者の生活は、そのような自覚的な歩みを自らに課すことによって、飛躍的に深められることは、世々の先輩たちの証を見ればすぐに分かります。
先週、私が重ねた祈りは、世界の教会が、この受難週のなかで、神によって悔い改めの恵みを受けることができるようにというものでした。もとより、私どもの教会のためにも、私自身のためにも祈り続けました。教会に悔い改めの恵みが与えられたら、教会は常に生き生きとしてまいります。その使命を果たすことができるのです。
特別のプログラムを持たない私どもではありますが、定例の祈祷会は、いつもの学びのプログラムを中断しました。イザヤ書第53章を読み、またマタイによる福音書の第27章をともに読んで、しばらく黙想し、そこから受けた恵みを分かち合いました。私自身は、今年は、特に、十字架上の最後の言葉、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマサバクタニ。』、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』」との御言葉から神の光を受けることができ、心動かされました。
人類は、いまだ誰一人として、神の怒りを受けることとしての死を、経験しておりません。いえ、正しく申しますと、ただ一人だけおられました。そのお方こそが、私どもの救い主、人となられた神の御子イエス・キリストであられます。このお方だけが、十字架の上で、人類がやがて受けなければならない、神からの罪に対する裁きとしての死、神からの罪への怒り、断罪としての永遠の死、つまり滅びとしての死、神の御怒りをお受けになられたのであります。ですから、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』」という叫びは、御子なる神にして同時に人となられたイエスさまの、これはまさに絶叫であります。ここには、神に本当に、見捨てられてしまう者の恐ろしさつまり、まことの死を死ぬ恐怖、苦しみ、暗黒、絶望の叫びがあります。
しかし同時に、丁寧に、旧約聖書を通してこの御子の叫びを聞くなら、不思議な光、明るい光が輝き出ていることに気づかされるはずです。イザヤ書の第53章11節にこのような預言が記されています。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」またそれに加えて、夜の祈祷会で読まれました、詩篇第22編の31節には、このような預言が記されています。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき世に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」この二つの御言葉は、深く重なっている、こだましあって響いてまいります。
イザヤによれば、主イエス・キリストは、十字架の上で、自らの神に見捨てられる身代わりの死を死んでくださるとき、この贖いの死によって地上に獲得される神の教会、キリストの教会の姿をはるかに見ておられました。「彼は自らの苦しみの実りを見」ておられたのです。それを見て、満足しておられたのです。つまり、十字架の上から、はるか2000年の後に、ここで説教しているわたしの姿を主イエスさまがはっきりと見ていてくださったのです。それをもって、この御苦しみを耐え抜いてくださったのであります。
また、主イエス・キリストは、あの十字架で、決して神を呪っているのではありません。詩篇第22編の預言のとおり、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき世に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」と確信しておられたのです。その意味では、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という叫びは、詩篇22編全体がそうであるように、神賛美でさへあるのです。壮大な神への賛美歌なのです。主イエスさまは、御自身の子孫である私どもを、神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるのだと信じてくださいました。私どもは、この主イエスに信じられて、事実として今、ここで神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝えているのです。私どもにおいて、この詩篇第22編は成就し、主の十字架は実ったのです。なんという光栄でありましょうか。
この私という一人の人間の存在が、これほどまでに重んじられている、これほどまでに命をかけ、御子を犠牲にして、私どもを贖ってくださるまで値高い存在、価値ある存在とされているこの事実に、わたしは、まったく、あきれてしまうほどであります。神の愛は、まことにあきれるほどのものです。尋常でない、まさに異常なものなのであります。キリスト者の誇り、プライドとは、ここにあります。
そしてそうであれば、もはや決してわたしは、神に見捨てられることはないという究極の確信をも与えられました。この人となられた神が、私どもに代わって、事実、神にまったく見捨てられてしまったのであれば、その神がもはや私どもをまったくお見捨てになられることはありえないのです。いったい、これほどまでに確かな救いが他にありうるでしょうか。
さて、今、そのようなすばらしい受難週の恵みを振り返りまして、本日は、ついに、復活祭を迎えました。実に、今、申し上げたすべての事柄は、主キリストのお甦りの御業なしには、私どものものとはなりませんでした。このお方が、復活されたからこそ、不信仰極まりない、御言葉の前にまったく鈍感で、神の御言葉に対して、心が石のように冷たくなっていた私どもであっても、信仰が与えられたのです。もし、キリストがお甦りになられなかったのなら、あのマタイによる福音書のなかで、登場する、ユダヤ人の群衆、主イエスさまを冒涜して恥じることのなかった律法学者やファリサイ派、いへ、十字架の横につけられた犯罪人のような者でしかなかったはずなのです。しかし、主イエスのご復活によって、歴史的には、他の誰でもない、そこに居合わせたあの群集、あの律法学者、あのファリサイ派の者たちのなかから、最初のキリスト者が生まれたのです。そして、2000年の後、私どものような、とるに足りない者たちもまた、日本の地でキリスト者として誕生せしめられ、ここで礼拝を捧げているのであります。心から御名をあがめます。
今朝は、特別に、最初の復活日、イースターの物語を読みました。マタイによる福音書は、「安息日が終わって」つまり、土曜日が終わって「週の初めの日の明け方」つまり、今日の日曜日の早朝のこと、マグダラのマリアたち、女性の弟子たちが、墓を見に行きます。すると大きな地震が起こって、主の天使が天から下ります。天使の登場は、マタイによる福音書によれば、主イエスの降誕、クリスマス以来の出来事となります。天使たちが、主イエス・キリストの御復活の知らせを知らせます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のおいてあった場所を見なさい。」「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』この天使の知らせを受けて、彼女たちは走り出します。復活祭は、まさにこの走り出す、息せき切ったイメージです。当然のことと思います。十字架で死なれたイエス、十字架で処刑されたイエスが、墓の中にいない、復活されたのだと天使に告げられたのですから、これほど、おそるべき、おどろくべき知らせはなかったでしょう。
しかもそれは、恐れ、何か得体の知れない恐怖感をもたらしたのだと想像いたします。彼女たちは、男の弟子たち、ペトロやヨハネのもとに急ぎます。すると、こんどは、お甦りになられた主イエス御自身がその御姿を現されたのです。行く手に立っておられたのです。主イエスの方から言葉をかけられます。「おはよう」これは、微妙な翻訳です。「カイロー」と言う言葉が当てられています。これは、挨拶の言葉なのですから、おはようと訳して間違いではありません。しかし、口語訳聖書は、「平安あれ」と訳しました。文語では、「めでたし」とされています。いずれも可能な翻訳であります。しかし、私自身は、ここで訳すなら、「喜びなさい」「喜び祝いなさい」とでもしたいと思います。つまり、「めでたし」に近いのです。「わたしは予告どおり、あなたがたのために甦った、いっしょに喜び祝おう、わたしの兄弟たちつまり、弟子たちのことです。わたしの兄弟たちのところに行って、共に喜び祝おうではないか」これが、この「カイレーテ」と言う言葉のなかにこめられたニュアンスであると思います。
復活祭は、喜びの祭りであります。「カイロー」「カイレーテ」という挨拶こそ、もっともふさわしい挨拶ではないでしょうか。先週の連合執事会の集会で、ある執事さんが、ご自分の教会の礼拝式のなかで、最近の試みとして、月に一度であったか、挨拶を式次第のなかに入れて、試みられていると言う証がありました。これは実は新しい試みではなく、むしろ、礼拝式のなかで、古いプログラムです。ローマ・カトリック教会では、多くのミサのなかで、平和の挨拶というプログラムがあります。司祭が、会衆に向かって、「あなたがたに主の平和があるように」と告げます。会衆は、「また、司祭と共に」と返します。その後で、司祭、神父さんは、平和の挨拶を交わしましょうと呼びかけます。すると、前後左右の席の方同士が、「主の平和」「主の平和」と呼びかけあうのです。これは、おそらく、ほとんどのミサの中で行われているのではないかと思うほど、実はポピュラーな礼拝式のなかでの行為なのです。
この「カイロー」のなかには、平安を祈るという意味もあります。ですから、この挨拶は、実に聖書的な、キリスト教的な挨拶であります。そして、平和と喜びはひとつの言葉なのです。主が死人の中からお甦りになられたとき、神と人間との間にあった、罪の隔て、神との間が和解成り立ちました。ですから、主イエスを信じるなら、誰でも、このカイローの挨拶を、他の誰からでもない、神の御子イエス・キリストから、聞かされるのです。「カイロー・おはよう・平安あれ、めでたし・喜び祝おう」と主からの挨拶を受けることができるのです。教会の主日礼拝式とは、毎回、この主の挨拶、祝福を受けるときであり、場所なのです。
本日の説教のテキストとしてもう一箇所読みましたのは、ペトロの手紙一第1章でした。第6節前半にこうあります。「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」この手紙の読者は、心から喜んで生きているという事実がここから伝わってまいります。私どもの信仰の特徴をあげるなら、やはり、この喜びでしょう。私どもの聖書の信仰を表明しているウエストミンスター大・小教理問答の、問い一は、「人生の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神をまったく喜ぶことである」と告白している通りであります。
先週送別会をした姉妹が、そのご挨拶のなかでなされた、忘れがたいことばの一つはこのようなものでした。「自分のこれまでの信仰は、岩の上教会に転入して、この教会の生活のなかで、喜びの信仰に変えられた」ということでした。これは、自動的にそのようになっていったのではありませんでした。そこには、やはり、彼女の内なる戦いがあったのです。
ペトロは、ここで、この喜びの信仰、この喜びの激しさを、こう表現しました。「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」これが、ペトロの目に映る、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいの目に会っているキリスト者の姿でありました。そしてこれは、明らかに、迫害を受けて、方々へ散らされざるを得なかったキリスト者たちの姿に他ならないのです。
彼らの喜びは、迫害を受けている只中で味わうものでした。ヤコブの手紙の中で、「心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに、喜びを愁いに変えなさい。」という御言葉があります。そこで、激しく叱責されたのは、この世の友となりたいと願って、この世的な喜びを追求する者たちに対してでありました。しかし、ペトロがここで明らかにした喜びはそのような者とはまったく無縁のものでした。ここでは、彼らは神を友とするゆえに、迫害を受けているのです。キリストを愛しているゆえに、キリストのために受ける苦難をも喜びとしているのです。まことに不思議な喜びと言わざるを得ません。この地上の世にあっては、キリストの側、教会員として生きることがいわゆるメリットにはならないのです。いろいろな試練に悩まねばならないのです。しかし、彼らは、そのような厳しい状況のなかで、喜びにあふれている、深い喜びに満ちているのです。
そして、ペトロはこの不思議な喜び、天上の喜び、天から来る喜びの根拠をはっきりと示しました。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」死者のなかからのイエス・キリストの復活!これが、私どもの喜びの源泉なのです。そして、キリストの復活こそが、私どもを新たに生まれさせる根拠、力なのです。そして、キリストに結ばれた者は、誰でも新たに生まれた者とされるのです。先の一人の姉妹の経験は、この新しい生を味わい始められたのです。彼女は、すでに契約の子として洗礼を施され、信仰告白をし、聖餐にあずかっておられました。しかし、外的なしるし、言わば外見を越えて、その内面から、聖霊によって新しくされた方であります。先週の説教から申しますと、内面がユダヤ人、霊によって施された割礼を受けられたのです。いへ、何も、この恵みは、一人の姉妹の例だけではないことをわたしは知っております。私ども共通の経験であります。この教会での礼拝生活、教会生活のなかで、自分のこれまでの信仰とはどのようなものであったのかと、深く神に問われ、それだけに、内なる葛藤を強いられ、探られて、御言葉によって変えられる経験を味わい始めておられる者たちの集いなのです。これが、新しい命です。新しい命とは、常に、変えられてゆく命、成長する命であります。そこに信仰の喜びが伴うのです。魂の救いを受けた者の特権である喜びが始まり、沸き始めるのです。そしてそれは、キリストが復活されたからこそ、ここ、この教会で起こるのです。キリストが復活されたから、ここにキリストがご臨在なさっておられるので、キリストを信じ、このキリストを仰ぎ見ていると、キリストの霊御自身のお働きによって、私どもは変えられるのです。
そして、このキリストを愛する者、信じる者の特徴は、希望を与えられているということであります。「生き生きとした希望」とペトロは表現しました。リアルな希望です。それなら、この手紙の読者が与えられている希望、それはどのようなものであったのでしょうか。そのひとつは、キリストの復活を信じた結果、自分自身が決して人生の敗北者などではないこと、自分が今既に、キリストと共に生かされていることによる勝利者であることにたいする確信であります。つまり、人生を終えるまで、自分が敗北するのか勝利するのかわからないような不確かな生き方を続けているのでは決してないのです。人生のこの今の時点で、私どもは既に勝利者とされているのです。何故なら、勝利者イエス・キリストが私どもの救い主、主であられ、このお方の勝利は私どもの勝利とされているからです。これが、キリストと一つに結ばれたものに、一気に与えられている現実なのです。これが、私どもの復活であり、勝利なのです。ですから、私どもは人生を既に勝利者として生きているのです。もともと、希望とは、未来のことを意味するのではないでしょうか。まだ、見ていない事実のことを期待し、待ち望むことではないでしょうか。確かにそうです。しかし、ここで、ペトロが生き生きとした希望と言ったとき、それは、もう既に見ている事実があるのです。もう既に味わっている手ごたえがあるのです。それが2000年前のキリストの復活の事実なのです。この事実があり、この事実に信仰によって結ばれたとき、私どもは、将来の大勝利をまざまざと見ることができるのです。確かに肉眼では見ていないのに、信仰の眼では見ているのです。この眼が開かれるとき、私どもは、自分自身を勝利者として見ざるをえなくなって行くのです。これが、キリストの復活によって与えられた希望の実りなのです。
ただし、言うまでもなく、現実の私どもは、敗北をしばしば経験させられます。信仰に生き抜くことを避けようとします。臆病になります。不信仰にすらなります。信仰が喜びではなく、曇天となる。雲が立ち込めて、まるで暗黒ではないかと思えるような経験さへないわけではありません。
しかし、そこでこそ、だまされてはならないのです。私どもはたとい失敗し、たとい信仰が後退し、いったい自分自身に信仰があるのかと自問するような惨めな思いにとらわれてしまうところでなお、決定的な敗北者に転落してしまっているのではないのです。キリストと結ばれた私どもには、そのようなことはありえないのであります。キリストの勝利は、やがて終わりに日に決定的に付与されます。たとえば野球で言えば、最終回に信じられないような逆転勝利が、あのお方の活躍によってもたらされるのです。これが私どもに「決定された将来」であります。その証拠が、キリストの復活なのです。
終わりに、どうしたら、このすばらしい喜び、生き生きとした希望に生き続けることができるようになるのでしょうか。満ちあふれるようになるのでしょうか。そのために何か、特別な方法があるわけではありません。ただ、主イエス・キリストが定めてくださった恵みの通路、教会に与えられている恵みの手段を忠実に用いて、悔い改め、信じれば良いのです。つまり、御言葉を聴くこと祈ること、そして聖餐の礼典を用いること、聖餐の礼典にあずかることです。この主日礼拝式を全生活の中心にすえ、これに全力を注いで、守ることです。礼拝式で、復活された生けるキリスト・イエスを見上げることです。このお方の御言葉を心の中に受け入れることです。御言葉を宿すことです。心の底の底に主が宿ってくださるときだけ、キリスト者は、強くなれます。自分の内面、自分の心のすべてを知られて、なお赦され、愛され、神の使命を受けていることを知ったとき、私どもの人生のしばしば立ち込める、雲によっておとしめられないのです。落ち込まなくてすむのです。
飛行機に乗って、上空を飛ぶとき、下には雲が敷き詰められていても、そこを抜ければ、青空、真っ青な空です。キリスト者の信仰の勝利は、この喜びは、キリストの復活に根ざしたものです。この復活の事実は、揺るぎません。晴れたり曇ったりはしません。今、私どもは直ちに聖餐の礼典を祝います。これによって、私どもは、復活のキリスト・イエスと結び合わされることができるのです。雲の上に広がる青空へと一気に天の高みへと眼を上らせられ、心を高く上げさせられるのです。この復活によって、私どもの現在と将来は、希望にあふれます。自分自身や世界の中に希望はありません。しかし、キリストこそ私どもの希望のゆるぎない根拠なのです。主は、死人の中から復活されました。それゆえに、ここに私どもの教会があるのです。わたしが、皆様がいるのです。心から感謝し、私どもの救いを今、聖餐によってお祝いしましょう。
祈祷
私どもは、今、この地上で、古き人に死に、新しい人として生まれる経験を与えられました。ですから、私ども自身の体の復活をも信じることができます。すべては、私どもを救うために苦難のご生涯を全うされ、十字架につけられ、死んで葬られた主イエスさま、その御子を死人の中より甦らせたもうた父なる御神、その御子の救いを与えるために、私どもに悔い改めと信仰との恵みを与えてくださいました聖霊なる御神の恵みの御業であります。どうぞ、あなたのその御業のなかで、いよいよ私どもの信仰の喜びを富ましめ、生き生きとした希望をもって、地上を旅することができますように。この希望のなかに、私どもの証と存在によって、隣人をも、招き入れることができるまでに、私どもを満たしてくださいますように。アーメン