☆ 先週の開拓第11周年記念の懇談会は、大変すばらしいひと時でした。開拓当初を知る、三人の兄弟姉妹の証を聞き、あらためて、開拓当初の歩みを振り返ることとなりました。ただもしも、時間を度外視して、 祈祷会のように、全員が一言づつでも語り始めたら、さらに続々と恵みの証言が聞かれたことでしょう。それは、来年、第12周年にとっておきましょう。○○姉は、率直に、「岩の上」の歩みのなかで辛かったこと、加入のときのこと、夢にも考えられなかった会堂建築実現の驚きなどに言及されました。その意味では、○○姉の歩みは、名古屋岩の上伝道所の「前史」を語ることのできる、今では、わずかな証人となりました。また、姉妹の歩みは、名古屋岩の上伝道所の歩みそのものという側面を確かに有していると思います。その姉妹が、私どもの教会に流れている空気の違いをはっきりと言明なさったことは、大きな喜びでした。蛇足かもしれませんが、そこで言及された、ある姉妹が属する教会が今、前任地の教会のように、牧師を「攻撃」する内紛のような実に悲しむべき状況にあることを、わたしも違う方面から耳にしています。何がどうすると、そのような教会になるのか。ならないためにはどうすべきか・・・。その明快な解答、実例こそ、私どもの教会の歩みそのものなのです。キリストの主権に服する教会の形成が、慰めの共同体となるのです。
○○姉が、言及された、一人の姉妹の歩みも、名古屋岩の上伝道所の最初期を支え、霊的な伝統、空気を共につくってくれた方の一人でした。それは、結局、説教を真剣に聴き、これに生きようとした信仰者の姿勢に尽きるものです。そこで申しましたように、牧師の最高の支えとは、「説教聴聞者」以上でも以下でもないのです。説教に生き、それを見せてくださる会員がおられれば、牧師は、どんなに困難でも、この聖なる、すばらしい務めを退くことはないのではないかと思います。わたしは、愛の手紙としての説教をこれからも語ります。皆様が愛の手紙となり、教会そのものがこの世への愛の手紙となるように、皆様と共に励みたいと思います。これからも、主日礼拝式と祈祷会を重んじ、恵みの手段「説教、祈祷、聖餐」を重んじて、進んでまいりましょう。・・・これほど、良い教会を、「わたし」は知りません!
★ PTAの大きな奉仕は、先週の入学式で終わりました。今回も、やはり、「君が代斉唱」に対して、口を閉ざし、「一同礼」とあるとき、日の丸に向かっては礼をせず(PTAの席は、子どもたちの方、側面を向いています。)登壇、降壇の折にも、全員の目の前で、日の丸を「無視」しました。予定通り、聖書の言葉を紹介することができました。(もちろんPTA会則には、宗教的活動はしてはならないと明記されています)牧師とは、教会の内部で、「聖徒を整え、彼らに奉仕の業をさせること」がその務めであると聖書は明記します。しかし、牧師も一市民、一社会人であり、その中で(しかしどこまでも牧師として)生きています。国旗国歌に対する態度も、日本人キリスト者の模範、姿勢として励ましになればと考えます。「証」ということも、牧師だからということではなく、誰でも一人のキリスト者として、社会の只中で、その先端で、神に導かれたときには、いつでも信仰を弁明し、キリストを紹介し、聖書的な発想、思考を紹介して欲しいと思います。そのために、この一年の、思いもよりませんでした、このボランティアには、大きな意味があったと信じます。
☆ 実は、当日の朝、新聞とテレビで、キリスト教会牧師が、少女への性的虐待をし、逮捕されたという報道がありました。教会堂には、なんと「青少年を悪から守ろう」と大きな横断幕が掲げられているのです。
特に、日曜学校伝道に励む私どもにとって、少なからずダメージがあるでしょう。そのような報道がなされた日でしたから、正直に申しますと、緊張が何倍にもなりました。
わたしは、繰り返して、「ただ単に、十字架を掲げ、自分たちはキリスト教だとかたっていても、それでキリスト教(会)であるわけではない。少なくない教会が、もはや教会であることから逸脱している・・・。」と申してまいりました。厳しい言い方ですが、そのような「教会」に「騙される信者」の責任もなしとはしません。
今回の事件は、いっとき、日本伝道への逆風となるでしょう。しかし、逆に、もしも、日本のプロテスタント諸教会(牧師と信徒)が、改めて、「真の教会の標識(めじるし)=説教と聖礼典」「教会成立の三要件=聖書・信条・教会政治」について真剣に「考える」契機となれば、諸教会に益となるはずです。つまり、「神学する」ことをしない信徒(そして牧師!)は、自ら罠に陥り、自分がそこで何をしているのかも分からないままになります。単立的、非歴史的教会と、宗教改革の伝統を継承する教会との差もまた、歴然となるでしょう。
私ども日本キリスト改革派教会の責任(貢献)はきわめて大きいといわざるを得ません。