「真実なる神」
2005年4月10日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章1節~4節
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。」
先週、先々週は、復活祭と第11周年の記念のときをそれぞれ祝うことができました。改めて感謝いたします。さて、その意味で、少し久しぶりのような思いで、改めてローマの信徒への手紙へと戻ります。与えられておりますテキストは第3章の1節から8節までであります。
これまでの議論で、使徒パウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者こそ、ユダヤ人であると、ユダヤ人に対して真っ向から、鋭い批判を繰り返し、先回のまでの第2章後半の箇所は、その頂点に達しました。そして、そのようなユダヤ人批判に対して、当然予想されるユダヤ人からの反発、パウロへの反対論について、本日のテキストは記しております。使徒パウロは、この手紙の中で、そのような彼らの反対論、反発を予想し、想定して、紙上において言わば討論会を催しているわけです。
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。」議論はこのように開始されます。「パウロよ、お前はそこまで言うのなら、ユダヤ人には優れた点などないと言うのか。割礼のことを取り上げたが、お前はこの割礼の恵みを軽んじるのか、いったいユダヤ人は、異邦人たちと変わることなどないと言うのか。」このような主張に対して、パウロは「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。」と申します。パウロにとって、ユダヤ人の優れた点は数え上げればたくさんあるのだと言いたいのです。ところが、この箇所を読んでまいりますと、あらゆる面からいろいろ指摘してはいないことはすぐに分かります。「先ず」と語り始めます。ある翻訳では、「第一に」としました。ところが、第二も第三も記されてはおりません。そのことは、この手紙の後半、第9章以下で丁寧に語られます。ここでは、「先ず、第一に」と語り始めて、唯一つのことだけに触れます。「彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」
何故、パウロは数あるユダヤ人の幸いのなかで、「神の言葉」を挙げたのでしょうか。その理由の一つは、彼は、ここで読者に、ここでの議論を他人事にしてはならないということを確認させたかったからではないかと思います。つまり、「ああ、ここでは、パウロ先生は、ユダヤ人のことを議論しているのだ」、と言ってキリスト者である私どもが高みの見物をすることは許されていないのです。むしろ、割礼を洗礼に置き換えて考えてみるべきなのです。つまり、「自分は既に洗礼を受けている、しかも、幼いときから洗礼を受けている、だから、自分は神の御前に自動的に出られるのだ」このように考えること、そのような高ぶり、傲慢に陥ることが、私どもにとっても、決して例外ではないのではないでしょうか。そのような傲慢に対する神の、使徒パウロを通しての厳しい叱責をここに聴き取ること、これも私どもに与えられた神からの恵みの憐れみであると思います。
神の言葉が委ねられたのは、その意味で、まさにユダヤ人だけではなく、今日の真の神の民、神のイスラエルである教会、教会員のことに他なりません。私どもキリスト者、教会員は、この神の言葉を委ねられたのですから、この恵みの言葉の響きを、広く豊かに響き渡らせることが求められているのです。
横道にそれますが、先週も、皆様のお祈りに支えられて、卒業式に続き、滝ノ水中学校の入学式で遂に、聖書の言葉そのものを、聖書の教えのまさに中心の言葉を紹介することができました。「キリスト者」と言明し、キリスト者の詩人の言葉を紹介しました。そこに、おそらく少なくとも700人、800人近くの方が出席されていたかと思います。いついかなるところでも、キリスト者として立たせられ、発言の機会が与えられるなら、私どもの願いはただ一つではないでしょうか。それは、神の御名があがめられることです。
元に戻りましょう。「神の言葉がゆだねられたのです。」この言葉には、大変な重みがあります。神の言葉が「聴かされた」でもない、神の言葉が「与えられた」でもないのです。委ねられたと言うのです。これは、任せるということです。神が、他でもないユダヤ人に、御自身の言葉をお任せになられたのです。この御言葉の力、真実、命、メッセージは、このユダヤ人において明らかにされるのだと、神がお考えになり、この御言葉をお託しになられたのです。委ねる、任せる、託す、いずれも、「信頼する」ということが条件にあるはずです。相手の真実、相手の誠実を信じたから、できる行為であります。ユダヤ人を調べてみて、「彼らは、だめだ、ちゃらんぽらんだ」とお考えになって、委ねるということはありえません。そうであれば、神の言葉が「試されたのです」と言うべきでしょう。試験を施すということになります。試験の試とは、試みると読み、験とは、しるしと読みます。効果をはかる、効き目という意味があります。神は、イスラエルを試されたのではないのです。神はユダヤ人を信じられたのです。信頼なさったのであります。「これほどすばらしいことが他にあるか」と言うのが、パウロの主張であります。だから、「先ず」「第一に」と言ったのです。
ところが、ここでパウロは、このようなユダヤ人にこそ厳しく向かい合うのです。その批判の言葉は、「不誠実」であります。不誠実な人間という烙印です。これは、ユダヤ人であろうとなかろうと人間として、その人格への根本的な疑義です。批判です。叱責です。不誠実な人間ほど、困り者はいないでしょう。その意味では、極端かもしれませんが、「犬の方がよほどまし」という議論になりかねません。忠犬ハチ公の話ではありませんが、飼い犬は飼い主にまことに忠実だそうです。忠誠を誓うようなところが犬にはあるそうです。ところが、ここで、パウロは、ユダヤ人は、不誠実だと言う、人として、どれほどよくしてあげても、そのようなことはまったくお構いなしに返すことほど不誠実な振る舞いはないでしょう。あるいは、そのような人は、そもそも、自分がよくしてもらっているなどとも考えないのかもしれません。自分がお世話になっているなどと考えないから不誠実になるのかもしれません。
しかし、ここでは、人間関係について語られているわけではありません。神との関係について語られているのであります。そして、結果として不誠実な関係でしかないと糾弾するのです。神が信頼を寄せられたのに、それに応えるどころか、それを裏切ったからです。恩を仇で返したからです。これが、パウロが糾弾するユダヤ人の不誠実なのです。
しかし問題は、まことの問題は、そこから始まるのです。ユダヤ人は、今日風の言葉で申しますと、「逆切れ」するのです。聖書の中にはもちろん神の言葉が記されていますが、同時に、悪魔の言葉も記されています。この箇所の中には、まるで悪魔の言葉のような言葉があります。悪魔との戦いをここでパウロがしているのだと言っても良いのではないかと思うのです。そして、この悪魔との論争において、使徒パウロがしばしば用いる言葉が、ここに重なって用いられます。それは、「決してそうではない。」という言葉です。口語訳は、「断じてそうではない。」新改訳は、「絶対にそんなことはありません。」文語では、「あるまじきことなり」と訳しています。今日風に申しますと、「ありえない」とか「とんでもない」あるいは、少し無理があるかもしれませんが、「ふざけるな」という言葉でも通じるかもしれません。いずれにしろ、そこには、はっきりとした「憤り」の思いが込められているのです。彼らの逆切れ、開き直りの議論とはこうです。「その不誠実のせいで、神の誠実が無にされる」
つまり、こういうことです。「自分たちは確かに神さまの言葉に忠実ではなかった。それは、認めましょう。だけど、もしも神さまだったら、そもそも何故、そのような私たちを選ばれたのでしょうか。そのくらいのことを見通すことができないような神さまなのでしょうか。神さまだったら、それくらいのことを見通して私たちを選ばれればよいでしょう。あるいは、わたしたちがこの言葉に忠実になれるように、手をとり足を取って、上手に、教育してくださればよいではないですか。はっきり言って、本当に悪いのは、本当に責任があるのは、わたしたちではなく、神さまのほうですから。」と言うことです。残念。とお笑い芸人であれば、付け加えるかもしれません。
しかしながら、この屁理屈を、笑い話のように説教で語ることはもとより、まったく不謹慎です。わたしは、先ほど、ここに悪魔の言葉を見ると申したのです。ただしかし、そうなりますと、いかがでしょうか。私どもは自分自身の中にこの悪魔の言葉の響きに共鳴してしまう部分が、まったくないというわけではないことに気づかされるのではないでしょうか。まことに恐ろしい思いを抱かざるを得ないのではないでしょうか。私どももまた、神に屁理屈をこね、不平を鳴らすことはありえないわけではない、もしかすると少なくないのです。
わたしはいつもこの説教を準備するとき、少なくとも、三人の説教者の説教を必ず読みます。その一人は、竹森満佐一先生です。既に召された説教者、歴史上、日本を代表する説教者の一人であったかと思います。そして、その竹森先生のまさにお弟子であった加藤常昭先生のものです。わたしは、先ず、竹森先生のこの箇所からの説教を読んで、圧倒されてしまいました。この説教をここで朗読したほうが、すばらしいのではないかとすら考えました。少なくとも、その一部は、そのまま、これは、わたしは余り試みたことがありませんが、したいと考えたのです。ところがどうでしょう。その後で、読みました加藤先生は、同じことをお考えになられたのかどうかわかりませんが、わたしが引用しようとしたところを説教でそのまま引用なさっておられるのです。
「このようなことは、今日の信仰者の場合も、起こりうることであります。キリスト教の信者でも、信仰が弱くなると、いろいろな点で不平を言うようになって、『洗礼を受けても、自分は少しも変りはしない』というような愚かなことを、得意そうに話したりするものであります。まるで、子供の言うようなことであります。自分の方に用意しておくべき信仰のことは忘れてしまって、洗礼を受けたのだから、神は何とかしてくれそうなものではないか、というような、まるで不貞腐れて居直ったような言い方であります。ここでも、自分のことは棚に上げて、神の責任を追及する者がいるのです。」
まさにここでは、ユダヤ人のことであると高みの見物などは、許されません。この時の、吉祥寺教会の会員たちは、どんな顔で聴いておられたのでしょうか。いや、このような語り口は、この説教で一貫しているのです。当然のことでしょう。このパウロの説教を説く以上、「断じてそうではない。とんでもない。ありえない。ふざけるな」というパウロの思いの丈が爆発するような言葉が連なっているのですから。加藤先生も引用された言葉とそれに続く言葉をも、いささか長いかもしれませんが、引用いたします。「信仰への悪口は、不思議に信仰の弱い人たちから聞こえて来るものであります。信仰の厚い人で信仰をもっとも良く知っている人は、信仰の悪口も言いませんし、信仰について批判的なことは滅多に口にしないものであります。~人間の不真実のゆえに、神の真実が揺らぐと思っている人は、神の『運命』が、人間の手に置かれているように考えている人でありましょう。~しかるに、正しい信仰を持っている人は、その反対に、このような事情を見ると、いっそう神の真実にのみ信頼しようとするのであります。」
「神の運命が人間の手に置かれているように考える人」一読忘れがたい表現です。「教会とか、キリスト者とか、神の御心とか、神の主権とか、慰めとか、それらは、結局、人間的なものではないのか。自分の気持ちが、自分の心の中が、それによって和らぎ、自分の生活が潤うほどのものでなければ、教会生活は、続けられない。神さまだって、わたしの心を汲んでくださり、わたしの気持ちを分かってくださるのでなければ、信じ続けることはできない。」このような思いを抱いたままで、信仰の生涯を全うすることは決してできません。断じてできません。万一、そのような要求に応えうる教会があるとすれば、それは、キリストの教会ではなく、単なる宗教団体、人間的集団でしかないでしょう。
いったいどうしてこうなるのでしょうか。どうして我々は、他人事ではなく、私どもは、責任転嫁をするのでしょうか。先日の夜のこと、どこかのテレビの番組に目がとまりました。アメリカで、泥棒が学校の天窓から、侵入しようとしたところ、その天窓が壊れて、泥棒は9メートル下に転落してしまったというのです。あぁ、泥棒は愚かだ。そのまま捕まって、良かったくらいに思っていました。ところが、その後に、この泥棒は3000万円を手に入れたというのです。どういうことかと申しますと、すぐに壊れるような天窓を設置した学校に責任があると、裁判を起こしたのだそうです。そして、その泥棒が勝訴したというのです。正直、唖然としました。この泥棒が、訴えを起こしたことが第一に驚きです。しかも、勝訴したのです。これは、なるほど、泥棒という違法行為を抜きにすれば、壊れやすい天窓を設置したことは、落ち度があるということは分かります。しかし、訴えること、その訴えを入れる裁判所、未だに納得がまいりません。しかし、実際には、私どもはしばしばそのようなことをしているのではないでしょうか。勉強を怠ける子どもが、教師の教え方のせいにする。教師は、クラスに集中力がなく、授業が成り立たないのは、生徒のせいにする。親は、しつけを学校に期待し、求める。学校は、家庭の問題にする。このようなことは、挙げてゆけばきりがないのではないでしょうか。そして、サタン、悪魔の企ては、神に対して、この論争をしかけることです。これは、来週、学びたいことですが、このような論争は、なかなか、筋が通ったように聞こえるのです。なるほど、全能の神であれば、ユダヤ人が失敗することを見通せるはずだ、ユダヤ人の不誠実を糾弾する神こそ、自分の責任を転嫁しているのではないか。パウロは、このような議論にどう対応するのでしょうか。それは、来週丁寧に学びたいと思います。
しかし、今朝、この問題は、来週まで持ち越せません。私どもの心を正直に探るならば、確かに、そのようにでもしなければ、自分が定まらない、自分を支えていられない、自分の落ち着き場がない、自分の生活に確信がないと思う根本的な不安があるのではないでしょうか。このまさに、生きる根本的な不安を正面から見据えて生きることがないから、むしろ私どもの心は、余裕がなくなる。ざわつく、まことの平和、まことの平安を持つことができないのではないでしょうか。この問題を棚上げにしたままでは、少なくとも、心確かに生きることはできないのです。いはんや、信仰に徹することはできないのです。
パウロの言葉に耳をそばだてましょう。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」神は真実な方であるとしなければならない。真実な神の真実をこそ、拠り所としなさいというのです。人間はすべて偽り、不誠実、不真実であってもというのです。ここで、人間は、偽り、不誠実、不真実ということは、もしも、という仮定を言っているのではありません。そのようなのんきな考え、見方などは、、この後すぐ、パウロによって木っ端微塵に破壊されてしまいます。人間はすべて偽りなのです。不誠実なのです。そして大切なことは、その人間の中に、自分が入っているということです。自分のことです。自分が不誠実、不真実であることを真実に認めること、つまり、神の御前で認めること、これは、人間の力ではできません。それを、悔改めと申します。悔改めは、神が与えてくださる救いの恵みです。ですから、祈り求める以外にないのです。
パウロはこれまでの議論でも、そしてここでの議論でも、詩篇第51編を思い起こします。51編6節の後半を引用しました。これは、ダビデが、美しい女性を自分のものとするために、ご主人を殺してしまった後、その罪を預言者ナタンに指摘された後、悔改めて読んだ、詩篇における悔改めの詩の代表です。51編6節全部を読んでみます。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。」パウロは、自分なりの翻訳を施しこのように引用して記しました。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」
神の御前に罪を犯したことをダビデは認め、悔改めているのです。そして、ダビデは、神がおおせられること、神の御言葉の宣言は正しく、神の裁きには、あやまりがないと言います。さて、パウロ自身の引用を丁寧に読みますと違っているのに気づかれたでしょうか。パウロは、神が裁きを受けられると翻訳したのです。しかし、もとの言葉は、神がお裁きになられると、神の主体的な御業を言うのです。神が受動的に、人間から裁かれるのではなく、逆です。何故、パウロは、そのように訳したのでしょうか。それは、明らかにこの御言葉を主イエス・キリストの光から読み直したとき、ここでダビデが歌った真理を深く悟ることができたからです。
つまり、神が裁かれること、その事実は、神の御子が十字架において人間たちから断罪され、まさに、悪いのはお前だと糾弾されたときのことを思っているのです。神の御子が十字架で裁きを受けられるとき、実は、そこで、神が勝利しておられるのだ、神の勝訴が確定したのだと、言うのです。
ダビデは、「わたしは神の御前に罪を犯しました。神さまに裁かれるのは当然の人間です」と、開き直ってではなく、身を屈めて、神の裁きの前に出ているのです。神こそが、この罪を裁かれるのですし、その裁きは正しいのですと認めているのです。すると、どうでしょう。ダビデはその罪を覆われ、赦されたのです。
心が落ち着く、心に深い安息が与えられたでしょう。神の御前に罪を言い表し、告白し、悔改めるとき、つまり自分自身が偽り者であることを認めるとき、初めて、開き直らなくてよい人生が始まるのです。屁理屈を言って、責任逃れ、責任転嫁する必要がなくなるのです。自分は偽り者ですと告白するとき、自分が敗れて、自分が崩壊し、自分の人生が負け犬になるなどと恐れる心配はないのです。なぜなら、そこでこそ、真実の神に、神の真実に出会うことができるからです。先ほど、竹森先生の言葉で言えば、「信仰の厚い人」とはいかなる人であるのかということを問うことが大切です。それは、自分自身を偽り者とすること、自分自身を不真実な人間と認めている人のことです。そして、ただ神の真実をのみ、当てにする人のことです。神の真実はどこに見えているのでしょうか。それが十字架の主イエス・キリストであられます。
私どもは、お祈りの最後にアーメンと申します。アーメンとは、真実という意味があります。しかし、私どものアーメンとは、「自分のこのお祈りは真実なお祈りです」ということを自分で神さまに保障して見せることではありません。その正反対であります。「わたしのお祈りは、まことに不誠実、不真実な祈りでしかありませんが、このような祈りにも耳を傾け、父なる神に執り成してくださる主イエス・キリストの真実、真実なるイエスさまのおかげで、できるのです。だから、アーメンです。イエスさまの真実、主イエスのアーメンを信じるから、このお祈りを捧げます。このお祈りは聞かれているのですと確信することができるのです。それが、私どものアーメンです。
ですから、信仰の厚い人は、自分に頼らなくて済むのです。自分を飾る必要もありません、見栄を飾る必要もありません。自分の偽りに傾く、不誠実なあるがままをひっさげて、しかし、そこにとぐろを巻いて留まるのではなく、そのままで、主イエス・キリストの御許にまかり出るのです。それが、今、ここで捧げている礼拝式に他なりません。これが、私どもの捧げる真の礼拝なのです。詩篇第51編でダビデは歌いました。「しかし、神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」ダビデは自分を偽り者とし、神を真実としたのです。真実なる神に出会い、神の真実に触れたからです。私どももまったく同じであります。今、ここで、私どものこのあるがままが、主イエス・キリストの十字架のおかげで、主が裁かれたおかげで、私どもにも、主の勝利が宣告されているのです。勝利を得られた主が、その勝利を、罪人である私どもに転嫁してくださったのです。責任転嫁ではない、救いを、赦しを、勝利を転嫁してくださったのであります。だから、私どもは、神さまに責任転嫁したり、他人を批判して、自分を支えることをしなくて済むのです。私どもには、神の御言葉が委ねられています。これにまさる光栄はありません。この光栄を生きること、それが信仰に生き抜くことです。それは、私どもの強さ、誠実ではなく、ただ真実なる神の真実、その力にあるのであります。
祈祷
私ども偽り者、罪人から、御父と呼ばれることを恥となさらない、主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ。この朝、私どもの心の傾き、心の深い所に巣くう、自己弁護、責任転嫁の心を破壊してください。結局、あなたにより頼むことができず、自分で自分を支えようとする不信仰こそ、問題なのです。罪なのです。この罪を、はっきりと認め、あなたの御子の十字架において処理してください。私どもが、主の勝利によって、既に、赦されていること、主の勝利を受けた者であることを心から認めることができますように。おごらず、てらわず、信仰の道を生きぬく事ができますように。アーメン。