過去の投稿2005年4月12日

「あなたの信仰サビついていません?」

            中部中会連合青年会秋の例会講演
                  日本基督改革派教会犬山教会

         主題  「あなたの信仰サビついていません?」
         副題  -キリスト者としての自分を見つめなおす-
                     主の1999年11月3日
         
                  とまどい
 連合青年会の委員の兄弟から、今回の例会の奉仕を依頼されたのは、一ヵ月前でした。実は、私は電話で、即座にお断りしたのです。用事が入っておりましたし、何よりも、10月は忙しい月になりますから、一ヵ月の準備で講演を準備することは私の能力を越えていると判断したからです。しかし、断ったものの、主への奉仕を自ら断る事の良心の痛みを覚えたのです。「申し訳ないな、神さまから逃げたな」と言う気持ちで過ごすよりは、何であっても、依頼された以上、光栄な事ですから、翌日になって「やっぱり引き受けます」と電話したのです。しかし、10月10日の日曜日に、期待する講演の粗筋をファックスで読んで、もう一度、後悔いたしました。私は思わず唸ってしまいました。「一体、何を求めているのだろう。今の連合青年会の方々の課題は何なのだろうか。自分はこの求めに対して、何を語るべきか」ほとんど途方に暮れる思いで、今日のこの時のぎりぎりまで、原稿をしたためることが全く出来ませんでした。大会の定期会の会議中にも祈り考えました。しかし、駄目でした。遂に、このファックスの文章から受けた私の第一印象にもとづいて、それだけに、的を外してしまって、皆さんから笑われ、忍耐を強いることを覚悟して、思いのままに、皆さんへの応援の言葉を、語らせて頂こうと考えました。
 さてどのような、お話を連合青年会役員会が求められたかといえば、ファックスによれば、こうでした。

 1. クリスチャンとは何か?(未信者の人に説明するイメージで・・・)
    (色々な教理や学びをしているので、頭では理解しているつもりなのだが、いざ人に聞かれたりしたときに、上手く答えられないことがある。クリスチャンとは何なのか?もう一度基本に立ち返れるようなヒントを簡単に・・・)
 2. では、改革派を信じているのは何故か?
    (キリスト教と言っても、色々な教派があります。では何故、改革派なのか。他派との違いとか、改革派の特徴などを簡単にお話願います。)
 3. 教理などと信仰生活とのギャップ
    (毎回このような例会などで教理を学び、理解しても、それっきりで終わってしまい、その後の信仰生活になかなか活かせない、またギャップに悩んだりします。このギャップを埋める為に、何かヒントはないでしょうか?)
 4. 具体的な実践へのヒント
    (もう一度、自分を見つめなおす機会にしてもらう為に、具体的な実践への為に何かヒントを与えて頂けないでしょうか?
     
ディスカッションでは、この辺を具体的に話し合えればなあと思っています。
各自何か目標でも決めて持てれば良いと思います。例えば、友達を教会に誘う
とか・・・)
 私の連合青年会の第一印象は、典型的なキリスト者の二世タイプだということです。生まれたときから教会で育ってきた皆さんなのではないでしょうか。年間テーマは「目を覚ましていなさい-キリスト者としての自分を見つめなおす-」だそうです。引照聖句はコリントの信徒への手紙一第16章13-14節であります。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛を持って行いなさい。」使徒パウロが私共に呼びかける言葉です。この御言葉の与えるイメージは、天に座しておられる御父と御子とを背筋を伸ばして仰いで生きる信仰の姿勢でありす。信仰にもとづいてしっかりと立って、目を覚まして主イエス・キリストの再び地上に来られるその日を、「急ぎつつ、待ちつつ」目を覚ましているかぎり、「あなたの信仰サビついていません?」というようなことにはならないでしょう。

 連合青年会の今現在の課題は何か。正直に申しまして、分かりません。今年の9月に加入して、皆さんとの個人的な交わりを持つことがまだなかったからです。しかし、思えば97年の1月の例会に、私と家内とはお忍びのようにして、恵那教会で行われた例会に出席させていただいたのです。加入に備えて、言わば偵察隊のような気分で出掛けたものでした。その時の感想は、お世辞ではなく、真剣に信仰を学ぶ良い集いであった、という好印象を持ったのです。今回の為に、改めて、連合青年会の機関紙「生命の木」のバックナンバーも読み返しました。私共が伺った1年前までは、いささか、青年には背伸びをした
感のある、しかし、それだけに青年らしい教会的な学びが継続されていたかと思います。

88年度から92年度までは、「改革派教会の良き働き人となるために」と言う統一テーマで学びが継続されました。特に私の目に留まりましたのは、神港教会の安田吉三郎牧師の「新約聖書における信仰の告白」などは、聖書と教会との正しい関わりを知るために、今でも皆さんが熟読したら良いものでした。しかし、96年の「変わらなきゃ」という主題で開催された夏の修養会あたりから、まさに激変と言う形で、学びの内容が変わって行ったのかと思います。そこでの鈴木牧雄牧師の講演記録は生命の木には掲載されていませんでしたから、どの様なものか正確には分かりません。しかし、あるハッキリとした変化
が確かに起こっている、そのように思います。私は、今回の主題だけを見て、まさに「変わらなきゃ」と皆さんに訴えたい気持ちなのです。この私のお話のすべてが、見当違いなものであるかもしれません。広い心で忍耐して、付き合ってください。

                 信仰と制度 
「腐っても鯛」と言うことわざがあります。本来すぐれた価値をもつものは、おちぶれてもそれなりに値打ちがあることのたとえです。改革派教会は福音主義諸教会のなかで正に「鯛」のような存在に違いありません。宗教改革の源流を直に逆上ることの出来る、まさに信仰の本流であると言って決して言い過ぎではありません。私共が受け継ぎさらにまた次の世代に引き継ごうとするその伝統は、聖書の信仰の本筋であります。がしかし、「信仰と制度」というこの伝統は、「信仰の」伝統です。そこには生命があります。聖霊の命を受け継ぐ制度が改革派と言う信仰であり、長老主義という「信仰の制度」です。です
からもしも、その中身である、聖霊の命が無くなってしまっているならば、その伝統は無意味になります。勿論、これはものの例えです。

 しばしば、信仰と制度あるいは伝統とは、水とコップとの関係のように例えられます。誰かに、水を飲ませるときにコップがどうしても必要になります。コップによって、水がある人からまたある人へと間違いなく受け渡されてゆきます。水とは私共の信仰もしくは聖霊、コップはそれを容れる器つまり制度であり、伝統です。イエス・キリストの救いの恵みは、「聖書・信条・教会」というコップに盛られて、私共に確実に受け継がれます。
但し、空のコップと言うのは日常あることですが、信仰の制度が整っているところで、しかし、その中身が空っぽであると言うことは、私はあり得ないと考えているのです。それは、逆に本物の信仰、聖霊はあるのだけれど、自分たちの教会、教派にはそれを容れる器はないということが不可能であるのと同じことです。どちらもあり得ないことなのです。

 皆さんは、福音派と言う様々な教派、教団によって織りなされているグループの事を聞いたことがおありでしょう。あるいはカリスマ運動等という怪しい動きについて聞いたことのある方もおありかもしれません。私の友人の多くは、ホーリネス教団というところで牧師をしています。その他にも、何人も福音派の牧師の知人がおります。もしも、この方々が皆さんのこのファクシミリの文章を読んだら、おそらく、自信満々で「それ見なさい、改革派は死んだ信仰ではないか、教理教理、神学神学など言うから、命がないのだ、我々の教会は、若い人が大勢集まっている(実は、最近はそうでもないのです。)信仰は、難しい事ではない、聖霊によって「恵まれる」ことだ、活き活きと奉仕、伝道することだ」と仰るかと予想がつきます。

 現実に、教会の歴史は、改革教会でも、ルター派教会でも、英国国教会でも、制度的な教会の中で、その信仰が活き活きとしていないと感じた者たちが、それこそ数えきれないほど、新しい教会、教派、を続々と生み出したという歴史があるのです。それを、敬虔主義運動というのです。リバイバリズムと言うのです。ですから、改革派教会が、もしも、「腐っても鯛」という言葉を受け入れてしまうのなら、それは災いです。私共にこそ責任が与えられていると私は深刻に考えております。私共が、与えられた、受け継いできた正しい、命あふれた信仰を生きて見せることが出来なければ、日本の教会は、混迷を深めつづけるしかないのです。いつまでも、「キリストの教会」になりきれないままで、せいぜい「キリストの集会」でとどまってしまうのです。教会は「腐ったら」、終わりの日に火で焼かれて消滅します。腐った鯛は無意味なものなのです。もともと、日本基督改革派教会の創立者達の志は、この日本に「キリストの教会」を樹立することでありました。これは、ある面から言えば、とんでもない傲慢な響きを持った宣言を行ったのです。「我々の行く道こそは、教会が教会になるためにどうしても必要な道なのだ、この道に来たれ」そのような呼びかけを日本基督改革派教会創立宣言は内に込めています。いや、その自負が外に溢れ出ているのです。私は実に50年後にこの招きに「その通り!」と応えたものであります。つまり、創立者たちは、日本に真の教会を立て上げたい、それが神と人、日本への最高の奉仕であると考えたのです。そして、逆にいえば、あの時、彼らの目には「日本基督教団」と言う教会は真の教会として考えられなかったのです。あれから50年後に、私共の教会は、日本全国に教会を立てつつ豊かな祝福をいただいています。がしかし、一方で、私共の主張に共鳴する人々は全体から見ればごく僅かでもあるのです。私共の課題は、彼らに「ここ」にこそ、本物の生命がある、イエス・キリストの確かな救いがあると証することです。しかし、皆さんの現在の状況は、もしかするとそれどころではない、自分たちのアイデンティティー自体を確立することに困難を覚えているのかもしれないのです。しかし言ってみれば、そのような課題は当然の事でもあります。信仰の、改革派のアイデンティティーの継承は、「生きた信仰」の継承に他なりませんから、オートマチックに出来上がるものではありません。皆さんが今の「試行錯誤」を真実に成すその過程のなかで実現するものです。どうすれば、活き活きとした信仰生活、聖霊に満たされた信仰生活が送れるのでしょうか。先程の方々は、「やれ、ディボーション。やれ、賛美。やれ、個人伝道。やれ、弟子訓練・・・」様々に主張します。どうぞ、飛びつかないでください。いや、皆さんのなかでもしかすると日本基督改革派教会のこれまでの道、やり方が根本的に間違ったところが有るのかもしれない、そんな風に考えておられるかたがおられるでしょうか。どうぞ、焦らないでください。おそらく私共「日本」基督改革派教会の欠点はそれこそ数え上げればどんどん出てくるでしょう。いずれの教会も、地上にあるかぎりそういうものです。私自身も、なにも、日本基督改革派教会が弱さや欠点を持っていないから憧れて加入したわけでは毛頭ありません。そのようなことはどんな教会、教派であってもあり得ないこと、幻想です。

                 教理「体得」 
しかし、改革派の伝統は、まさにキリストの命を正しく継承する伝統そのものであります。これは、疑うことは出来ない。皆さんの信仰がもしも「錆びついているかもしれない、すでにボロボロ・・・」などの自己理解にあって、それを、克服するために何か目新しいことを私に期待するなら全く、期待外れです。私は、もともと、改革派とは180度違う、ウエスレアン・アルミニアンという神学的立場の神学校で学びました。ホーリネス、福音派の神学校です。おそらく、現在はおろか50年逆上っても、そのような牧師はいなかったでしょう。だから、何か新しい、方策、ヒントがありますかと問われて、新しいものは何もありませんと応えるとがっかりなさるかもしれません。私は、ただ、「教理の体得」これだけしか、言えないのです。全てはここから始まる、そう確信しております。そんなことは、今までおそらく皆さんの牧師から聞かされ続けたことでしょう。しかし、このごくごく基本を本当に「新しく開始する」こと、これ以外に信仰から「サビ」を落とすことは出来ないのです。教理の学び、それは、神ご自身を知ること以外の何物でもありません。教理の学び、それは私共がキリスト者として生きる上で、神に従って生きる上でなくてならない知識です。これなしに、どうやって、神に服従して奉仕に生きることが出来るでしょうか。全く考えられません。自分勝手に、主観的に、神のイメージをこしらえたり、自分勝手に「こうすることが神への服従、奉仕である」と行動することは、信仰とはキリスト教信仰とは無縁のあり方です。信じるとは、

「教理」において明らかにされた、神を信じる以外の何ものでもないのです。
もちろん、教理「を」信じるのではありません。それだけなら単なる言葉です。しかし、教理において告白されている神を、イエス・キリストを信じる以外に、信仰のスタートも、その継続も不可能なのです。この教理の筋道を、たどらないで、直接に神を信じました、神に出会いましたというなら、それは主イエス・キリストの神、主イエス・キリストの父なる神を信じたわけではありません。聖書の信仰、神の御言葉を正しい「教理」において信じるとき、私共は救われるのです。そう言うなら、すでに、聖書こそは教理の書といっても構いません。もちろん、私共のウエストミンスター信仰基準のような教理の体系が聖書では全くありません。しかし、教理が記されているのです。聖書みずからがその教理に基づいて読むことを欲しているのです。そのように私共に要求しているのです。聖書を愛さないで、聖書に親しまないところで、健やかな、活き活きした信仰生活を期待することは間違っています。もし、みなさんがその事に同意するなら、教理の体得なしに健やかな、活き活きした信仰生活を期待することは間違っていると言えるのです。

 ただし、それは皆さんの責任を云々する以前に、私共説教者の責任であります。しかし、その事は今回の主題から離れますので触れるにとどめます。
 これまで私は教理の「体得」と繰り返して語っていることにお気づきの方はおられるでしょうか。学び、習得ではなく、体得です。体で覚えるのです。信仰は、もしかするとおかしな例えかもしれませんが、文科系と体育会系とに分けるとすると私は間違いなく体育会系だろうと思います。信仰は信じる事ですが、キリスト教的な意味での「信じる」とは、信じるお方が、人間となられた御子イエス・キリスト、受肉された御子イエス・キリストを信じる事以外の何物でもありません。私共は洗礼を施されました。皆さんはおそらく幼児のときに頭に水を注がれたのです。頭に注がれたのでしょうが、それは体全体を意味しています。洗礼は御子イエス・キリストの御体に加えられ、御体と結合する幸いを与える礼典です。聖餐は肉体を受けられた御子イエス・キリストの御体と血潮に与る礼典です。いずれの礼典も、キリストの体が鍵になっています。私共肉体を持つ人間を救う為に、神の御子は肉体を取られたのであります。キリスト教とは実に「体的」な宗教なのです。

確かに、思想や学問という体裁を必ず取るようになるのがキリスト教です。しかし、キリスト教の本質は思想でも学問でもあえて言えば、神学でも教理でもありません。イエス・キリストというお方です。このお方を私共はどのように知るのかと言えば、粗っぽく結論だけ言えば、「キリストの御体なる教会の中で生きる、教会と共に生きる」ことによって知るのです。どれほど、頭が切れて、賢いキリスト者であっても、実際に洗礼を受けて、聖餐を受けつづけて、即ち教会の礼拝式に自分自身の体を持ち運んで、自分の体を御体なる教会にくくりつけてしまって、生きる人、そのような意味で体を使う人でなければ、聖
書が求めている救われて成長するキリスト者となることは出来ないのです。机の上で、神学書、教理の書物を開いてあれこれ研究するだけでは、本当のイエス・キリストを知ることも、その主に仕えることもかないません。皆さんに勧めるのは、そのような教理の学習ではありません。すこし、大げさに言えばそんな事をするのは止めたほうが良いのです。

教会の歴史の中でしばしば異端が、特に現代の教会をおびやかす異端思想は大学神学部の教授から発表されることは少なくないように思います。彼らは現実の教会から離れて、神を学問対象にします。教会から離れて、生ける神を礼拝することはできませんから、偶像、思想的神学が起こるのです。しかし、まことの神学は、教会を正しく建てる学です。その神学が礼拝の場、現実の神を仰ぐその場で営まれるのでなければ、神学は本当の神学ではないのです。これは、私共の教理の学習と言うこともそうです。教理の学びが、単なる
お勉強になってしまったら、そのような事の好きな人は良いでしょうが、嫌いな人は遠ざかります。遠ざかって結構です。そんな暇はないと言っても良いでしょう。しかし、教理が私共の救いそのもの、教会が立つか倒れるか、自分の永遠と世界の救いの一切がそこに掛かっているとしたら、これはキリスト者であれば誰一人として、参加しないですませることは出来ないはずです。

                岩の上教会の実例 
名古屋岩の上キリスト教会がキリストの教会として土台を据え、やがて日本基督改革派教会に加入する上で、その中核になったのは青年たちであったと思います。勿論、全教会員の営みであったことは言うまでもありません。しかし、私共は何年も、「読書会」を行いました。実は今年は中断してしまっています。しかし、ほとんど常に神学書を学んだのです。「信徒のための神学入門」(東京神学大学の近藤勝彦教授)・「信徒のための改革教会の教理」などを学んだのです。この学びは知的な人達の興味を満たすためのようなものとは全く無縁でした。ただひたすら、名古屋岩の上キリスト教会が教会になるのか、た
んなる集会で終わってしまうのか、いやなによりも、教会として存続できるのかどうか、正に命を掛けて学んだのです。青年の方々は、そこまでの危機感をもってはおられなかったかと思いますが、私にとっては、そういう事です。単立で自給開拓伝道をしているのです。この読書会に集う方々が正しい福音理解、キリスト教理解を持つかどうかで、名古屋岩の上キリスト教会の将来は決定すると考えました。そして、その意味で、見事に彼らは、育ってくれたと思います。もちろん、これで良しとは思っていません。成長に限度はありませんから。しかし、私は牧師として、何よりも感謝なことは、共に学ぶ交わりがほんの一握りではあっても、与えられたと言うことです。戦う為に学んだのです。自分たちの教会を真の教会にして、そのようにして自分の救いの確かさを確立し、キリストの栄光を明らかにしたいと祈り願って励まし合ったのです。祈り会もまたそうです。午前の祈り会の出席者の婦人たちは、本当に教理を学ぶことに抵抗を示しました。しかし、私はあくまでも、教理の体得のための学び、祈りであることを譲りませんでした。まだまだ始まったばかりですが、方向性だけは整いつつあると思っています。夜の祈り会は、青年だけが集います。8時から10時までです。真剣に祈ります。教会の為に、教会形成のための祈りの奉仕に励みに来るのです。彼らがいたから、私は開拓を逃げださなかったのです。喜びを持って、感謝しながら、時にはやせ我慢しつつ、堪えながらしかし励めたのです。

 こんな事を言うと失礼かもしれませんが、私は彼らが、特別優秀な、知的な方々だから、教理の体得を喜ばれたのだとは思っていません。救われてキリストの御体に加えられた喜びがあるからだと思います。それは、牧師である私自身のことでもあります。日本基督改革派教会の教師たちは優秀な方々ばかりです。私などは足元にも及ばない、無学の人間です。しかし、何故、御言葉に熱中するのか、牧師として学ぶことに喜びとすることができるのか、それはそこに恵みの神を発見させて頂き、神との交わりの恵みに与らせていただくことが許されるからであります。

              教理体得の道をたずねて 
皆さんは、教会でどのような奉仕をなさっておられるのでしょうか。私共の教会では、青年は全員、伝道所委員会の委員です。幾つもの奉仕を重ねて担っています。しかし、私は皆さんが長老たちのいる「教会」であれば、そのような、出番がないかもしれません。

それは当然の事でもあります。しかしながら、知っていただきたいのは皆さんには、教会をその中心、根本を担うような奉仕者となれるのですし、なって頂きたいのです。そのために、私は青年の皆さんの最大の奉仕は、もしかすると、牧師と時間の許すかぎり、一緒にいて、「交わる」こと、そして単に一緒にいるということではなく、「学ぶ」ことだと思います。私は教理の学習、御言葉の学習は日本基督改革派教会の牧師の側にいるだけで伝わって来るそういうものだと信じています。特に大学生や青年の方々なら、そう信じます。一緒に信仰の書物を読んでもらうのです。その意味では、受けるだけのように思われるかもしれません。しかし、それによって、皆さんは明日の日本基督改革派教会をになう訓練された働き人となることができると信じます。また、それは単に牧師と親しくなると言うような、交わりではありません。皆さんが集会に励まれることです。祈祷会に出席することです。週日の水曜祈祷会に出席することです。私は、その意味でも岩の上教会が火曜日の朝の婦人の祈り会、水曜夜の祈り会大切にしてきたことが、決定的に教会形成のそして伝道の働きに重要な集会であったことを確信しています。

 つまり、教理の体得と言うのは、実際に自分の体を使わないかぎり、不可能なのです。教会の為に生きることです。キリストの御体なる教会の為に生きることです。奉仕することです。奉仕というのはそこで誤解されないようにと思います。今、あのルカによる福音書のマリヤとマルタの物語を思い出して下さい。妹のマリヤは主の説教にひたすら集中していました。反対に、マルタは主イエスと弟子たちの食事の世話に忙しく働いていました。マルタは、主イエスに言いました。「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるように仰ってください。」マリヤと主イエスとの関係は余程親しかったことが伺われる発言です。彼女は、マリヤだけではなく主イエスにも文句を言っているのです。これに対して主の発言はこの世の常識を越えます。マルタの常識を越えます。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」これは多くの解釈者が、一生懸命我々の常識にかなうように説明を試みつづけています。こう言うのです。「教会のなかにはマリアだけでは進まない、マルタのような婦人も必要です。」結論的には、マリアのあり方もマルタのあり方も肯定する、しかし、御言葉を聴くことが最も大切ですと、こう落ちつかせる。しかし、私はいつも「本当かなぁ」と、納得できないのです。ハッキリいえば、その解釈は正解ではない、こう思っているのです。何故なら、主イエス御自身がハッキリと「必要なことはただ一つだけである。」と仰っておられるからです。主イエスの側にいて、主が語られるときには、何事をも止めて、主の語られる御言葉に集中する、それ以外にキリスト者が健やかに生きる道はあるのでしょうか。ありません。主が語りおえられた時には、接待すべきです。これはまた当然の事でしょう。

 皆さんも、集会に励んでほしいのです。その意味で、牧師と親しむのです。それは個人的に親しくなる、「慣れ慣れしくなる」というような関係のことではありあせん。牧師はそれこそ、教会の為に生きそして死ぬことを光栄に思っているのです。その教会が主イエス・キリストの御体であるからです。その御体とは、主イエス・キリストご自身であり、同時にそこに私も皆さんも加えられています。主イエス・キリストを愛するということは、具体的に言えば、自分が現実の信仰を生きる場である、所属教会を愛する事です。それが皆さんにとって、それぞれの教会であり、伝道所であり、何よりも中部中会であり、日本基督改革派教会に他ならないのです。この教会への愛のないところで、主イエス・キリストを愛すること、仕えること、服従することを議論することは、観念の世界のなかの「オアソビ」に転落してしまわざるを得ないのです。教理の体得は、教会の「真ん中」で生きる人には必要不可欠です。これなしには正しく教会に生きることは望めないからです。

自己流に奉仕する、伝道する、働くことはできます。しかし、それが肝心要の神に喜ばれる奉仕になるのでなければその奉仕に何の意味があるのでしょうか。マルタの奉仕は主イエスに喜ばれたのでしょうか。主イエスは、マルタがあのように、でしゃばって主に不平を言わなかったら、マルタの奉仕を喜び受け入れられるのでしょうか。そうではないと、思います。教理なしには神に喜ばれる奉仕の筋道を弁えることはないのです。何故、長老の資格の最重要な条項として教理の体得、そして牧師とともに教理を教えることが求められているのでしょうか。教理がなくては、教会の真ん中で、教会を治会、御言葉によって治めることは出来ないからです。人間的な知恵や常識、人情、度量では教会を治め、育て、建て上げることは決して出来ないのです。また逆に言えば、長老になることによって、なぜ教理が教会形成の柱になるのかを深く、骨身に沁みて知ることもないといっても良いかもしれません。牧師がそうです。神学校で教理を学ぶ。神学を学ぶ。学ぶことは学問の最前線の学びです。もしかすると、私などより、よっぽど最近の先端の動向をご存じでしょう。しかし、その神学生が本当の意味で、教理の大切さを体で知るには、教会の為に苦しむ経験を重ねる事によってだと思います。

 これは、改革派的な表現では全くありませんので、聞き流して頂いてけっこうですが、私は、神学生の2年生の時に、「御言葉体験」(こんな言葉は、それ自体問題を含んでいます。)をしました。コロサイの信徒への手紙第1章24節「今やわたしは、あなたがたのために苦しむ事を喜びとし、キリストの体なる教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」この解釈の難しい御言葉の意味をたずねるいとまはありません。しかし、私は、夏期伝道で奉仕していた教会の開拓伝道のために、肉体を壊すことがありました。しかし、2か月間身も心もへとへとに疲れ切って、新学期を迎
え、風邪をこじらせてしまったのです。授業を休んで遅れてしまう、「一体、ここで何をしているのだろう、今は神学生なのだから、教会の奉仕に忙しくしていたことが良くなかったのだろうか」そして、「卒業して牧師になるけれど本当に自分は献身しているのだろうか、教会よりは結局自分のために牧師になってゆくのだろうか」自分自身に絶望したのです。しかし、その時に、コロサイの信徒への手紙第1章24節「今やわたしは、あなたがたのために苦しむ事を喜びとし、キリストの体なる教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」との御言葉に圧倒されたのです。「自分は
教会と生き死ぬんだ、それが自分の本当の喜びの道だ。」神によって御言葉が開かれたのです。光が射したのです。「ホーリネス」と言う教派で言えば、「聖潔(キヨメ)の体験」です。しかし、そのような出来事によって、ますます私は神学の重要性を悟るように導かれて行きました。今から思えば確かに幼稚です。しかし、その教会の為に奉仕を重ねたことが今の自分自身が改革派の牧師とされたことに繋がっていると確信しているのであります。
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            講演依頼に答えて
自分の体験談を交えて語りました。これも、日本基督改革派教会的でないことかと思います。しかし、これは、皆さんが求めておられる「ヒント」を、ご自分でつかんでいただきたいからなのです。
 しかし、改革派的でないというなら、今回の副題の-キリスト者としての自分を見つめなおす-と言うことのほうがもっとそうではないかと個人的には考えています。改革派の信仰は、「自分を見つめなおす」という発想から遠いのです。勿論、皆様は「それは先生十分、分かっています、信仰は外から来るのですから、信仰の眼差しは自分が救われているか、自分は良い、立派なキリスト者であるかどうか内側を点検して、自己満足したり、逆に自分はまだまだだめなキリスト者だというような、姿勢は改革派信仰の姿勢ではありません。」おそらくこう仰るのでしょう。しかし、それなら、やっぱり、-自分を見つめ
なおす-というのはまずいかなぁと思うのです。これは、自分の恥をさらしますが、先々週、岐阜加納教会で伝道礼拝式の説教を担わせていただきました。岐阜加納教会は、きれいなチラシを刷って配ってくださったのです。それを、先週、教会に貼っていました。あとで、家内から、「青年たちがあのチラシのキャッチコピーの『やり直しのきく人生』は『クサイ』と言ってたよ。」と教えられ、私は実は嬉しくなったのです。『クサイ』かどうかは別にして、このキャッチコピーは明らかに福音的ではない、聖書的ではないという直観が働いたのでしょう。そのとおりです。主イエス・キリストの神は、失敗したと思え
る人生を、やり直させて、受け入れるお方ではないからです。そのままで、受け入れてくださるお方だからです。しかもそれで終わってしまうのではなく、新しく生まれさせてくださるお方だからです。

私は、しばしば教会の方に言ってまいりました。「教会は伝道によって間違いを犯してきた、私たちの伝道は、正しい伝道、正しい福音を正しく語るのでなければ、伝道をしないほうがましです。してはならないのです。」しかし、言っている本人がそうするのですから、情けないと思います。私の側では、「弁解」もありますが、やはり弁解でしかないと思うのです。しかし、ついでにしかしどうしてもここで確認しておきたいのは、福音の神は、私共の足らなさを越えて、働いてくださることを私共は大胆に信じて良いと言うことであります。だから、まだまだ十分ではないと自覚する、私共の貧しい奉仕が、完全な神奉仕として成り立つのです。

 さあ、失敗をしたばかりの私が言うと説得力に欠けてしまいますが、今回の副題を私の勝手で代えさせてしまうとどうなるでしょうか。-キリスト者としての自分を見つめなおす-から、-キリストを見つめなおす-はいかがでしょう。確かに、聖書のなかに、「自己吟味」ということが言われます。聖餐を祝う時に、牧師はコリントの信徒への手紙一第11章の「制定語」を読むと思います。28節で「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」ここで「自分をよく確かめたうえで」とあります。コリントの信徒への手紙Ⅱ、第13章には、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」とあります。そこで、コリントのキリスト者が全てではないにしろ、多くの者が、パウロの鋭い悔い改めへの招きの言葉を読んで、ああ自分はだめだ、自分達の教会はだめだと考えだすのではないかと私は想像するのです。しかし、そこでパウロは直ぐ続けて記します。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたにの内におられることが。」私共はうっかりすると、信仰を個人的な事として捉えやすいのです。「自分の信仰は本物かどうか、自分の信仰はサビついていないか、本当に再臨の主イエス・キリストの御前に立てるのかどうか・・・」そのように悩むことは無意味ではありませんし、むしろ信仰者としての成長の段階で当然のことかもしれません。しかし、結論は、そこから立ち上がるときに、正しく立ち上がるためには、自分に自信を持つことではまったくないはずであります。自分の信仰に自信満々のキリスト者がいるなら、それはキリスト教信仰ではなく、「自分教」あるいは何か他の宗教です。私共の信仰の世界とは、自分中心、自分にこだわる不自由の世界から解放された世界です。
そこで、決定的に問題になるのは、主イエス・キリストを知ることなのです。仰ぐことなのです。「目を覚ます」とはその眼差しを天上のキリストに注ぐことです。目を上げるときに、私共の信仰の姿勢は整うのです。立つのです。姿勢を正してから、上を見上げるのではないのです。自分の姿勢が良いか悪いか考えたり、判断しあったりするのは本当は、滑稽なことなのです。

 野球を例に取るなら、バッターボックスに立ってもみないで、バットスイングが良いか悪いか、考えていても始まりません。立つことです。もう私共は主のチームの一員にされているのですから。打席に立てるのです。立っているのです。あなたに打順は回って来ていませんか。青年の方々に打順はもう回っています。将来打席に立つのではなく、今、出番です。ボールは投げられています。当てようとすると不思議に当たります。主が共にバッターボックスにおられるからです。そして、主が私共のバットにボールを当てて下さいます。このように、してみると、姿勢が整うのです。スイングのフォームがその人なりの
フォームとして整うはずです。とても個性的なフォームに違いありません。三振するときもあるかもしれません。その時には主が共におられなかったわけではありません。その事を通して、私共に何かを悟らせてくださるのです。しかし、三振しないであれこれ考えてもしかたがありません。伝道は、とにかくやってみることです。教会に誘って、声を掛けてみることです。上手く答えられるにこしたことはありませんが、結局、大切なことは誘いたい、知ってもらいたいという心ではないでしょうか。そして、しているうちに身につくのです。先週の土曜日、豊明伝道所で青年会主催のチャペルコンサートがありました。
青年主催と言うことでとても、嬉しく思いました。集会の持ち方、司会、セッティング・・とにかく自分たちでやってみたら良いのです。そして、そのような実践的な訓練を牧師から受けることも大切です。他の教会で行われる集会を積極的にのぞきに行って、これをこうしたらもっと良い、ああしたら・・と感覚も掴めるようになると思います。

 しかも、それを教会の伝道として筋道立てて、福音の伝道として正しく担おうとしたならば、その時には、ただ表面的な事だけではなく、教理の学びをこそ求めざるを得なくなるはずです。教理の言葉を実践の中で、自分の表現で、自分をさらけ出して友達に伝えるのです。そのとき、どんな表現をしたら良いのか、その「言葉」を私が、皆さんに教えることは全く無意味とは言いませんが、「チガウ」と思います。それは、自分自身で見つける以外にありません。自分の救いを明らかにし、救い主イエス・キリストを指さす言葉を見いだすことです。獲得することです。それこそが教理の言葉の体得の道なのです。それ
が教理なのです。それはきっと、ユニークな個性的な言葉ではないかと思います。その意味では、何に勝って重要なのは、説教を良く聴くことです。説教で聴いた恵みの言葉を、皆の前で、青年同士で分かち合ってみてください。そのときの、拙い言葉かもしれない、しかし、自分自身の言葉で自分が聞き取った恵み、受けた恵みを語る努力、表現する努力は、未信の友に語る言葉に繋がってゆくことにも必ずなります。そのために、学ぶのです。口移しのように、学びとるのです。暗記の得意の人は暗記したら良いでしょう。私のように苦手な人であっても、それくらいの思いで、ウエストミンスター小教理問答を読んだら良いのです。そこで、自分自身に神がどんなに素晴らしい御業を成してくださったのかを、御言葉によって教理によって、気づかさせられるのです。その意味では、教理の学びとは、自分に神が何をしてくださったのかを知ることです。こんなに嬉しい、こんなに楽しい学びが他にあるとは決して考えられません。

 しかも、この私共の試合は最後には、主イエス・キリストご自身が代打で登場なさって、満塁ホームランを4点どころではなく、何万点も、何千万点も獲得してくださって、私共の地上の戦いは勝利のうちに終焉するのです。ですから、安心して三振してきてよいでのです。何度、三振したって構いません。三振したからといって、レギュラーから外されることはありません。打撃のコーチから指導を受ければ良いのです。牧師から指導を受ければよいのです。そして、もう一度打席にたって、向かってくるボールに集中するのです。この神にバットが当たるときを救いと言ってもよいでしょう。主イエス・キリストと触れるのです。一つとされるのです。

 古い話ですが、私の小学生の時に熱中した人気アニメに「巨人の星」がありました。主人公の星飛雄馬は大リーグボール1号を投げます。どんな魔球かと言えば、よけようとするバッターのそのバットにボールが当たってしまうのです。ボールのほうがバットを目指しているのです。主イエス・キリストの神は、そのようにバッターボックスに立つ私共に
向かってくださるのです。
 例えで語るとかえってこんがらがって恐縮です。これは例えですから、もうすでに限界になってしまいますが、向かってくるボールは恵みの神なのです。この神に集中するとき、フォームが整うのです。御言葉を通して、ボールがこちらに飛び込んできます。主イエスが近づいてくださるのです。御言葉を聞かないとボールが向かって来ていることは分かりません。バッターボックスに立たないと、それは分かりません。そうなるとバッターボックスとは、キリストの御体なる教会のことです。そこで捧げられる主の日の礼拝式のことです。祈祷会や様々な集会の事です。

 私は、神学生の1年生のときに、「バルト」と言う、東京神学大学の大木英夫先生が書かれた書物を興奮しながら何度も読みました。先生の滝の川教会で行われた、公開の読書会に主の日の奉仕を終えた夜、何度も足を運びました。そこで私は初めて神学するとは何か、神学するその喜びに触れました。カール・バルトと言う今世紀の最大の神学者の「福音主義神学入門」と言う書物を知ったのです。バルトは、その中でこんなたとえを語りました。「武器を持つ男が襲うように、驚きが彼をも襲う」神を知ると言うのは「驚き」驚異以外のなにものでもありません。我が娘は昨年小児洗礼を施しました。小学校2年生と4年生の時です。言葉を話すようになると同時に祈りを教えました。ですから祈れます。

祈りに違和感を持っていないと思います。しかし、親の私は祈りを後で知りました。祈ることは私にとって、全く外側の世界のことでした。今でも、そうです。そして結局どこまでも祈りは、外側の事だと思っています。つまり、慣れてしまうことはないのです。主イエス・キリストにおいて明らかにされた神を、私共が慣れてしまうことは地上においては決してないのです。驚きでありつづけるのです。
 私共が夕暮れの道を家に帰ろうと急いでいます。手にはケーキを手にしています。帰って家族と食べようとして落とさないように持って、急ぎ足で歩いています。しかし、電柱の影から、ワッとナイフを持った男が出て、後ろから襲いかかろうとする・・。その時、私共は「ほっといてくれ、急いで家に帰って楽しむところなのだ」と言えるでしょうか。
言えません。私共の全神経は襲いかかる暴漢とその手に握られたナイフに集中するはずです。集中するしかないのです。そして、その時には必ず、しっかりと握りしめていたケーキの入った箱のひもを放してしまわざるをえないのです。日常の世界のすべては背後にしりぞきます。バルトは神との出会い、聖書を読むとはそのような驚きの経験を持ちつづける事だというのです。その時には、自分が握りしめていたものを落とさざるを得ないのです。私は献身するということはまさにその事だと思います。献身者は特にここで言っているのは神学校に行くような人のことだけを意味していますが、彼らは特別に秀でているから献身したのではないのです。信仰がツヨイからでもありません。暴漢に襲われて誰がなお、ケーキごときを大事に握りしめていられるでしょう。ここから、伝道献身者が出る、必ず出る事を祈ります。その意味でも、バッターボックスに立ちつづけて下さい。

 皆さんはそのバッターボックスに立っています。皆さんの中の多くの方々は、気がついたときから立っているのです。それは恵みの御業です。そのバッターボックスの名前は日本基督改革派教会という、名前でした。その場所以外には多くの皆さんは立ったことがありません。ですから、なかなか自分たちがどう言うものかを比較して知ることが少ないので良く分からないという事になるのだろうと思います。私は、それこそ様々なバッターボックスに立ったのです。ですから、その意味では改革派教会のことが、その特質が分かります。皆さんには、他の所に行ってのぞいてくださいとは決して申しません。このバッターボックスには、他で学ばなければならないというようなものは、ほとんどない。それくらい私どもの伝統、遺産は豊かです。しかし、同時に、知ってください。他の教会でなくて何故改革派なのか、それはこの場所こそ、正しく神のボールを打つことが出来る場所だからです。真の礼拝を確立するために必要な全てを受け継いでいる教会だからなのです。バットを振る人は多いです。けれども、試合をする以上、ルールに則って行わないかぎり、競技になりません。

 我々日本の教会が置かれている状況は、ほとんど試合になっていない状態であるということが少なくないのです。それこそ熱中しています。しかし、ただ興奮して、楽しくて、自分勝手に勝った負けたと言っても意味がありません。私共は、神のために試合をしているのですから。私共の信仰は、単に自分の楽しみの為にしているわけではないのですから。信仰が個人的な幸せだとか楽しみのために行っているのであれば、教会の為に苦しむなどというのは、ナンセンスです。信仰が個人的なものであるなら、何も教理を学んだり、牧師から手ほどきを受けることもありません。世々の教会が、特に「改革教会」が受け継
いできた共通の、一つの、世界中の神の民を生かしている信仰の知識を学んで、その信仰に自分自身を重ね合わせる等という事はそこでは無意味です。やりたいように、楽しみたいように行えば良いのです。あるときには、自分たちに合うようにルールを変えることすら当然とするような空気が流れるのです。しかし、その時にはそのしていることは神に喜ばれるものとはなりません。御心と離れるからです。改革教会とは、その、神の御心に自分自身を重ね合わせる努力を惜しまない教会です。その意味では、しんどいところがあります。常に、驚きつづける教会です。常に、びっくりしている教会です。新しくされ続ける教会です。改革教会は硬直化してはならないし、本当はそのようなあり方から最も離れている教会です。しかし、世々の教会が受け継いできた聖書の信仰とそれを具現化する制度には、あくまでもこだわります。その意味で、地境を動かすことは出来ません。「時代」や「地域」に迎合する事は許されません。

 何故、改革教会なのか、このバッターボックスこそは、神に出会える最善の場所だからです。自分たちの好きなように、試合をしたい人には、このバッターボックスは窮屈に感じられるかもしれません。退屈に感じられるかもしれません。しかし、本当に神に救われたいなら、救われた喜びを持って、神のために、神に喜ばれるように働きたいなら、この教会に生きることです。この教会、日本基督改革派教会をますます改革長老教会として、真の教会として、立て上げるために奉仕することです。

 その心だけをもって、今日皆さんにお話させていただきました。私は、皆さんが「教理」を体得してゆく、この改革教会の遺産を本気で、改めて真剣に考えて頂ければそれだけで本望であります。最近、神戸改革派神学校の牧田吉和校長が、「改革派信仰とは何か」と言う書物を出版されました。この書は、今までの類書を圧倒する、素晴らしい書物であると確信しています。それぞれの教会で青年会で読まれることを願います。私は近くの教会の青年たちがこの書物を読む読書会を開くことも楽しいと思います。そのために、もし必要であれば、私はどこまでも出掛けてゆきたいと思っています。兄弟姉妹で読んでください。これをきっかけにそのような教会が一つでも起こったならば、それだけで私の奉仕は豊かに報いられたと考えています。

 祈祷
 教会の頭にして世界の王なる主イエス・キリストの父なる御神。中部中会連合青年会の兄弟姉妹たちが、自分自身の課題に真剣に取り組もうと、例会を重ねております。心から感謝申し上げます。この後、皆で分団で自由に語り合います。その時にも聖霊が働いてくださり、それぞれが思うところを、建徳的に語り会うことが出来、神を真っ直ぐに見上げ、それによって背筋を伸ばした信仰の姿勢を、構えを与えていただけますように。神の恵みに驚かされ、集中し、教会のまんまん中で、奉仕に生きることが出来ますように。明日の日本基督改革派教会をいえ、今のこの日本基督改革派教会中部中会を担うことが出来ますように。あなたがお一人一人に届いて下さい。アーメン。