過去の投稿2005年4月12日

「共 に 伝 え よ う 良 き 知 ら せ を 」

             中部中会連合青年会秋の例会講演
          
     主題  「共 に 伝 え よ う 良 き 知 ら せ を 」
     副題  -喜びや困難を伴いながら-

              聖書朗読 使徒言行録第4章1節~22節
                        2000年11月3日     

                  はじめに 昨年、犬山教会におきまして、連合青年会の秋の例会でお話をさせていただいて、ちょ
うど1年後にもう一度、皆さんにお話をするようにと導かれました。愛する皆さんとこのように交わりの時が与えられますことを嬉しく思います。
 昨年私は、講演で「教理の体得」というお話を致しました。信仰の生活を作り、教会に正しく仕えて教会の形成を担うためには、教理を体得することは生命的に大切なことですと、訴えたのであります。その後、連合青年会の委員会のおりに、牧田吉和先生の「改革派信仰とは何か」を学ぶようになったと伺って、どれほど嬉しく思ったでしょうか。

       「教理(神学)」と「伝道」は相即不離(対立しない)

今回のテーマは「伝道」であります。伝道を主題にするときに、私は改めて皆さんに昨年お話した事々を思い起こしていただきたいと願います。昨年は教理、今年は伝道。もしかすると、皆さんのなかで、今年の主題は、昨年と関連性がないのではないか、むしろ全く違った方向性ではないかと考えられる方もいるかもしれません。それは、良く分かることであります。確かに教会のなかで、教理と伝道は、しばしば対立するものとして考えられてまいりました。実に不幸な歩み、不健全な歩みがあります。そのような、考えをなさる方々は、日本キリスト改革派教会を誤解されます。私自身がかつてそうでした。その誤
解は「改革派は伝道しない、教理、教理と言って、勉強ばかりして、伝道しない生命を失った教会だ。」これは、私が学んだ神学校で時々耳にした言葉なのであります。勿論、実際の私共はそうではありません。しかし、教理を学ぶことは伝道にとってマイナスにしかならない、伝道の意欲を削ぐと考える空気は、日本の敬虔主義の影響を受けた教会にはまだまだ根強く残る考えであります。私共は日本キリスト改革派教会とは、そのような、考え方が根本的に誤っていると主張して創立したのですし、これからも主張しつづけなければなりません。

 日本キリスト改革派教会の20周年宣言の中の一節にはこうあります。「神の言葉の体系的把握すなわち神学こそ、教会の生命的形成に不可欠である。」この宣言は、神学を「神の言葉の体系的把握すなわち神学」と表現致します。
  -余計なことかもしれませんが、この表現は、私などもともと日本キリスト改革派教会の人間ではなかった者から見ますと、かなり戸惑いを覚える表現であります。果して、神学と言う言葉の意味を単に、「神の言葉の体系的把握」と言い切ってしまってよいのだろうかと思います。誤解されるなら教会の生命的形成にとって、むしろマイナスをもたらす危険が多いと思います・・・。
神学とは、教会の自己批判の学です。御言葉によって改革されるとは、教会が常に自己批判を怠らないということであります。そしてそれは御言葉が教会に対して要請するのであります。その御言葉の要請に従って、教会の教えを時代の中で、正しく響かせることが、神学であります。
教会の自己批判の学である神学はその性質からも、教会を愛し、教会と共に生きる者によってしか、担われる事もまたできないのです。-この「神の言葉の体系的把握」とは昨年私が強調いたしました、教理のことに他なりません。聖書に証される神の御言葉を体系的に、全体的に把握する、それは、言い換えれば、教会が聖書をどの様に信じるのか、聖書によって教会の信仰を告白する営みであります。そして、それは聖書の信仰そのものとなるのであります。私共はまず、最初に教会に導かれて、聖書の言葉を教えられます。それは、確かに生で聖書の言葉を読むのですが、しかし、そこには常に、教会が信じ伝えてきた信仰の告白に基づいて語る説教者の存在があります。説教者は常に、教会の信仰の規準に照らされて、聖書を説くのです。その意味で、説教者にとって教理を学ぶことは、聖書を直にそのまま学ぶことを基本としながらも、生命的に大切なことになります。それは、会衆、教会員も同じであります。同じように
、教理を学ぶことが、聖書を学ぶことと別のことではないのであります。

 これは昨年も申したことなのですが、私は、しばしば岩の上教会の方々に言ってまいりました。「教会は伝道によって間違いを犯してきた、私たちの岩の上教会の伝道は、正しい伝道をしましょう。正しい福音を正しく語るのでなければ、伝道をしないほうがましです。してはならないのです。」これは、開拓伝道の私自身の譲ることのできない、基本線でありました。伝道によって間違いを犯すとは、伝道を聖書から学ぶことをせず、人間の
熱心、人間的な思いで伝道を始めることであります。伝道を錦の御旗のようにして、伝道する内容、宣教の言葉、教えを吟味することなく、とにかく、キリストを宣べ伝えている教会は聖書的な教会であると言うのです。例えばこれは、明らかな異端でありますが、エホバの証人はキリスト教会を批判して言います。「伝道しない」彼らにとっての伝道とは個別の家庭訪問、一軒一軒を訪ね歩くことが聖書的な伝道であり、そのような伝道を怠っているのは、滅び行くバビロン、悪魔の会衆であるという理解であります。もしも、とにかく聖書の事を語っていれば、伝道になるとか、正しいこと、良いことになると言うことではまったくありません。何年か前に、緑区にどこかのキリスト教団体の宣伝カーがやって来ました。スピーカーから大音量で、「イエスは救い主、イエスを信じなければ地獄に行きます。イエスを信じなさい。」とテープを流してまわっているのを見ました。私は、その車を何キロか追いかけて、止まらせて、そのような事はやめてほしい、と訴えました。かなり強く、主張したのです。少々若気の至りと言う感があるかもしれませんが、私は、それは、伝道の名に値しないと信じます。時々、名古屋駅や栄でも、その宣伝カーを見かけます。やくざの方が「誉め殺し」という手段を使って、脅すことがあります。政治家や実業家などの家や、会社に出向いて行き、その人を誉めるのです。しかし、そのような人から誉められて喜ぶ人はいないのです。まさに、巧妙な嫌がらせです。それとほとんど同じような事をその方々はしているわけであります。もしも、福音の内容が間違っているのであれば、それは自らに審きを招くことになります。だからこそ、正しい福音の内容が決定的に問われるのであります。

 なぜ教会の牧師になる人は神学校で学ぶのか、学ばねばならないのか、それは、教える内容の重さを弁えるからであります。神の国の福音です。それは、人類の、そして個々人の永遠を決定する知らせであります。そのような神の福音を罪人たる私どもが担うのですから、備えをもってその任務に付くのは私共の側の基本的な誠実な姿勢であります。聞いたところでは、神戸の神学校では、伝道の仕方、方法を学ばないそうです。「伝道学」とか、どうやって人々を救いに導くのかという技術的な授業はないそうです。私は基本的にはそれで構わないと思います。ただこれも余計なことかもしれませんが、私の卒業した神学校は1年生の授業で「個人伝道法」という授業がなされていました。しかし、神学校は、まさにその人が自分自身で神の御言葉を聴き取り、それを語る説教者としての素養、神学する術を体得する修練が集中的になされる場所であったら良いのです。後は、教会の現場で訓練を施されるのです。(神戸の神学校の問題は今ここでは問いません。ただそれだけで、本当に大丈夫なのかという不安は残るでしょう。)

 このように神の言葉の「伝道者」になるためにその訓練を施す場として、神学校が立てられていると言う、この事実を考えるだけで、伝道に先立って、その伝えようとする教えそのものを吟味することがどれほど大切なことか、必要不可欠なものであるかは明らかであろうと思います。つまり、教理の体得と伝道への具体的な取り組みとは別々の事ではなく、二つは一つに重なるものなのであります。

          神学と伝道を祈祷の生活において統一する 
少し横道にそれますが、このような事を学ぶときに私は皆さんに是非、覚えておいて頂きたいことがあります。先程も引用いたしました日本キリスト改革派教会の20周年宣言であります。その中の一節にこのような言葉があります。「わが教会は、神学と伝道を祈祷の生活において統一することによってのみ、聖霊の力あふれる教会として立ちうる。」神の国の進展は、人間の業が担うのではなく、聖霊なる神がその民を用いて担ってくださる。私共は用いられる、そこに必要なのは祈り、祈祷であると言います。祈りの生活がなければ、聖霊の力にあふれた教会、聖霊に満たされた教会とはなりえないし、神学も「観念的思弁」ただの思想の類で終わってしまうことになります。また、伝道も「単なる文化運動」にとどまってしまうと20周年宣言は警告しています。その通りであると思います。祈りにおいて、神学も伝道も正しく担われるし、祈りを失っては、聖霊の力を受けて正しく活き活きと使命を果たすことはできません。

 今年の夏の修養会において皆さんは、「日本基督改革派教会創立宣言」を学ばれました。そこでは、真の教会の形成の為になくてならない、3本柱を学ばれたことであります。「一つ信仰告白・一つ教会政治・一つ善き生活」であります。この3つは、地上に教会が形成されるために不可欠のものと告白したのであります。その意味でも「日本基督改革派教会創立宣言」は私共にとって、いつも立ち返ることができる原点であろうと思います。そして、さらに「20周年宣言」も、皆さんが良く学んで下さると良いと思います。「20周年宣言」は、日本キリスト改革派教会としての教会形成のあるべき姿勢を簡潔に表現しました。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現す。」つまり、主日礼拝式こそ、教会形成の目標であり、伝道の目標なのであります。その教会の生命の為に、神の言葉の説教が要になりますから、神学の重要性、教会形成にとって不可欠であることが確信され、伝道が神の選びの民を礼拝へと招く行為として捉えられていると私は考えます。そして、これらの事を私共が正しく担うためには祈祷、祈りが燃やされなくてはならないとこの宣言は主張していると思います。その意味で、この宣言は私共が真の教会としての条件を整備された教会として、その教会が事実、この日本に目に見える形でその輪郭を鮮やかにするための道筋の基本線を明らかに指し示すものとなっているのです。つまり、一言で言えば、主日の礼拝式が教会の生命であり、そのための神学であり、そのための伝道であり、そのために祈りがあると言うことであります。昨年も申した通り、皆さんが週日に行われる祈祷会を重んじることが神学、伝道、そして何よりも主日礼拝式の充実のためにどれほど大切なことであるかを、今回も強調したいと思います。

              教理と伝道、体を使って 
今「神学と伝道を祈祷の生活において統一すること」が不可欠であると学びました。そして講演の初めに、伝道には教理の体得、正しい教理に則って伝道し、伝道の内容は正しい教理に裏付けられたものでなくてはならないと申しました。
 さてしかし、今までの事はおそらく、日本キリスト改革派教会の信徒としては既に何度も聞いてきた事柄ではなかったかと思います。私は、今日、祈りについてこれ以上お話を申し上げることは致しません。ただ私は、祈りと共に、この事柄、この角度からキリスト教を考えなければならないと、少なくとも大切であるということを申し上げたいと思います。実は、それも、昨年の例会のお話で申したことであります。同じことばかりを申して恐縮ですが、忍耐して聞いてください。昨年、私は皆さんに、教理を学ぶと言う表現ではなく、教理の体得と申し、そのようにして教理体得の道を説いたつもりであります。教理が実際の自分の信仰の力、生命になるためには、単に「学ぶ」だけでは身につかない、理解できない、その恵みそのものにあずかることはできないと申しました。教理は、生きておられる主イエス・キリストとの交わりを与え、三一の神を仰ぐための道でありますから、教理の学びとは、実際に自分の体を使って、教会の為に生きること、キリストの御体なる教会の為に生きること、奉仕することが伴わなければならないと申しました。教理は身につける、体に刻むものだと申しました。
 
そこで、野球を例に上げました。野球は見るのは楽しいですが、実際にしてみるともっと楽しいものです。ピッチャーの投げ込むボールを打つには、実際自分の体をバッターボックスに立たせないかぎり、不可能です。教理体得の道は、バッターボックスに立って、実際に飛んでくるボールに向かうことが必要であると申しました。そして、それは、伝道についても実は全く同じように当てはまることなのであります。

 少しだけ、神学的な話題を致したいと思います。使徒パウロは、教会をキリストの体、キリスト者をキリストの体の肢体と言います。(コリントの信徒への手紙一第12:27他)洗礼も聖餐も、このキリストの御体に連なり、御体との一体化を深める礼典です。その意味で、真に教会にとって聖礼典は決定的に重要な恵みの手段であります。祈りにおけるイエス・キリストとの交わりの確かさを根本から支えるのは、私共が洗礼を受け、聖餐に与っているそのリアリティーによります。主イエス・キリストとの交わりは霊的な交わりですが、それは常に私共の「体」抜きの交わりではなく、キリストの肢体とされたもの
としての、交わりなのであります。肉体において罪を犯し、死ぬべき体を持つ人間を救うために、御子は肉体をとられました。ですから、地上における教会の営みはどこまでも、霊的なものですが、それは同時にどこまでも「体的」なものとなるのです。創立宣言の「一つ信仰告白・一つ教会政治・一つ善き生活」これらはいずれも、教会の制度、目に見え、手で触れるものです。そのような、体、器がキリスト教の本質そのものとなっている、そう言って良いと思います。

 そこで、伝道の事を考える私共に、伝道も実際自分自身の体、肉体を動かすことが求められているわけです。教理の体得と言うことに対して、伝道も実際に体を使って奉仕することのなかで、キリストの肢体、キリストの手となり足となって、御体なる教会の枝、肢体であるそのリアリティーが与えられるのであります。コロサイの信徒への手紙第1章24節を読みます。「キリストの御体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」使徒パウロらしい、表現であります。キリストにお仕えすること、それを具体的に言えば教会に生きること、礼拝を捧げ、神学し、伝道することは、自分の身、自分の肉体をもってなしている、それが信仰の生活そのものなのであります。

 さて、私共は、キリストの救いにあずかっています。それは、キリストのチームに入団したことを意味します。聖霊を受けてイエス・キリストを主と告白した者は皆、選手であります。これには、二軍も一軍もありません。選手になるために特別の資格はありません。洗礼を施されたと言うことは、その人がこのキリストチームの選手、つまり働き人、伝道者になったということを意味するのであります。洗礼とは、それを受領した全ての人を「キリストの兵士」とし、キリストの選手にする資格を授与されたこと、つまり聖霊の賜物を授与されたことを表すのです。牧師になる人は、その他に、按手礼を受領します。しかし、基本的には洗礼の受領こそが決定的に大切なのです。その意味で、改革派教会はローマ・カトリック教会のように「按手」を聖礼典に数えないのは、大切な神学的理解であります。さて、このチームの対戦相手とは、誰か。サタンのチームであります。いわば、サタンのボールを打ち返すのが私共の使命であります。全員がバッターボックスに立ちます。私共の中には、解説者のような人はおりません。皆が、選手なのです。しかも、控えの選手ではありません。全員が、正選手であります。引退の選手もおりません。選手はとにかく、バッターボックスに立っているのであります。それは、礼拝の生活を築く営みと言えます。祈りの生活、祈りの祭壇であります。それを築いているのは、既に立派な伝道であります。まだ、キリストの福音を誰かに伝えるところまで行っていなくても、主日の生活を守り、教会生活を自分の人生の土台、中心に据えるための終わりのない戦いをしている人は既に伝道をになっている人であります。伝道は、教会を通してなされ、教会形成において実りを結ぶのですから、教会を支えるために励んでいる人は、たとえ何かを語らずとも、伝道を担っています。そこで、大切となる理解は、伝道とは教会の業であると言う理解であります。教会の形成に結びつかない伝道は、基本的には伝道の名に値しません。伝道は、常に教会から出て、教会に戻るのです。

 横道にそれますが、「キリストへの時間」というラジオ伝道がなされていることを皆さんもご存じでしょう。日本キリスト改革派教会中部中会もこの放送を支援しています。ラジオで福音を語る伝道は、教会とは直接に係わらないと考えてはなりません。伝道団体は、教会によって支えられるのです。その限りで、教会では直接にできない伝道を教会の支えの中で進めるのであります。もしも、伝道団体が教会から離れてしまうなら、その伝道団体は極めて不健康であります。個人的な働きでなされる伝道団体、たとえば、アメリカにはテレビ伝道者と呼ばれる人が何人もおられます。しかし、そのテレビ伝道がいつしか
その伝道者の独り舞台になって、その人々がテレビスターのようになって、問題、スキャンダルを起こすことが少なくないと伺っています。教会が伝道する、それは伝道の究極の目標が教会の形成にあるからであります。勿論、そのことは、教会それ自身のためであるからではなく、教会が神の国の進展の拠点であるからであります。
 そうなりますと、伝道は、チームプレーであることがわかります。皆が同じ役割を担う必要はありません。皆が4番打者である必要はないのであります。ホームランを打つ人が起こされることは私共の願うところでありますが、一つのチームにホームランバッターばかりがいるわけでもありません。そして、皆が自分一人で試合を決めると考えているようなチームでは試合に勝つことは難しいのです。バントが出来て塁を進める人が必要です。
どんな方法でも出塁することのできる人がいればすばらしいのです。伝道は、教会の業です。言い換えれば、チームプレーです。それぞれ選手にしていただいた神から必ず受けているそれぞれの賜物を発揮すれば良いのです。そして、その賜物は、神がチームの勝利のために与えられたもの、チームの勝利のためのものであります。自分自身の何かを誇りにするためのものでは全くありません。
 伝道をしようと教会で呼びかけられて、実際自分が何を出来るのか、限界を感じる教会員は少なくありません。伝道集会を開いて、誰も誘えない、誰も連れてこれない、その時に自分は伝道の奉仕、伝道の働きを担えていないがっかりすることはありません。そこで、伝道集会であれば喜びを込めて賛美歌を歌うこと、説教者の為に祈り、喜びを込めて熱心に聴くこと、その後ろ姿、その姿勢を持つならば、その人はまさに、教会が行う伝道の奉仕を担う人に他なりません。それは、何も、伝道集会に限りません。普段の礼拝式にも新来者が訪ねられる教会は少なくないはずです。その時、教会の礼拝が問われるのです。
どのような、姿勢で礼拝を捧げているのか、それが教会の伝道において決定的に重要なのです。もしも、賛美の声が小さく、アーメンと言う祈りの言葉が消え入りそうであれば、元気、明るさのない集いであると、新来者は感じるのではないでしょうか。礼拝式が充実しないところで、私共が考える伝道、教会を形成するための伝道は、結実しないのです。

            伝道的交わりとしての連合青年会 
私はこの例会の小委員会の方々の集いにおいて、このようなことを申しました。連合青年会が、伝道の交わりとして機能してほしい。連合青年会の交わりそのものが、未信者や求道者を招き入れる交わりとなれないか、と言うことであります。勿論、教会の集会、礼拝式や伝道集会に友人を連れて来ることこそ、基本であります。しかし、その前の段階において、青年の交わりが大切です。大きな教会であって、青年が大勢集っているなら、何も連合青年会での伝道的な交わりは必要ないかもしれません。しかし、現実は、数十人で青年会として機能している教会はないと思います。私自身の求道時代を振り返ってみますと、やはり、教会の青年会(大学生以上)の交わりが私の救いの為には、必要なものであったように思います。岩の上教会の青年もまた、そのような交わりがあって、救われ、成長しているだと思います。青年や学生はその同世代の交わりの中で、救いに導かれるのはどの時代も同じことであると思います。
 
今日、日本の伝道は教勢の面から判断すれば停滞から後退へ落ちていると思います。日本キリスト改革派教会も、今年の大会の議案書の中で常任書記団報告として、過去5年間の統計が記されていました。礼拝出席者は4713名で、5年間で114名減りました。成人洗礼者は、全教会伝道所あわせて131教会があって、72名ですから、二つの教会で1名の受洗者です。日曜学校の生徒は863名で5年間で208名減りました。この十年間で停滞から後退へと推移して、この歩みをこれからくい止め、成長へと進めることは、予断を許さない状況、深刻な状況にあります。私自身も、岩の上教会において厳しい伝道の戦いを強いられています。その中でも、特に問題なのは、日曜学校の生徒の減少であり、成人洗礼者の中で、おそらく青年層が少なくなっているということではないかと思います。今年の夏休みに四国の教会で礼拝を捧げましたが、伺えば教会員の平均年齢は60歳代になるのだそうです。もしも、そのまま、推移すればあと十年、二十年すればどうなってしまうのでしょうか。
 私は青年、学生の伝道は青年キリスト者、学生キリスト者が担う以外にないと考えます。そのために、この連合青年会という組織が用いられる必要があるのです。

                伝道するために 
使徒たちは、聖霊の降臨によって、何をしたのかと申しますと、神の言葉の説教でありました。コリントの信徒への手紙Ⅱ第四章十三節にこうあります。「『私は信じた。それで、わたしは語った。』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」信仰の霊、聖霊がくだると私共は力を受けて、キリストの証人とされます。キリストを証する者とされます。信じることは基本的に、語ることなのであります。信じることと伝道すること、証人となることは同じことであります。

 使徒言行録を読みますと、最初のキリスト者たち、そして使徒たちがどれほど福音に生命をかけていたのかがわかります。彼らは全く変えられて、キリストの証人として生きました。ペトロとヨハネが神殿に詣でて、生まれつき足の不自由な男を癒しました。しかし、ユダヤ当局者らは彼らを牢に入れ、裁判をしたのです。その時、ペトロは聖霊に満たされて言いました。「他の誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名の他、人間には与えられていないのです。」ここに彼らの伝道の力があります。天下にイエス・キリストの御名以外に救いは得られない。イエス・キリストだけが救い主であられ、それ以外に救いはないのであります。この確信がなければ、教会の伝道の言葉、福音は宙に浮くのです。福音は、「あなたの人生のご参考までに」というあり方で提示することはできません。この名を信じる以外に救われない、だから教会は伝道するのです。これまでの伝道の歴史もこの真剣さ、この切迫感、この確信に基づくものであったに違いありません。

 皆さんの中には、一緒に生活している家族、兄弟のなかで、まだ救われていない方々が多いと思います。職場の仲間、友人で救われていない人のほうが圧倒的に多いでしょう。その方々が、イエス・キリストの名を信じることがなければ、滅んでしまうことを意識し
ているでしょうか。この日本が、とりわけ子どもたちが神を畏れることなく、それだけに
暗黒の中を彷徨って、自分と他人を傷つける以外にない現実に涙を流しているでしょうか。行き詰まってしまった現代の日本であります。それは、経済システムの問題が最大の課題ではありません。教育問題であります。そこで総理大臣が、「天皇を中心とした神の国であることを国民の皆さんに承知していただく」と本音をもらし、教育審議会が教育勅語にも良いところがあると言いだし、これからは十八歳未満の国民が全員奉仕活動をすることを義務づけると提言しています。戦前のまさに天皇中心の精神教育によって、この日本の建て直しをはからなければならないという議論が急激な勢いで、広がっています。私共教会が今、叫ばなければ、この日本はどうなってしまうのでしょうか。天皇は神ではないし、天皇を中心にして、道徳教育を施すなどと言う事はあってはならないことであります。

 私共は、もう一度、この国に立てられた日本キリスト改革派教会として、志を新たにして、「日本基督改革派教会創立宣言」の最後の言葉、「世界の希望はカルビン主義の神にあり。」との確信を抱いて、日本の伝道に取り組みたいと思います。カール・バルトと言う神学者は最も男らしい仕事は政治家と説教者の仕事であると言ったそうです。女性差別的な表現かもしれません。しかし、伝道は生ける全能の神に仕え、永遠に仕え、そして世界のあらゆる問題を担うことであります。歴史のまん真ん中を生きることであります。そしてその問題に究極の道を指し示すことになる行為なのであります。どうぞ、皆で立ち上がりましょう。チームプレーで、伝道を担いましょう。
 私は、しかし、皆さんが青年キリスト者であるという事の恵みと責任を弁えて欲しいと思います。チームプレーですが、皆さんは若いときから、ある人は幼いときから福音の恵みにあずかっているのです。四番打者になってください。友人に証してください。教会に導いて下さい。連合青年会の交わり誘ってください。そして、自分の口で、神の恵みの言葉をその共に語ってください。そのための訓練、技術的な訓練が必要であれば、また後で申し出てください。しかし、大切なことは、何としてもイエス・キリストを信じて救われて欲しいという祈りを熱くすることです。

 最後に私の個人的な証を申して終わります。私が救われたのは二十歳の時です。大学生の時です。私はその時から、皆さんには見倣っていただいては困りますが、大学には伝道しに行く思いで通いました。ほとんど勉強そっちのけでした。わたしにとっては、福音の恵み、救いの恵みにあずかってまさに価値観が逆転したのです。

 その歩みの中で、神学校に入学しました。その時の私の心の中には、改革教会の神学のような福音の包括的な理解は全く持ち合わせていませんでした。献身の目的は、とにかく、自分の献身によって、「一人でも良いから救われれば」という気持ちでありました。皆さんはほとんど聞いたことのない言葉かもしれませんが、「救霊」の思いだけで神学校に入ったのです。そして、その志は一年生の夏期伝道ですぐに神からの祝福をもってこたえていただきました。兵庫県は竜野市という田舎の教会に二か月間泊り込み、毎日、伝道に明け暮れたのです。本当に大変でしたが、楽しい時でした。アメリカの学生と四十日間チームを組んで、彼が英会話の先生で私がショートメッセージを語るのです。そして、毎日、クラスがあり、子どもから大人まで御言葉を語る喜びに浸りました。何よりも、そこで個人伝道して、その人をイエス・キリストを信じる告白までに導いたのです。僅か2カ月でしたが、「福音派」で言うところの「決心者」が何人も与えられたのです。私が去った後から、洗礼を受けられた方も起こったのです。幾つもある思いでのなかでも、一つの忘れがたい思いでは、元僧侶(得度した人、出家者)の老人が救われたことであります。その方が教会に電話をしてくださって、なんと教えを乞いたいと言うのです。伺えば、何年も前に教会から読み物をもらって、 -進化論は間違いですというトラクトでした。- 聖書を知りたいと言うのです。それから、毎日自転車でそのご老人のお宅に伺って聖書を開いて、信仰を勧めました。そしてその方が信じる決心をされ、一緒に祈ったのです。それからも毎日のように家に伺って、お孫さんにも伝道することができました。そのうち、子ども、孫たちを集めて家庭集会を開いたのです。まさに、神の憐れみで、伝道する喜びを味合わせていただきました。10名足らずの小さな教会の礼拝が、二倍位の出席者が集うようになりました。これは、神学校に入ってわずか、三か月後の経験です。つまり、神学も聖書もまだほとんど何も分からないままの状態の経験であったのです。あったのは祈りと志。イエス・キリストの福音を何としても信じて救われて欲しいという祈りしか持ち合わせていなかったのです。しかし、神が用いてくだされば、伝道を担うことが出来るのです。まだあの時は二十四歳でした。そのような青年が、壮年のサラリーマンの男性に伝道できたのです。老人にも、勿論、子どもにも個人伝道したのです。神に祈って進めば伝道の道は開かれるのです。

神学校の時に、個人伝道して受洗した一人の壮年の会社員の方は、私が牧師になって数年後、神学校に行かれました。今では、牧師として奉仕なさっておられます。20歳以上も年上の方であったのです。それでも、共に聖書を学んで行けば、伝える者の年齢には関係なく、聖霊なる神が働いてくださるのであります。

皆さんも、この「伝道の喜び」を知って欲しいと思います。伝道は、神の喜びに直結する喜び、失われた羊を見いだす神の喜びに直結する、私共の喜びなのです。青年キリスト者にはそのような特権が与えられている、そう信じています。本当を言いますと、皆が、4番打者になって欲しい。そのための訓練が必要でしょう。伝道したい、伝道しなければと考え、祈り始めるとき、まず自分自身が、聖書に強くならなければ、お祈りして神に働いていただかなくてはと祈りのうちに導かれて行くこととなることも真理であります。伝道「する」ことが、教理の体得そのものになるのであります。御言葉を行うことなしに、教理は身につかないのです。

 勿論伝道はこのように、進展することもあれば、そうでない時もあります。事実は、そうでない時のほうがはるかに多いのです。今思えば、神は弱い信仰者の私を励ますために、あの教会のあの時期に私をお遣わし下さって、伝道の喜びを味合わせてくださったのだと思います。伝道は、いつでも困難を伴うものです。私はこの席で、皆さんの中から、伝道に献身する人が起こされて欲しいと願います。いや、それは何も神学校に行く人が出るということだけを意味していません。たった一人の人が救われるために、自分の生涯を捧げることは価値があるはずだと、信じる人が何人でも起こって欲しいのです。いや、皆でそのようにイエス・キリストの十字架の恵みを価値あるものと認め、それを認めたものとして生きて欲しいのです。皆で、そのような伝道への祈り、救われる人が起こされることへの叫びをあげてほしいと思います。
 青年の伝道は、青年の皆さんの祈りと奉仕で担われる者です。この集いに、求道者はおりません。しかし、連合青年会の交わりが伝道的な交わり、新しい人を招き入れられるような交わりとして、意識的に改革されることも、日本キリスト改革派教会に青年を獲得する大きな力となると信じます。