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「個人伝道について」

「個人伝道について」 
                       2001年8月14日         中部中会連合青年会夏の修養会分科会
         
 「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」
               コリントの信徒への手紙一第3章15節

はじめに 
ⅰ 今年度の連合青年会の主題は「伝道」。これまでのどの主題も、大切な   ものであったかと思う。しかし、伝道は、我々の緊急の、共通の責任で
   あり、特権。そのための学びを深め、実際に伝道のために祈り、行動す
   ることがなされた事は、大変嬉しく拝見している。
 ⅱ 伝道とは何か。生ける主イエス・キリストを紹介すること。
   そして、その結果である、救い、洗礼(教会形成)へと招き導く業。
 ⅲ 伝道する人は誰か。救われたキリスト者。受洗(信仰告白)者。
   伝道の動力とは何か。救い(信仰)の喜び。
 ⅳ 講師の救いの証
   「私は何という惨めな人間なのだろうか。」ローマ人への手紙7章
   大学2年生の9月15日。教会に行きだして半年。礼拝出席して、3~
   4か月後。聖書を読んで、5年。
   「一日の内に誰かに福音を証させて下さい。」伝道しに学校へ!?
(改革派教会の学生像からは、決して推奨できない!)
   「穴のあいた風船でもあるまいし!?」母の叱責
 ⅴ 召命の証
   「主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨の内に閉じ込めら
   れているようで、それを押さえるのに疲れ果てて、耐えることができま
   せん。」エレミヤ書20:9
   「わたしの小羊を養いなさい。」ヨハネによる福音書21:15
   「自分の人生の中で、誰か一人でも永遠の生命に導くことができたら、
   それ以上の幸いはない。」
 ⅵ 神学校で
   個人伝道と説教こそ、牧師の務めとの自覚。
   元僧侶の救い。子どもへの個人伝道。壮年社会人の救い、献身。
   伝道説教、救いへの招き(挙手)、その後の個人伝道。

教会的伝道 
 牧会の現場で、改めて聖書的な伝道とは何かを問わざるを得なかった。
 「日本キリスト改革派教会を創立した時、伝道、伝道と言って教会を大きく
 しよう、教勢を伸ばそうなどとは毛頭思っていなかった・・・」岡田稔先生
 の言葉として伝えられている。
  伝道とは徹底的にキリストの御体なる教会と結びつく。教会形成と結びつ
 かない伝道はキリスト教伝道(福音宣教)の名に値しない。生けるイエス・
 キリストを紹介することは、キリストの臨在に導くことが必要。そのために
 は、今、地上において働かれる(臨在される)イエス・キリストへと導くこ
 とが必要。礼拝式への招待、礼拝共同体(キリストの御体)に繋がらせるこ
 と、「洗礼入会」が中間目標、それは教会形成を目標とする。教会形成(主
 日礼拝式=礼拝共同体)をゴールとする伝道がこそ我々の伝道理解。

個人的伝道 
岡田先生の発言を今日どのように聞くべきか。この先生は、求められればそれこそどこにでも、足を運んで日本キリスト改革派教会とその神学について講演なさっておられる。それは、広義の伝道である。牧師・神学者としての旺盛な伝道精神を見ることが出来る。
 第2・3世代そして我々の世代も、「伝道・伝道」と叫ぶ声はほとんど聞いたことがない・・・。しかしそれは岡田先生の目指した、肝心要の足腰のしっかりした教会、長老教会の形成を実現しているかどうか。厳しい反省が求められているのではないか。
 我々は、この日本の現状を見るときに、それこそ、伝道の進展、教会形成の豊かな実りなくして、日本の再建はあり得ない。まさにそれを視野に入れた日本キリスト改革派教会の創立であるなら、我々の姿勢が改められる必要があろう。
 救いの喜びを分かつこと、救い主を紹介すること、救いへと招くことは、全ての信徒の特権であり、召命である。洗礼受領者とは、公式にキリスト教伝道者とされたこと。牧師の任職式、-他教派では「按手礼」と呼ぶ-、ローマ・カトリック教会、東方教会ではサクラメント、多くの福音主義教会では、聖礼典ではないが、大変重要な「儀式」。(説教と)聖礼典執行権の授与。教会における公式の説教(礼拝説教)は、教会の職制のなかで、宣教長老にのみ許されている。しかし、福音の宣教は全ての人に許され、命じられている。その資格は洗礼によって授与されている。「伝道の宣言」の十二項に有るとおり、全信徒は伝道者なのである。

聖書に見る個人伝道 
ⅰ 主イエスとサマリアの女性との個人的対話(成功例)。ヨハネ4章。
 ⅱ ニコデモとの対話。(失敗例?)ヨハネ3章。
 ⅲ エルサレムに礼拝に向かうエチオピアの宦官、敬神家(求道者)を導く
  フィリポ(彼は公式の<伝道者>ではなく、<食事の世話係>)。使徒言
  行録第7章。宦官は言った。「手引きしてくれる人がなければ、どうして
  分かりましょう。」フィリポは口を開き「聖書のこの箇所から説き起こし
  て、イエスについて(イエス・キリストの紹介)福音を告げ知らせた。」

個人伝道の実際 
 ⅰ 基本は、礼拝(教会)への招き。「来てご覧なさい。そうすればわかり
  ます。」日曜学校の子どもに負けていられない。未信者による伝道。
 ⅱ しかし、洗礼受領者はそれを越えることが出来るし、不断の準備を!
  コリントの信徒への手紙一第3章15節。「心のなかでキリストを主と崇
  める」とはキリスト告白を胸にしまっておくことではない。質問される生
  き方、公然と生きる。「私は信じた。それゆえに語った。」Ⅱコリント4
  14。
 ⅲ 「子どもカテキズム」を熟読。教理の体得は、キリスト者として生きる
  礎。伝道の武器。自分の為に、そして未信者のために教理体得の道を!
 ⅳ カテーケーオー=響かせる。信仰の真理の伝達、継承は、個人的な、マ
  マツーマンでの働きの中でこそ、響く。それは、教会的伝道と決して矛盾
  しない、マンツーマンでの響き合いは福音の本質そのものが要請する。ロ
  ーマ・カトリック教会の「告解」の秘蹟。司祭のみが罪の告白を聞いて、
  赦しの秘蹟を授けるとする。しかし、我々は受洗者であれば誰でも、司祭
  のこの働きを担うことができる。個人伝道もこの視点で考える。そのため
  には、親しい(信頼)関係の構築が必要。語りっぱなし、垂れ流し的伝道
  は自己満足。
 ⅴ 私共は、「魂の救い」を受けているではないか。ペトロの手紙一1:9
  魂のことを語ることができるのは、キリスト者のみ。あなたの登場が現代
  人の憧れを満たす。100人が耳を傾けてくれなくとも、たった一人でも
  求道者へと導かれ、洗礼へと導かれたら、負債を返すことになろう。福音
  の「語り手」になって欲しい!!

 ⅳ 簡単に、短く福音を語れるように備えよう。30秒の福音。福音(教理
  )の骨格が伝道の言葉の骨格。一例。
  『神さまは人間を愛され、創造された。しかし、人間は神に背き、自己中
  心となって罪人と成り下がり、神の栄光を受けられなくなった。神は人間
  を救うために、独り子イエス・キリストを十字架にはりつけ、罪人の罪の
  身代わり犠牲として、裁かれた。あなたも、イエス・キリストを信じれば
  今、罪赦され、神の子とされ、永遠の生命を受けることができる。』
  ローマの信徒への手紙3:23・6:23・5:8・10:9

おわりに 
伝道の視点から、日本キリスト改革派教会の改革を進める事も、極めて大切
ではないか。日曜学校、中高生会、学生会、連合青年会などの集会の持ち方。
 中部中会連合青年会の今回の取り組みを喜んでいる。それは、中部中会の働
きが「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それはわたしが福音
に共にあずかる者となるためです。」(コリントの信徒への手紙一9:23。
)というような使徒の姿勢に真似ること。
 しかしとにかく、今晩、あなたが「救霊=魂の救い」のために、「心が疼く
」人になるように変えられることを祈りたい。求めて頂きたい。どうぞ、「(
わたしは)福音を恥としない」(ローマの信徒への手紙1:16)で、一人の
人(友人・求道者)の魂の救いのために用いられる人になって欲しい。そのよ
うな、祈りが集めるところでこそ、教会の伝道は実る。アーメン。