連合青年会 春の例会
2003年5月5日
「教会形成-主にある交わり-」
■ コリントの信徒への手紙Ⅰ 第1章1~9節
ヨハネ15章1節~1節 エフェソ5章18-20節 コロサイの信徒への手紙3:16‐17節)
■ 使徒信条
「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わり」
■ ウエストミンスター信仰告白 第26章【聖徒の交わりについて】
《1》 自分たちの頭であるイエス・キリストに、彼の霊により、信仰によって、結ばれている全ての聖徒たちは、イエス・キリストの、恵みの賜物・苦難・死・復活・栄光において、彼との交流を持つ。また、聖徒たちは、愛において互いに結ばれているので、互いの〔一般的な〕賜物と恵みの賜物にあずかる交わりを持っており、内なる人においても外なる人においても〔内面的にも外面的にも〕相互の益となるような、公的、私的な義務を果たさなければならない。
《2》 信仰を告白した聖徒達は、〔第一に〕神礼拝において、また〔第二に〕相互の教化に役立つ他のさまざまな霊的奉仕を行なうことにおいて、更に、〔第三に〕外的な〔物質的・物理的な〕事柄に関しても、それぞれの能力と必要に応じて、互いに助け合うことにおいて、清い交流と交わりを保たなければならない。この交わりは、神が機会を提供してくださるままに、至る所で、主イエスの名を呼んでいる、すべての人々に広げられるべきである。 (松谷訳)
■ ハイデルベルク信仰問答 問い55
《問い55》「聖徒の交わり」についてあなたは何を理解していますか。
《答え》第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。
第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。 (吉田隆訳)
■ 名古屋岩の上伝道所の開拓以来の祈り
「ここに神の教会を -ここに聖餐を囲み、キリストだけを主と告白し合う、慰めの共同体を形成させてください。-」
前置き
言い訳から講演を始めるのは、全く悪い講演のお手本ですが、献堂式までの日々の中で、この講演準備に取り掛かる事が出来たのは、正直に申しまして、この数日間でした。勿論、依頼を受けてから、ずっと心に留めていたのです。まとまらないお話になりますが、後で質問などしていただいたらと思います。
今年の連合青年会の年間活動主題は、「教会形成」と伺いました。一昨年は伝道、昨年はキリストの弟子、そして今年は教会形成です。伺ってすぐに、すばらしいと思いました。何故なら、私どもの伝道も、礼拝も、学びも、祈りも、およそキリスト者としての私どもの営みの一切は、「教会形成」という一点において集約、収斂出来る、しなければならないと私は考えているからです。勿論、日本キリスト改革派教会は、その創立宣言の主張で掲げた二つの主張の第一点において、「有神論的人生観、世界観」を掲げています。改革派の伝統を継承する教会らしく、教会による文化形成、歴史形成を自らの使命として理解しています。
日本の多くの教会は、敬虔主義の影響を受けている教会なのですが、そのような教会は、どちらかと言いますと、教会の社会的責任について消極的、ナイーブです。この世は悪の世であり、滅び行く世界であるから、教会はそこから出て行くこと、世俗と交渉しないこと、世俗の事は、非キリスト者に任せておけば良いのであって、教会は福音の伝道に専心すべきだし、そうすることがふさわしいと考えます。そうなりますと、二元論的なキリスト者、この世の中で、キリスト者として影響を与え、キリストの正義と平和を実現し、キリストにある文化を構築し、キリストにある倫理を反映させる社会形成のような壮大なビジョンをもって、生きることができなくなります。社会の第一線で生きることが、なんとなく、キリスト者として、教会人として献身が不徹底であるような錯覚を生じさせます。いわゆる能力のある人は皆、伝道献身者になることが信仰に生きる道であるというような考えを持つ過ちを生じます。ですから、日本キリスト改革派教会がその創立宣言において、このような主張を明白にしたことは、日本の教会の歴史を知るなら大変意義深いものであると思います。
そもそも創立宣言の背景として決定的に影響を及ぼしているのは、太平洋戦争における日本の敗戦であります。国家の崩壊を目の当たりにした国民、その中で、教会としても深い自責の念を禁じえなかったはずであります。それだけに、私どもの先輩たちは、この国の唯一の正しい復興は、改革派キリスト教による教会の形成であり、「世界の希望はカルヴィン主義の神にあり」と謳ったように、生ける神のみが希望であることを宣言したかったのです。先輩達の志はまことに壮大であり、高いものでした。
さて創立宣言の第二点の主張は、教会形成の筋道を明らかにするものでした。「一つ信仰告白、一つ教会政治、一つ善き生活」をもって、使徒よりの唯一の聖なる公同の教会を地上において一つの見える教会として実現するため、形成するために不可欠のものがこの教会形成の三本柱であると主張しました。
個人的なことで恐縮ですが、私はかつて小さな論文を書きましたときに、この主張の第一点と主張の第二点との相互関係について、おそらくこれまでなされて来た理解について修正を求める意見を表しました。これまでの理解とは、例えば、「日本キリスト改革派教会史」と言う小野先生が主に書かれた30年の歴史が記されていますが、そこで、私どもの教会は、第一点と第二点とが互いに緊張関係にある、楕円形の二つの中心点のように緊張関係を持つと言われます。私は、むしろ、この第一点は、第二点の根拠、土台を根深く据えるためのものと理解すべきであると主張しました。教会形成は、国家形成、歴史形成、文化形成と緊張関係におかれるというよりも、しっかりとした教会形成のためには、教会が遣わされているこの世界が福音を受容し、福音によって感化された成熟した社会になることが求められます。その意味で、主張の第一点を教会形成の礎を強固に据えるための言わば地ならしのようなもの、二つの中心点を持つ楕円として理解するのではなく、一つの中心点、円の内縁と外縁のような関係と理解した方が良いと、今でも信じております。
ながながと創立宣言について申しました。それは、繰り返しますが、教会形成こそ、お互いの牧師と信徒の、キリスト者、教会に生きる民の最高の務め、栄誉、最大かつ究極の使命であると私共日本キリスト改革派教会は考えているという事を確認したかったからです。教会形成は、まさに他の誰でもない、私どもの課題であり、使命であり、特権であるのです。これは、一年間の課題ではありません。すべての取り組みの冠であり、目標なのです。そのような目的そのものを皆さんは年間テーマにされたわけです。
「聖徒の交わり」
長い前置きになりましたが、本日与えられている主題は、「教会形成-主にある交わり-」です。昨年の秋の例会では、教会の本質は、「聖徒の交わり」であり、教会の機能は「罪の赦し」であると学ばれたとのことです。そこで取り上げられたのは、使徒信条の第三項、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永久の命を信ず。」でした。
使徒信条は、教会の本質を「聖徒の交わり」として告白します。これは、使徒信条を際立たせている文言です。そしてそれは、大変、重要な事です。日本キリスト改革派教会は、教会を制度の面から考えることが得意です。この長所は、これからも常に新しく強調しながら、日本の教会に豊かに貢献しなければなりません。わたしは、「制度なき教会は、教会に非ず」と断言します。本当は、丁寧に言わなければならないのですが、事柄を単純化し、明瞭にするために、この日本のキリスト教界の状況では、この主張は有効であり、大切であると信じます。それは、実際に私自身、制度なき教会、それは、キリスト教集会と言ったほうが正確であるかと思いますが、そのようなところで6年間、牧師として働いた経験を持っていますから、そのように強烈に認識しているのです。余談ですが、つい最近までのローマ・カトリック教会は、ローマ・カトリック教会でなければ教会ではないと主張し続けました。もちろん、私共はそれを一笑にふしますが、プロテスタントを名乗る諸教会が、はたして、きちんと一笑にふすことができるかどうか、そのことは常に真剣に問わなければなりません。いわゆるプロテスタント教会が、ローマ・カトリック教会には信仰の熱意、生き生きとした働きがなく、それは、あのような教皇制、制度をもっているからであるというように批判するなら、それは、まったく間違っていると思います。むしろ、そのように批判する自らの信仰の熱心さ、躍動感が本当に、信仰のそれなのかどうか、自己批判しなければならないと思います。
「交わりを重んじる日本の教会」と我々の反省点?
さて、今申し上げた事柄は、現代の教会、とりわけ日本の諸教会の現実においては、どれだけ強調してもなお、し過ぎることがありません。しかしながら一方で、むしろ、聖書の信仰の本質から申しますと、今回の主題、つまり「聖徒の交わり」こそ、教会の本質であり、教会形成の課題の根本となると言えるのです。
使徒信条は第三項、聖霊についての信仰を言い表すところで、教会の本質として、「聖なる公同の教会」と告白します。そしてすぐに続けて「聖徒の交わり」と告白します。又聞きで恥ずかしいのですが、ドイツ語の使徒信条は「聖なる公同の教会」「即ち、聖徒の交わり」と翻訳していると言います。教会とは即ち、聖徒の交わりである。聖なる公同の教会は、聖徒の交わりによって存在していると理解するのです。
ここで出てまいります、「交わり」と言う言葉は、教会に通い始めてすぐに聞く事となります。教会以外ではほとんど聞かない言葉と言えるかもしれません。交際、付き合いのことです。はるか昔の大学生のとき、キリスト者の友人がゼミの懇親会の司会をしたとき、「さて、この後はお茶を飲みながら自由にお交わりの時を持ちましょう。」こう言ったのだそうです。その時、仲間たちから、このような発言があったと聞きました。「『お交わり』って一体何をするんだ、気持ちが悪い!」
この例会のパンフレットのプログラムにも、12:30~14:30まで、の内容として、「昼食・交わり・祈り会」と記されています。そしてかっこの中で、「滝ノ水公園に行き、ゆっくりと交わりの時を持ちます。」とあります。おそらく、初めてこの集会に来られた方がおられれば、交わりの時って何だろうと不安になるかもしれません。さらに、14:30~は「分かち合い」こうなりますと、ほとんど全くと言って良いほどお手上げでしょう。「一体、何をするのか、自分は手ぶらで来たけれど、お弁当をお互いに分かち合うのであれば、昼食の時間に全部食べてはいけないのかなぁ」そんなことを考えられてしまうかもしれません。それほど、この交わりは教会用語となっております。分かち合いも同じです。
日本の教会においては、この交わりというものが教会の生活にとってとにかく重んじられてまいりました。教会の良し悪しは交わりが良いか悪いか、それによってかかっているかのように、考えられてきたのです。交わりが良いというのは平たく言えば、仲が良いということです。初めて教会に来た求道者、新来者の方が、一般に、教会に良い印象を持つかどうかを決めるのは、その教会の礼拝式やその説教であることよりむしろ、教会員の方々の雰囲気、親切さ、もてなし、ホスピタリティにあると思います。その点、おそらく日本キリスト改革派教会は得意ではないと思います。「ようこそ、いらっしゃいました」とデニーズのウェイトレスのように、マックのアルバイトの女の子のように歓迎する教会もあると思います。教会員がそのように訓練されるのです。受付の奉仕者、案内係、そして礼拝後には、同性、同年齢の信徒が側に来て声をかけてくれる、そのような教会があります。しかし、名古屋岩の上伝道所もそうですが、多くの日本キリスト改革派教会は、そのような訓練を施されていないと思います。何も、つくり笑顔のようにして新来者を歓迎する必要はありませんが、新来者に歓迎の気持ちをきちんと言葉で、あるいは笑顔で表すことがないような教会であれば、それは、どこかおかしいと思います。おそらく次の日には、来にくくなるかもしれません。逆に、礼拝や説教は分からず、違和感をもっても、歓迎してくれる雰囲気を感じていただいた方は、もう一度、行ってみようかと思われるかもしれません。私どもの教会の課題は、これは、本質的なことではありませんが、実践的な訓練、配慮の課題として、ホスピタリティ、もてなしに磨きをかける努力をしたほうが、しないよりよほど、伝道に有益でしょうし、神に喜ばれることと思います。
しかし、同時に、思います。そのようなことを一生懸命する教会は、逆に、問題も多い、多くなるのも事実なのです。つまり、歓迎された新来者がやがて洗礼を受ける、そうなると今度は、歓迎される側ではなく、歓迎する側にすぐに回らないといけなくなります。その時、自分は歓迎を受ける側、優しく接してもらう側でいたいと考えるのは人間の罪の姿ですから、最近、教会は冷たい、牧師も昔のように優しくしてくれないなどと言い始めて、教会を去るのです。教会は愛の場所であるのに、ちっとも愛してもらえない、教会は交わりがなければならないのに、あの人もこの人も冷たい、酷い言葉を言う、傷つけられた、そして最後にこう言うのです。「教会に躓いた。牧師に躓いた。教会員に躓いた。」そう言い放って教会を去るのです。そう言い放たれると、善良な教会員は、もう自分を責めるしかなくなるのです。そして教会と教会員、そしてしばしば誰よりも牧師が苦しむこととなるのです。そのような体質の教会では、「躓いた」と言ったもん勝ちになる。そして躓かせたと指摘される側に責任があるとするのです。しかし、それは、まったく間違いです。もしもキリスト者であって、躓いた、と言って教会を去るのであれば、その人にこそ、問題、責任があるのです。
ただし、それが、未信者の方であれば、教会とは何かを、主イエス・キリストによって知る事ができなかったのですから、同情すべきです。どうして、そのようになったのか謙虚に反省すべきでしょう。そして、もしも配慮が足らなかったら、つまり、まさに愛の心配り、想像力が足らなかったのであれば、神に赦しを請い、そのかけを皆で補い、教会員自身の訓練を求めるべきでしょう。
「聖なる教会と聖徒の交わり」
私どもは今日、この教会の本質である「聖徒の交わり」を巡って共に学び考えて参りたいと思います。
もしも、今申しましたような暖かな交わりがあるのが教会であって、それなしに教会はないのであれば、自分達の教会は、教会としては違うのではないかと、皆さんの中で考えてしまわれる方はおられるでしょうか。
さて、この聖徒の交わりの直前に、教会とは「聖なる教会」であるとの告白があります。聖とは、旧約聖書においては、神の本質、ただ神のみに用いられる概念なのです。絶対他者であり、超越者です。絶対者です。しかし今、その聖が教会に冠して語られます。「聖なる教会」と告白するときに、仮にも、自分達自身が絶対者であり、この世とは超越した存在であり、教会自身が聖なる存在そのものであるかのように自分自身を認識したり、ふるまったりする事は許されていません。何よりも、実際に教会に生きている私どもにとって、それは不可能なことはすぐに気づくでしょう。教会が聖であるとは、教会を呼び集められたお方が聖であられ、その聖なる神の所有、神の家、神のものという意味なのです。つまり、教会とは、教会である自分達自身が教会であることを決定できないということを意味します。教会は「教会」を意のままに、自分達の願い、信じるままに決定、改変することはできません。常に御言葉によって改革されることと、教会が自ら好むままに、多数決でこうありたいと思う教会に改変することは全く意味が違います。その意味で、教会は、会員の多数決によって決せられてはなりません。神のみが教会の主であり、教会の支配者。神ののみが教会の全てであるからです。
何にも勝って、私どもが教会を考える上で、教会が聖なる神のものであることを信じることが基礎になります。聖なる神の家である教会とは、ただそれだけで、あるがままで既に聖いものとされてしまっているのです。同時に、それゆえに、教会は常に聖に向かって歩まなくてなはならない課題と責任、使命と光栄を与えられているのです。
「聖人の交わり」か「聖なるものによる交わり」か
さて、そのような「聖なる教会」は、ただ神のものであり、神が臨在するだけではなく、聖徒の交わりによってこそ存在するものです。そこに神の民がいなければ神御自身だけでは教会はないのです。それなら、ここで言う、「聖徒」とは何でしょうか。使徒信条はラテン語が原文です。その「聖徒の交わり」をラテン語では、sanctorum communionem (communion sanctorum)と言います。このsanctorum交わりという文字は、属格にも目的格にも取れると言います。前者に理解すれば、「聖人(sanncti)の交わり」となります。後者に理解すれば、「聖なるもの(sancta)による交わり」となります。これは、ギリシア語訳でもκοινονια των αγινωνとなっていて、αγινωνには、男性、女性、中性の区別がありません。これは、使徒信条において、偶然ではなく、むしろ二つの意味があると理解すべきでありましょう。聖徒の交わりとは、聖徒、つまり聖人の交わりであり、かつ聖なるものを共有する、ともに与る交わりでだという二つの理解が込められているのです。
主イエス・キリストと交わりを持つ故に「聖人」 「
聖徒」と言う言葉は、聖書の中には登場しますが、漢字で書かなくては、意味が通じないでしょう。一般では、学校の生徒のように聞き取られる事の方が圧倒的に多いことでしょう。聖徒とは、聖人ということです。教会は聖人たちによって構成される、聖人たちがお互いに交わりをする家ということです。けれども、もしも誰かが「あの人は、聖人君子だからなぁ」と言うことがあれば、それは、「あいつは俺達と付き合わない面白みのない人間だ」という批判の言葉、陰口に決まっています。私共自身も、自分がいわゆる「聖人」であるとは、普段の生活で意識したことは、もしかすると「まったく」ないかもしれません。聖人などといえば、絵画に描かれるような頭のてっぺんに冠が載っていて、後光がさしている、あの聖人の姿を思い浮かべるからでしょう。例えばローマ・カトリック教会は、ある人を聖人かどうか決定することがあります。その条件は、何よりもその人が死んでいることです。生きている限り、間違うかもしれない、死ぬ間際にとんでもない行動をされてしまっては、かないませんから、死ぬまで待ちます。しかも死んでからも、さまざまな証拠、実証を確認する作業が丁寧に続けられます。決定のためには、何十年もかかると言われます。そうであれば、言わば一般の信徒、プロテスタントの信徒も牧師であっても、大抵妻帯者ですから、自分が聖人になること、なれるなどと言うことは考えられない事でしょう。しかしながら、聖書を開けば、私共が正真正銘の聖人であることは明らかなのです。死んでからではなく、生きているときに既に聖人なのです。それなら、聖書が言う聖人とは何かが問われます。しかし、そのことは既に教会が聖なるものであると学んだことを思い出してくだされば良いのです。つまり、教会の聖さとは、教会自身の聖さではまったくないということです。例えば、新約聖書の中に登場する現実の教会を考えて見たらすぐに分かります。コリントの信徒への手紙を読みますなら、およそ、この世の乱れとなんら異なることもないような倫理上の乱れが教会内であったことがあからさまに描かれております。しかし、使徒パウロは、冒頭で、「コリントにある神の教会・キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」とコリント教会の信徒に呼びかけています。この冒頭を読みますと、この教会がどのようなすばらしい教会であるのか、期待を持って読みはじめることができるのですが、しかし、その期待はすぐに裏切られます。詳しく申し上げる暇はありません。
パウロは、この、ほとんど良い証にならない瀕死のような教会であるコリント教会の再建の課題を担って、手紙を書きます。神の言葉を告げます。そして、あなたがたはもはや、神の教会ではない、聖なる教会ではなくなったから、初めからやり直しなさいと呼びかけたのではありませんでした。パウロは9節で、申します。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたし達の主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」この教会、コリントの信徒たちが思い起こし、ここにこそ足場を固めたら良いというその一点を、冒頭で明瞭に示しました。それは、主イエス・キリストというお方であり、コリントの信徒たちが「主イエス・キリストとの交わり」に招き入れられているという、この一点であります。本日の講演の結論でもあり、実に福音の中心点です。この一点こそ、私どもの中心、中核、原点なのです。私共がこのあるがままの姿で、聖人とされているのは、この聖なる神の子、しかも私どもの主として父なる神から与えていただきましたイエス・キリストとの交わりをもっているからなのです。
さて、次に、パウロは、声を整えなおして宣言します。「神は真実な方です。」つまり、不真実な人間の心変わりや移ろい易いあり方で、このイエス・キリストとの交わりに与っているのではなく、むしろこの交わりは、真実な神の御業であるのです。神の真実な御業なのです。つまり、神が私共に交わりの手を差し伸べ、神との交流、神の命に接続し、あの有名なぶどうの木と枝のたとえのような関係に、この神がしてくださったと言うのです。神は、枯れていた枝であるわたしを、私共を拾い上げてくださって、御子イエス・キリストにつなげてくださったのです。それ故に、この交わりは真実なものとされ、この交わりは確か、確実なものとされているのです。
教会に生きるという事は、このことを信じることです。自分自身をこのように信じると言う事です。共に生きる教会員をこのように信じるということです。
お互いを聖人と見ることが交わりの基礎
名古屋岩の上伝道所の開拓伝道の初めから洗礼入会者や他教会からの入会者を迎え入れる学びをするときに必ず申し上げる事があります。それは、お互いを神によって与えられた隣人として認めよう。お互いをキリストにおいて見よう。牧師であるわたしはあなたをキリストを通して見ている。その時には、あなたをキリストにある兄弟姉妹として観る事です。あなたをこの教会の家族、兄弟姉妹として与えられたと言う事です。だから、受け入れる。だから、受け入れあう。赦しあいましょう。生身の人間は、弱さも欠けもあります。けれども、あるがままで受けいれ合いましょう。(しかし、わがままは受け入れることはできません。わがままと弱さとの違いは、弱さにおいて罪を犯し、隣人を傷つけてしまったとしても、その罪を認め、悔い、改めることです。まさに主イエスが仰ったように、「七の七十倍」赦すことが命じられているのが教会です。わがままとは、自分の罪、過ちを決して認めず、自己主張、自分の正義を貫こうとする行為です。これは、教会におけるキリストの主権を犯すことになりますから、放っておいてはいけません。そのために、教会訓練、戒規があります。ただしこのわがままと弱さの判別は容易なことではありません。真剣に祈り求めなければなりません。)
親兄弟、家族は、基本的にこちらで選べません。嫌になったから縁を切るということはできません。それと同じように、どなたかを教会員として受け入れるとき、好き嫌いで受けれいるか受け入れないかを選ぶ事はできません。教会は聖なる教会ですから、教会を牧師であろうと役員であろうとまさに私物化することは許されません。だからこそ、信仰告白を教え、それを受け入れておられるか、洗礼入会の試問会とそれに先立つ学びが決定的に大切なのです。皆さんの中で、男性であればやがて長老になられる方がほとんどだと思いますが、その長老の職務の最大級の務めは、この試問会の試問にあります。つまり、教会の信仰告白を管理する務めが長老職には与えられているのです。ですから、私どもの教会では、長老職に任職される人は、ウエストミンスター信仰基準への誓約が求められているのです。
話を元に戻しますと、お互いをキリストに贖われた者、キリストのもの、キリストの命を受け継ぐもの、キリストが与えてくださるすべての賜物を受けている兄弟として「見る」事が教会形成、教会の交わりを築き、育てる基盤をなすのです。
皆様が牧師に躓くということはしばしばあります。嘘か真か、立派な牧師のもとから、献身者が出にくいということを聞く事があります。「内の牧師ですら牧師なのだったら、(このように思う人はほとんどいないと思いますが)こんな自分でもお役に立てるかもしれない」と思いやすいのかもしれません。確かに、立派な、優れた牧師のもとでは、どうがんばっても、こんな働きはできないとしり込みすることもあるかもしれません。また、こんな話も聞きます。立派な牧師さんの会員は案外、教会員が育たない。牧師が何でもできるので、会員がお客さんになるからです。牧師が不器用であれば、奉仕を皆で分担しなければ進みませんから、教会員が成長する、これはあながち的外れな議論ではないと思います。信徒は、早いうちに牧師に躓いたらよいのです。「なーんだ、こんなだらしないところがあるのか。」しかし、問題はそこからです。そこから、これが、キリスト者の実際なのだ。これこそ、赦された罪人の集いたる教会なのだと、信仰が抽象化せず、単なる理想主義のようにならずに、凛々しく成長するのです。これは、契約の子たちは、教会の様々な面を幼少から知っていますから、今日の皆さんは躓いても、ここにいるわけですから、強いのです。しかし、わたしなどは、教会の弱さの現実に義憤を感じて、本当に辛い思いをしたことしばしばでした。その度に、信仰が萎えるような経験もしました。けれども生身の教会で弱さ、欠点、問題のない教会はありえないのです。聖書に登場する教会の中で、どの教会も、完璧な教会はないはずであります。
「慰めの共同体」形成の為の救い、賜物、祝福。それへの献身。
さて、開拓伝道から今日まで、教会形成の方向性として、先ほどの祈りと共に、このような祈りをも継続してまいりました。「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください。」
聖徒の交わりとは、慰めの共同体という理解が私の中にあります。これは、日本キリスト改革派教会に加入するはるか前、開拓開始からの祈りの言葉です。その意味で、制度的教会に先立って、教会の本質として、聖徒の交わり即ち慰めの共同体という理解なのです。慰めの共同体ということも、聖人の交わりと同じように、誤解を生じる言葉です。日本語で、慰めという言葉の響きは、聖書の慰めとは異質とすら言えます。しかし聖書の慰め、パラクレーシスとは、励ましとも訳す事が出来ます。勧めるとも訳せます。説教と訳す事も可能です。そしてもちろん、慰めと訳せるのです。とにかく、強いイメージなのです。気休めとか、お慰めとかではなく、力強く生かす力が慰めなのです。教会は、この慰めを受けることができる場所です。そして、この慰めと言う言葉を思います時、私は常に、あのハイデルベルク信仰問答の問い1の答えを思い起こします。「生きているときも、死ぬときも、あなたの唯一つの慰めは何ですか。」「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」(竹森訳)ここで、慰めとは、主イエス・キリストであり、主イエス・キリストにあがなわれていること、主イエス・キリストの所有とされていること、主イエス・キリストのものとされていることなのです。それは、先ほどのコリントの信徒への手紙Ⅰで学んだ、主イエス・キリストとの交わりと言いかえることもできます。
主イエス・キリストとの交わりを与えられる場所が教会であり、同時に、主イエス・キリストとの交わりを持つもの同士の交わりが教会なのです。そして、そのような教会は、「なよなよ」した集いではない。人生に疲れて、気晴らし、心の休みがほしいといって、逃避する者たちの集いではない。お互いの傷をなめあって過ごすような場所ではありません。慰めを受けた者、教会はキリストを主と告白する家、キリストの主権を確立する戦いの家となります。そして、そのように戦う者たちによってこそ、真実に慰めが必要となるのです。キリストのために、戦っていない者には、この慰め、キリストの慰めのリアリティや必要性、飢え渇きも鈍いのです。戦っているからこそ慰めに飢えるのです。この慰めはキリストから来ます。けれどもそれは、個人的に、一人静まってキリストから受けて済ませることができないのです。キリストと共に、キリストのために戦っている者は、自分ではない、他のキリスト者の存在なしに立つ事ができないのです。
聖徒の交わり、キリスト者の交わりについて学ぶ上で既に古典ともなっている書物に、ディートリッヒ・ボンフェッファーの「共に生きる生活」があります。新教出版社からでています。これは、読む価値のある書物です。わたしもはるか大学生の昔、これを読まなければ大学生のキリスト者として恥ずかしいと思わされて、買い求めました。そのなかで、忘れ難い言葉があります。「自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱い」彼は、このようなことを言います。「キリスト者は、救いを自分自身にではなく、ただイエス・キリストにのみ求める。だから、キリスト者は、外からの言葉、神からのみ言葉によって生きる。そして神は、この御言葉を、人間を通して語らせられる、それ故に、キリスト者は他者を、キリストの言葉を語ってくれる他者を求める。キリスト者お互いは、御言葉を持ち運ぶものとしてお互いに出会う。」ボンフェッファーのこの言葉はまさに至言であると思います。
「御言葉を分かち合う」、兄弟のために持ち運ぶ者
教会のことを考えるときに、やはりどうしても開きたいのは、ヨハネによる福音書第15章があります。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝」と主イエスが仰いました。そこで、まさに主イエス・キリストとの結合、交わりの神秘が語られるのですが、その神秘は、しかし不確かな、感情的なものではなく、神の言葉、主イエス・キリストの言葉を宿すことだと仰いました。ですから、キリスト者は神の御言葉なしに生きれないのです。しかも、わたしの内に宿っているキリストは、兄弟姉妹が語ってくれる御言葉を待っているのです。それは、ボンフェッファーが言うように、「語られる」、「外からの」言葉のほうが、強いのです。確かなのです。皆さんは誰でもそのような兄弟を持っています。与えられています。その兄弟の中の兄弟は、説教者、牧師です。これは、間違いありません。若い牧師であっても、仮に霊的に神学的に深い経験、知識をお持ちの長老がおられても、その若い牧師が語る説教、キリストを指差す言葉は、その長老の内に宿るキリストよりも強いのです。だから、説教者は教会にどしても必要なのです。
そして、それは、説教者だけが皆さんの兄弟であるわけではないでしょう。私どもには、このように大勢の兄弟姉妹が与えられています。信徒としての兄弟の語るキリストの言葉をお互いに必要としているのです。
牧師も勿論、兄弟を必要としています。いえ、皆さんに勝ってもっとも兄弟を必要としているのが牧師です。断言します。一人孤独で、牧師の務めを担う事はできません。してはならないのです。牧師同士の交わりが大切です。しかし、教会員との交わりがどうしても必要です。それなら、教会員との交わりとは何でしょうか。日曜日以外にも、つまり教会の外でも、親しい交流を持つことでしょうか。皆さんは教会員と学校の友だち、職場の同僚よりも長い時間を過ごしているでしょうか。おそらく違うと思います。それなら、教会員でない友達との交わりの方が、絆が深いのでしょうか。違います。牧師も兄弟を必要とすると言うのは、御言葉における交わりです。キリストを中心として交わりです。それは、牧師として、皆さんが語るキリストの言葉を聴くことでしょうか。そのような機会は正直に申しますと、あまりありません。けれども時々、教会員の証しを聴く事があります。説教の恵みを分かち合う集会を、私どもの教会は月に2度ほど持ちます。そこで、信徒の語る言葉を聞きます。祈祷会でもごくたまに、御言葉の恵みを分かち合う集会を致します。それは本当に嬉しいことです。何よりも、洗礼志願者が、信仰を言い表す言葉を聞くことは、何にも代えがたい喜びです。しかし、これらは例外です。牧師は、教会員が説教の良い聴聞者であることによって、生きるのです。良い聴聞者とは、礼拝の間、説教に集中する姿勢をとることは勿論です。「牧師を殺すに刃物は要らぬ、居眠りしていれば良い」と言います。勿論、わたしは、教会員が日頃どれだけ忙しい日々を送っているかを知っておりますので、礼拝出席を滞らせるより、説教中に安らかになさった方が良いと皮肉でもなんでもなく思います。説教の良い聴聞者とは、説教によって生きる人です。御言葉を生きる人です。教会のために自分を捧げている人です。その人を見ることが牧師の最大の慰めです。牧師には、この慰めがどうしても必要なのです。器用に奉仕をしてくださることより、神の言葉に従って生きようと祈り求めておられる会員から受ける慰め、それが、牧師にとって外からの言葉なるキリストです。勿論それだけではなく、牧師は、神学しながら、先輩のキリスト者から書物を通して、外からの言葉を聴き取るのです。
牧師のことばかり申しましたが、皆様にとっても同じだと思います。牧師が、御言葉に生きる姿勢を見て慰めを受けるのです。そして、共に生きる仲間から励ましを受けるのです。その共に生きる仲間から、語られる言葉のうちに宿っておられるキリストは、私どもを慰めるのです。新約聖書のなかに、珍しいことですが、ほとんど同じ内容の言葉が出てくる箇所があります。使徒パウロのエフェソの信徒への手紙とコロサイの信徒への手紙です。
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」
エフェソの信徒への手紙第5章18-20節
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」
コロサイの信徒への手紙第三章16-17節
ここでパウロは、語り合う事、互いに教えあうことを勧めています。自分自身が聴き取った御言葉を、自分ひとりのものとしてはならないのです。それは、他者を、キリストと結ばれた兄弟姉妹を慰めるために与えられているのです。これは、単にそうしたほうが良いというような「お奨め」ではありません。責任があるのです。これは、聖なる務めです。キリスト者であってもいつも自分の霊的成長、祝福だけを考えているキリスト者は、本来あってはならないのです。皆様ひとりひとりに与えられた恵みの賜物(gifts)は教会のものです。あなた個人の専有物ではないのです。もしも、そのようにすれば、それは、神のものを盗んでいるのです。教会員が礼拝に出席する。これは、個人的なことではありません。教会を生かすためです。教会形成のためにするのです。自分の求めは勿論ありますが、それで留まらせてはならないのです。もしそうであれば、自分の求めが小さく、少なくなれば、教会から離れても、自分の損失感は少ないのです。「自分のために教会がある」と言うような理解、それは既に申しました教会を私物化することであって、「聖なる教会」を履き違えてしまっているのです。自分が出席する事によって、他のキリスト者を祝福しているのです。慰めているのです。励ましているのです。そしてその時は、同時に神に感謝しているのです。神を賛美しているのです。これは、別個のことではなく、不思議につながっているのです。同時に起こっている現実なのです。
ここで勧めている言葉は不思議です。パウロは、お互いに語り合いなさいと言いながら、それはほとんど同時に、神をほめたたえる事になるし、そうしなさいと言うのです。聖人の交わりは、そのまま神賛美になるのです。与えられている神の言葉は、隣人のために与えられてもいるのです。説教の恵みを分かち合うのは、自分のためであるより、共に生きる仲間のためなのです。
もしも皆さんが、祈祷会に出席しておられないなら、祈祷会に出席してください。自分のためにどれほどの祝福を受けるでしょうか。そして、牧師としてそのように申しますのは、教会形成のためになのです。教会の公的集会、勉強会に出席してください。それは、自分のためになるのは言うまでもないことですが、隣人のためです。兄弟姉妹のためです。皆さんの仲間から、伝道献身者が起こりました。その兄弟たちは、自分のために牧師になるのではないはずです。万一、自分にふさわしい仕事として数ある仕事の中から牧師としての仕事を選んだのであれば、もしも、わたしが神学校に責任があるのであれば、入学を待ってもらいたいと思います。与えられた神の言葉は自分のものではないのです。聖なるものであり、つまり神のものであり、キリストのものなのです。そして、隣人のためのものなのです。
「聖なるもの」による交わり
最後に、本来最も時間をかけて語らなければならない、「聖徒の交わり」という言葉が意味する第二番目のことについて短く触れたいと思います。それは、《聖なるもの(sancta)による交わり》ということについてです。聖なるものとは何でしょうか。聖なるものを分かち合う交わりであって、それによってこのわたしが聖人となる、聖人とされる、そのような《聖なるもの》です。それは既に、申し上げたとおり、主イエス・キリスト御自身です。主イエス・キリストとの交わり、-それは、父と子と聖霊にていましたもう唯一の神、三一の神との交わりにほかなりませんが-、このキリストとの交わりを受けた者が聖人であり、聖人どうしの交わりの家が教会です。そして、そのようにしてつくられたな教会が絶えず、この聖さ、この交わりを新たにし、確かなものとするために、御言葉が決定的に大切であることは、既に学びました。
さて、皆さんも教会でしばしば聞いていると思いますが、教会の標識、真の教会かどうかの目印として二つ、ないしは三つあることをご存知かと思います。御言葉の説教が正しく語られ聴かれ、聖礼典が正しく執行され受領され、三番目には、教会の訓練がなされていること。これです。そこで、最後にどうしても聖徒の交わりを考える上で、触れておかなければならないのは聖礼典です。さらに言えば、聖餐の聖礼典についてです。主イエス・キリストとの交わりが礼拝式の生命です。それは、説教と聖餐とによって私共に与えられます。その中で、聖餐は、まさに客観的なものです。説教は、牧師によって、深く豊かである場合とそうでない場合は厳然としてあります。しかし、聖餐の礼典は、まさに客観的なものです。偉大な牧師の聖餐執行も、そうでないわたしの様な者の聖餐執行も、基本的に、式文に則ってするのですから、変わりがありません。そのような聖餐の恵みを教会の頭なるイエス・キリストが与えて下さいました。教会は、この命の食物によって、このお方と交わるのです。ですから、教会のことを聖餐共同体と申します。もう一度、私どもの開拓伝道の教会形成の祈りとして掲げた言葉を思い起こします。「ここに神の教会を -ここに聖餐を囲み、キリストだけを主と告白し合う、慰めの共同体を形成させてください。-」
聖餐を囲む家とは、今皆様がこのように座っておられる形において目に映ります。つまり、この聖餐卓、桜の木で作ったこの聖餐卓を囲む形の礼拝堂です。これが、私共が開拓以来目指した言わば礼拝堂の形なのです。そして、これが、教会の姿なのです。教会は、ドイツ語でキルへと申します。これは、ラテン語の[circa]から来ていると言います。「~を囲んで」と言う意味です。サークルという英語はおそらくこのラテン語から出たのでしょう。円く囲まれた場所、家が教会であって、それは主イエス・キリストを中心にして囲むのです。主イエス・キリストは目には見えませんから、教会は聖餐卓を囲むことによってキリスト中心の家であることを自分達において確認し、世界に見せるのです。この礼拝堂は改革教会らしく十字架がありません。十字架の木を中心に囲むあり方は、わたしは違うと思います。しかし、聖餐卓を囲む座席のあり方は「事柄」に対して、よりふさわしいあり方であると思います。
私共は、聖餐を共に祝っている仲間です。聖餐の命の食物、それはつまり主イエス・キリストの命に他なりません。私どもはこの命にあずかっているのです。キリストの祝福を共有しているのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ第10章16節に、わたし達は「キリストの血にあずかる・キリストの体にあずかる」とあります。このあずかるという言葉は、「コイノーニア」という言葉が用いられています。これは、皆様のなかでも良くご存知の言葉かもしれません。「交わり」と言う意味です。聖餐の食物、飲み物が交わりを結ぶのです。この聖餐によって、私どもは主キリストと、ぶどうの木と枝のように、兄弟姉妹お互いはその枝と枝のようにつながっているのです。キリストの命-おかしな言い方ですが、キリストの命はキリスト者のためのちょっと質がおちるような命などはありません。キリストの命そのものが私のうちに注がれ、宿っているのです。-この聖餐を正しく受けているなら、教会の交わりは成り立っています。その意味では、たとえ礼拝式の後に共に食事をせずとも、一週間の歩みをお互いに分かち合わなくても、たとえ挨拶を交わす事がなくても、教会の交わりは、確立しているのです。その事を信じなければ、教会は立ちません。どうもうちの教会の交わりは薄い、もっと会員同士、仲良く一緒に過ごす時間を持たなければならないなどと考えて、楽しい集会、教会の外に出掛けて遊ぼうと試みるなら本末転倒です。私どもの課題は、聖餐共同体を作ること、教会形成とはこれにつきます。聖餐によって成立している交わりをいよいよ、整えるために、諸集会があるのです。
教会の標識としての二つの目印に改革教会は教会訓練(戒規)も付け加えます。それは、私どもの教会が心から聖餐を重んじ、聖餐共同体である教会をよりふさわしく整えるために必要としているのです。それ以外にないのです。皆さんの教会の祈祷会や学び会、そしてこの連合青年会も、すべてはこの聖餐共同体を地上に確立するための営みなのです。聖徒の交わりを形成する聖なるものとは実にこの聖餐なのです。
最後に、いくつもいくつも聖書を開きたかったのですが、使徒言行録第20章28節を朗読してお話しを終わります。主イエス・キリストが十字架についてくださったのは、御血を流されたのは、教会を地上に獲得し、形成するためだったことを告げる御言葉であります。私個人ではないのです。神の民の一員とされる事が救われることなのです。神の民の一員は、神の民のために生きるものとされたのです。だから、私どもはお互いのために、お互いの祝福のために生きるのです。
「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」
祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、この国に、日本キリスト改革派教会を力強く形成するために救われた私共であります。どうぞ、聖徒の交わりであり、慰めの家であり、キリストを中心にした共同体である教会にのみ、世界の希望があり、人類の深い憧れがあることを確信させてください。このために、与えられております私どもの賜物を喜んで生かし、捧げることができますように。アーメン。
Soli Deo Gloria!