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「信じ、愛し、望み、喜ぶ」

「信じ、愛し、望み、喜ぶ」2004年5月3日
日本キリスト改革派教会 全国青年会修養会
関西学院千刈セミナーハウス

テキスト ペトロの手紙一 第1章3節~9節
 
Ⅰ 導入 希望とは愚か者が抱くものなのか、キリスト教的主題なのか
 

今回の全国青年会の主題は「私たちの希望」です。今、私ども日本キリスト改革派教会の創立60周年に向けて、「終末の希望」「終末論」の信仰の宣言が準備されています。委員会は、それを意識なさってこの主題を設定されたのではないかと思っています。「私たちの希望」という明るい主題、そしてまさに「キリスト教的な」主題を与えられた修養会の開会礼拝の主題もまた、当然、「希望」が主題にならざるをえないと考えました。そこで、テキストとして選んだのは、今朗読したペトロの手紙一第1章であります。

今私は、「希望」という言葉を「キリスト教的」と申しました。もしかすると皆さんにとって、わざわざキリスト教的と言う必要などないのではないかと思われるかもしれません。希望と言うのは、誰でも、求めているもの、欲しているもの、誰もが好むものと考えられるかもしれません。しかし、私は「違う」と思います。希望、望み、つまり将来を明るく待ち望む、期待するという行為は、実にキリスト教的な、あるいは聖書的な考え、思想であるのです。
ギリシャ神話に「パンドラの箱」というお話があります。最初から横道に行ってしまいますが、パンドラとは、人類最初の女性です。姉妹たちには腹立たしいことと思いますが、この女性はギリシャ神話の神、ゼウスがヘファイストスによって作らせたのです。何のためかと申しますと、天の火を盗んだ男性、プロメテウスを罰するためなのです。

さて、このパンドラは、ゼウスから箱を与えられます。この箱の中身は人間界、人間を罰するための災いが詰まっている箱、災いの箱なのです。その箱をパンドラが開いたとき、そこからありとあらゆる人間への災いが飛び出します。そして急いで蓋をしめたのですが、希望だけが残ったというのです。つまり、ギリシャ神話にとって、希望とは、人類、人間を罰するものと考えられているのです。ギリシャの哲学者にしてみると、人間が希望を持つということは、  知的に次元が低い者のすることと理解されているのです。人間に対する災いの中でも最大のものが希望であると、ギリシャ神話は考えているのだと私は理解しています。

それなら仏教においてはいかがでしょうか。最近、中部中会の機関紙に、  関教会の西堀先生が書かれた文章を読みました。御自分のお若い頃の経験です。19歳のとき、ご実家で法要が営まれ、そこに来られた僧侶に、先生はこう尋ねられたというのです。「どうしたら幸せになれますか。」僧侶の答えはこうです。「幸せとは、きれいな蝶々を追うようなもの。近づくと逃げる。追いかけるとまた逃げる」つまり、仏教においても、希望を持つということは、人間にとって災いであるという基本的な認識があります。釈尊が説いた仏教とは、大胆に申しますと、希望を否定することであると、私は思います。未来の希望を捨てて、現実を直視すること。この現実を受け入れること、諦めること、「聖諦」と申しますが、そのような境地を悟り、「解脱」と申します。
つまり、古から洋の東西を問わず、知的な営みを重んじる人々にとって、希望を持って生きるということはそもそも、次元が低い者、愚か者の営みなのです。ところが、聖書は、それに真っ向からぶつかってまいります。それらと対立するのです。ギリシャの哲学、仏教の哲学からすれば、私どものように「私たちの希望」というような主題で学ぼうとする者たちは、まさに愚か者たちとなるのかもしれません。悟らない者たちとなるのかもしれません。しかし、はたしてどちらが本物なのでしょうか。どちらが真理なのでしょうか。
ただし、どちらが真理なのかを比べ、判定することは、もとより大切ですが、もっとも大切なことは、私どもがこの望みを抱いてどのように生きているか、この望みこそが人間を自由にし、喜びをもって、悪と戦い、善を行う意欲へと駆り立てるものであることを、私どもの存在と生き方で証することであると思います。この修養会全体を通して、特に講演を通して、確認していただきたいし、それを深めていただきたいと思います。皆さんが、望みにあふれ、喜びにあふれてこの山を降りていただきたいと思います。

Ⅱ ペトロの手紙一の読者の状況  奴隷であり喜びに輝くキリスト者

さて、手紙の結びの部分でペトロはこう告げます。「この短い手紙を書き送り、神の恵みを明らかにしたのは、あなたがたがこの恵みに踏みとどまって欲しいからだ」と。それなら、彼は、どのような読者に向かって、この福音の恵みを明らかにし、励ましたのでしょうか。もちろん、私のように、この全国青年修養会の開会礼拝説教のように、青年という特定の世代だけを意識しているわけではないと思います。しかし、読者の多くは、おそらく洗礼を受けたばかりのキリスト者であったのではないかと推測できます。また、もうひとつは、読者の中には、召使、奴隷が少なくなかったのではないかということです。
たとえば、第2章18節には、「召使たちへ」と呼びかけています。当時のローマ帝国は、平和と繁栄を謳歌していました。そして、その文明、繁栄は奴隷制度の確立、奴隷の働きによって揺るぎないものとなっていました。ほんの一握りのローマ市民はわが世の春を謳歌して、贅沢に暮らしていますが、それを支える奴隷たちは、無慈悲な主人(2:18)横暴な、人を人とも思わないような主人から苦しみを受けているのです。精神的な苦痛と肉体的な苦痛を強いられているのです。我々の想像をはるかに超えるような困難な生活が彼らの毎日の生活、信仰生活の現場なのです。しかも奴隷としての困難な境遇だけではなく、キリスト者であるゆえに受けなければならない厳しい社会的圧迫もあります。「あなたがたの敵である悪魔がほえたけるライオンのように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。あなたがたと信仰を同じくしている兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」(5:8.9)とあるような迫害の現実があります。つまり、二重、三重の苦しみを強いられているのです。決して明るい未来が約束され、明るい展望が開かれているわけではありません。

ところがしかし、朗読したテキストにありますように、彼らは実にそのような困窮の只中で、「生き生きとした希望」に生かされているのです。さらに、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れて」いるのです。まことにすばらしいキリスト者の姿、信仰の恵みの「モデル」であると思います。
ただし、このような喜びに輝く信仰者の姿は、著者である使徒ペトロ自身のことであると言うなら、良く分かることだと思います。何故なら、彼は、主イエスと寝食を共にし、主イエスの肉声を聴き、主イエスと顔と顔をあわせてお話をし、主イエスと肩を並べて歩いた人だからです。主イエスに触り、主イエスに触れて頂いた、これ以上ないような親しい関係に招かれた人物だからです。しかしながら読者たちは、まったく違います。彼らのなかで、主イエス・キリストを見た人は誰一人いないのです。いわんや、復活の主イエス・キリストを目撃したことなどまったくないのです。しかし他ならないこの彼らが、使徒ペトロにも負けないような喜び、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れているのです。生き生きとした希望に輝いているのです。いったい彼らに何が起こったのでしょうか。

 横道にそれますが、私は、このように想像します。使徒ペトロは、彼らが信じ、愛し、望み、心から喜んでいる姿を見て、どれほど大きな驚きを与えられたことであろうかと思います。ペトロは、ほとんど呆れるような思いで彼らのことを見つめたのではないかと想像いたします。「あなたがたは、主イエスをわたしのように見たことはないし、直接お会いして、お話を伺ったこともない。それなのに、これほどまでに生き生きとした望みと喜び、信仰と愛とに溢れている。本当にすばらしい、本当にすごい・・・。」

実は、このような思いは、私自身もしばしば経験することなのです。わたしも一人の説教者として、自分の語るつたない福音の言葉、説教を、しかし素直に、ただその通りに聴いて信じた方の中に、主イエスに対する愛情が湧き始めていること、救いの喜びが湧き上がり、信仰に生き始める姿、新しい人として生まれる姿を拝見するときに、時にとても不思議に思うことがあります。そのようなことが主の日の礼拝式で、学び会で、祈祷会で起こっている・・・。しかし、それは、まさに、聖霊なる神御自身が御言葉、説教を用いて、生けるキリストの臨在を鮮やかに示してくださったからなのです。神の御業なのです。
横道のついでにさらに横道にそれますが、彼らは、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れて」います。しかし、お互いによくわきまえたいことは、この「言葉では言い尽くせない喜び」は、神の言葉、記された神の言葉である聖書から語られる説教の言葉によって、与えられるものに他ならないということです。ですから、私どもは、この信仰の喜び、救いの喜びを求める、深め、常に生き生きと新しく保持するために、「言葉」から決して離れないのです。御言葉を聴き続け、御言葉に飢え渇き続け、求め、親しむのです。神が与えてくださった恵みの手段の第一である、神の言葉を求め、特に、聖書の説教を聴くことに集中するのです。

しかも、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(3:15)とペトロは命じます。希望と喜びは説明する責任があるのです。「言い尽くせないのだ」と言って通り過ぎてはならないのです。しかも、私どもの課題は、おそらく、説明をもとめられるまでに、この喜びと望みがあふれていないということにあるでしょう。そしてそこでも、その問題の解決の急所になるのは、生き生きとした望みに生き、喜びに生きる道は、自分自身がよく、この希望を知ること、学び続ける道と一つのことなのです。そのためにも、この修養会があります。皆さんが、主イエスを信じ、愛し、望み、喜ぶことにおいてさらに深め、確信をもって山を降りていただきたいのです。

Ⅲ 救い、希望、喜びの根拠「復活」

さて、いったい、何が彼らに起こったのか。何が彼らをして、奴隷、召使として生きるその困窮に耐えさせ、そればかりかその中でこの希望、この喜びを抱かせているのでしょうか。それは、彼らが「魂の救い」を受けているからです。魂の救いとは、「いのちの救い」と言い換えてもかまいません。それは、「新たに生まれさせ」られたということです。「新しい人」として誕生させられたということです。新しい人間となると言うことは、神の子となるということです。神を父、天のお父さまと呼べる人間になるということです。そして、その魂の救いは、「信仰の実り」に他なりません。主イエスを信じる信仰によって、救いを受けたのです。その結果として、キリストを愛し、信じ、喜びに満ち溢れているのです。

さて、ここで「信仰の実り」と言いますが、ある人は、信仰を「信念」のように考えます。事実ではなくても、事実がなくとも、自分なりに「このようなことがあれば望ましい」「こうであったらいいなぁ」と勝手に考え、信じるのです。しかし、信念と信仰とはまったく別のものです。もしも、この希望がそのような信念とか宗教によって空想されたものであれば、その程度の次元のものであれば、彼らは惨めで、空しいはずです。もしも彼らが自分たちは今、奴隷として生きなければならない苦しい状況だから、心の持ちようとか信念とか、楽観的な人生観を持つことによって、現実に負けまいとして、望みを抱いているのだとしたら、それは、ギリシャの哲学や仏教から言わせれば、現実逃避であり、愚か、空虚と言われても仕方がないでしょう。しかし言うまでもなく、彼らは、はかない夢、幻をみているのでありません。いったい喜びと言っても、「ぬか喜び」ほど、つらく悲しいものはないと思います。根拠のない希望なら、持たない方がよっぽどましだということにならないでしょうか。
それなら、彼らの希望には確実な「根拠」があるのでしょうか。あります。その根拠とは何でしょうか。彼らの生き生きとした希望の根拠とは、主イエス・キリストの御復活、よみがえられた主イエス・キリストであります。これこそが、彼らの希望の根拠、救いの根拠なのです。この事実のみが私どもを救う源となるのです。この事件が起こらなかったら、私どもには、希望はありません。望みはありません。聖書自身、復活の事実を証言しています。キリストの復活がなければ、新約聖書はありえません。何よりも地上に教会は存在していないはずです。教会の営みのすべては、キリストの復活によって支えられ、今日まで支えられて来たし、今も支えられているのです。主イエス・キリストが死人の中からお甦りくださったからこそ、私どもは今ここに集まることが出来ています。

主イエス・キリストの復活によって、罪の中に死んでいた私どもはその罪が赦されました。私どもの罪が赦される道、罪が帳消しになる道はただ一つ、それは、死ぬことです。それは、単に肉体の死だけを意味しているのではありません。永遠の死のことです。滅びることです。しかし、もし私どもが滅びてしまったら、そのときには既に罪の赦しもなにも、まったく意味がなくなります。ところがしかし、神はその豊かな憐れみによって、私どもを殺すのではなく、御子イエス・キリストを殺してしまわれたのです。十字架の上に、屠られたのです。そのようにして私どもを生かす道を切り拓いてくださったのであります。

さらに主イエス・キリストは死人の中からお甦りになられました。そして、このお方の復活は、実に私どもの復活そのものでもあります。信仰によって主イエス・キリストとともに結ばれた私どもは、主イエス・キリストと共に死んで復活させられた人間なのです。主イエスを信じるとは、その結果、主イエス・キリストとひとつの交わりの中に入れられるのです。主イエス・キリストの御体と一つにされるのです。信仰によって与えられている私どもの現実とは、それ以上でもそれ以下でもないのです。私どもは事実、今、新しく生まれた人間なのです。私どもは一度死に、再び新しく生きている人間なのです。それを明らかにするのが、洗礼の礼典です。主イエス・キリストと共に死んで共に甦らされる恵みを私どもは洗礼によって受け、記しづけられ、保障されたのです。この手紙の最初の読者たちもまた、洗礼を受けたばかりの者が多いのです。それゆえにこのキリストと一つに結ばれたその喜びと希望の中で、今の時を生きているのです。

このように彼らは、キリストの復活によって、信仰を与えられ、生き生きとした望みを与えられました。それならその望みとはいったいどのようなものなのでしょうか。その全内容は、ヨハネの黙示録に描き出されているものといって構いません。神が与えてくださる新しい天と新しい地に生きる希望、天上での神礼拝にあずかる望みであります。

この望みによって、彼らは自分自身が決して人生の敗北者などではないこと、自分が今既に、キリストと共に生かされていることによる勝利者であることを確信していたに違いありません。つまり、人生を終えるまで、自分が敗北するのか勝利するのかわからないような不確かな生き方を続けているのでは決してないのです。人生のこの今の時点で私どもは既に勝利者とされているのです。何故なら、勝利者イエス・キリストが私どもの救い主、主であられ、このお方の勝利は私どもの勝利とされているからです。これが、キリストと一つに結ばれたものに、一気に与えられている現実なのです。これが、私どもの復活であり、勝利なのです。ですから、私どもは人生を既に勝利者として生きているのです。ですから、私どもを自分自身を勝利者として見なくてはならないのです。その意味で、自分を信じなければならない、のであります。

ただし、言うまでもなく、現実の私どもは、敗北をしばしば経験させられます。信仰に生き抜くことを避けようとします。臆病になります。不信仰にすらなります。けれども、それは、この地上に生きる限り、まったく経験しないで生きて行くことはできません。しかし、そこでこそ、だまされてはならないのです。私どもはたとい失敗し、たとい信仰が後退し、いったい自分自身に信仰があるのかと自問するような惨めな思いにとらわれてしまうところでなお、決定的な敗北者に転落してしまっているのではないのです。キリストと結ばれた私どもには、そのようなことはありえないのであります。キリストの勝利は、やがて終わりに日に決定的に付与されます。たとえば野球で言えば、最終回に信じられないような逆転勝利が、あのお方の活躍によってもたらされるのです。

これが私どもに「決定された将来」であります。この将来は今、日一日と近づいて来ています。この近づく勝利を待ち望む私どもは、心から、「早く来てください」と願います。それは、ただ、天国に行って楽になりたいとか、楽しみたいとかと言うよりも、主イエスの愛と正義がこの世界に実現することを求めるからです。主イエスの愛と正義を受けている私どもですから、この世界がなおそれを拒み、排除していることが悲しいのです。我慢ならないからです。そしてもっと素朴に言えば、私どもが主イエス・キリストを慕わしく思うからなのです。主イエス・キリストを愛しているからです。私どもを愛してくださる主イエスへの、私どもの愛が燃え始めているからです。だから、「主よ、来て下さい」と「御国をきたらせたまえ」と祈るのです。

洗礼を受ける決心を与えられることは、人それぞれ状況は異なります。しかし、多くの場合、自分自身の中に既に主イエス・キリストへの愛が燃え始めていることに気づくからではないでしょうか。主イエス・キリストは、天の父はわたしを愛してくださっている。そして、私も神を、主イエス・キリストと父なる神を愛する思いがある。」この言わば思いがけない発見に、どうしても洗礼を受けなければならない、もはや、この愛と恵みに答えて生きてゆくしかないと、促されるからではないでしょうか。

この愛が、信仰となります。この愛が望みを揺るぎないものとさせます。逆に言ってもかまいません。信仰が愛を与えるのです。望みが愛を支えるのです。しかもこの愛は、ただ主イエスへの愛に限定させるものではありません。神が与えてくださるその愛は、教会の交わりを作ります。教会員お互いを愛する事へと促します。励まし、動かします。そして、教会にこの愛が沸騰すればするほど、教会の弱さ、罪すら覆ってしまいます。この世の人々には、大きな魅力となることでしょう。最近、教会に来られた方が、教会の交わりの姿、雰囲気をみて、「教会はみんなが配慮しあっているのですね。すばらしい世界ですね。」と仰いました。とてもすばらしいことと感謝しました。

真の喜び、望み、愛とは、私どもを単に感情の次元に留まらせません。それを越えて、倫理を生み出します。この愛に生きる戦い、生活へと動かされて行くのです。望みをもって生きることへと駆り立てさせるのです。そして、この望みが未信者には不思議でならなくなるのです。ここに伝道の力があります。

Ⅳ 信仰の「現実」を具現化するために。-主イエスの訪問を受けて-

さて、最後になりますが、しかし、今、学んでまいりました私どもの信仰の現実、約束されている現実が、常に今の自分自身の社会生活、教会生活、地上の人生において目に見える現実となること、新鮮に味わい続けることは、既に申しましたし、皆様が良くご存知の通りですが、正直に申しまして、簡単なこととは言えません。自分が圧倒的な勝利を与えられた勝利者であることとを受け入れることは、簡単ではありません。時に、臆病になり、不信仰になり、後退し、つまり実際の生活では失敗と敗北を、情けないほど味わわされる現実があるからです。「いろいろな試練に悩む」ことは、既に予告されている現実でもあるのです。

それなら、ここに記された生き生きとした望みや言葉では言い尽くせない喜びの姿は信仰の「理想」を語っているのでしょうか。違います。そもそも、聖書の中に、「理想」と言うようなものはありません。聖書には、神が起こしてくださった現実、事実が記され、神が約束されている確かな事実だけが記されているのです。実に、私どもの課題、私どもに招かれている信仰の課題とは、この神の事実を信仰によって、どれほど深く味わい、どれほど深く受け入れ、そのようにしてどれほど具現するかということです。霊の現実を今ここでどれほど深く体験し、実践するかということです。重ねて申します。信仰とは、理想に生きることでも、いわんや空想や信念に生きるというものではありません。神が備えてくださる確実な恵み、主イエス・キリストが獲得された確かな祝福を現実化することなのです。信じるときにそれが、起こるのです。聖霊のお働きです。不思議なことです。まさに言葉でつくせない不思議です。しかし、これは、事実、わたしに皆さんに起こったことです。これは、特別な信仰の偉人とか、立派な信仰者だけに与えられるものではなく、誰でも信じる者に豊かに与えられるものなのです。

どうぞ考えてください。そもそも、使徒たちは、この希望と喜び、信仰と愛に生きる者となるために、どれほど苦しんだことでしょうか。彼らは、簡単に信仰の勇者となったわけではありません。彼らは、いったい、どれほど主イエスに、「お世話になった」ことでしょうか。主イエス・キリストの牧会、配慮、徹底した愛の訪問をどれほど受けたことでしょうか。彼らこそは、信仰に立つこと、主イエスと隣人への愛に生きることがどれほど難しいものであるかの実物教材とされています。

たとえば、ヨハネによる福音書第20章を見ますと、ペトロとヨハネとは、最初に主イエスが葬られた墓が空っぽになっているのを見て、復活の事実を信じました。確かに信じたのです。ところが信じているのに、なお、自分の殻を破れない。彼らは自分の家に帰ってしまうのです。主の復活の証人にならないのです。これは、現代の一つの問題になっておりますが、言わば「引きこもり」の状態に留まるのです。神を第一にして生きられないのです。自分の家が第一なのです。つまり、自分の生活、暮らしを優先するのです。教会を生活の第一にできないのです。教会、神の家を作ることに自分の全存在を捧げる自由、特権、喜びに生きられないのです。伝道を開始することはできなかったのです。
ところが、主イエス・キリストは、そのような不信仰な弟子たちをお捨てにはなりません。むしろ、主イエスを裏切ったことで、ぼろぼろに傷ついてしまって、弱り果てて、信仰もどこかへ吹き飛んでしまったかのような弟子たちのために、彼らを信じない人間ではなく、信じる人間に解き放つために、全力を注がれます。それは、たった一人のためにも、主イエスの復活を目撃できず、信じることができないトマスのためにも現れてくださいました。彼は、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。主イエスは、トマスを憐れんで、彼を訪ねてくださるのです。

しかし、主イエス・キリストのお甦りの事実を信じることができなかったのは、なにも使徒トマスだけの問題ではありませんでした。
使徒たちが全員、力強い復活信仰に立ち、命をかけて福音の証人、復活の証人となるためには、いったいどれほどまで主イエスの暖かな配慮、語りかけ、言わば、牧会と説教を受けたことでしょう。トマスの言葉はいかにも過激ですが、しかし、使徒たちの心の底には、トマスだけが例外なのではなく、「わたしは信じない。信じきれない」という思いが潜んでいたはずです。あるいは、たとい復活の主イエスにお会いし、その事実を信じても、彼らは直ちに復活の証人、キリストの弟子として立ち上がることはできなかったのです。

ヨハネによる福音書によれば、ペトロは、復活の主イエスに何度も出会ったにもかかわらずなお、前を向いて力強い使徒として歩みを始めることができずに、漁師に戻ります。自分の故郷に帰ってしまいました。しかし、復活の主イエスは彼らとの最初の出会いの場所、彼らの故郷のガリラヤまで追いかけて行かれます。そして、復活の信仰と使徒としての使命に堅く立つように励まし続けてくださるのです。愛と真心を込めた牧会と説教がなお続くのです。弟子たちは復活の主イエスのこのようなご訪問を三度まで受けたと記されています。三度というのは、文字通り三度であるということを越えて、おそらくそれ以上に、何度も彼らは復活の主イエスを目撃し、その暖かな配慮、赦しの恵み、愛のもてなしを受けたのです。主イエスのその愛のもてなしを受けたのは、おそらく全員が雄雄しく、喜びに溢れて立ち上がるまで続いたのです。トマスやペトロというたった一人のためにも、主イエスはそうなさったのです。

それは、彼らが、主イエスを裏切り、見捨ててしまったという経験を持つ者たちだからこそ必要になったのだと思います。彼らは、深い自責の思い、心に深い傷を負い、悲しみとつらさ、苦しさと恥ずかしさ、言うことのできない苦しみの中にいるからでしょう。信じていたにもかかわらず、失敗をし、罪を犯して、苦しみ傷ついている彼らを主イエスは決してお見捨てにはなられないのです。主イエスは、他ならないこのような弟子たちに、聖霊を注がれたのです。「あなたがたに平和があるように」と呪いなどではなく、叱責でもなく、祝福を注がれたのです。「他ならないあなた方こそが、教会を形成し、教会の権威と務めである、地上で最大の権威、罪の赦しを分ち与える権威と務めを果たすようにと主イエスの命令を受け、この主イエスさまの働きを弟子たちに委託されるのです。「引きこもってはいけない、あなたがたこそ、神の家の真ん中で生きなさい。罪の赦しを世界中に告げなさい。あなたは、信仰の敗北者ではない。人生の敗北者ではない。わたしを裏切り、見捨てて、信仰になかなか立てないあなたがたこそ、勝利者となる。勝利者とされたのだ。」と使命を与えられるのです。そのようにして彼らを使徒として、キリストにあって生きる者の模範として、立ち上がらせるのです。

そして復活の主イエスは、私どもにも同じように全力を注いで、臨んでくださったのです。徹底的に、訪ねてくださいます。立ち上がらせてくださいます。だからこそ、今日も私どもがあるのです。信仰の実りとして魂の救いを受けることができたのです。新しい人間として、信じ、愛し、望み、喜び始めている私どもが誕生したのです。どれほど、深く愛され、取り扱っていただき、顧みていただき、配慮を受けたことでしょう。私どもも、彼らと同じように主イエスを肉眼では見ていません。しかし、見てはいないのに、今既にこれほどまでに主イエスへの愛が湧いています。主イエスのために生きよう、教会のために生きようと、心が燃え始めています。あの使徒たちと同じように、私どももまた、主イエスからの牧会と説教を私どもも深く受けているからです。
このすばらしい恵みの訪問を受ける中心的な場所は、どこでしょうか。それは、教会の主日礼拝式です。ですから、新しい方も幼い時からこの恵みにあずかっている方にも、それを求めておられる仲間がいればなおさら、心から勧め願うことがあります。主日の礼拝式を重んじてください。繰り返し説教を、神の言葉を聴いてください。

さらにどうぞ、祈祷会を重んじてください。神の言葉を学び、教会の仲間たちと一つに集まって、祈りを捧げるのです。私どもの教会は、教会員全員が朝夕いずれかの祈祷会に出席してくださることを真剣に課題にしています。これは、望みに生きる教会の使命だからです。祈りによって、信じ、愛し、望み、喜びが富ましめられます。しかし、それ以上に、この希望の民、待ち望む私どもは、「主イエスよ、来て下さい」と、「御国を来たらせたまえ」と祈りたくなるのではないでしょうか。
教会の祈祷会で、神の言葉に親しみ続け、共に祈り続けることが、救いの喜び、愛、信仰、希望が富ましめられて行く道となるのです。どうぞ、皆さまが、御言葉と祈りによって、主イエス・キリストを信じ、愛し、望み、喜ぶ幸いをいよいよ深く知り、味わい、主の栄光をほめたたえる者とされますように。

祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストの父なる御神、私どもは今日から、全国青年修養会の幸いなときを、愛する兄弟姉妹、御言葉の教師、牧師たちと共に過ごそうと致しております。信仰の実りとしての魂の救いを受けて、喜びと望みを与えられ、主イエス・キリストへの信仰と愛に燃えている仲間がおります。今その希望が揺らぎ、喜びが枯渇してしまっているとうつむく仲間がおります。どうぞ、一人ひとりがこの修養会において、復活された主イエス・キリストの訪問を深く受けることができますように。そのために、心を開いて、主イエス・キリストを、御言葉を慕い求めることができますように。願わくは、この山を下るときには、いよいよ信じ、愛し、望み、喜ぶ者とされて、仲間たちの待つ教会へ、また困難な場所であってもあなたが遣わされる職場、学び舎へと、あなたと共に出て行く勇気を与えてください。    アーメン。