過去の投稿2005年4月29日

4月24日

★  先週の祈祷会では、第23章「望み耐えぬ祈り」を学び、主の祈りを祈ることの重要性を再確認致しました。かつて、私どもは、ほぼ1年かけて、「主の祈り」の説教を聴き、礼拝を捧げ、教会形成に励みました。 夜の祈り会でのやりとりの中で、この説教を聴いていない会員も増えており、それを印刷し、読んでいただくことも大切な事であると思わされました。ホームページに毎週の説教を掲載していますから、そうしても・・・。

☆  第23章の冒頭に、加藤先生が、「太平洋戦争」における当時の学生の困窮、牧師の困窮について語られていました。わたしは、内容からは離れますが、朝夕とも、「断り」として、加藤先生のこの文章をどのように今日の私どもが読まなくてはならないかについて、お話しました。今日の、新たな戦前の様相を帯びた日本の状況で、日本の教会は、二度と、戦争への道、戦争協力への道を歩んではならないこと、どんな迫害、困難、苦難があってもそれに抵抗すべきであることを、申しました。このことは、私どもの教会にとっては、根本的な共通理解であると信じますし、そうでなければなりません。日本の教会は、この罪責を担い、二度とこの罪を神と隣人の前に犯してはならないはずです。そのために、教会が常に「目覚め」、神の国の到来を信じ、神の国の到来を待ち望むゆえに、キリストの主権、王権を信じて、世界に、地域社会に証しなければなりません。それを、5月発行の伝道新聞に、もう一度、「市民のみさまへ!」と呼びかける文章を掲載することを、既に委員会で決議し、皆さまにご報告したとおりです。

☆  主の祈りは、戦いを呼び覚ます祈りです。この戦いは、私どもの戦いではなく、主の戦いなのです。  必ず、勝利する戦いです。勝利者主イエス・キリストの捕虜とされ、天国への勝利の行進をしているのが、私ども、キリスト教会なのです。主の祈りは、また、主イエス・キリストの勝利へと逃げ込む祈りでもあります。主に逃げ込むとき、そこでこそ、私どもは不信仰と悪魔とに勝利できるのです。

★  夜の祈り会で、このような趣旨のコメントをしました。「主の祈りを祈るとき、このようにイメージしてください。自分がイエスさまと一つに結ばれていること・・・。そのときには、まるで、自分が主イエスであるかのようにすら・・・。神を「天の父よ」と、お呼びするとき、自分がまぎれもなく神の子であることを悟れる・・・。神の御子と一つにならなければ祈れませんから・・・。」祈りには、修練が必要です。御言葉を聴き続け、イメージする練習です。主の臨在を覚え、キリストとの結合を信じる修練です。信仰の長短には関係なく、キリスト者は誰でも、主の祈りによって、主イエス・キリストとの交わりを味わい、深めさせていただくのです。

☆  先の中部中会定期会で、  「世と教会に関する委員会」から建議した、「中部中会として、大会憲法第一分科会に対して、創立60周年宣言「終末の希望についての信仰の宣言(第三次草案)」に文言の加筆を要望する提案」が大多数可決されました。提案理由は、「私どもの国は、主キリストの主権に繰り返し反抗してまいりました。かつて、三十周年宣言が警告した「旧日本への回帰の傾向」は、今や、憲法改悪によってその頂点を極め、新たな戦前の状況下に立ち至ろうとしています。教会形成の戦いは、いよいよ危機的な状況(信仰告白的事態)に立ち至りました。「(第三次草案)」の序文によれば、宣言の狙いの一つとして、「キリストの日に向かって教会を悔い改めと新しい服従に導き、終末の希望のうちに力強く立ち上がらせる」こととされています。もとより終末論は、今日の状況を見抜く信仰の眼差しを開き、戦う教会の姿勢を正しかつ慰める信仰の教えに他なりません。ところが、宣言(案)には、今日の状況に対する認識が盛られていません。宣言の狙いを、よりよく果たす上でも、時代の危機的状況を鮮明にする文言を加筆することは、有益となると考えられます。」  とされています。キリストの苦難にあずかるときに、私どもは神の子の姿に似せられるのです。私どもの信仰とは、徹底的に終末論的です。終わりの希望に真実に生きるとき、教会(キリスト者)は、生きる目標を見失うことも、自分が誰であるのかを見失うこともありません。60周年宣言、すばらしいものです。しかし、この宣言を生きるかどうか、そこに私どもの現在と将来はかかっているのです。