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「主イエス・キリストの真実による神の義」

「主イエス・キリストの真実による神の義」  
     2005年5月8日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章21節~26節① 22節を中心に  

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 

 今朝は、21節から31節までを朗読しました。しかし、来週は聖霊降臨祭で、信仰告白式や幼児洗礼入会式をも挙行致しますし、その後は、伝道月間となります。つまり4回続けて、ローマの信徒への手紙の講解説教を中断いたします。そのために、本日は、第22節に絞って、集中して学ぶことに致しております。私どもは、昨年の9月から、志をたてて、ローマの信徒への手紙を学んで、本日は、その第28回目となりました。そして、遂に、ローマの信徒への手紙第3章21節以下に入りました。やはり、遂に、という感慨を持ちます。これはわたしの感慨だけではなく、著者である使徒パウロ自身、深い感慨をもって書き進めたということは、21節の冒頭を読めば直ぐ分かると思います。パウロ先生は、「ところが今や、」と深い感動を込めて、書き始めてまいります。遂にここまで書き進めて来た、そして今遂に、福音の中心、福音の主人公、旧約聖書と新約聖書を貫くまことの主人公であられるお方のお名前を、口にすることができる喜びに感動したと思うのです。震えたと思います。その声色を聞いたテルティオ自身にも、その思いは伝わるほどのものではなかったかと、わたしは想像いたします。今までとは、違ったものが現れる、いえ、違ってはいないのに、今、それがはっきりと立ち上がってくる、見えてくる、その見えてきたもののすばらしさを遂に今、書くことができる、告げることができる、そのような感動をもって、書いたと思います。

 先週は、わたしは、大変すばらしい音楽の経験、賛美する経験を与えられました。皆様のお祈りによって、奏楽者の○○姉妹と、そして家内とともに、神戸の神港教会で開催されました、音楽講習会に参加させていただきました。昔から、パイプオルガンは、好きでした。今も、ときどきCDで楽しみます。しかし、神港教会でのガルニエ氏の建造されたオルガンの音色、なにより鈴木雅明氏の伴奏によるジュネーブ詩篇歌を歌った経験は、忘れがたいものでした。鈴木先生が奏でる伴奏、わたしは、若いときから様々な集会、礼拝、特別集会に出席してまいりました。パイプオルガンの伴奏で歌ったことも、何度もあります。しかし、今回の神港教会での経験は、これまでのものとまったく違ったものでした。鈴木雅明先生が、日本を代表するオルガニストであり、バッハコレギウムジャパンの主宰であって、バッハ演奏の世界的な音楽家であるとカタログ的には、存じ上げておりました。しかし、百聞は一見に如かずで、その伴奏を聴きながら歌うとき、まさに、一台のオルガンで、天上の礼拝式の絢爛豪華さを、おそらくそのほんのわずかでしかないのでしょうが、しかし、確実に映し出していたと思いました。

私どもは、かつてビルの一室で礼拝を捧げておりましたとき、今のような立派なオルガンがありませんでした。カシオトーンという、子どものおもちゃのようなレベルのオルガンで、小さな音量で歌ったものでした。ところが、この礼拝堂が与えられて、先ず、感謝したのは、ここで皆さまとこのオルガンで賛美することができるようになったということでした。それは、かつての礼拝賛美とは、まったく違ったものとなりました。どれほど、私どもの礼拝式を豊かなものとしてくれたことかと思います。もちろんそれは、奏楽者たちの努力、ご奉仕によるものでありますから、私どもは深く感謝していると思いますし、感謝したいと思います。わたしは、新しい礼拝堂には、必ず、オルガンを設置しなければならないと、強く思っておりました。オルガンの費用は、礼拝堂の何かを削ってでも、どうしても、捻出しなければならないと考えました。それが、理解されて、設置することができました。まことに良かったとしみじみと思いました。今回、神港教会での賛美経験は、そのときの体験をもう一度あらたにさせられたように感じました。さらに一回り大きくして思い起こさせられたのです。わたしはすでに、賛美の体験を何十年も重ねてまいりました。しかし、ああ、これが天上の賛美の音色を映し出すことなのかと改めて思いました。

このように、我々の日常の経験の中でも、今までも見ていたはずなのに、経験しているはずなのに、それとは違ったものとして見えてくるということはしばしばあるのではないでしょうか。

もとに戻って使徒パウロが「ところが今や」と、語り始めて、何を告げようとするのでしょうか。それは、神の義は、信仰によってもたらされるという真理でした。しかし、ここでゆっくりと考えたいのです。いったい、神の義が信仰によって与えられるという教えは、まったく新しい教えなのでしょうか。これまで聞いたことがなかったような斬新な教えなのでしょうか。「律法と預言者」、つまり旧約聖書のなかには、記されていない教えなのでしょうか。いいえ違います。旧約聖書には、その最初から一貫して、神の民は、神の一方的な契約、神の恵みの選びによって、信仰によってのみ救われ、救われ続けることができることを語っているはずです。
「旧約聖書とは、救われるのは、神の掟を守ることによる、律法を守ることによる。新約聖書とは、救われるのは、ただ信仰によると別々のことが書いてある」というような理解など、まったく間違っております。旧約聖書も新約聖書も、同じ聖書、一つの聖書、神の御言葉です。しかしながら、使徒パウロは、ここで、「ところが今や」と驚きの声、感動をもって、声を挙げているのです。なぜなら、今申した真理が、ここで彼が告げようとする、この一人のお方をパウロが知ったこと、見出したこと、発見したことによって、旧約聖書がまるで違った書物のように見えてきたからなのです。それは、同じジュネーブ詩篇歌、賛美歌でも、カシオトーンとこのオルガン、このオルガンとガルニエのパイプオルガンを設置した神港教会の礼拝堂との差とは、比べられないほどの、差をもって、パウロには、理解されたのです。

信仰によって神に義とされる。この旧約聖書においても証されている真理は、しかし、この一人のお方によって、まさに鮮やかに示されたのです。その鮮やかに示してくださったお方の御名を、使徒パウロはどれほどの愛情、感謝、感激、喜びを込めて口にのせたことでしょうか。その一人の人のお名前。それが、イエス・キリストであられます。このお方こそ、実に、旧約聖書と新約聖書を統一する主人公なのです。パウロは、この手紙の冒頭の挨拶の部分では、キリスト・イエスと語り始めました。そして、何度も何度もイエス・キリスト、イエス・キリストと言葉を重ねました。しかし、それ以降、このお方のお名前が呼ばれなかったのです。しかし、今、遂に、福音の主人公、イエス・キリストの御名が呼ばれます。このお方によって、旧約、新約、聖書の信仰の真髄が明らかにされることができるのです。ですから、「ところが今や」と力が入るのです。

 
 さて、いよいよ、今日の中心の聖句この22節を学びます。実は、ここには、真に不思議な御言葉が記されているのです。そしてここにこそ、宝物のような福音の真理が込められているのであります。私どもの新共同訳聖書は、この22節の冒頭を、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより」と訳しだしました。他の口語訳も新改訳も「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」としています。しかし、「イエス・キリストを信じる」という御言葉は、もともとの言葉では、「ピスティス・イエスース・クリストゥー」となっています。実は、そのまま訳せば、「イエス・キリストの信仰」となるのです。しかし、そう訳しだしますと、なんだかかえって意味が分からなくなるのではないでしょうか。言うまでもなく、私どもの罪が赦され、神の義を受けるというほどの祝福、救いを受けるのは、ただ神を信じるのみだと申したばかりです。ところが、「イエス・キリストの信仰によって救われる」となると言われると、混乱するのです。私どもは、信仰とは、この自分が信じることだと思っていると思います。しかし、パウロは、はっきりとここで「イエス・キリストの信仰」と言っているのです。

 永井直治という方が個人で翻訳したすばらしい新約聖書があります。文語の翻訳なのですが、この方は、徹底的に、直訳することにこだわっているのです。その永井訳の聖書ではこうなっております。「即ち神の義はイエス・キリストの信仰により、信じるすべての者のうちに、またすべての者の上に、」彼は、はっきりとイエス・キリストの信仰によって神の義が、信じる者の上に、うちに、(現される)というのです。ここでは、信じているのは、私どもではなく、イエス・キリストなのです。イエス・キリストが神を信じている、だから、このイエス・キリストを信じるすべての者のうちに、その上に、神の義が現されるようになるのだというのです。つまり、主体は、私どもにではなく、イエス・キリスト御自身にあるという理解です。しかも、これは、誤訳ではありません。むしろ、聖書のそのままの翻訳なのです。

 信仰をギリシャ語では、ピスティスと申します。このピスティスは、真実とも訳すことができます。実際に、新共同訳でも、文脈によって、真実と訳しだしております。ですから、ある人は、この箇所を「イエス・キリストの真実」と訳しました。むしろこの方が、よく分かるかもしれません。つまり、「イエス・キリストの真実」を信じる、そこに神の義が現され、与えられるのだというのです。

わたしも、「イエス・キリストの真実」と訳すことに賛成であります。なぜなら、むしろ、これまでのパウロの議論がここで生きてくると思うからです。あらためて、第3章において、パウロが徹底してこだわった議論をもう一度、思い起こしたいのです。第3章4節、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」神は真実。これが、パウロの主張です。この真実を侮る者に対するパウロの怒りは、鋭いのです。「こう言うものたちが罰を受けるのは当然です。」これは、神の真実を侮る者、神の誠実を見下す者への激しい怒りに基づく発言であると思います。そのようなパウロが、ここで「イエス・キリストの真実」と声をはり挙げるのです。

それなら、イエス・キリストの真実とはどのような意味なのでしょうか。ユダヤ人は、神に選ばれた民です。契約の民です。ところが、彼らはその契約を破り続けました。それに対して、不信仰者たちが、言いました。「彼らを選んだのは、神さまだから、神さまにも責任があるのではないか。結局、神にこそ、責任があるのではないか」ここにパウロは戦いがあったのはこれまで学んだとおりです。パウロは、まことに責任は、神にあるのではなく、約束を破り続けたユダヤ人にこそある、人間の側にこそある、不信仰の人間にあると、パウロは主張したわけです。

しかし、よく考えてみますと、神の方が、真実であれば、その契約に違反した者、つまり不真実な罪人たちと結んだ契約を、神が守り続ける必要、責任はないはずではないでしょうか。契約を破ったのは、我々なのですから、もはや、破った罪人に遠慮はいらないはずです。彼らを、我々を、私どもを訴え、お裁きになればよいのです。裁いたとしても、決して神が誠実ではなかった、真実ではなかったなどと、誰も言えません。

ところが今や、ユダヤ人パウロは、ここで、イエス・キリストというお方において神をまさに、新しく知ったのです。ほとんど初めて知ったようにすら思ったことでしょう。しかしそもそも、ユダヤ人とは、生まれながら神を知っている人のことです。赤ちゃんのときから信仰の教育を施されて成長するのです。それが、本来のユダヤ人の意味だからです。しかし、パウロは、今や、イエス・キリストにおいて初めてのように真の神を知る、神の御心を知らされたのです。それは、神が、その御子イエス・キリストにおいて、約束を破った人間をお見捨てにはならないという真理でありました。これこそが、イエス・キリストの真実であったのです。この破れ果てている人間を、罪人で、もはや、自分の力では神に立ち返ること、神を信じること、罪を悔改めること、それら一切の神に喜ばれることをなす能力を失ってしまった、徹底的に罪人であるしかない私どもを、そのままで救う、神の愛を知ったのです。神の真実は、御自身の約束を破ることがおできにならないのです。不真実な人間になお、御自身の真実、御自身の愛を注いでくださる、これがパウロの福音なのです。この神の真実を知ったとき、パウロは、立ち上がるのです。ただ信じることができるのです。

思えばパウロは、これまで、私どもを罪人であるとの自覚を持たせるために、神の法廷に出廷させ、断罪してまいりました。その最後の方法は、神の御言葉でした。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてある通りです。『正しいものはいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆さまよい、誰も彼も、役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」まったくその通りです。誰も言い開きができないのです。私ども人間は、神に捨てられる以外にないような存在に成り下がってしまったのです。

ところが、パウロは、そこで終わらない、終えないのです。これまでのいわば短調の調べ、恐ろしいまでに暗い調べは、実は、このお方の登場によって、一気に転調する、長調、あかるく朗らかな調べを奏でるのです。つまり、パウロはここでこそこのように主張するのです。「我々は誰も彼も、神の御前に悪臭、腐臭、腐った鯛のように役立たない存在になりました。しかし、ここにただ一人、同じ人間でありながら、ただ一人だけ、この御言葉の例外になる人間が誕生したのです。このお方は、神の栄光のために生き抜いたお方です。善を行い続けたただ一人のお方です。そのお方のお名前こそ、イエス・キリストです。」彼は、もはや抑えきれずに、御名をお呼びするのです。イエス・キリスト。このお方は、神の御子でありながら、同時に人となられたもうたお方です。人となられたイエスさまは、ただお一人、完全に神の御前で正しい人間として生き抜かれたのです。神の栄光を徹底的に求められ、徹底的に神を愛し、隣人を愛し、その全生涯を愛のために、愛によって生き抜かれたのです。これがイエス・キリストの真実、イエス・キリストの信仰なのです。父なる神への信仰を完全に実現なさったのは、人となられたイエスさま以外には誰もいないのです。イエス・キリストこそ、信仰者のなかの信仰者。人間のなかの真の人間なのです。しかも、そのイエスさまが、悪に対して完全に善をもって報いられたのです。それが十字架の御業です。

もう一人の使徒ペトロは、彼の手紙の中でこう言いました。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(ペトロの手紙一第2章21節以下)「その唇には偽りがなかった」つまり、主イエスには、罪がまったくなかったということです。これまで、パウロから学んだ人間の罪のおぞましさとは、唇にあったのを思い出してください。彼らののどは開いた墓、その唇にはマムシの毒がある。これが私どもの真実の姿なのです。私どもの真実とはこれほどまでに、おぞましいものなのです。ところが、主イエスの真実は正反対です。罪がないのです。しかも、そのイエスさまが、私どもの唇、喉の中を覗き込まれたのです。先週は、罪とは、汲み取り式の便所であると申しました。私どもは自分の罪の汚さについては、便器の蓋を閉めてしまって、つまり見ないようにしているのです。ところが、主イエスは、それを開けて、覗き込んでくださるのです。くさいものに蓋をして、見ぬふりをして、自分自身の真の姿を見ようとしないで、格好をつくろって済ます私どもに代わって、主イエスは覗き込まれるのです。しかも覗かれるだけではない。そこへと降りて行かれるのです。まことに罪の腐敗、腐臭に満ちた、心の中に、私どもの罪の現実のただなかへと降りてこられたのです。その象徴が、馬小屋での誕生、降誕の意味であります。そこで、しかし、このイエス・キリストの真実、イエス・キリストが獲得された義、それを信じる私どもに、ただ信じるだけでわけ与えてくださるのです。この真実で私どもを覆いかぶし、開いた墓、そこに、神のみ前で二度と開かないように蓋をしてくださるのです。そのために、御子はここに、私どものあるがままの現実の只中に来られたのです。この御子をただ信じるだけで、蓋をしていただけるのです。これが、福音であります。

それなのに、私どもは、しばしば、このイエス・キリストの真実に任せること、信頼することができません。ただ信じるという、このまことに単純なことが、できないのです。信仰者、キリスト者とは、まるで、誰から見ても立派な人間でなければならない、誰から見ても祝福されている立場でなければならないなどと思い込んでしまうのです。ただ信じるということになお付け加えて、自分の中にある確信を求めるのです。確かさを求めるのです。そろそろ、教会生活も慣れてきたからとか、逆に、教会生活は、思っているほど無責任なことではなどうもないらしい、それなら、まだまだわたしのような者では、洗礼を受けて教会員になるには程遠いとか、そのように考えることは、実は、どちらも同じことです。どちらも、主イエス・キリストの真実への信頼ではなく、結局のところ、自分がキリスト者として立派に生きれるか生きれないのか、自分を覗き込んでいるだけです。自分は信じているのかどうかを、自分を点検して、自分で判断して、まだだめ、もうよいと判定していることです。しかもそれは、自分の本当の罪、開いた墓であるおぞましい罪を覗き込んでいるわけで、しているのではないのです。人並みの自分、自分の性格とか、これまでの実績とか、社会的立場とか、実に神の前には、何の値打ちもないことを、自分ではこだわって、神の御前に平等に救われることにすら、不満をもつのです。それは、自分が本当に救われるには値しない罪人であると認めない姿に他なりません。「ただ信じる」ということができない、満足できないとき、それは、自分のなかに確信を持つようにしたくなるのです。それは、信仰のようであって、まことの信仰ではないのです。信仰とは、自分自身の真実などかなぐり捨てて、主によりすがることです。いへ、もともと自分の中に真実などないのです。本当に疑い深いものであって、信頼しきれない人間なのです。しかしそのような不信仰な者、罪人にもかかわらず、その不信仰を、言い換えれば、その不真実を主イエス・キリストの真実が覆ってくださるのです。包み込んで、神の義をまとわせ、信じる人間へとつくりたててくださるのです。

わたしは、今、このことを、単に、これから洗礼を受けようと道を求めている仲間、信仰を告白しようと備えている仲間の方だけの問題とは考えてはおりません。既に、主イエス・キリストを知っている、信じている私どもの問題でもあるのです。私どもにこそ、信じるだけ、主イエス・キリストの真実によりすがるだけというこの基本が問われるのであります。本当に、イエスさまが主、つまり王の王であり、神であること、キリスト、つまり救い主であり、私どもの全存在を救うお方であると、信じることが求められているのです。それ以外は、信じてはならない、頼ってはならないのです。自分のキリスト者らしさだとか、教会での立場ですらもです。自分の能力だとか、善行だとか、品のよさとか、社会的な立場だとか、性格のよさだとか、まったくそのようなことに頼らないで、生きることです。ただ不真実な、不信仰な罪人でしかない私どもをしかし、主イエス・キリストの真実が救ってくださる。義としてくださることを信じることです。そうなれば、私どもは、常に新しく、このキリストに感動できるのです。知っていたはずなのに、しかし今まで知らなかったとすら思えるような、常に「ところが今や」という、新しい主イエス・キリストとの交わりのなかに深められて行くことができるのです。そのような、常に新しい、生き生きとした主との交わりは、どこであたえられるのでしょうか。それは、今ここで、既に私どもはあずかっております。この主の日の礼拝式の恵みこそ、主の真実に触れ、神の義を受ける場所なのであります。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、信仰によってのみ救われるという福音の真髄であり、基本の中の基本、信仰の初歩の教えなのに、それを忘れてしまいます。そこに立ち続けることができずに、自分を頼りにし、それだけに、主イエス・キリストとの交わりに生きることができず、不安に陥ります。傲慢になったり、劣等感にさいなまれたりして不信仰で惨めな、普通の人と同じような生活へと逆戻りすることすらあります。どうぞ、私どもの不信仰、不真実の罪を赦してください。あなたの御子、私どもの主イエス・キリストの真実によって、私どもの不真実を覆い、あなたの義のなかに立たせてくださいますように。そして、自分にこだわる生き方から、目を主に向けて、新たな信仰の旅路へと私ども一人ひとりを解き放ってください。洗礼を受けている者も、そうでない方も、等しく、御子主イエス・キリストとの交わりへと深めて下さい。  アーメン