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「自然の叡智か、神の創造か」


2005年5月22日 伝道月間 第一回 伝道説教
聖書朗読 イザヤ書第40章28節~31節
テキスト イザヤ書第43章1節~7節

イザヤ書第40章28節~31節
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

イザヤ書第43章1節~7節
「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。 わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。 北に向かっては、行かせよ、と/南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから/娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。」

 今週から、伝道月間として、新しい方向けの説教を連続して、四回語ってまいります。6月の12日には、親子合同礼拝式ですから、このようになりました。本日、初めて教会に、教会にとってもっとも大切な集会であります、主日礼拝式にお越しくださいましたこと、心から感謝いたしております。神が導き、お招きくださったのであると信じ、心から歓迎いたします。天地の創造者なる神、私どもを愛し、私どもを救うためにこの地上に命をお与えくださいました神が、出席者おひとりお一人の上に、豊かな祝福を注いでくださいますように。

 今、日本で万国博覧会が開催されています。愛知、名古屋の方なら、誰でも愛知万博、「愛・地球博」のことは多かれ少なかれ、ある関心をお持ちではないでしょうか。わたしは、愛知万博が開催されることによって、新たな友人が増えるかもしれないと予想をしておりました。古い友人が、訪ねてくるかもしれないとも予想をいたしておりました。しかし、牧師の友人たちは、みな忙しいのでしょう。その予想は現在外れております。しかし、予想していませんでした、わたしの両親が、愛知万博を観てみたいということで、横須賀から名古屋に参りました。両親が名古屋に遊びに来ると言うことは、予想しておりませんでした。日ごろ、本当に親孝行らしきものをしておりませんので、心に負い目が正直に申しますと、愛知万博にはあまり興味がなかったのですが、参りました。マンモスの骨を見てみたいという期待を持って行ったのですが、予約の関係で、かなり並ばなければならないということで、観ることはできませんでした。しかし、会場内を歩いてみせるだけで、万博に来たという雰囲気だけを味わって、あまりパビリオンを見学せずに帰ってまいりました。

 数少ないパビリオンの中でわたしは、日本館に映像体験は、なかなか感動的な経験を持つことができました。日本館は、おそらく数分でしかないのですが、入場者数十名が、球状になったホールの真ん中に橋を渡して、その橋から上下左右360度の映像を見ることができます。上を見ても下を見ても、映像なのです。しかもそれは、小さな画面に細切れになった映像ではなく、全体が一つの映像になっているわけです。その映像世界の真ん中に自分がいるような感覚、まさにバーチャルリアリティーの体験が味わえるのです。映し出される映像は、海の底です。そしてそこから一気に空を舞い上がり、一瞬にして宇宙にまで突入するのです。自分がまるでロケットにでも乗って、いへロケットでもそのような速さで海底から宇宙空間まで行くことはできないはずですが、とにかく、海の底と宇宙とを一気に結びつけてしまうものでした。これは、なるほど、他のところでは味わうことのできない映像体験で、なかなか、よいものでした。

 しかしそこで私がもっとも印象深く思ったこと、実に良かったのは、BGMの音楽でした。モーツァルトの「アベ・ベルム・コルプス」が流れるのです。日本館ですから、日本の古い民謡か何かを流すして日本にこだわるのか、あるいは、この映像のために、日本の作曲家が特別に創作するのかということになるのかと思いましたが、そうではなく、「アベ・ベルム・コルプス」ミサ曲が流れるのです。

「聖なる主の御体」と神の御子、神のひとり子主イエス・キリストにおいてなされた父なる神の神秘の御業を讃える歌です。キリストの教会で執行される聖餐という礼典、聖餐式とも呼ばれる神の御子が人となりたもうた出来事、人間の肉体を受けたもうた神秘を歌う、まさに私どもの神の救いの御業の神秘を歌う曲のメロディーが流れるのでした。私は、この大自然、海底から宇宙までのこの大自然の神秘に思いを馳せさせるのに、この賛美歌こそが最適であったと選曲された方はキリスト者であったのかどうかは分かりませんが、とにかく、この曲が用いられていることに大変愉快な思いが致しました。そして、これが意図的になされた、キリスト者が選曲されたとするなら、まことに意味深いメッセージになると思いました。

 愛知万博の主題は、「自然の叡智」ということです。自然の叡智を讃え、この叡智をそれぞれの国々が引き出す仕方、文化を学びあうことを目標にしている、主題にしていると言います。この大自然の不思議さ、美しさに心を打たれる私どもですが、しかし、最高の美しさ、不思議さ、神秘とは、神が主イエスさまにおいて人間となられたことにまなるものはないと思います。
 そして、自然の叡智を讃えるのではなく、この自然を創造された神の叡智をこそ、讃えることが、今日の、21世紀の現代世界の緊急な、まことにグローバルな、世界的な課題であると信じます。20世紀の科学技術文明の驚異的な進展の成果によって、世界の環境汚染、環境破壊は、地球的な規模に及んでしまいました。人口の爆発的増加、地球の温暖化現象は、実際の数値によって明らかになっているばかりか、実感することができるほど明らかにになっております。この地球的な規模での環境問題をどのように克服するのかということとキリスト教の信仰とは、まさに結びつくものであると信じます。

 また、愛知万博の主題は、自然の叡智から世界の人々がどのように学び取ってきたのかの仕方、世界の異なった文化を共有することが大切であると言います。世界の人々との交流を目指すわけです。そして、このような世界の人々が、人種を超えて、文化を越えて、一つの人類共同体のように、地球規模で物事を考えなければならない時代に入ったことを思いますとき、今から2000年前に地上に誕生した、キリストの教会こそは、そのまさにさきがけとなった共同体であることを、世界に思い起こして頂かなければならないと思います。2000年前、キリストの教会は、民族や人種、国境を越え、男性と女性の性別を越えて、一つの大きな共同体、人類の共同体を構築し始めました。ここにこそ、世界の憧れ、世界の希望があります。ある日本の神学者は、現代の世界の状況を見て、「世界は教会になりたがっている」と申しました。世界は、どのようにすれば、人種を越え、社会的立場を越え、文化を越えて、一つの普遍的な価値を共有して共存できるのかを求めています。地球的規模の課題を克服するために、教会から学ぼうと、教会に憧れをもっていると言うのです。

 さて、本日は、特に我々日本人が、まさに緊急の課題として、認識を新たにすべき課題、精神的な宿題としての創造者なる神への信仰について学びたいと思います。
 聖書、特に旧約聖書は、今から3000年ほど前から書き始められました。ユダヤの人々が記した古代文書です。当時のまわりにあったエジプト文明、アッシリア文明、バビロニア文明、シュメール文明などと比べれば、ユダヤの文明は、遅れたものであったと言えます。しかし今日、世界中の古典中の古典となっていることに異論を挟む人は誰もおりません。しかし、古代の人々の文書ですから、今日の現代人の先入観をもって読みますと、愚かなことが、非科学的なことが書いてあると思われがちであります。私もかつてはそうでした。新約聖書をひもとけば、主イエスがなさった奇跡などは、そのまま信じるほど愚かではないと、初めて聖書を読み始めた高校生のときは素朴に思っておりました。しかし、今は、聖書の信仰がどれほど現代の科学万能の世界と言われる現代のなかで、ますます重要性を増している、特に日本人がこれと向かい合わねばならないかを深く思います。古代のユダヤの人が記した聖書、その開巻第一声は、このように宣言されております。「初めに、神は天地を創造された。」創世記第一章第一節で、天地万物は、神によって創造されたという聖書の基本的な信仰が表明されるのです。この天と地、万物は神に創造されたもの、つまり被造物であるという信仰は、まさに聖書の信仰、私どもキリスト教会の信仰のベース、土台です。しかしついでに申しますと、もしも、聖書を、科学の書物、科学的な知識を伝える書物であると理解するとすれば、それは、誤りであることも申さねばなりません。聖書は、科学の教科書ではありません。自然科学における描写が多いのですが、しかし、それをそのまま、科学的知識として受け入れることを聖書自体が予想をしていないと言っても過言ではありません。聖書が我々に与えられた目的は、聖書のまことの著者でありたもう神御自身の私どもに対する御心がなされているのです。その点で、キリスト教の中でも、聖書のあらゆる記事は文字通り、つまり、科学的な知識を伝える書物であるかのように、理解しようとすれば、それは聖書自身が考えていない読まれ方であると言ってよいのです。しかし、それなら逆に、聖書のなかに記されている科学的な知識の表現が現代科学と正面からぶつかると言うことがはたしてどれほどあるのかとも思います。

さて、話をもとに戻しますと、聖書を読みますと、創造者なる神を讃える言葉がいかに多いのかを思います。たとえば、申命記第10章14節には、このようにあります。「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。」当時の世界観、宇宙観はもちろん今日のようなものではまったくありません。地球が丸いということも、宇宙と地球との関係も、まったく今日の知識とはかけ離れたものであります。しかし、聖書の信仰に生きた者たちにとりまして、世界はの所有者、世界と宇宙の支配者は神、神の所有であるのが、被造物であるとの信仰があったのです。とりわけ、詩篇を読みますと、この神の偉大さ、創造者の大きさを讃える詩がたくさんあります。私どもが賛美歌21の中のジュネーブ詩篇歌として愛唱する詩篇第24編の第1節にこのようにあります。「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。」さらに、詩篇95編4~5節には、こう歌い上げられています。「深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。」あるいは、詩篇115編16節にはこう賛美されています。「天は主のもの、地は人への賜物。」

先ほど聖書を記した人々の周りには、彼ら以上に優れた科学技術をもった文明がいくつも存在しておりました。しかしそのような人々は、太陽を拝み、星占いに頼り、吉凶を気にしていたのです。それは、まるで、今日の日本のように、科学技術の発達の影で、占いが一兆円規模の産業となっているという事実とどこかで重なるように思えます。ユダヤの人々の世界観、つまりはじめに神が天地万物を創造されたという信仰、すべての被造物には、神の意思が込められ、目的があり、秩序があるとする唯一の神を信じる信仰が、実は、まことに科学的な発想を培い、科学の進歩に貢献した事実があるのです。

わたしは、日本館の巨大な、球体ドームの中に入り、海の底に生きる魚、微生物。そしてこの大地に生きる昆虫、動物、植物、空を飛ぶ鳥たちを見ました。そして、宇宙空間へと上ってゆきました。それは、すべて、神が創造されたものであり、神のものなのです。このまことに自然の神秘、不思議さは、科学の進歩によってますます明らかになって来るのではないでしょうか。
たとえば、「星の数ほどたくさんある」と言う表現がありますが、太陽系にある星は5000個だそうです。しかし銀河系のなかには、太陽系のような星の集まりが2000億個あるのだそうです。つまり、それだけで星は1000兆個あるのです。しかも、銀河系のような星の集まりは、宇宙に数千億個あるのだそうです。そうなりますと、もはや、その星の数を数える単位を知らないほどになります。今、夜空にきらめく星が、何万光年先の星を見ていると言うのであれば、我々が今、見ている星は既に、存在していないかもしれないわけです。

あるいは、地球のことを、「奇跡の星」と呼んだ歌があります。まさに、宇宙のなかで、地球ほど、生命を維持するために、何から何まで整っている星は、今現在、人類は知らないのです。どれほどの奇跡が重なれば、人間が生きる上で適したこの星の環境が成立するのでしょうか。このようなことは、説教の課題ではありませんから、様々に調べてご覧になれば、良いと思います。
このような環境が単なる偶然の産物であると言いのけるなら、むしろよほど非合理的な思考でしかないのではないでしょうか。

最近、このような書物、古い書物ですが、アフリカに宣教に行かれた医師であり宣教師の体験を読みました。自分の子どもを癒していただいたある夫婦が、ひれ伏して、お礼を言ったのだそうです。そこまでは、よいのです。しかし、彼らは宣教師にこう言いました。「あなたは神さまです。」そして手を合わせて拝もうとしたのです。すかさず、宣教師は、「違います。真の神さまを拝んでください」と言いました。しかし、彼らは、譲りませんでした。「あなたは、死に掛けていたわたしの子を治してくださった、神さまでなくて、どうしてそのようなことができるでしょうか。」
これに対して、宣教師はなんと説明したのでしょう。こう言って理解を求めました。「もし、わたしが皆さんに、何か良いものを贈ったとしましょう。それを私の部下に持たせたとしましょう。それなら、あなたがたは、その部下とわたしとどちらにお礼を言いますか。」「もちろん、あなた様にお礼を申します。」宣教師は答えました。「わたしは、神さまの部下、僕です。神さまは、癒すことがおできになりますが、わたしの手を通してそれをなさいました。だから、お礼を言うのは、私にではなく、真の神さまにしてください。」
私どもは、この小さなエピソードを読んで、他人事として笑えないのではないでしょうか。現代の日本人もなお、太陽や木や、動物や死んだ人を拝みます。何よりも占いなどに関心を寄せます。そうなれば、実際、この宣教師を困らせたアフリカの人と変らないのではないでしょうか。

感謝すべき相手を間違えているのです。それは、ご利益信仰と、まことの信仰との分岐点にもなります。ご利益を求めて信じる宗教は、部下にお礼を言う信仰に似ています。しかし、本当に与えてくださるお方にお礼を言う信仰は、ご利益信仰とは異なって、真の信仰に近づくのです。

しかし、ただ単に、天地を創造された神がおられるということを知り、信じたとしてもそれで、私どもの実際の人生に関係がないのであれば、それは、私どもを生かす知識にはならないと思います。

今、私どもはここで何をしているのでしょうか。それは、天と地、目に見えるもの、見えないものの創造者なる神を礼拝しているのです。それにしては余りにも小さな礼拝堂のように思います。広大な宇宙空間でさへも創り主なる神をおいれすることができないのに、聖書によれば、この小さな礼拝堂の只中にも、この神が、神の御子イエス・キリストがおられる、臨在しておられると言うのです。これこそ、神秘のなかの神秘、不思議のなかの不思議ではないでしょうか。しかし、神は、それを起こしておられます。

アベ・ベルム・コルプス(祝福あれ 真の体よ)というミサ曲、「めでたし 真の身体よ 処女マリアから 生まれ 人々の為 真の苦しみを 受け 十字架に 架けられた 脇腹は 刺し貫かれ 水と 血が 流れ出た 死の苦しみの前に 私達に 味あわせて下さい おお 甘美な イエス おお 慈しみ深い イエス おお マリアの子」このような賛美歌です。これは、神の御子がマリアからお生まれになられ、人間の肉体をとられたことへの賛美であり、イエス・キリストが与えてくださる永遠の命の食物を待ち望む歌なのです。この歌のように、天地創造の神は、主イエス・キリストにおいて、人となられました。私どもと同じ肉体をとられました。それは、私どもに、救いを与えてくださるためなのです。神は、この御子イエス・キリストの誕生と十字架の死と御復活によって、鮮やかに私どもに語りかけてくださいます。それは、最初の聖書朗読において聴きました、イザヤ書における言葉です。「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。」

神は、今、私どもに向かって、わたしはあなたを創造し、あなたを罪の支配から贖いだす、贖いだして、わたしのものとする、あなたはわたしのものだ、わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るとき、つまり、死の危険、恐怖、災い、暗く悲しくつらいどん底の道を通るときも、あなたはひとりぼっちではなく、天地創造のわたしが共にいるのだと、仰せになられます。それは、神の御子イエス・キリストにおいて、私どもに鮮やかに語られました。この人となられた神の御子は、今、天におられます。天におられる肉体をもったお方が、この地上の教会の礼拝式の只中において、聖霊なる神において共にいてくださるのです。このちっぽけな礼拝堂のなかに、天地創造者なる神の御子が聖霊によって、臨在しておられます。この神が、わたしの目にはあなたは値高く尊い、わたしはあなたを愛していると宣言してくださるのです。この神の宣言を聴く場所が教会です。この宣言を聴くとは、この神の臨在したもう礼拝の場所に出ることです。この神を礼拝することです。今、私どもは、この神の御前で座っているのです。

今、自然界は軋んでいます。21世紀は、まさに人類にとって危機的な世紀になることはもはや明らか過ぎるほどでしょう。しかし、この世界の中には、希望がなくても、この世界を創造したもうたお方がおられるのです。この神は、聖書を通して、この世界を完成するご意思を明らかにしておられます。ここに私どもの希望の根拠があります。この神は、この世をなお愛しておられるのです。「神はそのひとり子をお与えになるほど、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく永遠の命を得るためである」と約束されている通りです。この神との関係が、断絶しているとき、この世界は崩壊する以外にありません。しかし、神は御自ら、この関係を修復し、関係を創ってくださったのです。それが、主イエス・キリストの誕生と十字架の死と復活です。このイエス・キリストを信じる者にこそ、礼拝式の招きの言葉のなかで聞きましたイザヤ書、「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」これが成就するのです。主に望みをおく者だけが、新たな力を得るのです。どうぞ、今週から始まる礼拝式に引き続いてお越し下さい。ここで共に神を礼拝しましょう。創造者にして目に見えない神はしかし、その御言葉と御声は聴けます。その御言葉を聴くことによって、創造者に出会えるのです。御子イエス・キリストに出会うことができるのです。

祈祷
 天と地と目に見えるもの見えないものとの創造者なる御神、見えない神が今、私どもに御言葉を聴かせ、その御声を聴かせてくださり、礼拝する特権をお与えくださいますことを心から感謝申し上げます。あなたの永遠の愛に基づいて、造られ、命を与えられている私どもであります。どうぞ、私どもが創造者なる真の神でありたもうあなたの愛を信じ、感謝する信仰をお与え下さい。私どものこの地上での人生、生活が、決して偶然ではなく、あなたの明確な意図をもって存在させられていることに気づかせてください。そして、その目的にかなって生きれるように、速やかに真の信仰を与えてください。