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「安心して行きなさい -神と共に歩む平安-」

「安心して行きなさい -神と共に歩む平安-」

2005年5月29日 伝道月間 第二回 伝道説教
テキスト マルコによる福音書 第5章21節~34節

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 先日、ある方から、大変晴れやかな顔つきでお話を伺いました。病院の検査を受けたが、ほとんど異常はありませんとの診断を受けたとのことでした。晴れやかな顔つきは、なるほど、そのはずです。これは、私どもにも身に覚えがあることではないでしょうか。たとえば些細な肉体の異常を見つけても、もしかしたらこれは、何かの重い病の予兆かもしれない。癌かもしれない、早く手を打った方が良いのではないかと心配すること、気になってしまうことが、一定の年齢になれば、多かれ少なかれ、あるのではないでしょうか。自分の肉体のことは、特に内臓や頭の中など、目に見えませんから、どうなっているのか分かりません。ですから、不安になるのです。しかし、客観的なデータを示され、画像を示されて、大丈夫ですと医師に診断される。太鼓判をおされるなら、それまでのなんとも言えない重い気持ち、暗い気持ち、不安は、一時的ではあっても、一瞬に吹き飛んで、世の中が明るく見えてくるでしょう。
 私事で恐縮ですが、先々週、予約をしておりました歯医者さんをすっぽかしてしまいました。実は、先週も、この説教準備をしていまして、すっぽかしていたことをはっと思い出したのです。痛みがあったときには、予約を忘れることはなかったのです。痛みがなければ、どうでもよくなってしまったわけです。

病気が治ったり、苦しい問題が解決してもらえたりしたとき、多くの方々が、心の動きを表現してこう申します。「救われたような気持ち」確かに、それはよく分かります。私自身も、歯の痛みだけでも、なくなれば、そのような気持ちになるのです。
しかし、私はその一方で、そのような表現は、本物を知らない人の表現であると思ってしまうのです。主イエス・キリストのうちにある真の救いと比べるなら、たわいのないようなものと言いたいと思います。なぜなら私自身、この真の救いを経験させられたからです。生きておられる真の神が、一方的に、私にこの真の救いの恵みをお与えくださったのです。この真の救いに比べれば、病気が癒されることや、歯の痛みがなくなることなど、たわいもないものと言えます。ですから、わたしは、しばしば、まだこの聖書の信仰、まことの救いの恵みをお受けになったおられない未信者の方や、とりわけ、どこかの宗教が病気から救われた人の実例として、わたしはこの宗教を信じてこの病気から救われました、などと言う文章を読みますと、大変正直に申しますと、軽蔑にも似た心が沸き立つのです。ごく素直に申しまして、わたしはいわゆる宗教、今申し上げましたような意味での、この教え、この方、このご本尊、この何かをこうしてみたらこうなりますという類いのもの、つまりこの宗教をやれば、このように悩みや問題が解決します。病が癒されますと宣伝する宗教が大嫌いであります。

私どもの教会に、この「救い」をごく最近お受けになられた仲間がおられます。今月、新聞折込を致しました伝道新聞「岩の上だより」の裏表紙、「キリスト者の声」の欄を記してくださいました一人の姉妹です。洗礼をお受けになられて5ヶ月が過ぎました。彼女は、かつて教会員がポストに投函した伝道新聞を読まれて、それを大切になさっていて下さいました。そして遂に時至り、一昨年、教会を訪ねてくださったのです。そして、教会においてイエス・キリストを信じる信仰を与えられました。救われたのです。ここだけの話ということはおかしいですが、既に75歳のご婦人です。本日の礼拝堂で気持ちよく過ごせるのは、一昨日の彼女を含めた姉妹がたの御奉仕のおかげであります。今や、伝道新聞を発行する側に立たれた、立たされておられるのです。この一人の姉妹は、ご自分がご病気を癒されたわけではございません。ここで神の御言葉を聴き続け、主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストを信じて罪を赦され神の子として生かされたのです。生かされ始めているのです。これこそ、真の救いなのであります。

さて、今、主イエスとそのお弟子さんたちは、大勢の群集に取り囲まれています。マルコによる福音書第3章7節以下によりますと、主イエスは、おびただしい群集に取り囲まれていました。群衆に押しつぶされないために、小船を用意して、船から岸辺に向かって説教しなければならないほどでした。その理由は、主イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人々が主イエスに触れようと押し寄せたからだと言うのです。
先ほど朗読しました物語の状況は、この状況が今なお続いていることを知らせてくれます。主イエスは群集に取り囲まれているのです。ここに二人の人物が登場します。男性と女性です。男性の名は、ヤイロ。ユダヤ教の礼拝堂、聖書を教え学ぶための会堂を管理している人です。ヤイロという名は、実に美しい名です。その意味は、神に顧みられている人という意味があるからです。神の御眼差しが絶えず注がれている人、神の愛によっていつも守られている人という意味がヤイロです。余談になりますが、私どもキリスト者にとって、自分をヤイロであると、信じること、これこそ、私どもの最高の特権であります。最高の幸せであります。

さて、本日は、もう一人の人物である女性と主イエスとの出会いの物語を学びます。今、ヤイロというすばらしい名前を覚えましたが、しかし、彼女の名前はここに記されてはいません。名もなき女性です。分かっているのはただ、12年間出血が止まらない婦人病を患っていたこと、多くの医者にかかったこと、しかもひどく苦しめられたこと、されに全財産を使い果たしてしまったこと、その果てになお、ますます悪くなるばかりであったこと、彼女の実に同情すべき状況、悲惨な状況だけが報告されています。
とにかく、彼女の半生は、少なくともこの12年間は、悲惨の一語です。今では医者に診てもらうお金もありませんし、もう医者はこりごりという思い、恨みつらみも深かったかもしれません。2000年の昔、おそらく、彼女に待ち受けている運命は、過酷過ぎるほどのものです。もはや、死を待つしかなかったのだと思います。そのような彼女のところに、主イエスとその弟子たちがやってまいりました。

しかし、彼女のことは、いわば、この物語の本筋として語られているわけではありません。この物語は、そもそもヤイロの娘の癒しのお話として始まっているのです。この女性の物語は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の三つともに収められています。それほど、弟子たちにとって印象深い出来事であったのです。しかしその三つとも、彼女のことは、ヤイロの娘の癒しに割り込む形で収められているのです。誰でも、自分のことが、話のついでに語られるというのであれば、気持ちのよいものではありません。しかし、彼女のことが、そのような形で語り継がれたところに、一つの大きな意味があるはずです。

さて、彼女は、こう思っていました。「この方の服にでも触れればいやしていただける。」そう思って、おそらくひょろひょろした足取りでしたでしょうが、精一杯の力を出して、群集の中に入って行き、主イエスに接近を試みるのです。主イエスの周りには、漁師たちを中心にした12人の弟子たち、男たちがそれこそ、ボディーガードのように取り囲んでいたはずです。その人並みの中に、分け入り、分け入り、弟子たちがしっかりと取り囲む脇から、それでもちょうど後ろ側が手薄になったのかもしれません。彼女は、そこから手を伸ばして、主イエスの服に触れたのです。するとどうでしょう。すぐに、直ちに出血が止まりました。本人が自覚できるほど、鮮やかに、瞬間的に癒されたのです。

このように読んでまいりますと、わたしが最初に申し上げたような印象、つまり、お地蔵さんの頭に触れば賢くなる、足に触れば癒される、煙を浴びれば病気が治るとか、さまざまに宣伝される宗教、ご利益宗教と何か似通う物語として読めてしまうのではないでしょうか。
16世紀、スイスのジュネーブの教会で活躍した、カルバンと言う神学者がおります。私どもの教会のルーツに位置する教会の改革者であります。キリスト教の歴史のなかで、輩出した神学者のなかで最大級の人物であります。そのカルバンは、この女性に対して実は、大変、辛口な論評をしております。彼女から学ぶべきものはないと言うのです。間違っている、むしろ、彼女の中には悪徳があるとすら言うのです。いささか、言いすぎのようにも思えるかもしれません。しかし、落ち着いて考えて見ますと、16世紀の宗教改革の時代の只中に生きた牧師にとりまして、衣の房に触れば病気が癒されるとか、この聖人の衣服に触れば奇跡が起こるというような迷信が、実に自分たちの教会の足元で、身近に起こっていた状況であったのです。当時のローマ教会の中には、そのような聖人崇拝とか、聖遺物への崇拝というようなことがあったのです。そうしますと、この聖書箇所で、この女性のしたことは、まるで、当時のローマ・カトリック教会の悪しき習慣を、増長させかねないように読まれてしまうなら、とんでもない間違いを助長することとなると思います。ですから、カルバンがこのように私どもに警告していることは良く分かることだと思いますし、今日なお私どもは、決してこのような迷信、間違った宗教に転落してはならないはずですから、カルバンの警告を真剣に聴くべきであります。

しかし、その一方で、マルコによる福音書の言葉を丁寧に見てまいりますと、驚くべきことが分かってまいります。たとえばヤイロが、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と申しました。もともとの言葉では、娘は助かりますとは、娘は救われますと記しているのです。さらに、名もなき病の女性が「この方の服にでも触れればいやしていただける」と心に思ったとき、「癒していただける」とは、「救っていただける」というのがもともとの言葉なのです。実に、主イエスが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」と仰せになられた「救い」という言葉が、命が助かる、病が癒されるという言葉と同じ言葉なのです。マルコによる福音書の方では、救いとなっているのです。

そうなりますと、私が冒頭で、病気が治るのを宣伝する宗教に嫌悪感を覚える、大嫌いと申しましたが、聖書の信仰もまた、同じなのでしょうか。そうなりますと、今日の物語は、かえってなんだか、聖書の信仰を分からなくしてしまうような記事なのでしょうか。伝道礼拝式で説教するには、ふさわしくない物語になってしまうのでしょうか。

 マルコによる福音書を紐解きますと、先ほども申しましたが、群集が主イエスに駆け寄り集まってくる姿を記してこう申しております。「群集に押しつぶされないためである。」ここには、はっきりと著者のマルコが、この群集のまったく自己中心的な態度は、主イエスの生命を危機に陥れかねなかったとする強い抗議、反発の思いを読み取ることもできるのではないでしょうか。その直ぐ後で、主イエスが、汚れた霊どもがイエスさまを見て、ひれ伏して「あなたは神の子だ」と叫んだのに対して、主イエス御自身は、こう厳しく戒めておられます。「自分のことを言いふらさないように」ここにも、いわゆる宗教の宣伝、ご利益を宣伝することを、主イエス御自身には、一切お考えになどなっておられなかったことが分かります。群集の、いわゆる宗教、ご利益を求める強い衝動に対して、主イエスは、それを肯定しておられたとは考えられません。何よりも、マルコによる福音書も他のすべての福音書も、やがて主イエスは彼ら群集たちから手のひらを返されるようにして、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び狂う群衆を描いているのです。それなら、本日、読みましたこの物語は、私どもに何を訴えているのでしょうか。いったい信仰とは何か、救いとは何かを、この物語は、どのように私どもに告げようとしているのでしょうか。
 

 私は、先日、親孝行を試みて、「愛地球博」に参りました。人ごみのなかに出かけて行くとき、自分が群集の一員になっていることに気づきます。藤が丘の駅で、「リニモ」に乗車したとき、まさに大勢の人々が駅へと降りて行こうとしているので、ジグザグの列に並ばされ、少しずつ、前へ進みました。人ごみに出て、「人が多いなぁ」と、迷惑そうに言う人がおります。自分もその群集を構成していること忘れているのかもしれません。万博会場に入って、父親のために車椅子を借りました。そうなりますと、違うゲートから入場することになり、その一瞬、群集から離れ、特別扱いのように車椅子用の門へと入りました。初めての経験でした。私は改めて、「特別扱いの待遇をされるというのが好きなものだなぁ」とあらためて思いました。ただし、蛇足ですが、車椅子だからと言って、その後、何かのメリットがあったわけではありません。
しかし、また我々は同時に、その正反対ですが、群集の一人になることが好きでもあるのではないでしょうか。責任を問われない立場に自分を置く誘惑です。我々は社会的な存在ですから、どこかで、責任ある場所で生きることを求められます。しかし責任を担うことは大変です。犠牲が伴うからです。しかし、犠牲を支払うことはごめんこうむる、利用するときにはしっかりお世話になりたい。このような態度も、我々の中にはあると思います。そこにも、人間のずるさがあると思います。

 さて、この12年間、女性病で苦しんでいた彼女は、今、この群集の一員であることを利用しようとします。群衆に紛れるのです。まさに匿名になっているのです。自分の名前、自分の存在などに誰も関心を示しません。注目されません。それが今、彼女には幸いなのです。隠れて触るわけです。「あの人に触りさへすれば、衣にでも触れれば救われるかもしれない。もはや、医者に通うお金もなくなっている自分にできることは、これくらいのことだけだ」そう思っているのです。最大のチャンスが今、目の前にあるのです。
 

 さて、主イエスは、この彼女の行為を受け止められました。「自分の内から力が出て行ったことに気づかれて」とあります。これは、どのようなことなのか、私には分かりません。私どもには分かりませんし、それを詮索してみても何の意味もございません。神秘です。しかし、主イエス御自身のなかに、力が出て行かれたことが分かったと仰せになられます。そこで、振り返って仰せになります。「わたしの服に触れたのはだれか」驚いたのは、弟子たちです。ボディーガードのように主イエスをお守りしていたのでしょうが、彼らは、自分たちが叱られたと勘違いしたのかもしれません。すぐに、弟子たちは反論しました。「イエスさま、ご覧下さい。これほどの群集です。服に触った者など、大勢います。どうして、そのようなことを仰せになられますか。私どもの警護が足りませんか。」わたしは弟子たちの気持ちの中にこのような思いがあったと思います。

 しかし、主イエスは、弟子たちを叱責したのではありません。群集のなかで、私の服に、救われたい、病気を治してもらいたいと切実な思いで、触ったものは誰なのかと、その一人に向かっておられるのです。ここでも、もとより、主イエスがその一人が誰なのかをまったくご存じなかったと読むことはできません。神の御子が、分からないはずはありません。それなら、何故、探されるのでしょうか。それは、この名もなき一人の女性を、この群集のなかから、際立たせるためです。こ女性を一人、主イエスの御前に出させるご目的のためであります。そのようにして、彼女は今、群衆の中から際立つ存在へとクローズアップされます。この女性に焦点が合わされるのです。ヤイロの物語りに割り込んで来るのです。神の御目にかけがえのない存在であることが、この女性もまたヤイロであることを悟らせようとなさるイエスの愛の御心が激しく動かされるのです。

 彼女は、自分が願うとおり、考えたとおり、いへ、それ以上のことが起こったことに恐れました。そして、もはや群衆の中の一人として隠れられないと考えたのでしょう。すべてをありのままに話したのです。
 するとどうでしょう。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」予想もできなかった、すばらしい祝福を受けたのです。この物語を読むだけでは、この女性は主イエスを、神の子として、救い主として信じたという告白がありません。そもそも、聖書が推奨する信仰、聖書が認めるような立派な信仰などないのではないでしょうか。まるで迷信、まるで聖人崇拝、お地蔵さんへの妄信に近いようなものでしかないのではないか。私どもの教会が志を立てて、学び始めております、ローマの信徒への手紙で明らかにされる、深い信仰の世界など、この女性のなかには、ないのではないでしょうか。それにもかかわらず、主イエスは、まるで、彼女に信仰があるかのように、認められるのです。これはいったいどういうことでしょうか。

 カルバンのように彼女の信仰から学ぶべきことなどないし、むしろ学んではならないとすら言い抜く方が正しいのではないでしょうか。そうです。カルバンは正しいのです。彼女の信仰から学ぶことなどないでしょう。しかし、唯一つ、この女性のひたすらな思い、悲しみ、嘆き、主イエスに対する望みを主イエスが受け止めてくださったのです。この決定的な事実があるのです。この主イエスの御業、これこそが、唯一、重要なのです。ここでの真の主人公はこの主イエスの御心なのであります。
 

 伝道新聞に記しました先ほどの姉妹の証のなかに、「お嬢様の病が癒されるように『神さま、仏さま』とひたすら祈らずにはおれませんでした。」とございます。そのときには、主イエス・キリストをご存じなかったのです。しかし、私は信じております。このときの叫びをも、主イエスが聴いておられたことを、であります。主が受け止めておられたのです。
 本日、初めて教会の礼拝式に出席された方も、教会には、本当に救いがあるのか、自分が今抱えている問題の解決があるのか、おそらく半信半疑でしょう。しかし、もしも、この主イエスの衣に触りたい、主イエスに救っていただきたいと、群衆の一人ではなく、これまでの群衆の世界から、この教会の中へ、つまり主イエス・キリストがおられる教会の礼拝式に出て来られるなら、-そして実に今、そのように出てこられたのです-そしてさらに、「主よ、憐れんでください」と、よりすがるなら、神は必ず、主イエス・キリストによって、その方の最大の問題を解決してくださるのです。

 それなら、最後にその最大の問題の解決とは何なのでしょうか。彼女は、この後、どのように暮らしたのでしょうか。病気は治っても、ゼロからの再出発ですから、楽な人生ではなかったのではないでしょうか。しかし、間違いないことは、彼女もまた、死んだはずです。しかし、彼女の心の中には、喜びと感謝が溢れていたのではないでしょうか。
 彼女は、「安心して行きなさい。」と主イエスに祝福されました。安心とは何でしょうか。それは、自分がヤイロであることを理解することであります。神に顧みられている、神の愛の御顔、愛のまなざしが常に自分に注がれていること、自分がどれほど、苦しく、悲しい状況に、死の谷を歩くような、暗黒の試練の状況を歩くときにも、この神が共におられることを知るところにあります。彼女は、今、ここから、安心して出発することができるのです。それは、一人の出発ではありません。主イエス・キリストとともに旅立つのです。信仰とは、この事実を認めることです。

 そして、この信仰とは、彼女がつくりだしたものではありません。そのような信仰はなかったことは、彼女の行動で明らか過ぎます。彼女がしたことは、癒されたことによって、かえって恐ろしくなって、震えながらひれ伏して、自分を正直にさらけ出しただけです。しかし正直に自分をさらけ出すこと、主イエスは、それを「悔改め」と認めてくださるのです。群衆の中に隠れるのではない。自分自身を、他のだれでもなく、このお方の前に震え慄いて差し出すのです。もとより、この彼女の真実は、神の前にも人の前にも、自慢できるものではないものです。しかし、彼女の丸ごとの真実を、主イエスがその御存在の中で、つまり神の御手のなかで、信仰に変えてくださるのです。真の信仰を与えてくださるのです。「安心して行きなさい。」この言葉を、聞き取れる新しい人間につくりかえていただいたのです。彼女は、この主の言葉を信じたはずです。「このお方が私とともに、歩いてくださる、病気にかからないで、元気に暮らしなさいと、祝福してくださる。わたしの12年間は、今、このお方に出会うことによって、新たな意味が生じた、決してただ悪い12年間ではなかったはずだ、なぜなら、今、このお方、救い主と共に出発できるから。」

 先ほどの証の言葉を記された一番新しくキリスト者になられたご婦人も、この礼拝式で、主イエス・キリストにお会いした方です。彼女はこのように記しておられます。「礼拝のたびに牧師から、「安心して行きなさい」と強く背中を押されて、いつも、神さまを第一に考えて、お祈りを捧げて、感謝を忘れずに、日々を生き生きと歩んでおります。」「安心して行きなさい」これは、この礼拝式の最後のプログラム、祝福のときに毎週、わたしが皆さまに告げる言葉であります。いへもはや、誰にも明らかであります。この言葉は、このときの主イエスの御言葉をわたしが口移しに皆さまに告げているのであります。名もなき女性への、主の祝福の宣言は、毎週毎週、ここで、私どもにも告げられるのです。あの名もなき姉妹も、私どもの会員となられた姉妹も、同じように、この主の祝福の御言葉を自分への祝福の御言葉として聴き取ったのです。それが、救いであります。それが信仰なのであります。
どうぞ、今朝、初めて礼拝式に出席してくださった方にも、この「安心して行きなさい」との主イエスの言葉を聴き取ってください。自分に語られた祝福として聴き取ってください。

祈祷
 大勢の人間、群集の中から、私の名前を呼び、ここに招いてくださいました、主イエス・キリストの父なる御神、今、ここで、生きておられる御子イエス・キリストが、聖書の御言葉を通して、出会っていてくださいます奇跡を心から感謝申し上げます。信仰についても、救いについても良く分からない私どもであります。しかし、ここにあなたがおられるゆえに、あなたのおられる教会におりますゆえに、私どもの救いは揺るぎません。願わくは、ここに集められた一人も漏れなく、私どもの罪を償い十字架について死んでくださり、お甦りくださった御子イエス・キリストがおられることを信じさせてください。安心して行きなさいとの祝福にあずからせてください。そのためにも、あなたの御衣に触る意欲、志を与え、強めてください。そして、あなたの哀れみによって、救いの確信へと導いて下さい。                アーメン