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「神の栄光を受ける唯一の道」

「神の栄光を受ける唯一の道」     
  2005年6月26日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章21~26節① 23・24節を中心に  

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 

 本日は、実に6週間ぶりに、ローマの信徒への手紙を学んで礼拝を捧げる私どもの通常の営みに戻ります。与えられたテキストからの説教は、今日は2回目となります。しかし、実は、私自身は、先週、多治見教会で、このテキストからの説教いたしました。その説教で、特に強調したことは、この箇所のはじめのことば、「ところが今や」でした。この言葉、この声には、これまでとてつもなく長い暗黒のトンネルの中を、しかも出口があるのかないのか分からないままにさまよい歩いている者が、いきなり真昼の光を浴びたときのような衝撃、「あぁ、助かった」という喜びと驚きが込められています。「あぁ助かった」という喜びの声は、単なる生命が救われたという以上の喜びです。天からの光、神の光を浴びたものだけが発することができる福音の喜びの声、魂の救いの声です。

そして、そこで私が、多治見教会の皆さんと一緒に問うたのは、この「ところが今や」という驚きと喜びの叫びを、たとえば、洗礼を受けたときだけの経験とか、生涯のある一時点だけのことではないはずでしょう、ということでした。わたしは、主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、この驚きと喜びは繰り返されるはずだと信じます。わたしは、使徒パウロは同じ福音を何度語っても、何度書いても、語り飽きなかったと信じます。書き飽かなかったはずです。同じことを何度語っても、「ところが今や」といつも新鮮であったと思います。いつでも、そしてとりわけ苦しみの谷を歩くようなときこそ、主イエス・キリストのお名前をお呼びすれば、暗黒のトンネルから一気に光のもとへ抜け出るような感覚を覚えたと思います。暗闇に突然、天から光が射してくるようなまばゆさを繰り返し、覚えたと思います。そして同時に、暗黒のなかにいたときには分からなかった、その光を浴びてはじめて映し出された自分自身の姿も見たはずです。そして、驚いたのではないでしょうか。それは、惨めな罪人としての姿ではなく、その罪が神の義に覆われ、受けた光を反射する、輝きを放つ自分の姿です。神に赦され、受け入れられ、愛されている自分の輝く姿です。

さて、私どもは、これまで第2章から第3章前半までの内容を丁寧に学んでまいりました。そこで知らされたのは、一言で申しますと、人間の罪の悲惨さでした。ユダヤ人としての誇り、つまり、自分は神を知っている、神に選ばれている、神の掟を生きていると考えていたのに、実際の自分は、律法を守っていないとう現実でした。自分たちは、「盗むな」「姦淫するな」と十戒を人にも教えておきながら、実のところ、それを行っていないという偽善者であることを知らされたのでした。そこでの議論の結論を言えば、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」とこの一言に尽きるでしょう。「正しいものは一人もいない、神を探し求める者は一人もいない、皆迷い、誰も彼も役に立たない者となった。善を行う者はいない、一人もいない。彼らののどは、開いた墓、」このような御言葉をもって、パウロは、読者を一人残らず、神の裁きの法廷の前に出廷させて、その罪を確定し、死と滅びの刑罰を宣告しました。「律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」これが、2章から3章20節までの結論なのです。それは、まさに暗黒のトンネルの中に閉じ込められているかのような悲惨な姿でした。いったい、このトンネルに出口があるのか。これほどまで、腐りきって、開いた墓、腐った鯛、ただ死臭しか発していない、神の御前で役に立たない者、死んでいる者、そのような人間が、そのような自分が、どうして救われることができるのか、これが使徒パウロ本人の深い問いであり、読者に問わせたいことなのです

 しかしここで、丁寧に申し上げなければなりません。ゆっくりと考えなければなりません。今、わたしは、トンネルとか、深い闇であるとか、神の律法は人間に罪の自覚しか生じさせないのだとか、人間は、完全に神の裁きの下にあるのだとか申しました。それが、パウロが語り続けた人間の真理、真実、あるがままの姿でした。それなら、いったいパウロはどこでそのような真実の自分を知ったのでしょうか。パウロは、いつどこで、人間とは、それほどまでに悲惨なもの、おぞましいもの、絶望的なものとなっていることを知ったのでしょうか。

 私どもの教会は、改革派教会と申します。日本キリスト改革派教会と申します。この教会は確かに小さな教会なのですが、しかし、もともと「改革教会」とは、これは、一つの小さな教派の名称というよりも、ローマ・カトリック教会を改革する運動として新しく造られた教会、いわゆる宗教改革によって誕生した御言葉によって改革された教会を意味するものです。世間では、プロテスタント教会、つまり抗議した教会と言う意味で用いられます。しかし、私どもは単に抗議したという消極的な立場ではなく、ローマ・カトリック教会を改革した教会、神の御言葉によって改革された教会という自負を持っております。ですから、自分たちのことはプロテスタントと標榜するよりむしろ、福音主義教会と標榜するこだわりを私自身は持っております。この福音主義教会、あるいは改革教会の改革の端緒を開いたのは、言うまでもなくあのマルチン・ルターでありました。前置きが長くなりましたが、彼は、ローマ・カトリック教会の神学者であり、修道僧でした。当時の彼にとって、神の律法とは、まさに、パウロがここで明らかにした「律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないのです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです。」という律法の理解を持っておりました。この理解、この御言葉をそれこそ全身で受け止めていました。ですからルターにとって、神さまとは、怒れる神、罪深い自分を断罪する神でしかありませんでした。彼は、自分の信仰生活、自分の全存在が、神の律法の前に立ちおおせないものでしかないことに対して、自分をもてあまし、悩みぬいていたのです。あまりに悩みが深かったので、修道院長シュタウピッツは、彼に牧会的な指導をしました。「あなたは自分自身ではなく、神を見上げなさい。あなたの内側を覗き込むのではなく、目を外に、神に向けなさい」これは、実に的確な、すばらしい指導であります。シュタウピッツは、まさに修道院長として適切にルターの魂を看取っていたのです。私どもも決して忘れてはならない真理の言葉です。ところが、それで問題は解決できませんでした。なぜなら、ルターにとって、見上げている、見つめるべき、その神御自身のみ顔が恐ろしかったからです。見上げるべき神が、憤りのみ顔としか見えなかったからです。このパウロのおそるべき魂の苦悩にこそ、実は、宗教改革の発端、力がありました。

 ところがそれに対して、使徒パウロは、主イエス・キリストにお会いする前には、このようなルターの悩みを一切知りませんでした。むしろ、彼は、神を見上げれば見上げるほど、自分が神の前に熱心に、律法を厳格に守っているとの自負が高まるのです。その行き着く先は、この律法を踏みにじるユダヤ人に対する敵意と憎悪でした。その敵意と憎悪が、キリスト者に向かったのです。キリスト者は、この神の教えに公然と背く、異端者と考えていたからです。ところが、パウロは、突然、真の神に出会うのです。それは、まさに突然でした。使徒言行録には、このパウロの突然の神との出会い、復活された主イエス・キリストとの出会いが実に3回も記されています。一つの書物に、パウロの主イエス・キリストとの出会いの物語が3回も記されているということは、それだけで、強烈なメッセージとなっていると思います。とにかく、パウロは、自分がしていることに自信と誇りを抱いていたのです。自分がキリスト者と教会を迫害していること、はたしてそれは、神に喜ばれることなのかという疑いを抱いていなかったのです。

彼は、ダマスコの村にキリスト者であれば、だれでも捕まえるのだとの使命感と切迫感に駆られて、馬を走らせていたのです。ところが、そのような彼に、突然、天から光が射しこんだのです。彼の周りを照らしたのです。彼は地に倒れ、「サウル、サウル、何故わたしを迫害するのか」との声を聴きました。「主よ、あなたはどなたですか。」というと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」この復活の主イエスのみ声を聴いたのです。
 この突然の出会い、この突然の天から射し込まれた光が、このローマの信徒への手紙全体を規定しています。サウルから使徒パウロへとつくりかえ、彼をして、この偉大なローマの信徒への手紙を生み出すことになったのです。「ところが今や」これは、この突然の復活の主イエス・キリストの現れ、彼の側から申しますと、一方的な主イエスとの出会い、お甦りになられた主イエスが一方的に彼に出会ってくださったのです。

 それは、パウロの偉さとか、パウロの優秀さとか、パウロが神の律法に励んで、熱心に、神に生きていたからではないのです。言うなればむしろその正反対でしかなかったのです。彼は神の敵となり、主イエスを迫害していたに過ぎなかったのです。パウロがしていることはまさに神に敵対する行為の絶頂であります。

それなら迫害されている御子イエス・キリストは、彼に、刑罰をもって報いられたのでしょうか。そうではありませんでした。彼は、反対に罪の悔改めに導かれ、主イエス・キリストに対する信仰へと導いていただいたのです。彼は、一方的に赦され、受け入れられ、神の贖いによって、神の栄光の器として用いられるのです。そのとき、主イエスはこのように預言されました。「あなたは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」「闇から光へ」と仰せになりました。赦して神の使命に生きるように新しい働きをも与えられました。彼自身、闇の中にいたのです。それまでは、自分が神の敵であり、暗黒の中に生きていたことに気づいていませんでした。しかし、「ところが今」、それに気づかせていただいたのです。

わたしは、この点だけを取り上げるなら、まるで我々日本人と同じではないかとすら思うのです。ルターは、神の御前で、自分の罪に悩みぬいて、途方にくれていたのです。日本人のなかでこのように深い宗教的次元で悩む人はまれです。親鸞や法然などの仏教の一部には、この深い次元が語られていますが、多くの人々は、自分の罪に苦しんでいるわけではありません。その点だけに限定すれば、パウロもまた同じであったのです。しかしそのような、まさに神のみ前に罪人になりきっていた男に、突然、天からの光、命の光を彼は浴びたのです。実に、そのような彼に現れてくださった主イエス御自身、その御姿、それこそが、ここで、パウロが心から説こうとした福音そのもの、その内容の一切といっても過言ではありません。そして、この神の御業を彼は一言でこのように表現致しました。「神の恵み」であります。そしてそれをさらにはっきりと響かせるために用いた言葉が「無償」という言葉でした。

  23節の御言葉を聴きましょう。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」これは、これまでに、徹底的に、明らかにされた真理でした。誰一人として、神の栄光を受けられない、神の栄光を浴びることができない、その意味では、22節の最後の言葉にあるとおり、「そこには何の差別もありません。」なのです。神の栄光を受けることができない人間、神の御前に罪人であるということにおいて、人類には、何の差別もないのです。いわば、人間は罪人であるということにおいて平等なのです。人間が神の裁きを受けることは、当然過ぎるほど当然のことなのだ、神に捨てられ、滅ぼされることは、むしろ、人間にとってまったく、100パーセント当然の報いなのだとパウロは、これまで丁寧に議論したのです。

ところが、ここで、「そこには何の差別もありません。」と断言したのは、神に裁かれることにおいて何の差別もないというのではないのです。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」について言われているのです。つまり、神が私どもを、救われることにおいても何の差別もないと言うのです。

なんと言うことでしょうか。パウロは、ここで、一切の議論を飛び越えて、断言するのです。いきなり、「ところが今や」と、主イエス・キリストにおいて明らかにされた、天が開かれた福音を告げるのです。それは、まるで、自分がいきなり、突然ダマスコに行く道で、天からの光を浴びたことと似ています。
何故、神は差別なく、誰でも主イエス・キリストを信じれば救われる、神の栄光を受けられる、神の義を受けられると言うのでしょうか。なぜ、一切の議論、理由を説明することなしに、言うのでしょうか。それは、その理由は、ただ、神さまの側にだけあるからです。

しかし、パウロの任務、使命とは、この理由を神に教えられた者として、それをできうる限り指し示すことでした。彼は、神の理由を明らかにするのです。それは、この凝縮した一言に尽きるのです。「神の恵み」。「私どもの側には恵まれるだけの値などまったくないのだ、それは、まさに神の恵みによって施されるものであって、我々はただ、受け取る以外にないのだ」というのです。この恵みをくっきりと際立たせる言葉が、「無償」ということです。恵みと無償、無料ということはほとんど同じ意味です。有料の恵み、有償の恵みというのは、ありません。成り立ちません。恵みとは、一方的なものなのです。受ける側に理由はありません。突然のものなのです。なぜなら、神さまの側でのご決断のみによるものだからです。そしてそれが、「今や」、明らかにされたのです。

丁寧に議論するために、繰り返しますが、厳密に申しますとこれまでも神は恵みの神でした。旧約聖書に証された神と新約聖書の神さまは同じ神です。旧約聖書においても、信じることこそ、神の御前に立つ唯一の道でした。しかし、今や、この真理が鮮やかになったのです。神を知っていたはずのパウロが、主イエス・キリストを知ったことによって今までの信仰は間違いであったと気づいたのです。これまでの神理解は間違いであったと諭されたのです。どんなにうれしい諭しでしょう。どれほど、感謝して諭されたことでしょう。自分の間違いを認めること、悔改めることがどんなにうれしかったことでしょう。それは、間違った生き方、間違った人生を、この主イエス・キリストのおかげで、やり直せるからです。いややり直すどころではありません。もう今ここで、すでに、神の栄光を浴び始めているのです。神の義を今ここで受けたのです。だから、パウロは、驚き、興奮しているのです。主イエス・キリストを知ったこと、信じたことによって、神の栄光を受けている自分を発見しているからです。

 
しかし、そこでパウロは決して忘れることができないことを書き記します。確かに、この神の栄光は、私どもの側から見れば、無償で、ただ主イエス・キリストを信じるだけで与えられたものであります。しかし、その背後には、イエス・キリストが贖いの業を成し遂げられた事実が聳え立っているのであります。私どもは、無償で神の栄光を受けることができるようになったのですが、神の側では、恐るべき、犠牲が支払われているのであります。計算不能の代価、つまり、その独り子イエス・キリストの命、全存在をもって贖いの代価としてくださったのです。無償の恵みの背後には、このお金で償えない神の御子の命の金額、命の代価が支払われているのです。神の栄光を受けるために、この救いの道を神が開いてくださいました。この無償の恵みは、イエス・キリストの代価によるものですから、神の栄光を受ける道は、ただイエス・キリストを信じる以外にはないのであります。

 さて、最後にあらためて、「ところが今や」と書き始めるときのパウロの新鮮な喜びと驚きとが、今朝、私どものものとなっているのかという問いを問い直しましょう。言い換えれば、私どもは、パウロが突然浴びたこの光、命の光を今朝、浴びているのかということです。誰しもこのように思うことは良くわかります。「パウロ先生は、特別だ。」その通り、特別です。使徒なのですから、誰も、パウロの代わりになりうる人はおりません。使徒たちとは、ただこの人たちしか担うことのできない歴史の中でただ一度きりの、特別の使命を帯びた神の人たちです。つまり、復活のキリストの目撃証人です。このお方から、神の御言葉を直に聴いて、人々に告げる人です。神は彼らを聖書の著者と選ばれ、用いられました。それが使徒です。ですから、私どもとは違います。それなら、やはり、私どもは、彼らのようには、神の栄光を鮮やかに、決定的に浴びて神の栄光を受けられないと嘆くのは正しいことでしょうか。いいえ、違います。私どもは、嘆く必要はありません。わたしどももまた、神の栄光を受けているのです。それが、この場所であります。2005年6月26日という今朝のこの一回限りの礼拝式のなかで、この一回限りの説教を聴くことを通して、永遠の神は、私どもに御自身の栄光を現し、御自身の栄光を与えていてくださるのです。それは、毎週、私ども教会の信仰を言い表しているニカヤ信条における「光よりの光」と言うキリスト賛美を思い出していただきたいのです。私どもは、ここで、この復活されて天に座しているお方を仰ぎ見ます。そこから、この光が射し込んでいる、御自身の記された聖書の言葉とその朗読、そして何よりもその説教を通して、ここに神の栄光が射し込んでいるのです。この御言葉を信じて聴いていれば、神の栄光を受けていることは間違いありません。だから、信仰は、常に新鮮になるのです。逆にもしも、この一回の礼拝式を怠ればどれほど、もったいないことになるのかと思います。あるいは、ここにいながら、神の御言葉に聴き入り、そのようにして光を受け損なえば、どれほど、もったいないことになるかと思います。

私ども改革教会に生きる者のモットー、人生の目的は、「Soli Deo Gloria !、ただ神の栄光のために」と言い継がれてまいりました。その通りであります。しかし、それは、私どもが日常生活で、どれほど、すばらしい仕事をして、どれほど立派な生活ぶりに励んでも、なしえないことです。そのような企てなら、かつての血気盛んな迫害者サウロと同じです。彼は、あの当時、神の栄光のために生きている自信と自負にあふれていました。しかし、それは、結局、人間の栄光にしかすぎません。

私ども日本キリスト改革派教会は、一つ善き生活をもって、ここに神の教会を建て上げることを、創立宣言で歌い上げました。私どもの熱心は、善き生活に生きることにあります。しかし、今年、「創立20周年宣言」で学んだ通り、善き生活は、主の日の礼拝式において真の礼拝を捧げることなしに、実現することはできません。むしろ、この日々の善き生活、社会生活を支えるのは、ここで、今日一回限りの礼拝式を真実に捧げることによってこそ担われるのです。また、私どもが捧げる礼拝式にまさって、神の栄光を現すとき、場所はないのです。

今、ここで、主イエス・キリストを通して光り輝く神の栄光が、私どもに射し込んで参ります。ですから、「ところが今や」と、私どもも新鮮な驚きをもって、この朝、賛美するのです。なぜなら、神に背いたゆえに、骨の髄まで罪人になってしまった私ども、完全に神に裁かれる以外に可能性のない私どもが、今ここで、主イエス・キリストの福音を聴かされているからです。そのようにして、主イエス・キリストの恵みを受けているからです。主イエス・キリストの真実によって、主イエス・キリストを信じることによって、神の義をまとわされ、罪の赦しにあずかっているからです。これこそ、私どもの光栄であります。私どもは、このようにして既に栄光を受け始めているのです。

 罪人である私ども、あるがままで赦されたからこそ私どもは、善き生活に励みます。そのために、努力します。もとより、人間の努力によってでは、神の御前には何の善き業、善き実を結ぶことができないことは、よく弁えております。しかし、私どもは、努力することを求められています。この努力は、神の恵みに押し迫られてなす努力です。この努力によって、私どもはキリスト者として、豊かにされて行くのです。そして、それは、自分のための努力ではなくして、隣人のための努力なのです。人々の祝福につながる、実を結ぶことができるからです。それがつまるところ、神を愛すること、そして人を愛することなのです。 

祈祷
 私どもに神の御顔の光もって照らし、私どもを光の子としてくださいました主イエス・キリストの父なる御神、あなたの栄光を今、ここで受けることが赦されていますことを心から感謝申し上げます。これは驚くべきことです。私どもの内側には、救われる理由がありません。むしろ裁かれる理由は山済みです。しかし、あなたは御子を贖いの代価として、私どもを無償で、無代価で、贖ってくださいました。私どもは、食べるにしろ飲むにしろ、あなたの栄光を現すために生きるものと変えらました。隣人の祝福、救いのためです。どうぞ、この歩みへと堅く保ち、歩ませてください。そのためにも、私どもの毎週の礼拝生活を豊かに祝福してください。御顔の光をもって私どもを照らして下さい。