★ 恒例の夏のキャンプも、大きな事故もなく、祝福のうちに帰って参りました。お祈り、何よりもご奉仕に心から感謝申し上げます。思えば、1998年から始まったキャンプも、8回目になったわけです。一回一回、思いで深いキャンプですが、今回も40名あまりのキャンパーたちが与えられ、奉仕者はフル回転で、そのご奉仕に頭が下がりました。
家内とも話し合いましたが、名古屋岩の上伝道所の子どもたちはよく「できている」ということです。たとえば、食堂のなかお手伝い、担当奉仕を皆、いやがらず率先してしてくれました。お話しもきちんと集中して聞いてくれました。先生たちに きつく叱られた子ども達、怒られた子どもたちはいなかったのではないかと思います。
主題であった、モーセの物語、十戒がどれほど、心深く届いたのかどうか、霊的な意味では、キャンプのすばらしさはすぐに現れないかもしれません。しかし、楽しいキャンプであったことだけは確かであると思います。教師のご奉仕、会員のご奉仕、何よりもご主人方のご奉仕に記して心から御礼申し上げます。
☆ キリスト教書の書評誌である「本のひろば」があります。毎月、読みながら、「ああ、これは買って読まなければ、ああ、これは、絶対今のうち買っておかなければ、絶版になる・・・」という感想を持ちつつ、せめて、新刊の内容がどのようなものであるのかを丁寧に読みます。これは、先の説教塾でも御一緒であった、伊勢市山田教会の牧師、井ノ川先生の「ヨハネによる福音書」(加藤常昭著)の書評からです。井ノ川先生は、徹底した加藤先生のお弟子さんです。本当に独りの教師を尊敬し、見習おうとすると、すばらしい器になるのだと言うことの実例のような牧師です。
「鎌倉雪ノ下教会での加藤牧師の礼拝説教において、教会で起きた出来事が一つひとつ丁寧に語られる。それは、説教において紹介されないものはないと言ってもよい。何よりも教会員の死。このヨハネによる福音書の紅海説教中にも、共に礼拝を捧げ、教会生活を送ってきた幾人もの教会員を失っている。四日で三名のもの教会員の死を経験されている。また、教会員の令息の自殺。そして牧師の交代の問題。さらには会議室の入り口で脱いだ靴が乱雑であったため、さゆり伝道師(奥様)転んで骨折されたこと。中高科の夏期学校で毛布の扱い方が悪く、管理人から注意を受けたこと。靴の並べ方、毛布の扱い方一つにも、ヨハネによる福音書が語る「信仰のわざ」が証されていると語られる。~加藤牧師は説教のなかでこそ採り上げ、御言葉の光の中でそれらの出来事を牧会的に、魂への配慮をしつつ丁寧に解き明かされるのである。「牧会する説教」は、何より、罪の悔改めの出来事を起こす説教である。「独り子をお与えになったほどに、この世を愛された」神の愛、神の独り子を十字架につけて殺す私どもの罪の闇が鋭く説かれると共に、「この上なく愛し抜かれた」主イエスの十字架と甦りの愛が、闇である私ども罪人を甦りの光の中で主イエスを愛する者へとつくりかえてくださる福音が説かれる。甦りの主から託された「罪の赦し」の権威が説教においてこそ、具体化し、礼拝という場こそが告解室になるという出来事が起こる。このような全権的説教こそが、今日の教会を再生させる力となることを、加藤先生は実際の説教を通して証されるのである。」
「牧会的説教」加藤先生の説教はまさに上記の通りのものです。また、「礼拝という場こそが『告解室』(カトリック教会では、年に最低一度、司祭に告解(具体的な罪の告白をし、赦しを頂かなければならないことが【教会法】によって定められています。)になる」これが実現するなら、どれほどすばらしい説教となることでしょう。しかし、「罪の赦しの権威が説教においてこそ具体化・・・」とは、どの説教者にとっても目指すべき目標であり、果たさなければならない務めです。お祈りください。
★ 今年の夏季休暇の「奨励」奉仕を、どこかの長老にお願いするか、先ず○○委員が挑戦していただくか、先の伝道所委員会で話あわれました。先週の朝の祈祷会の前、時期も時期になってまいりましたので、今回は、わたしの説教原稿を渡辺委員に朗読していただく形で・・・と申し上げようとしました。ところが、○○委員は、すでに準備を始めておられるとのこと!急遽、教会学校教案誌に連載中の説教作成に関する次号の分の原稿を印刷して、差し上げました。○○委員にとって、初めてのこと。おそらく何度か原稿を書き改めて頂くことになるでしょう・・・。(これはそれだけでも一つの試練でしょう・・・)どうぞ、「奨励」が神の言葉の「説教」として聴き取られるために、祈りに覚えてください!8月14日です。