過去の投稿2005年7月24日

「救われる場所」

救われる場所」
       2005年7月24日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章21~26節③ 25節aを中心に  

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 

 今、朝と夕べの祈祷会では、「教会」という書物によって、教会について学びを続けております。教会とは何か。教会に生きるとはいかなることなのか。これは、洗礼を受け、教会員となった者たちにとって当然弁え知っておかなければならない、ごく基本的な知識です。何年か教会生活をしていたら、言わば自動的に分かってくるというのではなく、今回のように、きちんと整理して学びなおすことがとても大切です。

 先々週、あらためて「教会の外に救いはない。」という言葉を学びました。先週は、「イエス・キリストの御名の他に救いはない」と学びました。唯一の真理なる、唯一の神としてのキリストという信仰告白を有する教会のみが、真実にキリストの教会となりえることを確認しました。教会が、そのように救いにとって決定的な重みを持つこと、しかも教会とは他ならない洗礼を受け、キリストの霊を宿している私どものことである、私ども一人ひとりの交わりであることを思いますとき、大きな責任感、厳粛な思いになります。

 教会は、この時代、この世界にむかって、神の救いをもたらすための拠点です。ここに救いがあると、教会は、指し示さなければならないわけです。しかし、そこで教会自らが誤解してはならないことがある。教会を構成している信徒一人ひとりが、立派であり、完璧な人間たちであるから、教会に救いがあるということではないということです。教会に生きる者たちは、なお罪人であることは変わりありません。洗礼の礼典にあずかって教会に入会したなら、罪人であることを止めた、罪人としての実質がまったくなくなったということはありえません。そのことは、洗礼入会準備の学びのときに、繰り返して学ぶところの基本の教理です。洗礼入会式で、赦された罪人としての新しい人生が始まるのです。神の子として、神の愛を受け、この愛に応えて生きる新しい生涯が始まります。始まったわけで、完成しているわけではありません。つまりなお、現実の教会は、罪と弱さのなかにおかれたままでもあるのです。これが、教会の現実の姿に他なりませんから、それをあえて隠す必要もありません。何よりも自分をそうでないものであるかのように、見誤ってはならないのです。
それなら、いよいよ「教会の外に救いはない。」と言い切ることには、躊躇が伴わないでしょうか。何よりも、そのような教会の外に生きている方々から激しい反発を受けることを当然予想されるようなテーゼを、何故、教会は今日も継承し、これを繰り返して発言するのでしょうか。それは、世界の中で、唯一の救いであられる主イエス・キリストが臨在しておられるからです。教会には、主イエスさまの御名があるからです。イエスとは、「ご自分の民を罪から救う」という意味を持つ御名です。救いという意味の御名がイエスさまに込められています。この主イエス・キリストが教会におられる限り、教会に救いがあるのです。キリスト者、教会員の務めとは、このキリストがともにおられること、キリストがこの礼拝式に臨在しておられることをどのようにして鮮やかに証することができるのか、そのことに集中的に表れます。教会に救いがあること、教会こそ人類が救われる場所であること、これをどれだけ確信して、それだけに、事実、教会へと人々を招きいれることに励めるか、これは私どもに神から与えられた重大な責任であります。

 今、いよいよ夏本番を向けました。私どもはここに集まってまいりました。私どもは、暑かろうが寒かろうが、集まることを止めないのです。昨年の夏、わたしは、休暇をいただいて、久しぶりに鎌倉雪ノ下教会の礼拝式に出席させていただきました。礼拝開始は、おそらく10時30分、はやくても15分くらいであろうと思いましたので、10時には、教会に着けるように出かけましたが、実は、8月は、夏時間で、冷房のない会堂の暑さ対策なのでしょう、9時に礼拝式が始まるのを知りませんでした。説教の途中で、バルコニーの席の片隅に小さくなって座りました。自分の責任がない教会ですから、求道者のように、まさに旅人として小さく座っておりました。わたしは現住陪餐会員ではない。ですから、わたしの礼拝への参与は、鎌倉の教会員とは、やはり、まったく別のものであろうと思わざるを得ませんでした。責任がない。それは、礼拝をつくる責任です。この雪ノ下教会を建て上げる責任は私どもにはまったくないのです。そのようなキリスト者が、旅先で、礼拝を捧げるとき、それは、おかしな表現でありますが、礼拝を「受ける」ような感覚です。これは、今日のような礼拝を捧げる感覚とは異質のものでした。

 先週は、多くの奉仕者の準備と当日の奉仕によって、日曜学校のキャンプが恵みのうちに行われました。子どもたちに、十戒について教えることが主題となりました。そして、十戒を最初に受けた神の民の指導者モーセについても学びました。雀のお宿の庭で、シーツを木と木の間につるして見事な野外映画館が出現しました。そこで、映画「十戒」を観ました。モーセが杖を天に挙げ、海に命じると葦の海、紅海の水が真っ二つに分かれました。神がなしてくださった驚くべき奇跡でした。イスラエルは、海の底を歩いてエジプトを脱出することができたわけです。しかし、その後、このイスラエルは、たちまちのうちに不信仰に転落しました。そして、モーセに不平を言い、モーセに食って掛かったのです。「我々をエジプトから連れてきたのは、我々をここで飢え死にさせるためであったのか。食べ物も飲み水にも事欠いて、こんなひどい目にあうくらいない、エジプトの奴隷であった方がよかった。あそこでは厳しい労働はあったが、おいしい肉なべが食べられたではないか。神を信じて、従って行っても、苦しいことばかりであれば、何も、着いて来るのではなかった。話しが違う」こう言ったのです。これは、驚くべき不信仰、罪ではないでしょうか。しかもこれほどまでに、これ以上望めないように、天地の創造者としての、主権者としての神の全能の力の発露である、奇跡を目の当たりにさせていただいたイスラエルが、不信仰な言葉をはいたのです。モーセをなじったのは、神へのつぶやき以外の何ものでもなかったのです。
 
 ここにも、ローマの信徒への手紙第1章18節から3章20節までの、パウロの議論を思い起こさせられます。パウロはここで徹底して人間の罪について、とりわけユダヤ人の罪について糾弾したわけです。
 しかし、神は、ユダヤ人、神御自身の選びの民に十戒を与えてくださいました。それは、神の民が、不信仰になり、神につぶやいて、神のご支配の外に迷い出てしまわないようにと言うことでした。子どもたちには、自由の道しるべとして、つり橋の欄干、橋の左右にある手すりのような機能を果たすのだとキャンプでお話ししました。欄干がない橋、狭い橋を、急流な川の上を、はるかに高い谷の底を歩いて渡らなければならないのであれば、普通は、恐ろしくて前に進めません。しかしながら、左右にしっかりとした手すり、欄干があれば、進んで行ける、それが十戒の作用なのだとお話ししたのです。
しかし、なお問題が残ります。なぜなら、それでもなお、我々は現実に罪を犯してしまうからです。具体的に、失敗することがあるのです。そうであれば、神から十戒をあたえていただいただけでは、どうしてなお安心して、心からの喜びと平安をもって、神へと至る道、人生の道、信仰の道を歩めるでしょうか。
 
 
 実は、キャンプでは触れられませんでしたが、神は、出エジプト記において、十戒をお与えくださったと同時に、もう一つの重大な救いの道についても、教え示してくださいました。
それは、預言者モーセに神の幕屋を建設するようにとお命じになられたことであります。幕屋とは、神を礼拝するための礼拝所のことなのです。荒れ野の旅路は、もちろん、定住の地ではありません。神の民イスラエルは、礼拝するための言わば移動式神殿、テントのような神殿を建設するように命じられました。それを幕屋と申します。その幕屋のなかには、聖所と至聖所が分けられていました。その至聖所には、契約の箱と呼ばれる箱が安置されました。この箱の中にこそ、十戒を記した石の板も収められました。さらに、その箱の蓋の上に、ケルビムという天使がつけられました。そして神がお立てになられた大祭司が、その契約の箱の蓋の上に犠牲の動物の血を七たび注ぐのです。それによって民の罪の赦しを祈るわけです。年に一度の贖いの祭りと申します。この動物を犠牲にして、神に赦しを求め、赦しが実現するためには、この契約の箱の蓋という贖いの場所が必要でした。その場所以外では、神への贖いの祭りは成り立たないのです。しかし、十戒を与えられた民は、その十戒を生きることができない以上、この贖いの儀式がどうしても必要となりました。そして、この贖いの儀式によって、イスラエルの心には、動かぬ平安も与えられたのです。なお、安心して生きて行ける道が更新されたのです。約束の地を目指して、心新たに、旅を進めることができたのです。

 今朝、集中的に説いてまいります第25節には、「罪を償う供え物」との御言葉があります。もともとの言葉は、ヒラステーリオンと申します。直訳すれば贖罪所となります。この贖罪所という用語は、まさに、神が定められた幕屋の中、しかもその至聖所の中に安置されていた契約の石の板をおさめていた契約の箱の上蓋を意味するものです。特別の用語なのです。この契約の箱の蓋の上に、動物の犠牲の血が注ぎかけられる、そこで初めて、民の罪の償いが成し遂げられるのです。先ほども申しましたが、それ以外の場所で、動物を殺してみても、たとえそれで礼拝を捧げたとしても、罪の償いにはなりません。神に立てられた大祭司が、神の言葉に則って犠牲の血をこの契約の箱の蓋の上に注がなければならないのです。

 この幕屋の中に、罪を償う場所、贖いの場所、契約の箱が安置されている至聖所の中に、大祭司は、罪人であるイスラエルの代表として入ります。そして彼らの罪を神に赦して頂くことを願って、神に教えられて通りの仕方をもって、動物の血をその場所に降り注ぐのです。動物を殺すわけです。
私などは、そのような経験はまったくないのですが、ある先輩の牧師から、このようなことを伺いました。お客さんが来られたときの夕食のお話です。鶏のお肉がともされるのだそうです。めったにお肉が食べられないので、その鶏肉はとてもおいしいのだそうです。しかし、幼心に、この鶏は、たった先ほどまで、庭先で元気に歩いていた大切に飼っていた鶏であることを知っているのです。かわいそうだと思いつつ、しかし、おいしいお肉であるのです。食べるということはそのような厳粛なことであると仰るわけです。動物を食べるのは、動物に死を求めてだけ、実現できるわけです。現代の私どもはその感覚を持つことができにくいと思います。しかし、事実としては、昔も今も変りませんし、先輩の方々より、なお手軽に、お肉をおいしく食べているのです。
私どもの罪が贖われる、償われるためには、動物の血を流すことが求められるのです。聖書は血は命であると申します。つまり、血を注ぐとは、命を犠牲にするということ以外の何ものでもないのです。

今朝、私どもの中で、動物を携えてここに来た者は誰一人おりません。どうして動物を携えなくてここに来れたのでしょうか。罪を犯していないからでしょうか。そうではありません。
 かつて大祭司は、イスラエルの罪を償うために、いわば神の民に、懇願されて、至聖所に入り、償いの供え物として動物を捧げました。しかし、神は、私どもがお願いしたわけではないのに、御自ら一方的に、いけにえをご準備くださったのでした。神御自身が、私どもと御自身との間に義を確立し、その破れてしまった関係を繕い、失ってしまった関係を正し、元通りの正常な関係へと修復するために、率先していけにえを備えてくださったのです。しかも、そのいけにえとは、動物ではありません。御自身の御子そのものでした。御子キリストのお命です。その御血をもって神御自身が償ってくださったのでした。
「神はこのキリストを立て」と25節冒頭にあります。神御自身がキリストを立てて下さったのです。言葉を変えればキリストをお遣わしになられたのです。贖いの供え物として遣わされたのです。さらに、丁寧に申すなら、キリストを御自身のみ前に立たせられたのです。そのようにして、私どもの償いの場所を御自身の目の前に設置し、御自身の目の前で償いを成し遂げられたのです。その場所で、御血が流されたことは、神御自身が不信仰な私どもを断罪なさるのではなく、その刑罰を御自身の御子においてお引き受けくださったことを意味します。この御子の流された御血、捧げられたお命によって、神の怒りは、すでに十字架の上でことごとく実現してしまったのです。
 このように償いの御業は、神が始めてくださり、神が行ってくださり、神が完成してくださったのです。今や、神は、このキリストを通して私どもを見ていてくださる、これが、ここで起こっている礼拝の現実なのです。ですから私どもも安んじて神のみ前に今、このように立つことができるのです。
 そのために必要とされていることは唯一つのことあるのみです。それは、信じることです。この神の成し遂げられた御業を受け入れることだけです。信じることによって、私どもはキリストの背後に立つのです。そのようにして、神のみ前に立つのです。神は、御自身のみ前にキリストを見ておられます。贖いの供え物としてみておられます。そして神は、御子を通してのみ私どもを見ていてくださるのです。それゆえに、礼拝が成り立つのです。

 この礼拝堂のなかに、至聖所はありません。しかし、誰しもよくわかるように、三つの礼拝堂の家具が礼拝堂の中心に設置されています。そして、聖壇とよばれる部分だけ、木の床ではなく、テラコッタを敷きました。ほとんどの教会は、その部分だけ、数十センチ高くしております。それは、礼拝式のために特別に重要な場所であることを示すためであります。ここにもっとも大きく設置しているのは、聖餐卓です。本日は、ここで聖餐の礼典を祝うことはありませんが、常に、ほぼ中心の部分に置き続けるのです。

 聖餐の礼典を説明する際に、しばしばあの出エジプトにおける過ぎ越しの祭りから始めます。神が子羊の血を鴨居に塗っている家だけは、神の怒りが過ぎこした出来事です。それを毎年祝うのは、ユダヤ人のもっとも大切なお祭りです。私どもの聖餐は、確かに、この過ぎ越しの祭りに起源を持ちます。
しかし、同時に、この聖餐の食卓が祝われるときには、ぶどうジュースとパンを起きます。ぶどうジュースは、キリストの御血を意味するものです。この聖餐は、あの十字架の上で流された御血を思い起こさせられるものです。昔、大祭司は、ヒラステーリオン、契約の箱の蓋の上に動物の血を振り掛けて贖罪の業としました。今日、神御自身が備えてくださいました。御子キリストの御業を記念するために、聖餐の食卓は聖別されています。礼拝堂のなかでも、この聖餐の食卓こそは、その意味で、聖なる家具であり、そのもっとも聖なる御業に用いられる道具なのです。

 今日は聖餐を祝いません。しかし、私どもは、ここで説教を聴きながら、思い起こします。教会以外に救いはない。教会こそ、私どもの救われる場所。なぜなら、ここには、キリストが臨在しておられるからです。キリストがその御言葉と御霊とによって、おられるゆえに、私どもは、神のみ前に出られるのです。神のみ前に出て安んじることができるのです。

 この聖餐のテーブルを見ながら、私どもは、キリストを思い見ます。その意味では、このテーブルそのものが神聖なわけではないのです。しかし、このテーブルによって、私どもは、キリストご自身こそ、ヒラステーリオン、贖いの場所、贖いの御業が成就した場所であることを知るのです。しかも、キリスト御自身こそ、罪を償う供え物、贖いの代価です。しかも、キリスト御自身こそ、永遠の大祭司であり、私ども罪人のために、祭司としての御業を成就してくださいました。

 神の幕屋は移動式でした。今、名古屋岩の上伝道所には、既に土地が与えられ、礼拝堂が備えられました。確かに固定した場所を持っています。しかし本質的には、なお移動するのです。神の幕屋は約束の地まで、持ち運ばれました。契約の箱は、ヨルダンの川を越えて、約束の地まで行きました。私どもは、今、ともに天国を目指した歩みの途上です。この旅をする神の民の祈りの家は、動くのです。旅をし続けるのです。

 そして、この天国を目指した確かな旅の途上で、主イエス・キリストこそは、私どもの救いの場所です。この場所から離れては、わたしどもの 旅路は進みません。目的地を見失い、目的地にたどりつけません。しかし、この場所にとどまるなら、神は常に私どもの義なる神でい続けてくださいます。私どもの罪は赦されていることを知るのです。これから赦されるのではないのです。既に赦されていることを知るのです。どのようにして知るのでしょうか。それは、信じることです。信じることによって、この恵みにあずかるのです。信じるとはこの恵みを受け入れることです。

 贖いの場所、赦しの場所、それは主イエス・キリスト御自身です。このイエス・キリストを信じることによってのみ、私どもは自分が神の祝福にあずかっていることを知らされるのです。私どもの生活がなぜ揺るぎないものとなるのか、それは、決して、自分の生活が経済的に安定しているからとか、自分の肉体が健やかであるからとか、自分の精神状況が調子がよいからとか、自分の周りの人々が思い通り進んでいるからということではありません。もはやそのようには自分を計りません。判断できません。そうではなく、キリストの御血が私のために注がれたことを知っている、その祝福の確かさに基づき、自分自身を新しく知ったのです。

 今朝この礼拝堂に入って、あらためて、自分が誰であるかを知るのです。自分が、どこにいるのかを知るのです。私どもは、キリスト者です。キリストの贖いを受けてキリストの名をもって呼ばれる者、神のものとされた者です。私どもは、あがないの場所にいて、神のみ前に立っているのです。

 それでも自分の良心が、なお自分を責め立ててくるかもしれません。お前は、何年もキリストの恵みのなかにいるのに、成長しない。弱さのままではないか。それでもなお、私どもは、立つのです。立てるのです。それは、自分の信仰を立て直すことができたから、ここに来れたのではないからです。自分の生活ぶりを立て直してから、神さまに会わせる顔を作ってからここに来れたわけではないことを知っているからです。こここそが、ヒラステーリオン、贖いの場所、罪赦される場所であることをただ信じているからです。ここには、罪の償いの供え物となられたお方がおられることを信じているからです。

 神御自身が、私どもの名古屋岩の上教会のこの礼拝式を、御自身の贖いの場所としてくださいます。キリストがその御言葉によって、聖霊を通してここにご臨在くださるからです。そこで、私どもにもっとも問われることはこの一つのことです。一人ひとりが自分の罪を悔改めるということです。牧師はもちろん、その一人ひとりの罪の告白に、個別に具体的に立ち会う務めが与えられています。しかし、同時に、その務めは、毎週のこの説教においても果たしうることであります。私どもは、この説教を聴きながら、毎回毎回、毎週毎週、私どもに接近してくださる贖いの供え物御自身、贖いの場所そのものであるキリストにお会いするのです。ですから、悔改めを新しくする以外に、ここで赦された者として感謝に生きる決意をもって立ち上がる以外にありえないのです。一人ひとりの具体的な罪について、それを語ることは説教ではないのです。しかし、ここが贖いの場所であれば、それは必然的に伴うのではないでしょうか。

 教会が私どもにとっていつも居心地のいい場所であり続けるということは、どういうことなのでしょうか。それはいつでも悔改めることができる場所といっても良いのです。神のみ前に罪を赦された者だけが、悔改めの恵み、感謝の応答としての新しい生活を始めることができるのです。それが、教会の居心地のよさです。聖餐卓がいつも中心にあるということであります。キリストがいつも真ん中に臨在しておられると言うことに他なりません。
そのことはこのように申しましても間違いではありません。いやむしろ、ふさわしいと思います。名古屋岩の上教会が、居心地のよい教会であるためには、キリスト御自身が居心地のよい場所となること、これこそもっとも大切なことです。キリスト御自身が主としてご支配くださる教会であります。そして、そのときこそ、私どもにとっても、教会の何たるかをまだ知らない方々にとっても、まことに居心地のよい場所となるのです。

 私どもの救われる場所、それはキリスト御自身です。私どもが救われる場所、それはキリストがおられる教会、キリストの体なる教会そのものです。そしてこの教会をつくる者たちに他ならない、ひとりひとりに、この救いの御業を教会の外に向けて告げ広める使命が与えられております。

祈祷
 誰に強いられてでもなく、誰に求められてでもなく、罪人である私どものために御子イエス・キリストをお立てくださり、償いの供え物としてくださいました御父。私どもは今、あなたの贖いの場所そのものでありたもう御子の教会におります。その教会をつくるかけがえのない一員とされております。どうぞ、罪人が救われることのできる唯一の場所であるこの教会が、いよいよ、教会としてのふさわしさを備えることができますように。何よりも、この教会の交わりへと、あなたの選びの民を増し加えてください。そのために、私どもが外に出て行き、人々にこの喜びを証することができますように。アーメン。