過去の投稿2005年8月1日

「神の義に生きる」

「神の義に生きる」   
    2005年テキスト ローマの信徒への手紙 第3章21~26節④ 25節b26節を中心に  

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

先週の祈祷会のときに、「説教の分かち合い」のときに、「今日の説教は、自分のために語られてかのようであった」と、仰った方がいましたと、教えてくださった方がおられました。これは、明らかに説教者を励ましてくださる意味でのことと思います。わたしはどのグループにも参加せずに、まさに礼拝式の終わり頃、教会の様子をふらりとのぞきに来た、二人の若者の相手をしました。とても感謝なひとときでした。今、教会のことを一般の青少年がどのように見ているのか、彼らなりの宗教観、人生観のようなものを推測することができました。これは、なかなか得がたい、神からの贈り物でした。

 今、洗礼入会志願者との学び会が始まっております。わたしは、常々、「説教が分かる」ということは、聖霊の御働きなしにはありえないことであって、その人は、既に主を信じている人であると申します。それはまた、聖書そのものに対しても同じことが言えます。聖書を分かるということは、すでに聖霊の御働きにあずかり、信仰が与えられているということであります。神の真理、神御自身が、私どもにとって驚き、衝撃を伴うような驚きをもって、理解される以外に、人間は聖書の神にお会いすること、信じることはできないのです。
かつて、志願者の仲間も、「説教が難しい、自分には理解できない」ということ、もちろん、それだけの理由ではないと思いますが、しかし確かにその理由もあって、礼拝生活を何年にも渡ってなさらなかったのです。しかし、そのときに、これもご本人から教えていただきましたが、ある教会員からの励ましがあったそうです。「説教の原稿を読んで分からなくても、ぜひ、直接、礼拝式に出席して聴いて下さったら、分かるようになります。」これもありがたいことでした。ここで、聖霊の臨在しておられる礼拝式のなかで聖書や説教が読まれ聴かれることが、神にお会いする通常の道なのです。まことに、そのような教会の祈りに支えられ、ここで、語り続けることが、遂に大きな実りを結ぼうとしていることと思います。心から、神と教会に感謝する者であります。
  

 さて、ローマの信徒への手紙を学ぶことによって礼拝を捧げて、本日で第30回目となりました。そして、この21節から26節までを学んで、4回目となります。本日は、25節の後半と26節を中心に学びます。ある人が、「もしも、この後の文書がなくなったとしても、ローマの信徒への手紙が言おうとしていることは大体分かる」と言いました。その意味では、私どもの信仰の教えのごく基本、基礎がここで語られているのです。つまり、「信仰による義」、「主イエス・キリストの贖いの御業によって、恵みによって、無償で義とされる」「救われる」という福音の信仰の中心、改革された教会、いわゆるプロテスタント教会の信仰にとってもっとも重要な教理が語られています。
その意味からも、もしかすると、この25節、26節の短い御言葉は、簡単に読み飛ばしてしまわれがちなのかもしれません。よく分かっているつもりになっているようでしかし、はっきりとは分からない真理が語られているのではないでしょうか。しかしまさにここに福音があるのですから、この御言葉の真理が分かるとき、私どもの教会生活、信仰生活、その姿勢がすっかり変わって来ざるを得ないような、そのような神の真理が明らかにされている、そのように私は思います。

この短い箇所に、「神の義をお示しになるため」「この時に義を示された」「御自分が正しい方である」神の義という言葉が三回繰り返されています。そしてその前の21節からここまでで、神の義という言葉が三回繰り返されました。この短い箇所、このローマの信徒への手紙の中心的な教えのなかで、「神の義」という言葉が六回もちりばめられていると言うことは、ローマの信徒への手紙、ひいては聖書にとって、この「神の義」ということが最も大切なことであると言っても間違いではないのです。

一昨日の中部中会の平和集会で、講師の渡辺信夫先生が、現在の日本の教会は、正しく神学することを怠った結果、語るべきまさにこのときに口を閉ざしてしまうような状況に陥っていると、仰いました。神学するとは、神さまを中心に考えることです。徹底して神を起点にして、聖書を読み、世界を観ることです。そのとき初めて神さまの眼差しで世界を観る事ができるようになるわけです。そしてそこにこそ教会の使命、特に神の御言葉を語る預言者としての使命を正しく担うことができるのです。これは、なにも牧師や神学者だけがすべきことではまったくありません。キリスト者、聖書を読み、説教を聴いて生きようとするほどの者なら、誰でも訓練され、研鑽し、習熟すべき事柄なのです。

それなら、そこで言われる正しい神学とは何でしょうか。それは、徹底して神中心を貫くものです。逆に、正しくない神学とは何でしょうか。それは、人間的な考えに影響されて、引きずられて聖書を読むと言えるでしょう。それなら、聖書を人間中心的に読むと、どうなるのでしょうか。
これも、先週、志願者と学んだことでしたが、聖書の内容とは「救いの物語」です。救いとは、人間の救いであることは当然のことです。しかし、そこで注意しなければならないのです。人間の救いは誰のためにあるのかという、問いです。ある人にとっては、これは、おかしな問いとなるかもしれません。「人間の救いとは、人間のために決まっているではないか。聖書を読んで、人間が救われず、人間が幸せにならなければ、聖書を読む価値も、キリスト教の価値もなくなるのではないか。」しかし、聖書はそのようなことを我々に告げているのでしょうか。そうではありません。まさにここが問われるのです。ここが分水嶺となると言っても構いません。

聖書には、人間の救いについて書いてあります。しかしそれは、徹底的に、神の義を示すためになされるものなのだと言うのです。それが、ローマの信徒への手紙のメッセージ、この箇所のメッセージなのです。このような表現が許されるなら、実は、私ども日本キリスト改革派教会は、このような表現を繰り返しているのですが、つまり、「改革派キリスト教」なのか、そうでないキリスト教なのかの分水嶺となるのです。

神の義とは、私どもの救いのことです。私どもは、そのように学んでまいりました。キリスト・イエスによる贖いの業を通して、つまり神の義のみ業を通して、私どもは無償で、恵みによって神に義とされたのです。神は、御子イエス・キリストを御自身の御前にお立てになられて、贖罪所、祭壇をおつくりになられたのです。人間を救うことに、徹底してこだわり、徹底して尽くしておられる、奉仕してくださるのは、神御自身です。この、人間を救うことを、決して諦めたまわない神が、神が神である証拠、神が義であられる証拠として、26節、「今このときに義を示された」と言うのです。「神が今このときに義を示されたのは、御自分が、正しい方であることを明らかに」するために他ならないのです。

しかし思えば、私どもは、この箇所に入るまで、第1章18節から第3章20節まで、丁寧に学んだのは、人間の罪についてでありました。18節「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」この御言葉から始まって、いわば延々と神の怒り、審判が記されました。29節からは、罪のリストが数え上げられました。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」私どもは、この一つでも神のみ前に犯しているのなら、死に値するのですが、私どもはそのすべてを犯していると学びました。そして使徒は、第2章1節で、まるで罪人を神の裁判所、神の最高法廷に出廷させるかのようにして、このように糾弾しました。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。」3節、「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」5節「あなたはかたくなな心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」16節、「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」飛びまして第3章19節「すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」つまりもはや、私どもは神の最高法廷で、言い逃れることはできないということでありました。弁解の余地はないのです。隠れることができません。もはや、罪人に下されるべき神のただしい審判、神の怒りを受けることだけが待っているのです。

ところが、神は、その最高法廷において、神御自身の独り子をお立てになられ、この御子だけに罪の刑罰を負わせになられたのです。神の正しさは、人間の想像をはるかに越えていたのです。人間は、神の正しさの前に、罰せられること以外に予想できないはずです。ところが、神は、罪のまったくない御子を十字架という場所でお捨てになられ、十字架という贖いの場所でほふられ、それによって、罪人を救ってしまわれたのです。赦してしまわれたのです。神が自ら正しいお方である事を貫かれたとき、私どもが罰されたのではなく、なんと神の独り子が罰されたのです。神が正しい御業を決行なさったとき、私どもが断罪されたのではなく、なんと罪のないイエスさまが断罪されたのです。神の正しさによって、私どもが滅ぼされるのではなく、私どもが救われた、救われることができた、これはまことに驚くべきことではないでしょうか。これは、人間の世界ではありえないことだから、驚くのです。これは、人間の世界では決して起こりえないことですから、恵みなのです。救いなのです。「今このとき」とは十字架の御業が決行されたときから始まった今のことです。

実に、人類の歴史とは、罪の歴史に他なりません。世界の諸国の歴史は罪の歴史です。日本の歴史もまた罪の歴史です。どれだけの不正がなされてきたことでしょう。どれだけの人々が、その時代の権力者の手によって命を奪われて来た事でしょうか。20世紀は戦争の世紀と言われます。どれだけの人々が戦争によって命を奪われたことでしょうか。人間が、人間の命を奪ったことでしょうか。その流された血は、どれほど大量のものであったのでしょうか。しかも、この血の責任を誰もとろうとしない、責任を痛感して、悔改めない時代、国家は、また、新たな戦争の準備を始めています。そうなれば、21世紀は、20世紀を越えるかのような恐ろしく不安な世界になる以外にないでしょう。
それなら、我々はなぜ、罪の歴史を重ねて平然としていられるのでしょうか。それは、神が生きておられないと、たかをくくっているからではないでしょうか。神の審判など、もはやない。神が世界を、人間のしたことの責任を問うことなどない。権力がある者の勝利。生きているこの時代に、楽しみ、自己実現を果たし、楽な生き方、楽しい生き方をすればよい。できれば良いと、考えているからではないでしょうか。しかもキリスト者を自称する人々でも、自分が神の裁きの服する終わりの日、神の審判に服すること、肉体が復活させられて、神のみ前に地上の生涯が総決算させられるそのときを、ほとんど考えないで、教会生活を送る、信仰生活を送るようなことがないわけではないかもしれません。

しかしパウロはそこで、言うのです。26節「神は忍耐してこられた」これは、神の忍耐なのだ。罪を憎まれる神がどれほど忍耐していてくださるのかと言うのです。いったい、忍耐するということは、苦しいことではないでしょうか。つらいことではないでしょうか。しかも、問題は、罪です。罪に罪を重ねることは、罪を犯す者には忍耐など必要はありません。罪人である、鈍感である人間には、理解できない分からない忍耐なのです。しかし、神御自身には、これをご覧になられることはまさに耐え難いような苦しみ以外のなにものでもないのです。神御自身がもっとも憎み、憤られる罪の問題だからです。これが、神の忍耐という言葉の意味であります。

25節bには、こうあります。「今まで人が犯した罪を見逃してこられた」罪を見逃すというのは、穏やかな表現ではないと思います。「罪を見逃してほしい」まるで、万引きを捕まえられた犯罪者が、店主に、懇願している姿、見逃してやるからには、相応の弁償をしてもらおうということにもなるでしょう。見逃す側も、見逃してくださいと哀願する側も、どちらも神、正しい神、正義の神の御働きを表現するには、あまりにもふさわしくないように思えます。
しかし、事実、神は見逃してこられたのです。なぜなら、もしも、最初にあげた罪のリストの一つでも犯したとき、見逃されない神が一つひとつに裁かれたら、私どもはどうなっていたと言うのでしょうか。私どもは、決して、ここに座っていることなどできなかったはずです。

しかしその一方で、「それなら、罪を見逃すような神は、正しい神ではないではないか」という神への批判が起こることも当然であろうと思います。しかし、丁寧に読まなければならないのです。25節で、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」キリストの十字架の御業のことであります。このキリストを父なる神が供えられた、この愛する独り子を、十字架で犠牲とされたのです。それがあったればこそ、罪を見逃すことがおできになられたのです。そこに、神の筆舌に尽くせぬ忍耐が見えてくるのです。そこにこそ、神の罪への怒りの激しさが現れているのです。神が自らの正しさを現されたのは、罪人の罪の贖いの代価として、御子を十字架で殺す、裁く、罰せられるという行為に裏打ちされているのです。

使徒パウロは、自分自身の罪を当然ここで忘れることはなかったと思います。自分の罪がどれほど神の忍耐を強いたのか、苦しませたのか。悲しませたのかということをどれほどリアルに覚えたことでしょうか。そしてそれだけに、26節の最後で、「イエスを信じる者を義となさるためです。」と書きました。パウロは通常の主イエスに対してこのように言いません。パウロはコリントの信徒の手紙Ⅱで、言いました。わたしは、地上を歩かれた人間イエスのことを知ろうとは欲しないと、大胆なことを申しました。ところが、ここでは、イエスと記しました。つまり、人間となられたイエスさまという意味です。人間となってくださって十字架についてくださったあのナザレのイエスさま、このイエスさまを信じることこそ、神の義によって神に義とされる、神のみ前に義とされるのだと、宣言するのです。つまり、パウロにとってどれだけ、この十字架のイエスさまが、罪人の望み、罪人の光、罪人の救いであるか、よく分かっていたからです。このイエスさまの十字架の御業こそが、神の義の現れであり、自分の救いの根拠であると身をもって知っていたからです。しかもこのイエスさまは、十字架で殺された、罰せられて終わったのではなく、父なる神は、実に、このお方を死人の中から復活させてくださったのです。だから、イエスさまを信じることが要なのです。

私どもの数え切れない罪を見逃され、神の私どもへの激しい怒りを忍耐されたのは、神が鈍感であるからでありません。神が不正であるからではありません。むしろ、この十字架に釘つけたイエスさまにおいてもっとも激しく、徹底的に貫かれたのです。だから、イエスさまを信じる者は誰でも、神の義を受けるのです。

しかもこのイエスを信じる者とは、そこで徹底して、神の義が信じる者としてくださるということです。主イエス・キリストの真実が、罪人に触れるとき、罪人を信仰者として、悔改めさせ、主を信じる者に変えるのです。ペトロの手紙Ⅱ第3章9節にこうあります。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」主イエス・キリストが再臨されることが遅れているそれは、神の忍耐なのです。この忍耐を軽んじることは、キリスト者の罪と言わなければならないのです。

わたしは、学びを始めておられる志願者が、これまでの不従順の罪を悔いる祈り、悔改めの祈りをなさるのを聴いて、どれほど、嬉しくなったことでしょう。それは、主イエスの福音を聴きながら、神の忍耐を強いたことへの悔いでありましょう。そしてその悔いは、キリスト者全員が知っている悔いであります。そして、私どもキリスト者は、見逃してくださった神の御心を長く悲しませていたことを知ったとき、発奮するのです。そのとき、キリスト者は何をし始めるのでしょうか。罪を嫌うのです。罪と戦うのです。不信仰、不服従と戦うのです。神の忍耐を知る者らしい、戦いを始めるのです。自分との戦いから始めるのです。

もしものことですが、主の日に礼拝している私どもが、「神さまなら、わたしのことを認めてくださいますね。神さま、悪いのはわたしの方ではなく、あの人ですよね。わたしは被害者ですから」と、この正しい神、忍耐し、罪を見逃しておられるお方の前で、主張するとしたらいかがでしょうか。あるいは、「わたしは今こんなに不幸です。こんなに、大変なのです。何とかしてください。何とかしてくださらないなら、神さまは、わたしを愛しておられないことになりますよ。神さまは、わたしに働いておられないことになりますよ。そうであれば、信じることも止めるかもしれません。犠牲を払って教会に仕え、隣人に仕えることなんてできません。」そのように考え、主張するのであれば、もはや信仰とは無縁のことになってしまいます。もしも、教会員が、この世の人々が抱いている宗教へのイメージ、キリスト教のイメージ、つまり教会は心の拠り所、教会とは自分の救いの為にある程度に考えているなら、もはや、教会に仕えることはありえないでしょう。

私どもは、ここで、あらためて、「こんな罪人を憐れんでください」と、悔改めを新しくする以外にないのです。信仰生活は、神との関係のことです。この次元が分かっていなければ、信仰生活などは、空虚です。神は、御自身の義を私どもに与えてくださいました。罪人を、御自身との正しい関係に取り戻してくださいました。十字架の主が、それを実現してくださいました。神が私どもの存在を、この救いを最上の喜びとしてくださいます。そうであれば、もはや、私どもと神との関係とは、自分の喜びを追及するということから、神に喜んで頂ける生活を目指すことへと方向が転換する以外にないはずです。それをこそ、救いというのです。神の栄光のために生きる意欲を与えられたこと、そのような新しい意欲、考え方、まことに人間らしい生き方をすることを、救われた生活というのです。

実に、主イエスを信じる者とされたこと、信仰が与えられたこと、これこそ、私どもの喜び、誇りであります。この神の義を生きる生活へと招かれ、与った私どもであります。私どもは、主イエスを信じる道を、いよいよ、進み行くことができるのです。そして、この時代の只中で、神の忍耐と神の義を高らかに言い広め、証するのであります。

祈祷
わたしどもの数々の罪はあなたのみ前にあり、私どもは、弁解の余地のない罪人として、神の裁きの法廷において、死罪に当たる者でありました。過去の罪の積み重ねによって、毎日罪を重ねて、いよいよ罪の縄目に縛られて望みなき者として、滅びるばかりの者でありました。しかし、あなたの忍耐の富は、御子を犠牲にされることによって、私どもの罪を赦し、私どもを義としてくださいました。今や、あなたは私どもを喜びとしてくださるのです。御父、どうぞ、私どもの信仰生活を、正しく立たしめて下さいますように。神を知り、神を喜び、神の栄光のために生きる、そのあざやかな目標を目指して、地上の歩みを神の民の祈りの家とともに歩ませてください。アーメン