過去の投稿2005年8月21日

8月21日

★  先週の続き(3)と(4) 
「明日の教会のために、日本キリスト改革派教会の日曜学校像とその実践を問う」  
(3)  教師会形成(教師の訓練)の課題と牧師の責任
 現在、連載中の「日曜学校教師会のために」は、日曜学校が正しく実るために決定的に重要なのは、教師会の充実、研鑽であると主張しています。そこで、要になるのは、当然、教師たちの教師である牧師の指導力です。牧師が、教師たちを指導し、また自ら子どもたちに御言葉を説教することが、その職責上、回避できないのです。日曜学校に責任、関心がない牧師は、ありえないとすら言えましょう。しかしその点でも、長く日曜学校教師の奉仕をされ、校長をしておられる方々から、このような訴えと叱責を受けたことがあります。「自分は、教師としての訓練をきちんと施されたことがありません。これまで、見よう見まねでしてきただけです。」牧師じしんの神学教育や訓練のありかたそのものが問われるのかもしれません。あらためて、牧師の責任と務めを再確認したいと思います。日曜学校教師会にかかわり、教師を訓練し、率先して模範的な姿をして見せることが、なお開拓期にある、あるいは改めて検討の必要性を覚えている私どもの現実の日曜学校の姿なのではないでしょうか。その意味でも、教会学校教案誌の執筆の奉仕にかかわることは、大変な労力が求められますが、牧師じしんの研鑽にもなると思います。

(4) 「日曜学校は種まき伝道」なのか   
 「日曜学校の伝道は種まきです。子どもたちが、教会から離れても、いつか、大人になって、イエスさまを信じるようになる人も出ます。日曜学校は、自分たちの知らないところで、実を結ぶことを期待し、信じて行うのです。」私は、いよいよ、このような前提に疑義を持つようになりました。はっきり申して、このような伝道では、正しい実りを期待することはできないのではないでしょうか。何より、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と仰せになられる伝道の主に対して不誠実ではないでしょうか。また、子ども(の心)を一人の人間として重んじない、およそ、キリストの教会らしからぬ態度ではないかと思います。(もとより、このような嬉しいことがしばしば起こされます。しかし、それはあくまでも結果です。初めからそれでよいとしてはならないという意味で、申しました。)
つまり、私どもの日曜学校伝道と教育には、「牧会的な視点」が不可欠であるということです。そうなれば、日本キリスト改革派教会の教会教育の基本的な姿勢としての「カテキズム教育」というあり方の有効性が明らかになるはずです。ただし、カテキズム教育とは、単に教理の文言を解説し、暗記させる教育方法というのではありません。教師と子どもが、主イエス・キリストを挟んで向かい合っている姿のなかでなされるものです。喜びが響き合う関係のなかで、伝達される真理が教理であり、教理そのものがそのような関係をつくりだすとも言えます。そのような牧会的な関係のなかで、伝道と教育が担われるとき、福音的な、改革派的な人間像が結ばれるのではないでしょうか。
地域の子どもたちの闇はどれほど深いことでしょうか。それを本当に理解し、彼らの友となりえるのも、何より、まことの牧者なる主イエスを紹介することも、まさに、私ども教会ならではのことであります。教会が、日曜学校伝道において果たすべき責任と使命はどれほど大きいことでしょうか。「目を上げて畑を見」なければなりません。主イエスは、子どもたちを「色づいて借り入れを待っている」(ヨハネ4:35)と見ておられます。

☆  夏期休暇を頂いて、東京告白教会に参りました。世田谷の住宅街の中、目立たない場所にあります。教会堂は、そこだけ昭和の時代にワープしたようで、庭には昔ながらの背の高い木が茂り、都会の真ん中にいることを忘れさせてくれます。礼拝堂には冷房がなく!窓を開け放し、蚊取り線香の香りが漂います。礼拝式は、10時開始、式次第は、ジュネーブ方式で、罪の告白と赦しの宣言があり、ジュネーブ詩篇歌も歌われます。司式、説教、報告すべて渡辺牧師が担われます。この間、およそ2時間弱!説教は、1時間に及ぶのではと思うほどの長さ。徹底して釈義的な説教で、まことに緊張感あふれるものでした。ご高齢で、この集中力!ただならない空気がみなぎります。渡辺先生は、まさにコーラム・デオ(神の面前)に生きる牧師なのです。会員は、20名弱ではと思われました。本当に小さな群れです。様々なことを思わされました。私どもの一つのモデルとなる教会です。同時に、私自身は、この教会の主の教会としての歩みが、まさに「少数者」でしかない現実・・・、あらためて日本における教会形成の厳しさと、襟を正される思いをも持ちました。