「唯一の神を信じる」
2005年8月21日
テキスト ローマの信徒への手紙 第3章27~31節②
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」
「実に、神は唯一だからです。」このようにパウロが語る言葉を、今、聴きました。「神は唯一であられる」ということは、私どもの信仰のいわば常識、教えの初歩であります。私どもの教会は、毎週、礼拝式の中で告白する信仰として、世々の神の民が告白してまいりました信仰告白の中の信仰告白、全世界のキリストの教会が唯一つ共通して採用している信条である、ニカヤ信条をもって、私どもの信仰告白、神讃美を致しております。そこで、既に皆様がお気づきの、ことと思いますが、そこに何度も「唯一」という言葉が出てまいります。「父なる唯一の神を信ず」「我らは唯一の主イエス・キリストを信ず」そして、「使徒よりの唯一の聖なる公同教会を信ず」と告白します。
そもそも、教会に導かれ、求道の志が与えられ、主イエスについて詳しく知りたい、主イエス・キリストを信じたいと願う方とは、私どもの教会は、牧師がどれほど忙しくしていても、必ず、マンツーマンで、教理を学びます。今まで、例外はありませんでした。これからも、基本的には、わたしのスケジュールや、コンディションがどうしても不可能な緊急事態を除いては、一対一で、教会の教えを学ぶはずです。そのようなとき、すぐに、学ぶのは、やはりこの神は唯一であるということです。また、父と子と聖霊としての交わりのうちに御存在なされる唯一の神、三位一体という教会独自の言葉、教理の言葉もすぐに学んで頂くことになります。
さて、「唯一の神を信じる」ということは、今日の世界の状況の中で、深く物事を考えないままで済ませてしまう日本人、特に新聞やテレビなどで、しばしばコメンテーターとか知識人と称される人から、こういう類の発言を聞かされます。「キリスト教世界とイスラム教世界とは、互いに唯一絶対の神を信じる、つまり一神教であるからぶつかり合うのだ、我々日本の宗教観は多神教、日本人は八百万の神を信じる、神道である。神道は、絶対的な神、唯一の神を認めない、それこそ寛容で心の広いあり方を示せる。21世紀には、我々日本人の多神教、神道的な世界観こそが大切になる。」このような論調です。
また、昨年であったか、今年の前半であったか、ある政党が、憲法改正の試案を提出しました。そこではなんと、「一神教的な世界観は危険である、だから、日本的な宗教に回帰することが必要である」と、こう主張しました。同じ、政党の中でも、キリスト者の議員もおられたからなのかもしれませんが、内部からの批判もあって、すぐにこの部分は、撤回しまいました。しかし、その一方で、実にこのような考え方を公にできる土壌が、確かにあるのです。「一神教は、テロを生む、怖い。日本古来の宗教観が良い」しかし、これは、まやかしであります。何故そうなのか、しかし、そのようなことを、説教の中で説く暇はありませんし、その課題は他に譲らねばなりません。
しかし説かなければならない問題は、そのような日本の社会のなかで、私どもキリストの教会が、今こそ、正々堂々と、私どもの神は唯一の神、絶対者なる神であられると、声を大にして証することが求められているということです。このように、伝道することを止めるなら、それは、教会ではなくなってしまいます。その意味でも、本日の説教題は、「唯一の神を信じる」これで良いのです。そして、崩壊過程に入っているかのような世界大の危機のなかで、今こそ、聖書が、パウロがここで語っているように、この唯一の神を信じることこそ、唯一つの確かな希望であると、はっきりと語らなければならないのです。
ニカヤ信条の話しになお、戻りますが、ある学者は、唯一とは、唯一絶対の神というニュアンスではないということを申します。比べうるものが何もないほどのすばらしい神様という意味で、唯一という言葉が用いられると申します。わたしは、なるほどと思います。ただし、「唯一のバプテスマ(洗礼)を信じ認む」では、明らかにそうではないはずです。水を使用する宗教儀式は、おそらく世界の至るところにあるでしょう。そうであれば、ニカヤ信条がここで洗礼の礼典だけに言及して明らかにしているのは、何でしょうか。聖礼典には、洗礼だけではなく、聖餐もあるわけですが、聖餐については触れずに、洗礼だけに言及するのです。
洗礼を信じ認めるということを正しく解釈するためには、その前の言葉が大切です。「我らは、罪の赦しのための」「唯一のバプテスマを信じ認む。」罪の赦し、つまり、救いのことです。神に罪を赦される道は唯一なのです。他にはないのです。主イエス・キリストの御名、主イエス・キリスト御自身以外に救いはないと、使徒たちは、伝道を開始いたしました。使徒言行録の第4章にあるとおりであります。このキリスト以外に救いはないという、その意味では、正々堂々と言わなければならないし、言ってよいのですが、これは、排他的な宣言です。真理は、その意味で必ず排他的な正確を持つのです。たとえば、このようなことは、真理においては通用しません。「あなたにとっての真理と私にとっての真理は別々のものです。それぞれが信じるままに尊重しましょう。もともと、わたしにとってキリスト教が心にフィットしますし、そもそも家族もキリスト教なので、わたしの宗教はキリスト教です。あなたは、仏教が肌にあうのであれば、それはそれで、よいでしょう。」このようには、ならないのです。ニカヤ信条は、断定しました。神に罪赦される道は、唯一つ、洗礼を受けることであるということです。もちろん、ただ水を浴びれば良いのではありません。主イエス・キリストと一つに結ばれること、それを信じることです。この主イエス・キリストと一つとされない限り、人間には、罪の赦しの道がない、それを明らかに示すものが、洗礼の礼典なのです。それを、キリストの教会は信じる故に、2000年間、洗礼を重んじ、洗礼入会式を継承してまいりました。ですから、私どもの教会は、ニカヤ信条を告白し、この信仰の理解の下に、教会形成に励んでまいるのであります。
さて、唯一の神を信じるとは、信仰の初歩、教えの初歩であると申しました。なるほどその通りです。しかし、わたしは、30節におきまして「実に、神は唯一だからです。」とパウロが語った言葉に対して、すっと飲み込めませんでした。何故、この文脈の中で、唯一の神が問題になるのかが、正直に申しまして、よく分からなかったのです。
ここでの言葉の流れをおさらいしたいのですが、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ、だから、すべて人間的な誇り、宗教的な誇り、神の律法を守っているから救われているのだといようなユダヤ人の誇りは、取り除かれた」これが、先回の説教で、27節と28節を学びました。それを受けて、パウロは、ここで自問自答をするのです。いへ、これは、自問自答ではなく、ユダヤ人から受ける批判を先回りして、ここで答えてみせたのです。
ユダヤ人は、神は唯一であるということを、まさに信仰の初歩としてわきまえていました。申命記第6章に、このような有名な言葉があります。ユダヤ人たちは、これをそらんじているのです。基本中の基本の神の御言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
これを子どもたちにも、繰り返して教え、寝てもさめても、家の中にも、外にも、さらに自分の体にも記したのです。常に、「我らの神は唯一の主、神を愛せよ」とそらんじさせていたのです。主イエス・キリスト御自身も、この御言葉を引用して語られたことがありました。また、何よりも、先ほど唱えました、十戒の掟そのもの、特にその前半の内容は、「我らの神は唯一の神、だから徹底して神を愛しなさい」という言葉に尽きるものです。つまり、私どももまた、ニカヤ信条で、さらに十戒でも、この唯一の神を信じると告白し、それゆえに神を徹底的に愛すること、従うことを告白しているのです。
さて、ユダヤ人は、神は唯一であることを、誇りとして生きていました。それは、間違いではありません。私どももまた、先回学んだように、神御自身をこそ、自分達の誇りとする生き方へと招かれているわけです。しかし、ユダヤ人は、神を誇りにしたとき、唯一の神は、自分たちだけの神であるかのように、そこですり替えをしたのです。誤解です。自分達だけを救う、真の神、唯一の神がおられる、これは、大間違いです。
唯一の神は、ユダヤ人も、異邦人も創造し、支配しておられます。そして、パウロは、ここで踏み込んで語るのです。これが、世界史をくっきりわけてしまう発言となりました。つまり、聖書の神、旧約聖書の神は、ユダヤ人だけの神などではないということです。この真理は、それまで、はっきりとはユダヤ人には悟られていませんでしたが、21節にあるとおり、「しかし今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって証されて、神の義として示された」のです。この明らかにされた神の義とは、実にイエス・キリスト御自身のことを指し示しています。イエス・キリストによって、唯一の神は、ユダヤ人だけの神などではなく、全人類の神であることが鮮やかに示されたのです。そして、この全人類の神は、どのように人類を、人をお救いになられるのかと言えば、それは、唯一つ、信仰によるのです。信仰のみによるのです。これが、パウロの主張、メッセージです。
ユダヤ人には、古より、律法が与えられていました。「聞け、イスラエル」「我らの神は唯一の主」すばらしい真理、そして、この神を全身全霊で愛して行くこと、このすばらしい律法が、確かに他でもないユダヤ人が、最初に聞いたのです。それがユダヤ人のユダヤ人として、我々とは異なる、際立つ祝福です。しかし、唯一の神は、彼らだけの神などではないのです。民族の神などではい。世界の人々の神です。それが、聖書の神です。旧約聖書の神です。その神が、今や、御子イエス・キリストにおいて、まさに燦然と明らかにされたのです。
ユダヤ人、つまり割礼を受けて、我々異邦人とは異なった、まさに、神に特別に選ばれた民も、我々のような異邦人も、唯一の神のみ前に、共通に、ただ一つの道によって、救われることができるのです。それが、信仰なのです。
信仰のみ、なのです。先回も学びましたが、この「のみ」という一言は、ここでの真理をくっきりとさせる一言です。宗教改革者は、この「のみ」にこだわったのです。時のローマ・カトリック教会は、信仰によって救われることを何も否定していたわけではないのです。しかし、信仰のみによって、とは言わなかったのです。それくらい、大目に見てあげたほうがよかったのでしょうか。何も、一つの教会を分裂させ、新しい教会を作る必要などなかったのでしょうか。私どもは、そう考えませんでした。この「のみ」が重要なのです。生命線なのです。信仰と善い行いよって救われるとか、信仰によって救われるけれど、この信仰も結局、その人の優れた信仰、確かな信仰でなければ、ならないとなれば、最後には、人間は行いを誇るユダヤ人と同じように、信仰を誇りだすようになるだけです。自分の立派な信仰を誇るのです。しかし、私どもの先達は、その信仰をも誇らせなかったのです。なぜなら、その信仰こそ、神の御業であるからです。それを先輩は、このような言葉で言い直しました。「恵みのみ」恵みのみによって救われるのです。神は、ユダヤ人を恵みによって救い、異邦人を恵みによって救ってくださる、そこに何の差別もないのです。信仰も与えられるものです。与えていただくものです。
ですから、私どもの教会では、信仰を持つという表現を極力避けてまいりました。基本的には、そのような表現を使う方はおられないと思います。信仰を持つ、所有する、それは、不可能です。信仰は、神の恵みによって与えられるのです。そこでも、徹底的に、人間的な誇りは排除されるのです。それが、宗教改革によって新しくされた教会の、変わらない主張なのです。改革された教会、特に、私ども日本キリスト改革派教会とは、この信仰の遺産を正しく継承するために、この日本に存在しているのです。
恵みのみ、改めて言い直せば、またこうなります。「イエス・キリストのみ」です。信仰も、恵みも、イエス・キリストから離れて成り立ちません。イエス・キリストによって、確立するのです。信仰のみ、恵みのみによって神に義とされる、救われるとは、言い換えれば、イエス・キリストによってのみ、神に義とされるということであります。
今朝も、私どもは、罪人として、神のみ前にまかり出ています。どうしてこのようなことが可能なのでしょうか。罪人は、神の怒りをもって滅ぼされる以外に、ない者のはずです。神が罪に鈍感であって、罪を見逃してくださるからでしょうか。違います。神は罪を見逃されません。罪は、必ず、処分されなければなりません。罪は、必ず、裁かれなければなりません。この罪の処理を、父なる神は、ご自分の側で、引き受けられました。それが、主イエス・キリストの十字架とご復活の御業です。
しかしまさにユダヤ人はここで反論するのです。「異邦人が罪人のままで、救われる、神に義とされるなどとパウロが主張するのは、断じて認められない。異邦人が信仰によって罪を赦されるなら、神の聖なる律法はどうなるのか、神は、神御自身の聖さ、神御自身の象徴のような律法を無効にし、廃棄なさるのか、それでは、御自身そのものを裏切ることになるではないか。律法のすばらしさ、律法をもはや、不要などと言い出すような宗教を、ユダヤ教とは認められないし、まさに、神への冒涜、神への背反、神の栄光、尊厳を地に貶める罪人のなかの罪人である」これは、ほとんど怒り狂うような叫びになるのです。それを、パウロは聴いたはずです。いへ、その荒れ狂う怒りの叫びこそ、かつてのユダヤ人パウロの姿に他なりません。彼の、キリスト者と教会への迫害とは、まさにその理解に根ざしたものでした。
しかし、そのようなパウロが、今、このようにローマにいるキリスト者たちに呼びかけていることのなかにこそ、もっとも鮮やかに信仰の勝利、キリストの勝利の証を見ることができます。
思えば、このユダヤ人の憤り、誤解にもとづく憤りが、主イエスを十字架で殺す決断の最大の要因に事実上なったわけです。イエスという男は、ユダヤ人でありながら、律法をないがしろにし、それを弟子たちにも、民衆にもそそのかしている、果ては自分を神であると主張し、唯一の神を冒涜している、そのように考え、ファリサイは人々、律法学者たち、祭司長によって十字架刑で処罰されたわけであります。
しかし、このような誤解に対して、主イエス御自身の重要な説教がマタイによる福音書に記されています。私どもにとりまして、極めて重要な主の説教です。第5章17節以下です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
主イエスは、その説教と御業によって、ご生涯そのものによって、そしてその頂点は、十字架と御復活とによって、律法を廃止するのではなく、完成してくださいました。主イエスは、律法の文字、ヘブライ語で記されたその独特の字形の一点、一角も消え去らないと仰せになります。この解釈は難しいのですが、とにかく、神の御言葉は、かりそめのものではなく、永遠のものだと言うことを押さえておけばよいと思います。
神の律法は、主イエス・キリスト御自身の御業によって廃止されたのではなく完成された。パウロは、今、ここで、それをこのように言い換えたのです。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」主イエス・キリストが、律法は、ご自身が来られたこと、ご自身の御業によって確立されたと宣言されたのであればこそ、パウロはここで、この主イエス・キリストを信じることによって、律法は確立すると断言できるのです。
ここでの律法を、私どもは、何よりも、先ほどの申命記第6章「イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」に聞きとります。そしてそれは、今朝も皆様と声をそろえて、読みました律法のなかの律法である、十戒に聞くのです。
そして、私どもキリスト者は、主イエス・キリストを信じることこそ、神を唯一とすること、神を愛することに他ならないと確信するのです。さらに、特に異邦人のキリスト者である私どもは、主イエス・キリストを信じる自分達にも神の聖なる律法、十戒を授けられたと自覚するのです。つまり、十戒は、もはやユダヤ人だけのものではないのです。主イエス・キリストを通して、すべての人間に与えられていると言って良いのです。そして教会は、この十戒によって、十戒を守ることによって、この世の只中で、神の教会であることを確立し、証し、神に栄光を帰することができるようになります。
私ども日本キリスト改革派教会とは、徹底的に、信仰のみ、恵みのみによって救われるという教会の改革者の教え、聖書の教えを保持し、ここに拠って立っています。この教えが、どれほど、罪人たちの集いである私どもにとって慰めの力であるかを思います。ここに神の力、福音の力があるのです。しかし、これは、同時に、強調すべきことでありますが、私どもは、そこで決して、律法を軽んじない。無にしない者たちです。ここでこそ、日本キリスト改革派教会の創立宣言を思い起こしたいのです。創立宣言そして、20周年宣言は、私どもの教会が、常に、自分自身を改革するために刻み付けるべき言葉の宝庫です。
私ども日本キリスト改革派教会は、毎週ニカヤ信条で告白しているとおり、「聖なる唯一の公同教会」を信じる教会であると創立宣言で告白しました。そして、この唯一の教会は、三つの柱で支えられていると告白します。「一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる「一つなる見ゆる教会」として具現せらる可きを確信す。是日本其督改革派教会の主張の第二点なり。」
このなかで、最後の「善き生活」が、本日の説教とまさにかかわります。「一つ善き生活とは何ぞ。我等は律法主義者に非らず、又律法排棄論者に非らず。キリストに由る贖罪に基きて聖霊なる神の我等の衷に恵み給ふ聖化は信仰者の必ず熱心に祈りて求む可きものなり。完全聖化は地上に於ては与へられず、我等は日毎に己の罪の赦を求め、又己に罪を犯す者の罪を赦さヾる可からずと雖も、聖霊に感じて互に兄弟の罪を戒しむるはキリストにある者の為すべき事なり。」
「私どもは、律法主義者ではない、律法を守り行うことによって神の義を得られるのはない」このことはごくごく基本のことでしょう。しかし、あわせて、言います。私どもは、律法などもはや要らないとする律法廃棄論者、異端者ではないというのです。私どもは、キリストの贖いの御業を受け、このキリストを信じた結果、聖霊を受けて、キリストの形、キリストの御姿、キリストに似た新しい存在として形作られます。それを聖化と申します。キリスト者は、聖化の道を歩むのです。だから、教会は、聖霊に感じて、つまり聖霊に導かれて、兄弟同士、お互いの罪を戒めあわなければならないのです。これは、キリストにある者がしなくてはならない行為であると、創立宣言ははっきりと告白したのです。
私どもは、この道を進み行きます。罪人の集いですが、赦された罪人であります。赦された罪人とは、罪を憎み、これと戦う者です。自分の罪を憎み、兄弟が犯した罪をも決して見過ごしにしないのです。また、わたしの罪は放っておいて下さいとは、決して言わないのです。教会は、罪人の集いですが、ここにキリストが臨在しておられます。ですから、罪との戦いに挑み続けるのです。赦しがあるから、主イエス・キリストの十字架と復活があればこそ、このような戦いがなしえるのです。このような教会であることを止めるなら、それは、教会ではなく、そのような理解をもつなら、決して、キリストの教会として形成できなくなります。私どもの教会が、これからも、聖書の御言葉に生きる教会、律法を確立する教会、日本キリスト改革派教会として形成させられるために、この創立宣言、その第三の主張、一つ善き生活を求め続けてまいらねばなりません。
実に、このことが、本当の意味で、何の努力もなしに、何の功績もなく、ただあるがままで主イエス・キリストのおかげで神の子、神の義を受けた者の、ただ一つの生活、感謝の生活になるのです。私どもは、主イエス・キリストの御業によってのみ救われました。私どものなかに、何も誇ることがありません。だからこそ、今後、この主に喜ばれるように生きたい、主イエス・キリストだけを誇りとして生きてゆく、この志が、私どもの新しい道、人生なのです。信仰のみ、恵みのみによって生きる慰めの共同体の形成が、キリストだけを主と告白するために罪と戦う教会、これが、私ども名古屋岩の上伝道所の第一の祈り、すべてを包み込んでしまえる唯一つの祈りと言っても過言ではありません。
祈祷
ユダヤ人の神、そして異邦人の神、唯一の御神、私どもは今、あなたの御子主イエス・キリストの十字架と復活によって、このキリストの御業によって、そして聖霊によって信仰へと導かれ、神の義を受けることができました。畏れ多くも、キリスト者と呼ばれ、神の子と呼ばれる特権に預からせていただきました。どうぞ、世界中が、この唯一の神の恵みに与ることができますように。そのために、建てられて私どもキリストの教会を用いてください。真の神があなただけであられることこそ、世界の唯一の希望であります。どうぞ、今こそ、私どもに大胆さを与えてください。そして、地の果てまで、実に神は唯一であって、すべての者は、ただ、信仰によって、恵みによって、主イエス・キリストによって生かされると告げさせてください。 アーメン