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「聖書に書いてある!」

 「聖書に書いてある!」  
    2005年9月4日

聖書朗読 創世記 第15章
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章1~8節① 1~3節を中心に  

「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」」

 9月に入りました。8月中、所用や休暇で、礼拝を休まれた方もおられました。しかし、今、私どもはこの礼拝堂に戻ってくることができました。そのことを改めて感謝する者であります。ここそ、私どもがいるべき場所、目指すべき場所です。今週からいよいよ、朝の祈祷会が始まります。このことは、私自身にとってとても楽しみです。一月の間、朝の祈祷会がなかったことは、やはり教会の霊的な健康のためには、影響があったかと思います。

夜の祈祷会では、渡辺信夫先生の「キリスト教と抵抗権」を読み終えました。さらに、中部中会における講演原稿「今、キリストを主と告白する」も途中までですが、読みました。毎年のことですが、8月は集中的に、教会と国家とのかかわり、教会の戦争責任について学んでまいりました。これは、教会形成にとって根本的に大切な学びであります。

先週は、渡辺先生のこのような発言を丁寧に読みました。それは、渡辺先生が一貫して、日本に真の教会を建てあげるために全力を注ぎ続けることができたのは、単に、戦争はこりごりだ、戦争は悪であると言わばヒューマニスティックな思想や体験からではないということでした。そのようなことであれば、時代が変遷すれば、戦い続けることはできなくなる、また昔のように自分の立場が悪くなると黙り込んでしまうと先生は仰いました。それなら何が支え、力となったのか、それは、一つには、聖書の御言葉が「わが足のともし火」であったからです。第二は、その聖書を教えてくれたカルバンという神学者との出会いがあったからだと仰ったのです。

 聖書によって、キリスト者が生きる、聖書によってキリスト者の歩みの一歩一歩が導かれる、これは、あまりにも当然過ぎて、さっと読み飛ばされてしまう言葉のようにも思います。しかし、わたしは、あらためてここに、この当然すぎることに立ち止まらなければと思わされました。聖書によって生きることなしに、神に従う歩みをつくることはできないということを、自分自身まだまだ知らなければならないと思わされたのです。自分のなかに、いちいち、御言葉によらなくても、実生活では困らないと考えるなら、それは、霊的な深い病に陥ったということです。

そもそも、私どもの教会、教会の改革者たちによって新しくされた教会は、「聖書のみ」というスローガンを掲げてまいりました。これは、宗教改革の形式原理と呼ばれました。これまで学んだ、神に義とされるのは、「恵みのみ・信仰のみ」というスローガンを内容原理と申します。高校の教科書などに記されていることです。聖書によって、教会は改革される、聖書のみが信仰の唯一の規範となる、これが、私ども改革教会の大前提なのです。

 
さて、私どもは、これまで丁寧に、ローマの信徒への手紙を学んでまいりました。特に、3章の21節以下は、このローマの信徒への手紙の内容の大切なメッセージはほとんど語り尽くしたとすら思えるほど、「イエス・キリストを信じる信仰により、信じる者すべてに与えられる神の義」を学んだのです。
 そして、本日は、第4章に入りました。使徒パウロはここで、何をしているのでしょうか。パウロは、ここで改めて、ここまで語ったことを、いや、基本的には既に語り終えたことを、言わば、蒸し返すのです。もう一度、議論を深めようとするのです。自分で問い、自分で答える、問答し始めるのです。このことを話したら、相手がこのような疑問を抱き、あるいはこのように反発が生じるであろうということを、先回りするようにして、それに答えて行くのです。

 第1節、「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。」これは、何を意味するのでしょうか。そのために、これまでの議論、直前の議論をおさらいしましょう。「割礼のある者、つまりユダヤ人を信仰の故に義とし、割礼のない者、つまり我々のような異邦人も、信仰によって義とする」ということ。「唯一の神は、全人類を信仰によってのみ、恵みによってのみ、義とする、言葉を変えれば、ただイエス・キリストによってのみその罪を赦し、神の御前で正しい人間として立たせてくださるということ」でした。

 ところが、このパウロのまさに圧倒的な福音の宣言を聞いて、なお、食い下がるユダヤ人がいる、なお、納得しない頑ななユダヤ人がいるのです。彼らは、こう言うのです。「私たちは、ユダヤ人である。ユダヤ人とは誰か、生粋のユダヤ人とは、誰か。それは、あのアブラハムを先祖に持つものである、私たちには、あのアブラハムがいるではないか。あのアブラハムを見たらよい。あの優れた信仰とその行いを、パウロよ、あなたはどのように見なすのか。アブラハムを持ち出したら我々の勝ちである」このような反論です。そして、実は、このような反論こそ、もっともパウロが語りたいことでした。このようなユダヤ人に、まさに、ダメ押しになるような、いや、ダメ押しではなく、彼らを真実に悔い改めに導き、信仰の真理に生かすもっとも優れた方法として、パウロは今、喜んでアブラハムのことを語ろうとするのです。つまり、パウロはこれまで、信仰によって義とされるという教理を語り続けてまいりました。ここで今、彼は、その教理を、一つの実例を挙げて、証拠づけようとするのです。誰もが知っている事実、歴史の事実を挙げて、確かにしようとするのです。

 
 第4章には、実例として二人の信仰者が登場します。アブラハムとダビデです。二人とも、ユダヤ人にとって知らない人は誰一人いない先輩です。中でも、アブラハムは、ユダヤ人の先祖です。

 さて、パウロは信仰によって救われる、義とされるという教えは、何も、革新的な、斬新な教えではないとここで主張してまいりました。それは、既に第3章21節でも語られています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」律法とは関係なく、律法の外で、しかも律法と預言者によって立証された、証拠があるというのです。律法と預言者とは、つまり旧約聖書のことです。ですから、神の義、信仰によって義と認めるという教えは、真新しいものではなく、すでに古より、聖書によって立証されているのだと、パウロは主張したのです。自分の思いつき、自分の宗教的な確信、自分の宗教、信心、感覚による悟り、発明ではないということです。聖書に明らかにされているのです。ですから、第4章3節で言うのです。「聖書には何と書いてありますか。」旧約聖書には、何と書いてありますか。ということです。そこで、アブラハムを持ち出すのです。

その意味では、本日の説教を深く聴き取るためには、どうしても、アブラハムの生涯を知っておいていただきたいのです。今、短く、アブラハムの生涯を振り返りたいと思います。アブラハムが聖書の中心に登場するのは、創世記第12章においてです。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」

彼は、75歳のときに、生まれ故郷を出ます。ただ、神の御言葉に促され、命じられ、故郷を離れるのです。どこに行くのか、明確には告げられていませんでしたが、とにかく、生まれ育った地を出る、旅に出るのです。
アブラハムはどうして、75歳もの高齢になって、生まれ育った地、馴染みのある故郷を捨てたのでしょうか。その理由は、ただ、一つであります。神を信じたからです。そして神を信じるとは、その御言葉に従うことですから、彼は、神に、生まれ故郷を出なさいと言われので、従ったのです。

 さて、パウロがここで三回も引用し、注目した御言葉、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」という御言葉は、もとの箇所は、創世記の第15章6節にあります。「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
アブラハムは、このとき既に75歳を越えていました。妻は、10歳年下ですから65歳です。普通に考えれば、子どものいない老人夫婦。つまり、世間的に言えば、明るい将来、未来を展望しながら、死んで行くというより、自分たちの終わりを見つめ、それを受け入れて行くだけであったのではないかと思います。しかし、神は、このアブラハムに、この夫婦に、あなたがたを大いなる国民とすると約束されたのです。あなたの子孫は数え切れないようになると信じがたい約束をなさったのです。そして彼は、この約束をしてくださった神を信じたのです。これは、まだまだ一例です。おそらく、もっとも有名な出来事であり、人間にとって頂点になるような試練が彼には与えられました。第22章に記されています。それは、そのようにしてついにアブラハムが100歳になって、与えられた独り子イサクを、神が、捧げなさい、いけにえとして捧げなさいと命じられたのです。彼は、イサクを全焼の捧げもの、焼き尽くす捧げものとして、自分でつくった祭壇の上に、自分で縛り上げたイサクをおいて、刀を振り下ろそうとまでしたのです。自分の独り子、神の祝福そのものであるイサクを、これま神の言葉に命じられて、殺そうとしたのです。彼は、神とその御言葉に完全に降参し、服従したのです。これこそ、アブラハムの姿です。

だからこそ、ユダヤ人は、このようなアブラハムの信仰的決断、信仰の服従のすばらしさを自慢するのです。このアブラハムを、誇りにしているのです。最後の拠り所とするのです。たといパウロと言えど、このようなアブラハムの英雄的信仰、英雄的服従を思い出せば、信仰によってのみ神に義とされるとか、異邦人であっても信仰によってのみ、恵みによってのみ救われるなどという教えは崩れてしまうであろうと、言うのです。

ところが、パウロは、まさに、アブラハムにおいてこそ、これまでのローマの信徒への手紙で書き綴ったメッセージは確証される、彼こそは、かえってその立証人であると言うのです。それが、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という御言葉です。パウロは、この第4章で、この御言葉を三回引用するのです。神がアブラハムを義と認めたのは、主を信じたから、それ以外ではないというのです。

我々人間は、あの人は偉い人なのかそれほどでもない人か、あるいはひどい人なのかと、日常茶飯事のように人を評価しています。そして、自分の誇りが崩され、傷つけられたら、まるで命にかかわることのように、その名誉を守ろうとします。
もしも、そのような人間的な評価をアブラハムに当てはめて行うならどうなるか。明らかに、彼の人生は、信仰的な人生であったと言わなければならないはずです。突出した信仰の人でした。信仰の巨人です。わたしとアブラハム、皆様とアブラハムとを比較してみると、自分の信仰の頼りなさや、不確かさ。いい加減さ、甘ったれた点などが浮き彫りにされてしまって、たまらないほど恥ずかしさを覚えさせられることになるのではないでしょうか。その意味で、第2節に「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが」とありますが、まさに彼の行いは、人の前には、なお誇ろうと思えば誇りうるものであったことは確かであります。

しかし、パウロは、きっぱりと言うのです。「神の前ではそれはできません。アブラハムが神に義と認められたのは、ただ信仰による」そしてこれは、パウロの言葉ではなく、創世記の言葉、旧約聖書の言葉なのです。ここに、決定的に私どもの救いの確かさがあります。

説教の初めに、私どもの教会は、信仰と生活を「聖書のみ」によって規範される、基準として歩むのだということを申しました。パウロは、神がお与えくださった福音、罪人をそのままで義とするこの救いの道を、自分で発明したのではなく、すでに、聖書によって、言葉を変えれば、律法と預言者とによって立証されている、証拠があると言うのです。そのとおりです。

しかし、この初歩的な、基本的な問題は、この当時のユダヤ人の問題に留まりません。今日の我々自身、私どもキリスト自身の問題でもあるのではないでしょうか。聖書に書いてあるということでは、なお私ども納得しない、信じ切れないという問題であります。私どもに問われるのはまさにここです。私どもは神の御言葉を、聖書自身から、何よりも説教によって繰り返し聞いております。しかし、信じ切れない。そこでどうするかと申しますと、聖書の言葉以上の確かさを求めるのです。それは、何でしょうか。それは、目に見える「しるし」です。目に見える保障です。

先日、これは、教会員ではありませんが、一人の方と罪の問題を巡って深く向き合いました。これを牧会と申します。牧会とは、魂を看取ること、魂を配慮することであります。それは、直接的に申しますと、罪の赦しを巡って、罪人としての人間と向き合う行為です。この夏も、休暇のとき、いくつかの教会堂、礼拝堂を訪ねました。これは、わたしの一つの趣味と申しましょうか、旅先で、教会堂を見学することは、とても楽しいことであります。この教会堂建築の前には、長崎にまいりました。キリシタンの殉教を覚える旅を家族としました。それとあわせて、礼拝堂をいくつも見学しました。そして、いつも深く印象に留まる一つの場所は、「告解室」です。告解室とは、神父さんと信徒が一つの小さな部屋に入って、顔が見えないようなついたてを立てて、神父様に、自分の罪の行為を告白し、罪を償うために何をしたらよいのかということを教えていただくのです。わたしは、告解室に入りながら、自分であったら、このような形で、神父さんとお話することや、何か、マニュアルのようでしっくりしませんでした。しかし、その一方で、それなら私どもの教会は、ローマ教会の方々のように、信徒がそのような魂の看取り手として、牧師を見、魂の配慮を願っているかと問い返される思いも持たされます。罪を懺悔する部屋が礼拝堂に設置されていること。これは、「ああ、神様の御前にもっとも大切なことは、自分の罪を告白して、赦されることであるということなのだ」その目で見るようによく分かることではあります。ただし、私どもは、基本的には、そのような罪の懺悔をこの礼拝式で、神の民として行うのです。そして、この後の聖餐を祝うことによって、罪の懺悔をし、改めて罪の赦しを受けるのです。しかし、だからといって、マンツーマンの牧会はしなくても良いなどということには決してなりません。むしろ、この礼拝式があるからこそ、その必要性にも気づかされ、そのように牧会を受けて、真実の礼拝者として立ち直ることもできるわけです。

前置きが長くなりましたが、一人の方との牧会の現場で、主イエス・キリストがその魂深くに訪問してくださいました。はっきりと、罪の赦しにあずかったのです。わたしは、いつも、そのような場に立ち会うときに、厳かな思いに打たれます。まさにそれは、聖霊の御業にあずかっているからです。それなら、その聖霊の御業は、具体的には、何を通して働いてくださるのでしょうか。それは、説教です。そこでも、私は、説教しているのです。もちろん、筋道立てて、原稿を準備してではありません。聖霊に導かれて、耳を傾けながら、そこで、福音を語るのです。そしてその説教が、決定的に力を放つのは、御言葉の朗読と結ばれるときです。その方は、わたしが読み、語った聖書の御言葉に対して、こう言いました。「本当に、この御言葉を信じてもいいのですか。本当に、わたしは赦されていますか。」そのとき、わたしは申しました。「これは、神の御言葉です。御言葉の約束を信じましょう」こう、勧めました。その時の、兄弟の顔は忘れがたいのです。いへ、このときの顔は、誰の顔でも忘れがたいのです。一人の人間が、本当に、神の御顔の前に出る、そこで、同時に、主イエス・キリストとお会いして、罪の赦しを受ける。いったい、これ以上に、厳かで、聖なる場所、時はあるかと思います。この神の御前で、くず折れる姿、罪人が打ち砕かれ、赦される姿以上に美しい姿はないのです。そして、その神の御業は、常に、聖書の御言葉の力に基づくのです。聖書に書いてある!これが、私どもの究極の、客観的な支えです。そして私どもに救いの出来事、主イエス・キリストに出会わせ、主の救いを今ここで起こす力そのものなのです。

そうであれば、私どもは、毎週毎週、説教で聴いているのです。私どもが罪を赦され、神に義と認められるのは、ただ、この聖書の御言葉を信じるからです。どんなに信仰的な生活を送っているからというのでもないのです。主の日を一日も休んだことはないということも、自分がキリスト者であることをすべてに明らかにして伝道していても、それで、神の御前にまかり出る、神に義とされるわけでもないのです。ただ、御言葉を信じること、それ以上でもそれ以下でもありません。信仰の偉人、信仰者の父であるアブラハムも私どもとまったく同じようにして、ただ、神とその御言葉を信じて、罪赦された人間なのです。

新共同訳聖書の小見出しに「アブラハムの模範」と書いてあります。言うまでもありませんが、この小見出しは聖書ではありませんから、礼拝式では、朗読しません。ここでの模範とは、アブラハムが信仰の行いの模範をして見せたということではないのです。そうではなく。罪人を義と認めてくださるのは、ただ、神とその御言葉を信じたから、その原型、モデルであるということです。それは、模範というより、原型、モデルと言ったほうが正確ではないでしょうか。

アブラハムの物語を読み進めば、信仰の偉人の姿と共に、一方で、男として、人間として許せないようなだらしない一人の罪人の姿も浮かび上がります。第12章で、行く先を知らずに、神とその御言葉に服従するまことに偉大な信仰者の姿の直後、彼がエジプトに行かなければならなくなったときの大失敗が記されています。妻のサライ、すでに高齢者の仲間入りをしているはずの女性ですが、妻が美しいので、自分が妻のせいで、殺されることを恐れて、サライを妹と偽るのです。予想通り、妻は、エジプトの王ファラオに召し上げられてしまいます。それによって、関係のない、罪を犯していない、ファラオたちが神に打たれ、病気になってしまいます。アブラハムの不誠実、不信仰、偽りは明らかです。

これは、来週、あらためて語りたいと思いますが、パウロは、5節で言うのです。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」ここでパウロは、不信心な者と言い出します。アブラハムのことを例に挙げた直後にです。これは、驚くべき言葉であります。「不信心な者」とは、どういう意味でしょうか。それは、少々信仰がはっきりしないところがあるとか、信仰において煮え切らないところがあるという次元のことではありません。「神を失っている人」という意味です。神を信じていない人という意味です。まるで、神を信じていないように考え、振舞う人間という意味です。

しかし、そのことも、私どもは決して他人事ではない。本当に、自分の人生のなかで、困難なことが起こるとき、思いもかけずに苦しみが続くとき、まるで、神がおられないかのように、神がその困難と苦しみを誰よりも深く共にいて、近くにいてくださっているのに、それを完全に無視して、自分の力で、道を切り開こうとする、神とはかかわりのない解決方法で、その場をしのいで行こうとする、そのような企てから、私どもはなお自由になっていないのではないでしょうか。自分の悩み、自分の悲しみ、自分の憤りに押しつぶされて、自分の力で立ち上がろう、自分の賢さで切り抜けよう、自分の体力で、やり過ごそう・・・、いずれにしろそこでは、神が誰よりもそこにかかわっていてくださる事実を見失っているのです。そこで、神が御顔を向けていてくださることを無視しているのです。御言葉の約束を、聞き逃しているのです。

しかし、パウロは、ここで驚くべきことをもう一度告げるのです。これまで言い続けたことを、改めて告げるのです。主イエス・キリストの十字架と復活の犠牲によって、そこで流してくださった御血、そこで裂かれた御体のおかげで、つまり、主イエス・キリストの義によって、不信心な者、神なき者、神をほっぽりだして生きていた者が、神の御前で罪を赦され、義しい人間と認められる道が開かれたということです。まことに驚くべきことです。信じがたいことです。しかし、それを信じること、それが義と認められる唯一の道なのです。そのような信仰は、ただ神の御言葉のみが根拠となるのです。聖書に書いてある、御言葉がそのように断言したもうゆえに、私どもは今、このままで救われていると信じるのです。信じる故に、信じて感謝して生きている故に、私どもは、今、聖餐にあずかる、与れるのです。自分のような者をも主の命の食卓、聖餐に招かれていると信じるのです。ですから、この神とその御言葉の前に悔い改めることができる、そして、感謝することができる、聖餐を受けることによって、心新たに、神に自分自身を捧げ、献身者として生きる姿勢を整えなおすのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、アブラハムの信仰とその生涯にはるかに及ばない私どもであります。あなたが私どもの生活を見ていてくださるとき、そこに何一つとして誇りうるものがありません。あなたに見捨てられ、裁かれることこそ、私どもにはふさわしいはずであります。ところが、あなたは、私どもはお捨てにならず、かえって、御子を十字架でお捨てになられました。それほどまでに、私どもの罪をそのままに放ってはおかれない御神よ、あなたの御前で、罪赦された者として、なおも歩ませてください。ただ信仰によってのみ生きる人間としてください。ただ聖書の御言葉の約束を信じ、受け入れて、自分の誇り、自分の功し、自分の能力には頼らずに、生きることができる者として下さい。現実の不安の前にうろたえて、信仰が弱る私どもですが、しかしそのときこそ、速やかに、御言葉の約束に立ち返らせてください。アブラハムと同じように、祝福されていること、祝福の中に生かされている自分自身であることをどうぞ、はっきり認めさせてください。アーメン。