過去の投稿2005年9月11日

「圧倒的幸福!」

「圧倒的幸福!」  
     2005年9月11日

聖書朗読 詩篇第32編
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章1~8節② 4~8節を中心に  

「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」」

 日本の優れた説教者の一人に、既にお亡くなりになられた牧師ですが、竹森満佐一先生がおられます。このテキストからの説教の冒頭でこう語っておられます。そのまま読んでみます。「信仰は理屈ではない、と言われます。面倒な信仰の議論をしていると、信仰はもっと単純なものだと言って決めつける人があります。難しいことを言っているから、信仰に力がなくなるのだというらしいのであります。」「しかし、パウロは、なぜこういう議論のようなことを語らねばならないのでしょうか。」そこで、竹森先生は仰るのです。「複雑なのは人間の罪の心なのです。手を尽くして叩き潰そうとしても、またしても別ところから頭をもたげてくるのが、人間の罪であります」今どきで申しますと、もぐらたたきのゲームのようであるということかもしれません。パウロは、既に第3章までで、福音の真理を言わば語りつくしたと言っても過言ではないのです。ところが、第4章で、あらためて、議論を蒸し返すのです。それは、竹森先生に言わせるならば、人間の罪のしぶとさが、福音の真理を明らかにする議論を複雑にさせる理由なのです。

 そこで、パウロは、どうするのでしょうか。彼は、聖書から、一人の人の実例を持ち出すのです。丁寧に申しますと、二人です。アブラハムとダビデです。この二人の実例は、聖書の中の主要な人物です。パウロは、「福音には、神の義が啓示されています」という真理、これまで自分が語り、書いてきた福音の真理は、自分が発明したものではないと言うのです。それは律法と預言者の書、つまり旧約聖書に証されたいたものなのだと言うのです。パウロは、彼ら反対者、批判者との議論のために、共通の土俵である聖書を持ち出します。これは、当然のことです。聖書によって、すべては明らかにさせられるからです。その聖書の中でも、ユダヤ人が誰でも知っている、アブラハムとダビデという人物を引いてくるのです。彼らが証拠になる。

「論より証拠。」という言葉があります。議論だけで、実質がないのであれば、机上の空論という言葉がありますが、まさに空論、空しい議論です。ただしかし、そこで、間違ってはならないことは、議論を軽んじてはならないことです。信仰の生活にとって、信仰を筋道をたてて理解することが、どれほど大切であろうかと思います。一時の感情で、私どもの信仰は成り立たないのです。使徒パウロはここで、議論を深めて行くのです。しかし、この議論を読者である私どもが追うことは、私どもの信仰の喜びそのものとなるのです。なぜかと申しますと、この議論とは、どれだけ、私どもの救いがゆるぎないものであるかを確かめるための議論だからです。罪の赦しが必要な私どもにとって、この議論は、退屈ではありません。しかもこの議論は、実例を挙げての議論です。パウロにとって、確実な実例とは、他でもない、神の言葉を記した聖書の実例です。

 さて、本日、パウロが取り上げられた聖書の実例、私どもの救いの確かさを証拠だててくれる実例は、ダビデです。
ダビデは、イスラエルの歴代の王の中でもまさに、空前絶後の優れた王です。しかし、もともと彼は、羊飼いでした。ユダヤ人にとって羊飼いは、憧れの職業ではありません。むしろ、さげすまれるような職業でした。動物に触れ、時にはその血に触れてしまうからです。そのようなダビデが王となる。ですから、イスラエルの人々にとりまして、ダビデとは、神に祝福された人間のモデルとなりました。神の愛顧を受けるなら、どれほど恵まれた立場に上ってゆくことができるのかという一つの典型、象徴と言っても良いのです。
 

ところがしかし、ここでパウロは、そのような言わば常識的な理解を拒否しているのです。それはどういうことでしょうか。つまり、神の祝福を受ければ、羊飼いから王様になるという、サクセスストーリーを拒絶しているのです。アメリカンドリームという言葉がなお、アメリカで、21世紀の今日の我々の世界で、重んじられています。「勝ち組み、負け組み」という成功物語によって、人間を評価するわけです。もとより、我々人間は、例外なしに、誰でも、いつでも、幸福を求めて生きているということができるでしょう。ただ、そこで、一人ひとりは、何をもって幸福とするのか、それはまさに人それぞれという面もあるでしょう。しかし、幸福感の問題は、それぞれ、若干の違いはありましょうが、たとえば、美しいものに囲まれている。おいしいものを自由に食べれる。大好きな人がいつもいっしょにいてくれる。自分のしたいことが思うまま自由にできる。自分自身の存在が、人々に認められる。重んじられる。挙げて行けば、きりがないかもしれません。しかし、要するに、人間が追求する幸福、幸福感のモデルは、ダビデの人生のなかにあるようなものではないでしょうか。権力者となり、すべてが思いのまま、手に入れられる立場に立つということです。言わば、ダビデのなかに、絵に描いたような成功、幸福を見るわけです。

さて、先週から学んでおります、この4章の言わば主人公は、ダビデではありません。アブラハムです。彼こそが、信仰によって神に義とされる福音をくっきりと際立たせ、この真理を証拠立てる存在です。それなら、なぜ、ここで、ダビデが登場するのでしょうか。そこには、論理的な関連はないのでしょうか。
確かに、アブラハムは、全能なる神を信じた人間です。信仰の従順の言わば鏡のような優れた信仰者です。人間的に誇ろうとすれば、できた人間です。しかしその一方で、アブラハムもまた、何度信仰者として、失敗したかもまた明らかなのです。アブラハムのようなこれもまたイスラエルの歴史の中で、空前絶後のような偉大な信仰者であっても、神の御前に義とされたのは、ただ信仰によってのみなのです。

 そして、ダビデです。彼もまた、信仰者として、世間的に申しますと、「取り返しのつかない」罪を犯した人です。サムエル記第11章に記されている物語です。イスラエルの歴史のなかで最大級の偉大な王であるとされたダビデが、まさにとんでもない罪を犯した。それは、姦淫の罪でした。姦淫の罪によって、バト・シェバを身ごもらせました。それを隠しだてるために、夫であるウリヤを敵陣から呼び寄せました。ところが、ウリヤは決して妻の家に戻らなかったのです。その理由は、今、戦いの真っ最中で、主君も仲間たちも野営している、そのようなとき、自分だけが、家に戻って、妻と過ごすことなどできないと言うのです。

 それに比べて、ダビデは、敵陣に派兵しながら、自分は、のんきに過ごし、あまりにも緊張感を失っていたので、水浴びをしていた女性、屋上から見たのでしたから、おそらくはっきりとは見えなかったであろう、女性に目がくらんだのです。男たちが戦いの渦中にあり、しかも、それをダビデの決断で派兵している銃後の家に、ダビデが入り込んだのです。

ダビデは自分のしたことを闇に葬り去るために、将軍ウリヤを激戦地に派兵させ、そこで、殺したのです。自分の手は汚す必要のない権力者でしたから、夫の死の悲惨さを直接には見ることはなかったでしょうが、ダビデは、殺人者にまで転落したのです。姦淫の罪がどれほど、恐ろしいことになるのか、これは、神の民のなかで世々に語り伝えられる物語になりました。

このダビデは、しかし、権力者です。自分が犯した罪を裁ける人は、地上に誰もおりません。ですから、彼の罪は、自分自身が認めなければ、公然たる事実にはなりません。しかし、そこに、預言者ナタンが神によって、まさにダビデのために遣わされます。彼がした罪をナタンが暴き出すのです。主の言葉を侮り、主の御心に背いていると断罪したのです。しかし、それでも、ダビデは権力者ですから、ナタンの言葉に耳を貸す必要はないのです。ナタンを非礼者として、牢獄に閉じ込め、殺す権力を持っていました。

しかし、そこでダビデはどうしたのでしょうか。彼は言いました。「わたしは主に罪を犯した。」多くの人がここで、戸惑うのです。どういうことかと申しますと、罪を犯したのは、ウリヤに対してであり、バト・シェバに対してではないか。罪を告白し、謝罪するのは、まず、誰より先に、被害者に対してではないか。ところが、聖書は、言うのです。ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」そして、ナタンも直ちに告げるのです。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」ただ主に罪を犯したと告白しただけなのに、一気に罪を赦された、それが、ダビデが経験したことです。

神を知らない人は言います。ダビデは、自分のしでかした罪悪の大きさをまだ分かっていない。しかし、聖書はそのように理解しません。罪は、究極においては、神に犯すものです。これが、罪なのです。こんな悪いことをした、あんな悪いことをした、このことが人に知れたらもう生きて行けない。自分のしでかしたことを、知られたら軽蔑され、憎まれ、もはや友達にはなってくれない。もはや、夫婦の関係は壊れる。親は、自分を捨てる。だから、罪を犯したくない、だから、たとえ罪を犯しても、周りに知られないようにこっそりとする、そのこっそりとしているのであれば、罪にはならない。相手がいる罪の場合でも相手も同罪であるから、かまわない。結局、人の前で自分がどう見られるのかということを巡っているのです。

しかし、パウロは、旧約聖書は、罪とは、神の御前で犯すもの、よって、この神に赦される以外に、罪の赦しということはありえないと主張するのです。ダビデはここで、まだ、罪を真剣に考えていない、悔い改めていないというのではないのです。もちろん、罪は人に対して犯すのです。間違いありません。しかし、究極においてこの罪を裁かれるのは神です。だから、罪を告白するのは、神に対してするのです。
ですから、もしも人が、自分は罪を犯したので、自分なりに、今後は、立派な生き方をします。償いの生涯を送ります。できる限り献金をします。施しをします。罪を償うための善行、よき行いをして日を過ごします。と決心し、約束しても、それだけで罪が赦されるわけではないのです。どれほどのことをして償ったとしても、神がそれをお赦しにならなければ罪はそのまま残ります。

ところが、ダビデは、罪を告白したとき、ただちに神にその罪を赦されたのであります。世間的に申しますと、確かに「こんな甘い話はない」と、憤られる方も多いことと思います。「これだからキリスト教は、いい加減だ。甘ったれている。口ではいい事を言っても、生活の実際は、なっていない、よほど信仰などない人の方が、誠実に、真実に、まじめに生きている。」このような辛口の批判がないわけではない。確かに、まじめに、誠実に信仰なき人々が生きておられることに対して、深い敬意を払います。それに比べて、キリスト者といわれ、自分でもそのように自覚している私どもの生活を深く恥じざるを得ません。時に、もう自分がキリスト者であるということを取り下げざるをえないのではないか。むしろ、自分がキリスト者であるということで、人々を神から遠ざけるのではないか。それくらいなら、キリスト者であることを隠しておいたほうがよいとすら、悪魔のまさに誘惑に乗ってしまうこともある。

横道にそれますが、悪魔は、キリスト者を特に狙って、具体的に罪を犯させます。誘惑してまいります。そして、誘惑しておいて、自分の仲間にした人間、罪を犯した人間に、断言し、説得するのです。「もうお前など信仰者などではない。教会員であるわけがない。教会になど行くな。深入りできないはずだ。」さらには、「お前は、生きている資格も値打ちもない。」このように、自分を軽んじさせる、神を軽んじさせるのです。

しかしさらなる悪魔の誘惑もあります。「教会といえど、所詮、それくらいのところだ。あなたくらいの罪はなんのことでもない。罪人の集いだと自ら言っているくらいなのだから、あまり堅いことを言うな。難しいことばかり言うな。」こうなれば、教会共同体全体が悪魔の虜になるでしょう。悪魔は、罪を犯させ、罪を犯した者を自分の仲間にし、教会と信仰を破壊するのです。

しかし、私どもは、そこでこそただちに、神のみ前で罪を告白するのです。そこで、罪を赦される。それは、決して、甘ったれたことではないのです。なぜなら、神は、罪を甘ったれて判断されません。神こそ、いへ、神のみが罪を真剣に、まじめに考えておられるのです。神以上に、罪を悲しみ、憤り、常に問題にしておられるお方はないのです。それが、どれくらい真剣、深刻なことであるのか。それは、神の独り子を十字架につけて、罪を断罪なさるという方法をとられたことに明らかにです。あの十字架においてこそ、神が罪を甘えたように帳消しにされることはないことが明らかに示されたのです。罪になあなあになることはなないことが明らかになるのです。神のみが、真に、罪を憤っておられるのです。

この罪を憤る神を知らないと、人は罪と戦う意欲、罪から遠ざかろうとする意欲が、湧き出ません。それは、ただ単に神の愛を知ればよいということではないのです。十字架で、神の憤りもまた啓示されました。しかし、その憤りは、御自身の愛のなかで、受け入れられるのです。私どもを赦すために、この憤りは、私どもへの愛のなかで、乗り越えられた。これが、十字架です。この愛が、私どもを悔い改めさせ、罪から逃れさせるのです。教会に来る、それは、罪と戦うことです。ここで、毎週、罪が問題にされる。罪が問題にならない主日礼拝式はないはずです。それは、偽善、それは、偽りの礼拝です。いつも、罪の告白がなされるのです。それは、十字架の神、主イエス・キリストを知っているからです。

それ以外にない。そして、罪を告白しながら、自分自身が、それでもなお、弱い人間、それを完全には克服できない生活であったことを知らされるのです。しかし、私どもは、そこで、悪魔に負けない。誘惑を見破る。

それは、自分自身を決して、ただの罪人として認めないことです。赦された罪人として認めることです。神に義とされた人間であると信じるのです。それは、開き直りではない。これが、信仰です。神が御子において、なしてくださった十字架を受け入れるのです。この十字架の御業にすべてをゆだねるのです。
私どもは自分が一週間、神に顔を上げるようにして生きれたから、神のみ前に、立派に生きてきたから、ここにいれるわけではない。ただ、この罪が御子のおかげで、ここにいれる、ここで礼拝することができるのです。私どもの罪が赦され、覆い隠されたことを認めるのです。罪があると見なされないのは、ただ、御子の犠牲の故であると信じるからです。

ダビデの詩の「不法を赦され」そこでの赦しとは「持ち運ばれる」という意味があるそうです。神の御顔の前から持ち運ばれる、外に運ばれる、見えなくなるのです。
そこで思い出すのは、レビ記第16章のアザゼルの山羊の物語であります。アザゼルという言葉の意味はいまだ、よく分かりませんが、いずれにしろ、祭司アロンはイスラエルの罪をあがなうために、「二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。 アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めておき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。」「アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。」

つまり、アザゼルの雄山羊は、イスラエルのすべての罪責と背きと罪とを負わせられ、荒れ野へ追いやられるのです。不法を赦されるとは、荒れ野へ、持って行ってしまわれるということです。なんとありがたいことでしょう。これが、ダビデの経験です。そして、私どもは、このアザゼルの山羊以上のものを、御子イエス・キリストにおいて、あの十字架において経験し、見たのです。御子の上に、真の祭司なる父なる神が私どもの背き、不法、罪を負わせたのです。そこで、荒れ野、神なきところへと追いやられたのです。そのようにして、神は私どもの罪を覆ってくださいました。神の目に、追い出されたのです。神ご自身が罪を担い、これに決着をお付けになられたのです。

先週の花倶楽部で、このお話をいたしました。人間にとってまことの幸福とは何か、それは、ダビデのような幸福、地位や名誉やお金を得ることではなく、罪を赦されること、そのように申しました。しかし、この幸福は、神を知らなければ、この幸福を求めることも知らないはずです。神を知らなければ、この幸福を必要とはしないのです。しかし、神が存在する限り、そしてこの神の御前に、私どもが罪人である限り、これ以上の幸福はないのです。いかなるものにも揺るがされない、絶対的な幸福、圧倒的な幸福、それが、神に罪を赦されることです。

先ほども祈りましたが、本日は、衆議院選挙投票日です。テレビのニュースで、何度も、党首たちの演説を聞きました。自民党総裁の小泉さん、民主党の岡田さん、共産党の志井さん。基本的には、必死に、短いことばをリフレインします。特に、小泉自民党は、改革を止めるなと声を枯らして連呼します。それ以外は言わないのです。わたしは、彼らを見ながら、教会の実践を恥じる思いを禁じえません。今、何を人々に訴えているのか。それは、他でもありません。「この神の与えてくださる幸福を受けよ」ということでありましょう。「これが、幸福です。この幸福こそ、真の幸福。揺るがないものです。生命保険、年金の保証より確かな幸福の根拠です。これなしに、どれほど、確かな生活の糧を得ても、神の御前に幸福になれません。」

しかし、そこで同時に、人々の耳に痛い事をも呼びかけるのです。この幸福を軽んじること、この幸福を必要なしとすることは、神を殺すこと、葬りさることになる。
思いますと、このローマの信徒への手紙は、もともと驚くほど単純なことを語っているのです。まるで党首のリフレイン演説ではありませんが、ほとんど唯一つのことです。人間は、信仰によって、恵みによって、キリストによって罪を赦され、義と認められる。これです。この恵みを受ける人間こそ、圧倒的に幸福、絶対的な幸いを受けることができるのです。パウロは、確かにそれを単純に連呼しているのではありません。しかし、要するに、それを告げているだけです。そうであれば、私どももまた、このローマの信徒への手紙を読むことは、パウロのように、どうしてもこの幸せを、この時代の、この国の人々に知らせるために、なんとしても、皆様と力を合わせて、いかにかして、一人の人に、この幸せを求めるように励ましたいのです。

しかしそこでも、あらためて教会自身、キリスト者自身も問われます。この聖書の主張、聖書の真理をわきまえていなければなりません。それは、この幸福は、誰のためにあるのかということです。これはもしかすると妙な問いになるかもしれません。幸せというのは、改めて問うまでもなく、我々のためのものでありましょう。しかし、果たしてそうでしょうか。聖書はなんと言っているのでしょうか。それは、神の栄光のためなのです。誰が罪を憎み、憤っておられるのか。罪人である私どもではないのです。誰が、罪から救い出そうと真剣に願い、行動を起こし、罪と戦っていてくださるのか。それは、当事者である罪人、私どもではありません。いずれも、神ご自身なのです。

教会は、この神の御心を、聖書を通して知らされたのです。だから、キリスト者は、罪と戦い始めるのです。この神の罪を赦された十字架の御業、キリストの贖いを知らされたので、自分自身が罪を悔い改め続け、神によりすがり、赦しの幸いのなかに留まり、この幸福を感謝し続けるのです。そればかりか、一人でも多くの子どもたち、青年たち、壮年たち、婦人たち、高齢者たちに、この福音を証したいのです。

そのために、どうぞ、この幸福を賛美し、感謝しよう。主に礼拝を捧げたいのです。ダビデの詩は、罪を赦された者の賛美の歌。喜びの叫びです。私どもは主の日の礼拝式のたびに、この賛美を、自分の賛美として神に歌うのです。私どもの幸福は、ここにあると、十字架にある。神にあると賛美するのです。そして、今日から始まる一週間、それぞれの生き方をもってこの真の幸福、圧倒的幸福の実例として生きるのです。私自身が、一人のダビデとして、アブラハムとして、信仰によって生かされ、罪赦された人間のモデルとして生きるのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、人間に必要なもの、なくてならないものそれは、毎日の食事と罪の赦しであると子どもの献金の祈りにあります。そしてあなたは、私どもに常に、それらをお与えくださるのです。それにまさる幸福はありません。それにもかかわらず、不平、不満をならず私どもを憐れんでください。そして、この不信仰の罪から救い出し、赦してください。私どものこの幸いを深く感謝し、それだけに、いっそう、あなたに従い行く歩みを強くしてくさい。アーメン