「祝福をもたらす民 -アブラハムの模範②-」
2005年10月2日
テキスト 創世記 第12章
「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。」
先週は、創世記の第12章1節から4節の前半までを朗読しました。私どもは、そこで信仰の父、神の民の父となったアブラハムの生涯の原点となる出来事を学びました。それは、神が一方的に、アブラハムに、「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」と命じ、招かれた出来事でした。そこから、彼の神へと出発する信仰の人生、信仰の生涯がスタートしたのです。神の御言葉に招かれ、神の御言葉に従う一歩を踏みしめること、これこそ、信仰の原点であります。しかもこれは、ひとりアブラハムの経験ではなく、アブラハムの信仰に連なるすべての神の民の原点でもあるのです。私どもは、今朝も、ここに呼び集められ、神へと出発し続ける民として、地上を旅する民として、足並みをそろえて、アブラハムの足跡を踏みしめて進んでおります。そして、天国を目指して、主イエス・キリストとともに、神の民とともに今ここで賛美の歌を歌いつつ行進しているのです。
さて、アブラハムは輝かしい信仰の出発の後、第8節で、主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだことが記されています。私どもと同じように、礼拝式を整え、祈ったということであります。信仰者の姿勢をここできちんと整えたわけです。ところが、この信仰者としてのまことに輝かしい足跡の第一歩を記したその直後に、思いもかけない出来事、不祥事が起こりました。
アブラハムが、その地方に飢饉が起こったとき、エジプトに行きました。しかし、そこで、彼は、自分の妻が美しいので、エジプト人は妻を手に入れるために、夫である自分を殺すに違いない、だから、妹であると言うようにとサラに願い出ました。事実、エジプトの王は、サラの美貌を聞きつけて、召抱え、兄であると主張したアブラハムを厚遇したわけです。豊かな財産を受けました。ところが、神は、この事件に介入してくださり、この行為だけをとれば罪もない、その責任もない、エジプト王と宮廷を病気によって打ったのです。アブラハムにしてみれば、このサラは妻であることがまったくの嘘ではないと弁解することもできるかもしれません。確かに異母兄弟なのです。しかし、それはごまかしでしかありません。このアブラハムの不祥事、罪の物語は、一人の人が、信仰からそれると、それが、信仰者でない人々を苦しめることになると、神は、この出来事を通して、私どもに語っておられます。
これはついでのことでありますが、聖書は実に正直に、アブラハムのこの不祥事、罪をきちんと記しました。聖書は、神の民の救いの歴史を記す書物、いわば、歴史の本です。振り返りまして、我々の国は、歴史を覚えること、直視することを軽視します。かつて、伝道新聞の巻頭言に、「聖書は自虐史観?」という題で書きました。当時、「新しい歴史教科書を作る会」が大々的なキャンペーンで、多くの教科書が、日本の歴史について、自分の国を蔑む教育を施している、国を愛することをしないで、むしろ自虐的である、だから日本の国は乱れてきたのだと主張しました。この運動は、今も、熱心に、勧められております。それに対し、わたしは、聖書の中には、実に数多くの自分たちの信仰の先輩や国の罪を包み隠さず、美化せずに語っているのだと紹介しました。ここでも、同じことが記されています。
先週の祈祷会で、教会に生きる婦人たちのことを学びました。そこで、あらためて、ひとり、ひとりが、本当に目立たないところで教会に生き、教会の奉仕を支えておられることを、確認し、感謝しあったのです。そこで、紹介されていたひとつのエピソードに何人かの方が言及されました。それは、ある一人のご婦人が、外国から奉仕に来られた牧師のための食事の集いにおいて自己紹介をされたエピソードです。彼女は、こう申しました。「わたしは単なる主婦です」それに対して、マルクース・バルト先生は、「単なる」はとって、もっと誇りに満ちて自分を紹介し直してほしいと仰ったのです。これは、日本人としては、どきっとする言葉であると思います。でも、バルト先生は、譲れなかったのでしょう。「わたしは教授ですけれど、あなたは主婦。主婦であることは、劣ったことではないはずだ。神の御前に、主婦として生きることにどうしてもっと誇りを持たないのか」愛の叱りです。そして、このご婦人もまた、このお叱りのなかで、深く慰められたのです。
キリスト者とは、主婦であろうが、会社員であろうが、学生であろうが、取り立てて社会の中枢で生きているわけではない者であっても、どれほど、世界的な存在であるのか、歴史を作る存在であるのかを、ここから私どもは学ぶことができるはずです。一人のキリスト者が信仰に生きるかどうか、それが、自分だけの小さな、個人的な問題にとどまらないことを私どもは確認したいのです。
日本の教会は、どこかの宗教団体のように、政治的な権力からはまさに縁遠い、小さな共同体です。けれども、うっかりするとそこで、教会自身が個人主義的になる、自分たちは、教会の中で、閉じこもって、天国を目指して進めばよい。自分たちは、この世俗とできる限り関わりなく、信仰を守って生きればよいのだ、そう考える間違いです。これを極端に推し進めたとき、たとえば、エホバの証人、ものみの塔という宗教団体のように、選挙に関わることは、罪であると、内部で主張することになります。しかし、そのような極端まで行かずとも、そのような気分がキリスト者と教会の
どこかにあるのであれば、深く聖書に問われます。
たとえば今朝、主の日に教会に集う、これは、個人的なことなのでしょうか。もちろん、自分がここに来たから、ここにいるわけです。しかし、礼拝は決して単に個人的な行為ではありません。神の民の行為です。共同体の業です。しかも、この共同体は、神の家、神の召集によって集わされ、神へと出発し続ける旅する民であって、地上の氏族はすべて、教会によって祝福される、つまり、世界は教会が信仰の旅路を歩み続けることによって、救われること、完成されることが約束されているのです。ですから、主の日を重んじ、捧げること、教会が祈りを捧げることは、決して自己目的なものだけではなく、世界の救いと世界の歴史の完成のためにしているのです。教会がもしも、この神との関係を損なって、不信仰、不服従になれば、未だ、神を信じていない世界にいわば、迷惑をかけるのです。家庭のなかで、一人、ここに来ている仲間たち、いや、夫婦で来ている仲間たちもそうですが、もし一人の信仰者が、信仰の道を真実に、まっすぐに歩み続けるなら、祝福が必ず家族に、隣人に、世界に伝わるのです。なぜなら、神がそう、アブラハムにお約束になられたからです。
しかし実は、この失敗を彼は、第20章においても繰り返しました。ゲラルの王アビメレクが、サラを召しいれたのです。神は、この行為によって裁きを与えようとしていたのです。アビメレクはすぐに、サラを返しなさい、そうでなければあなたもあなたの家来も必ず死ぬと宣告されました。これを夢の中で知った、王は、アブラハムを呼びつけてこう言いました。「あなたは我々になんと言うことをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。」
アブラハムはそのときも、このように弁解しました。「この町、この土地には、神を畏れることがまったくないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」しかし、実際は、アビメレクの倫理観、道徳観は、大変高いものでした。神もまた、このようにアビメレクに告げられています。「わたしも、あなたがまったくやましい考えでなしにこのことをしたのを知っている。」むしろ、アブラハムの方が、この神を信じていない王よりも不誠実なのです。
ところが驚くべきことに、神は、このアブラハムをしてアビメレクのために祈らせられるのです。これは、おかしいことではないでしょうか。むしろ、アブラハムは、彼に謝罪しなければならない、のではないでしょうか。自分が偽ったために、あなたたちに大変なご迷惑をおかけした、本当に、申し訳ない。わたしのことを許してほしい。そう謝るべきではないでしょうか。ところが、アビメレクは、ここでも、彼らに好意を示し、羊や牛、男女の奴隷を与え、自分の領土で自由に暮らすことを許したのです。そして、何より、アブラハムは、王のために祈りました。王は、頭をたれて、祈ってもらったのです。
ここにも、今日の神の民の使命と責任を思わざるを得ません。教会は、たとえ、弱く小さく、本当に神の御前に信仰の道を踏み外し、倫理的に、この世の人たちと同じ程度、時には、彼ら以下に転落してしまったとしても、なお、教会が神の選びのもとに立てられているなら、この教会を神が見捨てたまわないのです。これは、驚くべきこと、おそるべき事です。神はこの教会を通して、隣人を、地域社会を、世界を祝福することを、アブラハムに約束されたのです。すなわち、神の民に約束されたのです。今朝、この事実を厳かに受け入れることが私どもに求められているのです。
ですから、先週も聴きました主イエスの御言葉、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」この御言葉をここでも思い起こします。山の上にある町は、隠れることができないように、私どもの教会は隠れることはできません。ともし火は燭台の上におくように、神は、教会を世界の真ん中において、その上において世界を照らすことをお定めになられました。決断されたのです。この教会の善き生活をもって、人々の目を父なる神にむけさせるためです。
それなら、この善い生活とは、何を意味するのでしょうか。それは、分かりきったことではないと思います。丁寧に考えなければならないと思います。アブラハムは、自分が間違ったことをしていたのにも関わらず、アビメレクのために祈ったのです。人間的に見れば、そこで、自分がキリスト者、神の民であることを隠してしまいと思うのではないでしょうか。教会とか信仰と関わりない人間であるとふるまったほうが、父なる神の栄光を傷つけないですむとすら思います。ところが、そこで、彼は神によって、祈るように命じられ、祈らされるのです。つまり、教会とは、神によって、世界のために祈るように命じられているのです。そうであれば、私どもは決して、高慢になることはできないのです。私どもは、教会自身の罪を知らないわけではありません。教会の中にも、惨めな信仰的な敗北がありましたし、今日もあります。神を知っていながら、神の祝福を受けていながら、どうして、こんな愚かなことをしているのか、どうして、もっと神に喜ばれるような、少なくとも、この世の人々とは違った善い生活、倫理的な生活ができないのかと思うことがないわけではない。
しかし、そこで、神は、なお、教会をあきらめてはおられないのです。アブラハムを神は、あきらめないのです。彼が神を信じているゆえにです。そして、それゆえに、神は、他でもない、神の民であるアブラハムを通して、アビメレクを祝福なさったのです。そのことを今日の教会もまた、肝に銘じたい。私どもは、自分の善い生活と言うとき、神を知らない人々の誰しもが認めるようなものではないのです。善い生活とは、つまるところ、ここで、私どもが神に集中して、神をただ神の栄光を求めて、礼拝すること、これに勝って善い生活はありません。そんなことは、キリスト者の独りよがりだ、あなたたちは、自分たちの宗教生活、宗教的な満足だけを求めて、日曜日に来ているだけだ。もし、このような批判があれは、それにも真摯に耳を傾けるべきです。なるほど、自分のために、教会に励んでいるだけなら、他の宗教に熱心な人々となんら変わることはないかもしれません。つまり、自分の祝福、自分の幸福、自分の満足のために、礼拝するのであれば、批判されるのは正しいのです。しかし、私どもは、ここに神のために、神を神とするために来ているのです。これが、神のために、そして、世界のためになるのです。未信者の方は、まさにそこで、独りよがりと批判するかもしれません。しかし、私どもは、そう信じているのです。ここで、どれほど、小さな礼拝共同体であっても、主イエス・キリストの復活記念日に、安息日に、神を神とするために、神に礼拝を捧げることとが、何にもまさる神への奉仕であり、世界への奉仕であると信じるのです。
神はアブラハムに仰せになられました。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」厳かな神の約束であります。これは、決してアブラハム個人のなかに、祝福する力があるからではないのです。祝福するにたるだけのたくさんの功績があるからでもないのです。アブラハムという一人の人間そのものに、何かの神秘的な、宗教的な力があったからではないのです。ただ、この神がアブラハムを選び、彼にこの約束を授けたからです。そして、何よりも問われることは、アブラハムがこの約束を信じて受け入れたからです。彼が信じ、出発し、生き続けたから、祝福の源になるのです。
最後に4節の後半に注目したいと思います。創世記の著者は、ここで何を私どもに告げようとしたのでしょうか。「アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。」ここで、コントラストを鮮やか「ロトも共に行った。」と記しました。ロトは、主の言葉に従って旅立ったのではなく、アブラハムと共にくっついて行ったということです。そして第13章では、このくっついていったロトとアブラハムは別々の道を進むことになります。ロトの一行と油ハムとの間に経済的な争いが起きたからでした。そして、アブラハムがこのように提案しました。「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」アブラハムは、ロトに選ばせました。そのことによって、財産の争いを回避したわけです。このことを創世記は実に第13章まるまる一ページを割いて記したのです。これが後の神の民にとっても、極めて大切な経験、信仰の旅路の真理を明らかにしているからです。
私どもは、神の民の祈りの家として、信仰を常に、共同体的に捕らえてまいりました。これこそ、聖書の信仰だからです。今日、さまざまにキリスト教的な宗教が横行しています。教会と看板を出しても、あるいは、最近は、チャペルとか、はたまた、まったく教会とは関係ないような命名を施したキリスト教的な集いがあることを知っております。
しかしそこでこそ、私どもは、このロトの物語から真剣に問わなければなりません。信仰は、「お付き合い」では決してできないということです。単に人間的なつながりだけでアブラハムについて行くのでは、途中で、別れるしかないのです。つまり、ロトもまた、まことに天国を目指して出発するためには、自分自身で神の御言葉を聴いて、旅立つ以外にないのです。
先週から幼児洗礼入会志願者の両親と学びをはじめました。赤ちゃんに洗礼を施すのが、聖書的な教会の姿であると確信いたしております。しかし、同時に、親と一緒に教会に行けば、それで、すべてが済むわけではないのです。私どもは、教会共同体とともに生き、旅をします。この家から離れたところで、旅路を進むことはできないのです。しかし、ただ、形式的に家の中にいれば、天国に到達するとも、私どもは信じていません。それは、このロトの例でも明らかであります。
私どもは今、聖餐に招かれています。個人的に聖餐を祝うことは通常ありません。礼拝堂に来ることのできない方、病いの床におられる仲間がいれば、そこで聖餐を祝うことは大切です。しかし、そこでも、わたしとその方だけで、二人で聖餐を執行することは、できる限り避けるのです。長老を伴って、この聖餐が、神の民として、天国への祝福の前味、教会の仲間たちの絆のなかで、祝うことを、求めるのです。そのようにして、今祝う、聖餐の食卓も、教会を立てるためのものです。ですから洗礼を受けている人、基本的には、この教会の会員が招かれているのです。
しかし、それは、自動的なものではありません。洗礼を受け、ここで聖餐を受ければ、自動的に、天国へと運ばれてゆくということではないのです。だからこそ、この後すぐに、コリントの信徒への手紙一を朗読し、勧告します。「誰でも自分をよく確かめたうえで」と御言葉を朗読します。そこで、ロトであってはならないということであります。この聖餐への主イエス・キリストの招きを自分への招きとして信じる信仰なしに、この聖餐を受けることはかえって災いとなるのです。
私どもは、今、神の民の食卓、命の食卓である聖餐を祝います。私どもは、聖餐を執行することを常に、聖餐を祝うと表現してまいりました。私どもの救いの祭りだからです。私どもにとっての決定的な救いと勝利が確定したことを、神の家族みんなでお祝いするからです。そして、この聖礼典を祝うということは、自分たちが祝福されていることをあらためて信じることに他なりません。それは、自分のことをもはや「ただの主婦です」「ただの会社員です。」「ただの学生です」「ただの」とか「単なる」と見ないということです。バルト先生は、一人の姉妹を叱りました。その方は、治癒不能のご主人をほとんど付きっ切りで看病なさっておられたそうです。まさに信仰者として、ご主人に仕えておられたのです。わたしもこの婦人はこの叱責を慰めとして受け止められたと思います。しかし、わたしはそこで万一、この方がこのように仰ったとしたらどうだろうかと考えます。「自分は、やはり、単なる主婦です。いへ、わたしの夫は回復しない病人です。わたしは、祝福されている人間ではないと思います。」皆様なら、なんと、この姉妹に言うでしょうか。
私どもの祝福、それは、何でしょうか。それは、聖餐を受けることができる民ということであります。先日のローマの信徒への手紙からの説教で、「『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。』と学びました。罪を赦されること以上の幸せなど、この地上にありません。圧倒的、絶対的な幸せこそ、罪の赦しであります。この罪の赦しを受けた人間こそ、祝福された人間なのです。そうであれば、今、この聖餐の食卓に招かれている私どもは、なお、自分が、家族が苦しい目にあっているからと言って、自分のことを祝福されていないただのなになにです、と自己紹介したり、自分で自分を評価できるでしょうか。私どもは今、もう一度、聖餐を祝うことによって、自分たちは神に祝福されている人間であると、神の御言葉を信じて、自分を受け入れなおすのです。そのときには、同時に、その祝福を独り占めにしてはならない、むしろこの祝福は、自分たちを通して世界にもたらすことができるし、しなければならないのだとあらためて信じるのです。それが、今朝、この聖餐を祝う私どもの共通の志であります。牧師が朗読する主の招きの言葉を信じて聴き、主イエスが牧師を通して差し出される命の食物を、私どももまた手を差し出すようにして、受け取るのです。そのようにして、この祝福を喜び、祝い、祝福の源として生きるのです。
祈祷
地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る、と約束し、その使命を与えてくださいましたアブラハムの神、それゆえに私どもの父なる御神、しばしば、信仰のまなざしが小さく、狭くなってしまう私どもであります。教会が、世界の祝福の基、鍵となっていることを見失い、小さな身の丈にあったことだけをすることで満足してしまい、そのようにして、小さな殻のなかで、生きようとする誘惑を受けています。どうぞ、旅立たせてください。常にあなたへと出発し、そのようにして世界へと、世の真ん中へと、私どもが勇気をもって、教会の使命に生き、人々にあなたの祝福をもたらすことができますように。信仰を富ましめ志を高くして、今朝、皆で再出発させてくださいませ。アーメン