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外に出るとは

「外に出る」 
2005年11月2日(水)
金城学院大学朝のチャペル 
聖書朗読 創世記 第12章1~4節


「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 
祝福の源となるように。」 

今朝は、皆様と聖書に登場する一人の人間について思いを潜めたいと思います。その人は、アブラハムです。今からざっと4000年前に生きた実在の人物です。アブラハムとはユダヤ人の父祖です。ユダヤ人とは、アブラハムから始まります。しかし、アブラハムはただ単に、ユダヤ人の父祖だけではありません。彼は、すべて神を信じて救われる者の父なのです。そればかりか、すべての人間にとって、人間が人間として成熟するとは何かを考えさせるモデルです。たとえば、イスラム教の教えの中でも、アブラハムは、モハメッド以前の最大の預言者としての尊敬と地位を得ています。今読みました、創世記の第12章は、アブラハムにとって、もっとも大切な事件となる信仰の生涯のスタートとなる物語が記されています。今朝は、「外に出る」という題で短い説教をして、神を礼拝いたします。

さて、神は、既に75歳になっていた一人の男に、突然、しかも、大変なことを語り掛け、命令なさるのです。「父の家を離れなさい。わたしが示す地に行きなさい。」いったい神は、アブラハムに何のために、生まれ故郷、父の家を離れさせようとなさったのでしょうか。

故郷を出る、父の家を離れる、それは、明らかにこれまで慣れ親しんで暮らしていた場所から離れること、そこから出ることを意味しています。しかし、これは、ただ単に、住む場所のことを意味しているのではありません。それならここで言われている故郷、父の家とは何を意味しているのでしょうか。

「引きこもり」ということが社会問題となって既に久しいことと思います。青少年が、自分の家の中、自分の部屋に閉じこもって、学校にも行かず、仕事にも出ず、社会生活をしなくなることです。しかし、これは、単に、そのような具体的に引きこもっている青少年たちだけの問題ではないと思います。わたしは、引きこもりこそ、現代人の姿のまさに象徴であると思えてなりません。

今や我々は、個人的にも、日本という国家のレベルでも、ますます加速度をあげて、引きこもり、つまり、自分本位の価値観、世界観の殻のなかに閉じこもる傾向を強めてしまっているのではないでしょうか。日本の社会は、かつての計り知れないほど重い戦争責任を忘れてしまっています。その証拠に、今や、少なくない若い人々が、アジアの人々の靖国神社への首相の公式参拝に対して抗議する怒りと悲しみの声に耳を覆い、目を背けています。逆に、「内政干渉だ」と、日本人だけの論理のなかに閉じこもって恥じることがありません。

個人の人生においては、さらにはなはだしいのではないでしょうか。結局、自分の幸せ、自分の損得だけに一喜一憂するばかりの風潮が強まっています。社会のストレスから逃げよう、そして、平安な気持ちを得るために、宗教に逃げ込もうとする。しかも、そのような人々をどんどん吸収する教祖や宗教も少なくありません。さらに悲しいことは、もはや宗教と呼ぶこともできないような呪術、星占いとか風水とか、まさに考えることをまったく放棄させるような次元のものに頼る人々も少なくないのです。今日、既に多くの日本人が大学教育を受けたはずなのに、です。女性の占い師がしばしばメディアに登場して、人気を集めているようです。コンピューターのような最先端の科学技術を使いこなして仕事をしている人々が、それに捕らえられてしまっているのです。この現実は、今から、4000年前のアブラハムが生活していたカルデヤのウル、ユーフラテス川沿いのメソポタミアの人々となんら代わらないのではないでしょうか。そこで人々は、月を拝んで生活していました。現代人と古代人とは、ほとんど同じ次元で生きていることにならないでしょうか。端的に申しまして、日本の社会は、日本人は、今なお、「ひきこもり」を克服していません。いへ、現実は、ますます危険な状態へと後退しているのではないかと思います。

アブラハムとは、そのような自分中心、自分のことだけに関心があるという故郷、言わばあの引きこもりの個室から出た、最初の人間です。彼は、神に呼び出されて、外に出たのです。それは、神がアブラハムをご自身と結びあわせ、その絆を深めるためでした。ここで、誤解してはならないことですが、これは、決して自分の力で達成できるものではありません。ただ、神の力によるものです。ただ、神の御言葉を聴くことによってのみ、達成できるものなのです。ですからどうぞ、アブラハムのように、神の御言葉を聴いてください。聖書を読むことです。教会で、説教を通して神の声を聴くことです。

しかし今朝ここで、神は、私どもひとり一人にも、同じように、あなたの生まれ故郷、父の家を離れよと呼び出しておられます。それは、下宿をしているからできているとか、自宅通学者だからまだできていないとか、ということではないことは既に明らかです。どうぞあなたも、生まれ故郷の外に出てください。自分のなかに引きこもる生き方をやめ、自己中心的、自己優先の生き方から飛び出してください。それは、神へと向かうことです。神に従って生きることです。

外に出る、神へと出る、神と出会う、神を信じて生きてゆく、それは、決して自分の個性や、自分の人生が縛られることを意味しません。むしろ、外に出ることのない人、そのようにして、自分を見失ったままの人、自分が確立できないままの人は、いとも簡単に、占い師の脅しに負けるのです。簡単に、声の大きい人に圧倒されてしまうのです。ただ大勢の人たちがしているからというだけの理由で、自分の人間としての尊厳、重みを平気で失ってしまうのです。実に、人間は、神と出会うときだけ、神に従うときだけ、本当の意味で、自由になることができるのです。実に神を何よりも重んじる人間こそ、人間の尊厳に生きることができるのです。

皆様の今日の学びが、外に出るための学びとなりますように。この大学での学びや研究が、言わば引きこもり型の学問になることがありませんように。図書館のエントランスに掲げられた御言葉、真理はあなた方を自由にする、この真理は、あなたの外にあるのです。外に出る時、あなたは自由になるのです。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ、自分中心の殻の外へ連れ出してください。神へと解き放ってください。そこでこそ知ることができる、あなたと共に生きる自由とまことの平和を味あわせてください。そして、それを独り占めにすることなく、隣人と分かち合わせて下さい。アーメン。