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「誰をも顧みられる神 」アブラハムの生涯④

「誰をも顧みられる神 アブラハムの生涯④」

       2005年10月23日
テキスト 創世記 第16章
アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」
アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。
サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」
アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」 主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」
主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい/主があなたの悩みをお聞きになられたから。 彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので/人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と言ったからである。
そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。
ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
 先週は、講壇交換で皆様と離れて主の日を過ごしました。
皆様の上に、わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が豊かにありますように。神の御言葉を聴いて礼拝する私どもの特権を感謝します。今朝の礼拝式もまた、聖霊によって主イエス・キリストのご臨在が豊かにあらわされますように。

さて、今朝与えられた小さな物語は、アブラハムの妻サライによって、動き出します。今、小さな物語と申しました。それは、先回学んだ、アブラハムに神が実子を与え、その子は、星の数のように大勢になると約束し、アブラハムはそれを信じ、神はそれを彼の義と認められました。これは、まさに大きな物語です。決定的に重要な、箇所です。しかし、それに比べれば、確かに今朝の物語は、まさに小さなエピソードのような感じが致します。

サライ、後にサラと名前を変えますが、彼女は、アブラハムの妻です。著者は、まず、サライを妻と確定します。妻はもちろん彼女ただ一人です。
ここであらためて確認したいのは、主なる神は、この章の直前に、はっきりとこう仰せにならていることです。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」これは、アブラハムの実子が跡を継ぐということを意味するのです。そうであれば、当然、アブラハムの妻サライとの間に生まれる子が、跡継ぎとなるということを意味します。
しかし、アブラハムは、この神の約束を、妻に、告げたはずです。自分の跡取りに関わることは、サライにも直接関わることだからです。いったいどのようなときに、アブラハムはこの話を、サライに切り出したのでしょうか。おそらく夜、静かなとき、彼は、神との約束、契約を与えられたことを打ち明けたことでしょう。彼女もまた、アブラハムが真剣に話したことをしっかりと聴いたと思うのです。

しかしながら、サライは、この神の約束を信じることができません。待つことができませんでした。確かに、同情する余地はあまりにも多くあります。すでに、齢、75歳です。しかも、まだ子どもを生んだことがないのです。子どもを生むなどということは、もうすでに、何十年も前に諦めていたはずです。

ですから、聴けば聴くほど、サライの心は穏やかではいられなかったのではないでしょうか。自分の体の現実を誰よりも知っている自分自身が、この神の御言葉を受け入れられないのは、同情の余地を禁じえません。そこで、彼女が考えたことは、自分の女奴隷に、夫の子を宿らせることでした。これは、当時の社会で、一般的に行われていました。この慣習を、用いて、彼女は、夫の子であり、自分の子を設けることができるのではないかと考えます。それは、当時の慣習で、妻の奴隷が夫との間に生んだのであれば、その子は、妻の子となるというものでした。夫の奴隷との間に生まれた子であれば、そのときには、もはや妻の座は、決定的に脅かされる危機をはらんでいました。ですから、サライは、今、決断します。このままで行けば、間違いなくアブラハムは、他の女性、自分の奴隷である女性との間に子どもをもうけるに違いない、そうなれば、自分の立場はなくなる。おそらくこのように考えたのだと思われます。

サライは、ここで、神に文句を言います。サライは忘れています。神がサライをも、常に見守っていてくださることを忘れているのです。かえって、反発さへします。神ご自身が、自分には、子どもを授けてくださらない現実の前に、こうするしかない、神がわたしを祝福のうちに顧みてはくださらないのだ。なんと的外れな、考え違いでしょう。

アブラハムは、ここでも優柔不断です。これまでサライには、本当にお世話になったアブラハムです。エジプトの王に妻を、召抱えられたのは、アブラハムの自己保身のせいでした。しかも、そのエジプトの王から、たくさんの財産をも与えられたのです。サライの女奴隷ハガルも、結局は、おそらくエジプトの王から与えられたものであったと思われます。ですから、アブラハムは彼女の訴えを聞き入れました。
しかし、読者である私どもは、このアブラハムの行為を、どう考えるでしょうか。奴隷の子であっても、アブラハムは自分の子であると考えたから、聞き入れたのでしょうか。決してそのようには考えられません。明らかに、アブラハムの妥協があったはずです。妻への負い目があったのでしょう。そのような知恵を用いて、ハガルの奴隷を身ごもらせられれば、生まれた子は、自動的にサライの子となる、そのように当時の人々は考えていたのですから、アブラハムの行為は、あながち間違いとも言えないという理屈は、通るのでしょうか。確かに、人の前には、どのような理屈であっても、力関係で、通ったり、通らなかったりするのが、人間の世界の常かもしれません。しかし、神の御前では、まったく通用しません。アブラハムは、ここではっきりと神の真実、神の約束、誠実を裏切るのです。

さて、このような人間的な企み、姑息な手段によって、しかし、ハガルは身ごもりました。ところが、新たな問題、予想を超えた問題が起こりました。それは、ハガルが、高慢になったということです。おそらくハガルは若い女性です。75歳のサライを、軽んじ始めます。直訳すれば、「軽く見る」ということです。なるほど、これまでは、ハガルの一奴隷でしかなかったのです。しかし、身ごもったときから、このお腹の子が、アブラハムの世継ぎとなるのです。そうなれば、もはや、サライに子を与えるのではなく、自分がアブラハムの妻の地位をも獲得できるのではないかと、いわば、舞い上がったのです。これは、当時の慣習、契約を破ることです。ハガルは、サライに子を与える条件で、アブラハムとの関係を持ったのです。

サライは、烈火のごとく怒ったのです。こんな不当な目にどうしてわたしが遭わなければならないのか。あなたが、サライをちやほやするから、付け上がったのに決まっている、あなたは、すべてを決めることができる、長ではないか。家長ではないか。それなのに、わたしを見下す、軽く見るのは、あなたのせいではないか。」
アブラハムは、ここでも、自分の判断を下せません。「あなたの奴隷なのだから、好きなようにしてかまわない。」これは、もともと、そう言われなくとも、そうできるのです。それが当時の法律だったからです。アブラハムは、ここでは、男性として、家長として、何よりも信仰者として、主体的な判断を下しません。下せないのです。何故、でしょう。それは、彼自身が、もっとも問われる問題、神の約束を裏切っているからです。

さて、三人目の主人公は、ハガルです。しかし彼女もまた、自分の立場が変わるとき、手のひらを返したように、サライと接するわけです。「軽く見たと、軽んじた」という聖書の言葉から彼女のサライに対する「目つき」すら想像できます。それは、実に、醜い姿ではないでしょうか。
それなら、サライはどうでしょうか。サライもまた、同じです。「つらく当たった」とあります。それは、逃げ出すほどのものでした。実に過酷ないじめが始まったのだと思います。逃亡奴隷は、命の保障はありません。妊婦にとって、まさに決死の思いでの逃走だったはずです。
ここに登場するアブラハムも、サライも、そしてハガルもまことに人間的な姿を露にしています。誰もが、神の前にも、人の前にも、ほめられるようなところは何もありません。

ハガルは、南に下ります。どのくらい離れた距離なのか、正確にはわかりませんが、数百キロの道のりを歩いて、おそらくエジプトの近くまでたどり着いたのかもしれません。オアシスのほとりにいます。
物語は、大きく動きます。そこに、「主の御使い」が登場するのです。御使いが、登場するのは、創世記は、ここが最初です。

御使いは言います。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
御使いは、サライが誰であるかを告げます。あなたはサライの女奴隷だと。
この見も知らない人から、きっぱりと言い当てられた彼女は、正直に答えます。「女主人サライのもとから逃げているところです。」どこから来たのか。それだけははっきりしています。しかし、どこへ行くべきか。それは分かりません。答えられません。

すると御使いは、説得を始めます。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」これは、ハガルにとっては、考えられない選択であったかと思います。そんなことをすれば、さらにひどい仕打ちが待っていると考えたと思います。しかし、御使いは、彼女が身ごもっていることを指摘し、しかもそのお腹の子は、神の祝福を受けると約束したのです。

横道にそれますが、先週の祈祷会で「歌う教会」ということを学びました。エフェソの信徒への手紙のなかで、「詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合いなさい」とあります。賛美歌を歌うことは、神に向かって歌うことです。ところが、パウロは、お互いにそのような態度で、語り合うべきことを命じたのです。教会の交わり、会議、様々な集いのなかで、歌うように、神をたたえる歌を歌うように、お互いに語り合う、そこにキリストを中心とした、神を中心とした交わりが育つ、形成されるというのです。まったくそのとおりです。愛を身に着けるということは、歌を身に着けるということで、歌う存在となると、愛の言葉を語ることになると学びました。それは、礼拝式で、賛美をどのように歌うかに勝って大切なことなのです。礼拝式で、歌うことは、日常生活が歌を身に着けるためのものであると言っても良いのです。なぜ、そのようなことを申すのかと言えば、ここで神の使いは、このハガルを説得できたからです。み使いは力づくで、ハガルをサライのところに引っ張ってゆくのではないのです。ハガル自ら、自分で、決断して、戻ったのです。なぜ、この説得が成功したのか。そこでも、み使いが歌うように、語ったからではないでしょうか。ハガルへの愛が、ここでの言葉を生んでいると思います。ハガルの罪を糾弾するとき、従順になってもう一度女主人に仕えるのだと歌うように語ったとき、ハガルの心は大きく動いたのです。

さて、創世記の著者は、13節で、ハガルがここで語られた御使いの声を聞いたとき、こう記しています。「ハガルは自分に語りかけられた主の御名を呼んで」著者は、ここで登場したのは、御使い、天使であると言いました。しかし、彼女は、御使いを「主なる神」として理解したのです。これは、うっかり読み飛ばせないとても重要な、御言葉であると言わざるを得ません。
彼女は、その御使いを主なる神と信じました。そして、その神をこのように呼びました。「あなたこそ、エル・ロイ、わたしを顧みられる神です」聖書の著者は、ハガルのこのような呼びかけを否定していません。しかも、聖書はそれを否定していないのです。聖書の著者自身が、はっきりと記したのです。いったい、これは神のみ使いなのでしょうか。それとも、主なる神ご自身なのでしょうか。

確かに、ハガルには、現代の我々から見れば、女奴隷という状況だけでも、同情の余地があるように思います。主人のいじめを受けているのです。しかし、また同時に、今のこの危機的な状況に陥ったのは、ハガル自身に主な原因があったはずです。それにもかかわらず、神の御使いが追いかけてくる。それは、何を意味しているのでしょうか。

たとえば犯罪者の心理は、追跡されたりすることをもっとも恐れるのではないでしょうか。自分を追いかけてくる者から必死になって逃げる、そのようなテレビや映画のシーンにしばしば登場いたします。
彼女は、今、とにかく、力の限りに逃げ続けたのだと思います。そして、ついにはるかに離れたオアシス、泉にたどりついたのです。ほっとしたでしょう。しかし、これからいったいどこへ逃げればよいのか。どこで出産し、生活すればよいのか。自分でもわかりませんでした。

しかし、そのような自分の罪と愚かさ、過ちのせいで窮地に陥った奴隷の女性を神が追いかけてくださる。しかも、その彼女の責任を、追及し、断罪するために追いかけてこられたのではないのです。ハガル自身と生まれ来る子をも祝福しようと追いかけてこられたのです。

私どもは、この神の使いを、主なる神と呼んだハガルがそこで出会ったのは、まさに私どもの救い主、主イエス・キリストであったのではないか、そう考えることも許されると思います。聖書がここで初めて、神の御使いを登場させたとき、これは、はるかに主イエス御自身を指し示す影、プロトモデル、模型であったと思います。
「あなたこそ、エル・ロイ、わたしを顧みられる神です」これは、実に、私どもキリスト者の信仰告白、キリスト賛美の告白のように聞こえます。私どもも、自分の罪によって、愚かさによって、自分の責任で、窮地に落ち込んでしまって、どうにもならなくなってそこから逃げ出すようなことがあるかもしれません。借金取りから追われるような経験はしなくても、仕事や育児、学校や会社で、追い詰められるような経験はしばしばではないでしょうか。

あるいは、自分の責任とも思えないような、降ってわいたような試練、困難、病気、災いを受けることもあるのです。
しかし、そこから逃げ出して行くような私どもを、神は、主イエス・キリストは追いかけてくださいます。そこで、私どもに立ちはだかるようにして、説得してくださいます。「従順に仕えなさい」それは、甘やかしではありません。ごまかすことではありません。ここではっきりと、ハガルは諌められたのです。彼女の罪もまた、明らかにされているのです。しかし、それだけではありません。
私どもの名を呼んでくださるのです。名前は、私どもの存在そのものです。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来たのか。どこへ行くのか。」私どもであれば、どうでしょうか。あなたの名前を神はどのようにお呼びになるのでしょうか。

「かつては、神もなく、望みもなく、罪の中をさ迷い歩き、神の怒りを日々その身につんで生きていた者、しかし、主イエス・キリストを信じることによって、アブラハムと同じく義とされ、罪赦され、アブラハムの子、神の子とされた者、救い主イエス・キリストと一つに結ばれ、新しく創造された者」こうなれは、次から次へと、私どもの存在を明らかに示す神の御言葉が思い浮かびます。神は、私どもを今、キリスト者と神の子と、神の民の一員と呼んでくださるのです。これが、今や、私どものルーツです。どこから来たのかと、諭されて、私どもは、自分を見失うことから守られるのです。自分は、神の子、そのような真の自覚へと、み使いが、立ち返らせてくださるのです。それが、主イエス・キリストのみ業なのです。さらに、どこへ行こうとするのか。という問いをも、与えてくださり、私どもはまさに立ち返るのです。世の終わりに明らかにされる終末の栄光の御国。そこへと私どもは向かっているのです。

自分がどこから来て、どこへ行くのか。そのはっきりとした自覚は、常に、主なる神に顧みられているところでのみ、取り戻していただけるのです。神なしに、その二つとも、分からないからです。

神は、ここで、顧みられるお方、直訳すれば、見るお方と言われます。私どもを見ておられるのです。どのように見ておられるのでしょうか。かつてハガルは、サライを主人と見ていました。重んじていました。ところが、妊娠が分かると手のひらを返したように、サライを軽く見た、見下したのです。それが、この困窮、窮地に立たされた原因でした。

ところがそれに比べてどうでしょうか。主イエス・キリストは、サライを軽く見ておられるでしょうか。そうではありません。追いかけてくださったのです。重んじてくださるのです。それは、見捨てない、見放さないという思いの表れです。さらに、祝福さへしてくださるのです。主なる神は、ハガルが、もう一度、もとの場所に、本来の場所に戻るようにお命じになられました。それは、ご自身が一緒に帰ってくださることを意味していたはずです。そうでなければ、どうして、帰れるでしょうか。顧みてくださる神は、砂漠のオアシスのこのときだけ、顧み、共にいてくださるのではないのです。いわば、一緒に帰ってくださるのです。これからのアブラハムとサライとの生活にも、ずっと共にいてくださるというのです。

それが、エル・ロイなる神の真実です。顧みていてくださるのは、常に、なのです。愛をもって見てくださる。愛のまなざしが自分に注がれていた、注がれている、これからも注がれ続ける、サライはそのように信じたのです。そして、しっかりと、主とともに自分がいるべき場所に戻って行ったのです。

さて、アブラハム自身も、ここで、サライと比べて、取り返しのつかないような罪を犯してしまっていることに私どもは気づいていると思います。彼は、神の約束を与えられ、それを信じて神に義と認められたばかりのはずです。しかもその上、契約も結んだはずです。二つに切り裂いた動物を両端において、そこを契約の当事者の二人が歩いて渡る、そのような契約を結んだはずです。しかし、そこでも、この契約を、この二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎたのは、神お一人でした。アブラハムの、不信仰によって起こった家庭内の紛糾、サライにも悲しみを与え、ハガルにも罪を犯させ、悲しみと傷を与えたのは、もとを正せば、ひとえに、アブラハムの優柔不断、信仰的判断をあやまったからです。

しかし、それにも関わらず、神の恵みの方が勝っている。勝っている。まさに、アブラハムの罪の責任は、ひとり神が担ってくださる、み使いが担われる、御子イエス・キリストが担ってくださるのです。だから、アブラハムは義とされていることがよく分かるのではないでしょうか。
そこでも神がエル・ロイであられることが分かります。顧みてくださる。いつも愛をもって、アブラハムを守られるのです。

今朝、登場した三人が三人とも、罪人であるということで、共通です。しかしまた、この三人とも、神がエル・ロイであることを知らされるのです。この三人は、それぞれに、神がそのみ顔を向けていてくださるのです。み顔をもって、祝福し、共にいてくださっているのです。神は、じたばた、自分勝手な考えで、右往左往し、それゆえに、神の前にはもちろん、隣人にも罪を犯してします愚かな私どもをお捨てにはならないのです。ちゃんと見ていてくださる。神のときに、信仰の経験のうちに、神のふさわしいとそのときに、成就するようにと。
そして、それは、今朝、この物語を聴いて礼拝する私どもの経験でもあるのです。ここで私どもは、神を見ています。見上げています。しかし、それよりはるかに確実なことは、神がここで私どもを、わたしを、見ておられるということです。歌を歌うのは私どもですが、神ご自身が歌を歌うように、語りかけてくださる。「あなたは、キリスト者、神の子だ。どこから来て、どこへ行くのか。従順に仕えることが、あなたの道ではないか。わたしが共にいるから、新しく開始しなさい。」このような御言葉を今朝も改めて、聴くことができたのです。そうであれば、今朝、私どもも、神を、主イエス・キリストをエル・ロイ、わたしを顧みられる神と、すべての人を、すべての罪人を顧みられる神と、賛美の歌を歌いたいのです。

祈祷
私どもを顧みていてくださる神、全能の父なる御神、私どももまた、しばしば、あなたの真実と顧みがあることを忘れます。忘れているから、中途半端な生き方しかできないと、今、思います。どうぞ、御霊を注ぎ、目を開いてください。あなたを仰ぎ見、あなたのみ顔の前で常に生きれますように。