「永遠の契約
-アブラハムの模範⑤-」
2005年10月30日
テキスト 創世記 第17章
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」
神はまた、アブラハムに言われた。
「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」
テキスト ローマの信徒への手紙 第4章7~12節
「『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。』
では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」
今朝も、愛する教会の仲間たちと共に、御言葉を聴いて、神に礼拝を捧げる特権を与えられましたこと、心から感謝いたします。この特権は、私どもには、洗礼の礼典によって目に見えるもの、確かなものとされました。この礼拝堂の正面には、常に洗礼盤が設置されています。礼拝堂に座って、自分が洗礼を受けた人間、信仰者、キリスト者、何よりも教会員であることを確認することができますことを心から感謝する者です。
先週の祈祷会では、聖餐の礼典を学び、大きな恵みと、信仰の成長を与えられました。さらに、本日の午後のカテキッズ、「契約の子」教会の子たちと、洗礼と聖餐について学ぶ予定です。そして、本日は、アブラハムが最初に割礼を受けることになった、その経緯について学びます。ここにも、神の特別の顧み、摂理を見る思いが致します。
アブラハムが神に義とされ、そして女奴隷ハガルとの間に、イシュマエルが生まれ、すでに13年の月日が過ぎました。彼は今、すでに99歳になっていました。ここで、主なる神は、アブラハムに現れました。第15章の1節では、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。」とあります。それに比べて、第17章の一節は、「主はアブラムに現れて言われた。」とあります。つまり、今日の箇所ではもっと直接的に、親しくアブラハムに近づいておられることが分かります。13年の期間、それは、神とアブラハムとの間に何かのブランクがあいたわけではなかったはずです。その間、アブラハムの信仰とその生活は、神と結ばれ、神に顧みられているという幸いな生活であったと考えられます。
「わたしは全能の神である。」主はこのように、あらためてご自身の自己紹介をなさいました。全能の神とは、ヘブライ語では、エル・シャダイと言います。ニカヤ信条でいえば、「すべての主権をもちたもう」神ということです。この神が、今、アブラハムに、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」とお命じになられました。
さて、これはどのような意味を持つのでしょうか。これまで、アブラハムは、全能の神に従って歩んでいなかったのでしょうか。全き者ではなかったのでしょうか。一つの理解はこういうものです。「神に従ってはいたけれども、従い抜くことはできなかった」確かに、これまでの歩みの中で、彼が犯した罪は、明らか過ぎるほどです。先週も、アブラハムが信仰者としての倫理観を貫くことができていれば、家庭の不和は起こらなかったことを学びました。道徳的に言って、明らかに大きな問題があると思います。ですから、神は、そのようなアブラハムの不従順をご覧になって、それに堪えかねたように、「従って歩むのだ」「完全な者となるのだ」とお命じになられた、叱責の口調であると言うわけです。
もしその意見に従えば、ここで神が全き者となれと仰せになられたのは、すでにご自身が第15章で、義と認められた事実を、取り消してしまわれたたことを意味するのでしょうか。神は、その後の彼の実生活をご覧になって、「やはり、信仰だけで、義としたことは間違いであった、生活をテストしてみたけれど、やはり合格点はやれない。まだまだ、99歳になって、これから後のアブラハムの生涯をテストして、それに合格したなら、義と認めることにしよう」ということなのでしょうか。
結論を言えば、まったく違います。アブラハムとサラとの間で犯された、サラを自分の妹と偽る罪は、第12章に記されていましたが、実は、第20章で、ゲラルの王アビメレクとの関係のなかでも再び犯されました。「完全な者となるのだ」という命令の後の失敗、罪なのです。そうであれば、完全な者となるのだという命令を受けたアブラハムにしてみれば、もはや、完全な人間、全き人間であるなどとは、どう贔屓目に見てもいえなくなるはずです。もとより、アブラハムのプラスの面を見れば、まさに、信仰者の父、信仰の模範としての驚くべき信仰の深さを認めることは簡単です。しかし、それでも明らかなのは、完全な人間などとはほど遠いことです。
つまり、神が、ここで、アブラハムに「全き者になるのだ」とお命じになられたのは、すでに、「あなたはわたしが義としているのだから、これを信じ受け入れて、さらに全き者らしく生きるように」と励まし、お命じになられたことを意味するのです。全き者であることを再確認してくださったわけです。
しかし、その上で、考えたいことがあります。アブラハムの信仰、神に義とされた信仰は、13年前のことでした。それ以降は、どうなるのでしょうか。それは、同時に、私ども自身の信仰の生活を考えることにもつながります。皆さんはいつ洗礼をお受けになられたのでしょうか。昨年の降誕祭、一昨年の降誕祭、5年前、10年前、13年前の方もおられるでしょうか。いずれにしろ、信仰はそこで終わっているわけではありません。そこから全能なる神に従う歩みが始まったのです。それは、全き者となるための道のりなのでしょうか。丁寧に申さねばなりません。神は、ただ信仰のみによって、私どもを全き者、義なる者と認めてくださいました。これは、すでに、完全に、完璧に認められているのです。すでに全き者なのです。しかし、同時に、それは、あたらしい課題への出発ともなるのです。全き者とされたものだけが、地上にあって、実際生活においても全き者となる道、つまり聖化の歩みが始めるのです。この聖化の歩みが始まる根拠が、信仰によって義とされた、義認にあるのです。逆にこうも言えるはずです。義とされた人間が、その後、神に従わない可能性はないことをすら意味しています。
第15章では、神の御言葉とアブラハムとは、対話をしながら、進んでゆきました。しかし第17章では、アブラハムは、3節でほとんど「ひれ伏す」だけです。神は、ここでは、ほぼ一方的に、ご自身の御言葉を語り続けられます。しかも、新しい約束はありません。これまでの約束を更新し、さらに確かめてくださるというものです。ただし、ここで全く新しい命令が一つ下されます。それは、割礼です。それは、これまでにありませんでした。この約束を永遠の契約と呼ばれました。割礼とは、生後8日目に男の子の赤ちゃんの性器の皮を切り取る行為です。しかもそれは、家で生まれた奴隷も、新たに買い取った奴隷も皆、受けなければならないとされたのです。このことは、割礼がただ単に、ユダヤの血統、血筋を引いていることの証拠となるのではなく、まさに、神の約束を信じる証拠、神の約束を信じて義とされた証拠、めじるしとしての機能を果たすことを意味したのです。信仰のしるし、神の約束を信じ従う者のしるしとして与えられたものそれが、割礼なのです。割礼は、信仰の目に見える、体に刻み付けられる証拠、服従のサイン、証印なのです。
使徒パウロがローマの信徒への手紙第4章で言ったのは、まさにこのことでした。「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。」
しかし、それなら、今、私どもは、割礼を受けるのでしょうか。受けません。それなら、神が永遠の契約であると宣言したもうたこの厳かな命令を、公然と破ってしまうのでしょうか。神が、仰せになられたように、「無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」という御言葉を、男性キリスト者はどのように理解するのでしょうか。
それは、神の御子、主イエス・キリスト御自身が割礼に変わって、洗礼を受けることをお命じになられたから、その一点であります。もしも、主イエスがそのように仰せになられなければ、男性キリスト者は、割礼を受けなければならないはずです。しかし、今、割礼を受けてはならないのです。アブラハムの子孫である、主イエス・キリストによって、これが成就されたからです。今や、主イエス・キリストとそのみ業、十字架と復活のみ業を信じ、受け入れるなら、この主イエス・キリストのおかげで、私どもは罪赦され、神の子とされるのです。これは、全能の神ご自身の御心に基づく定めなのです。そうであれば、私どもにとりまして、洗礼を受けるということがどれほど重要な信仰のしるしであるかはよく分かるのではないでしょうか。
アブラハムは、まさに信仰の父であると、よく分かる行為がここにもはっきりと示されてあります。23節で、アブラハムはこの神の命令にもとづく契約に即座に応答したのです。躊躇なく、従いました。「男子を皆集めて、すぐその日に、神が命じられたとおり包皮に割礼を施した。」99歳のアブラハム自身が割礼を受けたのです。そうであれば、今日の神の民である私どもも、信仰によって、約束されたこの礼典、割礼に変わって制定された洗礼の礼典を受けることを、躊躇せず、従うべきことは、当然のことではないでしょうか。
もとより、教会は、信じているので、すぐに洗礼を施してくださいと願い出られた方に、はいそうですかとすぐに洗礼を施すことは致しません。教理を学び、礼拝生活を共にしながら、洗礼とは何を意味するのか、信仰生活、教会生活とは何かを学びます。そして、試問会を開いて、その上で、確定するのです。しかし、大切なことは、主イエスを信じたなら、主が命じられたように、すぐに洗礼を受ける志願者となることです。
割礼と洗礼とは、同じ真理を表します。それは、目に見えない信仰を、目に見える形で示す行為であるということです。神が約束された祝福、救いを信じた人間は、その信仰を明らかにするために、神が制定された、旧約時代には割礼を受けることです。そして、主イエス・キリスト以降の時代の者たちは、洗礼を受けることです。しかも、洗礼を受けると救われるのではなく、信じて救われているから洗礼を受けるのです。しかも信じて救われている、いわば実質を受けているのだから、洗礼などという儀式には意味はないなどと、人間のかってな論理で、洗礼を躊躇してはならないのです。
第15章で、神はすでにアブラハムとの間に契約を結ばれたことを学びました。動物を二つに切り裂くようにと神は、アブラハムにお命じになられました。アブラハムには何が起こるのか、ぴんと来たと思います。それは、当時一般に行われた契約の儀式を意味するからでした。動物を切り裂いて、契約の当事者双方が、その間を渡る儀式です。これは、万一、どちらかが契約を破ったら、破ったほうは、真っ二つに切り裂かれた動物のようになるということです。ところが、そのとき、神がなさったのは、神お一人が、その動物の間を通られたのでした。そのとき、私どもは学びました。神の契約とはまさに、神の一方的な契約であるということです。しかし、それに対して、ここでの割礼の契約は、人間の応答を命じておられるのです。そうなれば、ここで、まさに双務契約、お互いの契約関係、対等の契約になるのでしょうか。違います。ここでも、神の約束はただ一方的です。割礼を受けるから、約束が与えられるのではないのです。信仰のゆえに与えられるのです。しかし、その信仰と割礼を受けるということは、そこで切っても切り離せません。
大変残念なことですが、ある人は、「わたしは信仰がある、わたしは神さまを信じている、だから、たとえ牧師であっても、誰であっても、わたしの心の中の信仰について意見されたり、入り込まれたりしたくないし、そんな権利はない。」などと言う人が、いないわけではありません。私どもの教会の信仰理解からはありえないことですが、実際にキリスト者を標榜する人で、そのような個人的信仰者がいるのです。しかし、そのようなキリスト者の存在に対し、すでに、集中的に議論したのが新約聖書のヤコブの手紙です。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。」ここで、ヤコブは、アブラハムを例に挙げて、信仰と行い、信仰と服従とは切っても切り離せないものであると声を大にして叫んでいるのです。
アブラハムの信仰それは、この神の御言葉に即座に従ったところに現れているのです。信仰と割礼を受けることとは、別のものではないのです。行いと信仰とは、二つあるのではなく、一つのものなのです。その意味で、洗礼を受けるということも信仰と一つのことです。
先週も、すでに初夏の頃から始まっておりますが、洗礼入会志願者といつものようにマンツーマンで、「子どもカテキズム」を学び始めました。そして、ついに先週、「洗礼入会志願書」を提出されました。実は、その前の週の学び会で、来る降誕祭に洗礼を授けることはできないかもしれないと思わされました。私自身、強くは勧めなかったのです。あなたが決断する以外にないし、わたしがそれを強く勧めるわけには行かないというようなことを申し上げました。そう言いながら、牧師としては、心から、志願してくださるように祈りました。そして、ついに提出されたのです。毎週、休まず祈祷会に出席されました。これは、私どもの教会のまことにすばらしい伝統であると思います。これを崩すことがこれからもないようにと祈ります。もとより、これは、一人ひとりの状況があるわけですから、そうしなければ洗礼が受けられないということではありません。しかし、祈祷会に出席することは、教会の祈りを、自分の祈りとすることを意味します。執り成しの祈りを身に着けることです。つまり、洗礼も聖餐も、個人的な信仰の恵みと信仰告白でとどまるのではなく、キリストの体なる教会を形成するためのものであることを、体で覚えていただくために、祈祷会に出席することが祝福になるのです。
そこで幼児洗礼も、学びました。実際に、一番下のお子様は、まだ幼児で、できれば洗礼をと私自身祈り、お勧めいたしております。ご本人も、お母さんと一緒に洗礼を受けられたら嬉しいと言われます。しかし、本人はまだ、幼いので、その申し出を受けることは、できません。しかし、親が申し出られるなら、洗礼を受けさせることができます。親の誓約に基づいて、洗礼を受けることになるからです。
洗礼の恵みの重さを知れば知るほど、親として、わが子に洗礼を施したくなるのは、当然のことです。しかし、実際は、自分の洗礼を、認めさせることで、精一杯という状況があります。しかし、なお、教会は祈るべきです。神が、働いてくださるようにと祈るのです。一昨年もそして今年も、そのような戦いを経て、幼児洗礼が施されました。実にすばらしい恵みでした。
しかし、それなら、幼児洗礼を受けたなら安心して、その後、家庭において信仰の教育を施さず、教会に一緒に来させず、日曜学校の教育に積極的に触れさせないのであれば、それは、幼児洗礼の礼典の意義を無視し、そこでなした誓約を破ることを意味するはずです。
さて、いずれにしろ、神は、アブラハムの信仰を義とされ、その信仰を励まし、ご自身の約束をはっきりと、常に、その体に刻み込むまでに確かなのだと教えるために、割礼をお命じになられました。割礼を施すことは、契約を守る行為ですが、そこでも、契約を守るから救われるということではまったくないことが分かります。繰り返しますが、神の契約は徹底して、一方的なものであり、恵みの契約なのです。しかし、そこで、人間の出番はないのでしょうか。いいえ、信仰者の出番があります。応答の責任があります。信じることです。受け入れることです。命令を守ることです。それが、割礼なのです。今日の私どもで言えば、それは、洗礼を受けることであり、聖餐にあずかることなのです。この礼典は、神の恵みの契約の保証です。
私どもは、洗礼を受けています。それなら、私どもは、この洗礼をどれほど感謝しているでしょうか。どれほど、この洗礼の契約をありがたく思っているでしょうか。そのとき、私どもの生き方は方向付けられます。神に従う方向です。神の御前に歩むのです。神から離れない、祈りを怠らない生活です。決して自分の判断で生きない生活をつくるのです。御言葉の約束を信じ、御言葉に従う以外に信仰はありません。
それなら、今週も、私どもは、洗礼を受けた人間として、御言葉を聞くのです。聞いて従うのです。まだ洗礼をお受けになっておられない方は、一日も早く、この招きにあずかってください。それは、全き者になった後で、決断することではありません。信仰は、ここからしか始まらないのです。もう少し知識を、もう少し確信を、それはその通りです。しかし、後どれほどの知識と確信があれば、信仰を告白できるのでしょうか。洗礼を受けるのでしょうか。むしろ、洗礼を志願することです。そこから始めるのです。そこから、説教が分かるようになります。聖書の言葉が自分への語り書けとして読み取れる、聞き取れるようになるのです。
最後に、このアブラハムが、なおここで、全能の神であられることはどういうことであるかをその全貌を信じることはできませんでした。心の中で、サライに男の子が与えられるなどということは、いくら神さまでもできるわけはないと考えたのです。もとより口では言いません。態度にも出しません。しかし、心のなかで、笑ってしまったのです。そして、「どうか、イシュマエルが御前に永らえますように。」と神に願いでたのです。いへ、これは、願いではなく、神に忠告したことを意味します。これが、アブラハムのこのときの真実の姿です。ここでもすでに、アブラハムが信仰の道徳、倫理、行いから見れば、完全であるはずがありません。ところがしかし、このアブラハムを神は、信仰のゆえに義と認め、全き者と認められたのであります。
神は私どもにも同じように接していてくださっています。私どもは、このままで、神に赦され、信じて、全き者とされています。しかし、はっきりしていることがあります。自覚していることがあります。私どもはなお、途上にある信仰者であるという事実です。しかし、神に義とされているから、諦めないのです。この程度で仕方がないなどとは、開き直らないのです。このような神の愛に鈍感で、神を愛し、人を愛することをしない徹底した自己中心で、自分勝手な、愚かな罪人さへ、神の恵みは追いかけ続けてくださいました。神は忍耐の限りを尽くして、顧み続けていてくださいました。そしてついに、永遠の救いの契約である洗礼を施してくださったのであります。それを知った以上、今は、私どもも神を熱心に追いかけるのです。最善の努力を神に従うのです。これが私どもの信仰であり、志なのです。行いが伴うのです。一歩一歩、神が全能であるとはいかなることなのか、私どもの生涯をかけて知らされるのです。これが、信仰の旅路であります。どうぞ、なお、この旅路を、祈りの家のなかで、仲間たちと祈りつつ、歩んでまいりましょう。
祈祷
アブラハムの神、それゆえに私どもの全能の神、主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに、私どもの父なる御神。私どもに主イエス・キリストと一つに結び合わせる洗礼の礼典を施し、救いの永遠の契約としてくださいました恵みに心から感謝申し上げます。しかしながら、その恵みに生きること、感謝に生きること、まことに足らない者であることを御前に懺悔いたします。どうぞ、聖霊の豊かな注ぎのなかで、私どもの信仰と服従を富ましめてください。全き者とされた者らしく、全き者に向かって、最善の努力をなして励ませてください。そして、この洗礼の恵み、罪の赦しの恵みの重み、すばらしさを私どもの生活を通して、隣人に証させてください。