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「神の友の祈り-アブラハムの模範⑥-」

「神の友の祈り-アブラハムの模範⑥-」
       2005年11月6日

テキスト 創世記 第18章

その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

今朝は、第18章の後半、アブラハムがソドムの町に住む人々のために執り成しの祈りを捧げた物語を学びます。今、共に聴きましたように、神は、ソドムの罪は非常に大きいと訴える叫びの声をお聴きになられて、ご自身が直接その調査に赴かれるということが言われています。それで、19章では、神が、ソドムの町を訪れたとき、まさに、その訴えがその通りであることを、認められます。そして、この罪と汚れに染まった町を神が滅ぼすことを決意され、実行されるわけです。神は、そのことをアブラハムの甥のロトにお告げになられました。そしてロトは、この主なる神の言葉を、二人の娘の婚約者であると思いますが、彼らに告げて、逃げるように急かしました。ところが、彼らは、それを14節で、「冗談だと思った」と言うのです。

わたしは、彼らの反応のなかに、まさに今日の世界、我々の国、圧倒的大多数の人々の神の御言葉への応答と同じ姿を見る思いが致します。神の言葉を戯れごとと考えるのです。神の御言葉を聞いたとしても、そのまま受け入れず「冗談だ、そんなことありえない、起こりえない」と無視するのです。聴かなかったことにするのです。ソドムから逃げることをしないのです。いわば、自分たちの快楽、安楽、幸福感の殻のなかに引きこもって、恥じないのです。ソドムの外へ出る。これは、アブラハムがカルデアのウルから神へと出発したことと同じです。それなら、これはおさらいですが、どのようにしてアブラハムは故郷から離れ、生まれ故郷を出て、神へと旅立ったのでしょうか。それは、神の招きの言葉を聴いたからです。聴いて信じたからです。ソドムにいた、ロトの娘の婚約者たちは、そのような神の警告を無視し、冗談と思ったのです。

実に、アブラハムとは、神の言葉を真剣に聴く人でした。その結果、どのような人間になったのでしょうか。神の御心を深く知ることができたのです。それで、聖書は、アブラハムのことを、このように呼びます。イザヤ書第41章、「わたしの愛する友アブラハム」神にとってアブラハムとは、神の友と見なされているのです。新約聖書のヤコブの手紙でも、こう記しています。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」

「神の友」、それは、神ご自身がその御心を親しく教える相手とされたということを意味しております。ですから神は、アブラハムに御自身の御心を明らかになさるのです。第18章17節、「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」神の御心を明らかに示すこと、それを、「啓示」と申します。今日、この啓示は、アブラハムだけに耳打ちされているのではありません。私どもが、手にしているこの聖書を通し、教会によって、世界に、公然と明らかに示しておられます。その意味では、神は、公平に人類に、一人ひとりにご自身の御心をはっきりと明らかにしておられるわけです。そうであれば、こう言うことができます。神はすべての人間に、ご自身の友となりえることを表明しておられるのです。すべての人に、この神の御心を明らかにし、ご自身の友となるようにと招いておられるのです。

さて、この神は、人類の中から一人アブラハムを選びだしました。その理由を19節で、記しました。そこには、アブラハム自身のなかに、選ばれるべき資質があったからということはただの一言も書いていません。目的、使命だけが明らかにされています。アブラハムが子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じるためなのです。私どももまた、主に選ばれているのも、まったくその資質や、資格があったからではないことも分かります。私どももまた、自分自身と自分の子ども達に、主の道を守り、主に従って正義を行うためです。
主に選ばれるという言葉を、他の聖書は、主が知られたのはと訳しました。主がアブラハムに親しくご自身をお現わしになるのは、アブラハム自身をことごとく知っておられるからです。まさにこれが友という関係のことを意味しています。友とは、お互いのことを知っている関係のことです。実に、神の選び、神が私どもを選ぶとは、実に友の関係へと招き入れる神のみ業なのです。知る、選ぶというヤーダーというヘブライ語は、結婚とも訳すことのできる言葉です。そうであれば、あらためて私どもキリスト者とは、このアブラハムの子孫であるばかりか、アブラハムと同じように、神に選ばれ、神に知られ、神との深い絆、直訳すれば、結婚というような交わりを神と結ばせていただいている者であることを、思います。神の友であるのが、キリスト者なのです。キリストの教会なのです。ですから神の友とされている私どもは、アブラハムと共に、アブラハムに与えられた使命を担っている、継承していることもまた明らかです。そうであれば、また問われるのは、私どもが今実際にアブラハムのように使命を果たしているかということです。

さて、神は、ここでソドムの現状と神が何をなさろうとしておられるのかをアブラハムに打ち明けられます。丁寧に読めば、まだ、ここでは、神がソドムを調査する段階であり、裁き、滅ぼすとは言われておりません。しかし神は、実際にソドムの町を見下ろすところまで、進んで行かれます。アブラハムは、神にぴたりとくっついて進んで行きます。彼は、主のみ顔の前にいるのです。神が、ソドムを見下ろしたそのとき、遂に、アブラハムは、神を神に向けて、ここでこの物語の中心、神との対話、対論を始めてまいります。

これは一読して忘れがたいやり取りです。神との対話、神との対論とは、私どもの言葉で申しますと、祈りであります。まさに真剣という言葉がふさわしい祈りです。一歩間違えば、神への冒涜とすらなりかねないような、真剣勝負のようにアブラハムは、自分の考え、自分の主張を大胆に神に申し上げるのです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
これは実に、大胆な祈りではないでしょうか。まるでアブラハムが、神を教え諭している、といったら言い過ぎでしょうか。それなら、このアブラハムの大胆な発言を、神はどのようにお考えになっておられるのでしょうか。主は、即答し給いました。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

ここに、鮮やかに、神の御心は示されました。神は、正しい者を悪い者と一緒に殺すことはなさらない。ありえない。それは、アブラハムがこれまでの神との交わり、信仰生活のなかで、神は正義なる方であることを知らされたから、申し上げることができたのだと思います。 

さてしかし、この対話は、そこで終わりませんでした。ここでアブラハムは、言わば、さらなる「交渉」を始めるのです。本当は、そこで終わってもよかったのかもしれません。50人の正しい者がいれば、滅ぼさない。つまり、正しい者と悪い者とを同じようには、扱わないのだという御心がはっきり示された以上、アブラハムは、そこで祈りをやめても、良かったのかもしれません。

しかし、彼は、さらに対話を進めました。「50人に5人足りなければ、町のすべてを滅ぼされますか。」そればかりさらに、順々に、50人から45人。45人から、40人、そして30人、20人。最後に、こう言いました。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」と言いました。それに対して、主は仰せになられました。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

このようにアブラハムは、いわば、神の御前に立って、神にまるで値切るような仕方で交渉し、神を説得し続けました。それなら、神はこのアブラハムをどのようにご覧になっておられるのでしょうか。神は、このような、仕方で語ったアブラハムに、大変人間的な表現を用いれば、気分を害されないのです。お怒りになっておられません。そこに、神の御心がすでに鮮やかに示されています。たとえば、我々は、心から尊敬する偉大な人に近づいて、お話させていただくとき、萎縮します。思っていることが上手に言えないことすらあります。そのような出会い、経験を与えられることは、これは、我々にとって、実に嬉しいことです。たとえば、身近な例で言えば、質疑応答などで、その先生に自分の学びの不足から、的外れの質問をする、あるいは、間違った意見を主張する、そのとき、先生が、嫌な顔をされる、ぴしゃりと一言で答えられる、そうなりますと、もはや、次の言葉が出てきません。
しかし、今、アブラハムは、尊敬する偉大な先生どころではありません、神に向かって、このように接近する、肉薄するのです。30節「主よ、どうかお怒りにならずに」31節、「あえて、わが主に申し上げます」「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。」アブラハムにとって、震えるような思いで、口ごもるような仕方で申し上げたのだと想像します。そして、最後に、もう一度だけと、自分で、これが最後ですと、申し上げたとき、わたしの想像ではありますが、もしかしたらしばらく沈黙があったのではないか、そう思うのです。これで最後、もう質問できない、それなら、何人で止めておくべきか、十人ずつ減ってきたわけですから、最後であれば、自動的に10人ということになるのかもしれません。しかし同時に、最後の質問であれば、もしかすると5人という可能性も、アブラハムの心の中に起こったかもしれません。

これはただの想像ですが、いずれにしろ、このようなアブラハムに、神は、嫌な顔をされませんでした。だから、対論がここまで進むことができたのです。むしろ、神は、喜んで、アブラハムに付き合ってくださっているのです。神は、アブラハムに、もうこれで質問を打ち切る、最後にしなさいとは仰っておられません。アブラハム自ら、これで最後にしますと、決めたのです。ここから、私どもは何を知ることができるのでしょうか。何を悟るべきでしょうか。

一つは、このような神の御心です。それは、神は人間を裁くのに、急がれるお方では決してないということです。このことがここで明らかにされたのは、アブラハムが祈り続けてくれたおかげと言っても良いかもしれません。私どもはここに明らかに、神が、憐れみに富んでおられる方、正義に生きる者を、その一人ひとりをきちんと見ていてくださり、評価してくださり、それをお忘れにはならないおかたであることをはっきり悟ることができるはずです。ホセア書第11章以下にこのような御言葉があります。長いですが、神ご自身の宣言をお読みします。「わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。 わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

 ここで、神に背いた民を、お捨てになることができず、「激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる神、怒りに燃えることなく、神の民を憐れむ神の御心、その叫びのような御心が、御言葉となってほとばしりでておられます。ここでは、ソドムの町に住む者たちは、神の民ではありません。しかしそれでも、神は、この町に住む人々を、滅ぼすことを急がれないのです。

 しかも、その中にいる正しい者を同時に神が滅ぼしになられることはないのです。そうであれば、昨年のスマトラ島沖大津波、そして今回のパキスタンでの大地震を思います。すでに死亡者は、73000人を超えるといわれます。被災者は、300万人に上るのだそうです。これらは、決して単純に、神の裁きだなどと言ってはなりません。言うまでもなく、これは、神の積極的なご意思に基づくものでは決してありません。今、そのことに詳しく触れる暇はありません。しかし、本日のこの物語を読むだけで分かると思います。神が、正しい人を巻き込んで、滅ぼすことはなさらないのです。

 二つ目のことは、このような神の御心を知った神の友は、アブラハムのように執り成し祈ることを、神は喜んでくださるということです。教会が、この世界、いまだ、神の支配を認めず、神に反抗し、神の怒りを積んでいる世界のために、祈ることを求めておられるのです。教会の祈り、祈祷会で、私どもは常に、世界のために、この世のためにも祈ります。この世のために祈ることを求められている教会は、必然的に、目を外に向けさせられます。そこでも、自分の外に関心を向けることです。世界、この国、この町を見ること、ときには、調査することすら求められているのではないでしょうか。そして、そこで神が忍耐をもって、愛をもって、憐れみに胸を焼かれる思いで、見ておられることを告げることです。伝道するのです。伝道は、その意味で、この執り成しの祈りに支えられない限り、神ご自身の御心を動かし、神のみ業を担うことも難しいのです。

 三つ目に、私どもの祈りそのものが、大胆であってよいし、あらねばならないことです。アブラハムの祈りは、神に、神とはどなたかを告げるような不思議な側面がありました。神を教え諭すということは、これは、人間に赦されていることではありません。しかし、一方で、わたしは、ここで説教の課題を考えてみたいと思います。説教とは、牧師だけの行為ではないことは、私どもが繰り返し学んでいる真理です。つまり教会の行為ということです。教会が説教者を選び、試験を課し、神の言葉の説教者として立てるのです。その教会は、説教者によって神の言葉の説教を語らせます。それなら、説教の第一の聴取者は誰でしょうか。それは、教会員の皆様ではありません。神ご自身です。神が、「私どもの」説教を聴いておられるのです。説教者は、御言葉によって、神に向かって語ります。「神よ、あなたは、これこれこのように語られます。このようなお方であられます。」つまり、説教するということは、教会が聖書によって神に信仰を告白する行為なのです。ですから、説教とは実に大胆な行為です。説教を誰よりも、おそらく皆様より、はるかに真剣に、神が聴いておられるのです。そして、その説教を神が用いてくださるのです。そこで、説教は神の言葉として、信じる私どもに届きます。神が、ここでこの説教を、ご自身への信仰告白として用いてくださり、ご自身の言葉を告げてくださるのです。このような大胆な行為を、教会は許されています。命じられています。

説教と通じ合う行為を、キリスト者であれば、説教者でなくても誰でもしております、それが、お祈りです。祈りのなかで、私どもは、神と対話します。聖書に教えられたとおり、神に向かって、神の御名をお呼びします。主イエス・キリストの父なる御神。私どもの天のお父様。実に、大胆な呼びかけです。しかし、聖書に教えられた通りに神ご自身をお呼びするのです。そのようにして、神を賛美します。このようにお呼びし、賛美するためには、神を知らねばなりません。ですから御言葉を聴かないと、祈れないのは当然のことであります。しかし私どもは御言葉を聴いて、大胆に、祈るのです。神の約束に基づいて、大胆に祈り願うのです。私どもの家族が救われ、神の栄光があらわされること、私自身が、神に大きく用いられ、神の道具となることを祈るのです。神が望んでおられるから、祈らねばならないのです。

さて、大胆なアブラハムは、10人で終わりました。これは、もはや、それ以上に問う必要がなかったのだと理解することもできます。神の御心はすでによく分かったということです。しかし、アブラハムは、一人だけしかいなかったらとは言えませんでした。これは何を意味するのでしょうか。すでに、10人で充分なのでしょうか。それなら、わたしどもなら、どこまで祈れるのでしょうか。私どもは、「一人だけしかいなかったとしても・・・」と、祈れるのでしょうか。

 この後、ソドムはどのようになったのでしょうか。第19章は、主の憐れみを受けて、裁きをまぬかれた人、その意味で正しい人は、ロトと二人の娘のたったの三人だけでした。しかも彼らですら、火の中をやっとの思いで逃げ出して、救われました。そして、ソドムの町全体は神の怒りを受けて火によって裁かれました。つまり、10人もおりませんでした。それなら、この現代の社会はどうなのでしょうか。日本の国は、神のみ前にどのように映っているのでしょうか。いへ、日本の教会が、神にどのように見られているのでしょうか。そのことを真剣に問わなければなりません。

 
 アブラハムは、神の友と呼ばれました。驚くべき祝福です。しかし、私どもキリスト者は、単に、アブラハムの子孫であるからというだけで神の友であるというわけではないのです。私どもは、神ご自身から言わば直に、神の友と呼ばれているからです。それは、人間となられた神の御子、主イエス・キリストのことです。主イエスは、弟子たちに仰せになられました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」私どもは、主イエスの友とされているのです。

ですから、「正しい人が一人いればどうでしょうか」と、アブラハム以上に、神に肉薄できるのです。なぜなら、神が御子において人間となりたもうたことを知っているからです。それが御子イエス・キリストのみ業、クリスマスのみ業なのです。御子なる神が人となりたもうたことによって、神が、もはや、人間をことごとく滅ぼすことはありえないことの決定的な証拠となりました。

何よりも、御子主イエス・キリストは、私どもの罪を赦すため、私どもが受けるべき刑罰を身代わりに十字架でお受けくださったからです。この人となられた御子が十字架にはりつけられたことによって、死なれたことによって、私どもの罪は、すでに決定的に処分されてしまいました。私どもは、御子イエス・キリストによって、私どもが受けるべき刑罰を償っていただいているのです。

もはや、神が人間を滅ぼすことは、人となられた御子、永遠の人間であられる天にましますイエス・キリストをも同時に滅ぼすことを意味します。ですから、私どもは、もはや、御子において、御子のおかげで、神に裁かれることがないのです。これは、驚くべき恵みです。だから、私どもは、悔い改めることができました。そして今や、自分のために、命を犠牲にしてくださった御子を知っているので、これからは、御子のために生きるのです。御子のために、歩むとの志を与えられたのです。

それは祈りの生涯、執り成しの祈りに励むことを意味します。これは、私どもキリスト者の固有の務めであるのです。祭司として教会は、この世界のために祈る責任があるのです。祈る教会は、同時に、神に背き、神の御心を冗談であるとあざ笑う人々に、御言葉の真実を証するのです。御言葉に真剣に生きている教会なしに、神の御言葉を、人々はあざ笑い、侮り続けるでしょう。わたしどもの特権、重大な使命は、そこにあります。
私どもは今週も、家庭で、教会で、ただ主イエス・キリストの恵みによってのみ、そこから神の怒りと滅びから脱出させられた者として、祈るのです。生活するのです。それは、神の友としての祈り、証です。

祈祷
ソドムに匹敵するような現代社会の罪の中で、私どもは旅をしております。しかも、その罪が、私ども自身にも絡み付いてまいります。あなたは今、あらためて御言葉によって、あなたの聖霊によって、私どもをそこから解き放ってくださいました。さらに、今から祝う聖餐の礼典をもって、この恵みを保証し、更新してくださいます。どうぞ、志をあらたに、この世界のために、執り成し祈り、神の言葉の真実、福音に生きる幸いを、私どもの真剣な証の生活をもって、飾り、確かなものとさせてください。アーメン