過去の投稿2005年12月25日

12月25日

★  今年の降誕祭は、ちょうど25日(降誕日)と重なりました。そして、本日は、今年最後の主日です。2005年の一年間、主が私どもを真実に、恵みをもって導き、育んでくださいましたことを心から感謝いたします。  皆様とともに、信仰の旅路を歩み、教会形成の戦いにあずかれましたことを深く感謝いたします!

☆  本日、名古屋岩の上教会は、第12回目の降誕祭主日礼拝式を祝います。新しい礼拝堂では、3回目となります。何よりも嬉しいこと、それは、今年も洗礼入会者を迎え入れることが赦されたことです。この美しい清楚な礼拝堂は小さいですが、しかし、礼拝式を捧げるたびに、いよいよ、私どもの礼拝堂としてなじんでまいりました。先週の礼拝式では、子ども達を迎えて、総勢で74名の礼拝者でした。日本の社会は、年々、クリスマスが非キリスト教化されているように思えてなりません。大手新聞も、クリスマスをサンタクロースの日のように考え、キリストの降誕を無視しているような記事があります。先日の中部中会教師会で、一人の教師が、加藤常昭先生の「伝道者は、人々のキリスト教や、聖書への誤解を解いて行くのが務めである」との言葉に共鳴されたとおっしゃいました。わたしは、この加藤先生の発言は、30年前のことであって、今では、先輩たちが営々と築き上げてきたキリスト教文化、伝統を食いつぶしてしまって、今では、あらためて、宣教の初期のようなキリスト教の基本知識すら多くの人々は知らなくなっていると思えます。今、私どもの置かれている伝道の土壌、基盤は、開拓時代とも等しくなっているのではないか・・・。これが、杞憂であれば、どれほど嬉しいことでしょうか。私どもは、伝道しなければならないと思います。また、

★  一昨日の燭火礼拝式は、大変幸いな集会でした。何よりも、会員が新来者を誘い、その方々が、来会してくださったこと!本当に嬉しいことでした。さらに、昨年の宿題(?)を果たされた新海兄の証。(お嬢様も来られたのです!)そして、本日、洗礼入会なさる○○姉の証。(お友達を誘ってくださいました!)どれほど嬉しく感謝しながら聴いたことでしょう。聖霊のお働きに心から感謝します。おいしいデザートにも!!

★  今週末、年末!ですが、日本キリスト教会上田教会の前牧師、故四竈牧師が始めた「上田神学ギムナジウム」に初めて出席します。二泊三日の日程ですが、一日だけ参加します。今年は、「夏期宣教講座」も、「カルバンコロキウム」も、いずれも大会・中会の委員会活動で出席できませんでした。「上田神学ギムナジウム」は、日本キリスト教会の若い牧師や神学生を鍛えるために出発した集会とのこと。私自身は、「今更・・・」と考えておりました。しかし、渡辺信夫先生の「何故、今、日本キリスト教会か」という講演に強く惹かれ、何よりも、渡辺先生からもお声をいただきましたので、熟慮の結果、決断しました。私自身、だいぶ昔になりましたが、「何故、今、日本キリスト改革派教会なのか」という講演を日本キリスト改革派教会の内部でしたことがあります。思えば、私が加入した折、渡辺先生に拙論を読んでいただいたことがあります。丁重なしかし真剣な、厳しい応答をいただきました。今だから、申しますが、もしかしたら、日本キリスト改革派教会加入を差し止められ、日本キリスト教会への加入を勧告されるかも・・・などという思いを持っていました。ところが、先生は、わたしの加入の歩みを勧めてくださったのです・・・。辻先生の車に同乗させていただいてまいります。今年こそは、研究休暇をと予定し、わずかながら予算化すらしていただいておりました。しかし、まったくかないませんでした。来年こそは・・・と思います。深く、正しく教会に仕えるために、「不断」のソシテ「集中的な」研鑽はどうしても必要なのです。

☆  今週の報告にもありますように、12月は、毎週、伝道所委員会を開催いたしております。牧会の懸案事項のために、委員会としては可能な限り働いております。そのような中で、先週は、望外の朗報にわきました。○○姉が委員に復帰願いを出され、満場一致で受け入れられたのです!これは、本当に明るい、来年への希望のニュースです。私どもは、来年、開拓伝道開始13年目を迎えます。いよいよ、「教会設立」を目指し、進んで行きたいですし、行かねばなりません。どうぞ、委員会が、将来の長老(小会)そして執事会組織にいたるように、祈りましょう。姉妹会を中心にした会員の奉仕の仕組みがいよいよ整いますように。来年度の自らの奉仕のためにも、祈りを始めてください。来年度も、目に見える形で、教会設立を目指した体制の改革、整備を実現してまいりましょう。

★  次主日は、元旦。当伝道所では初めて?の元旦の礼拝式です。楽しみです。また、報告どおり、葬儀アンケートを配る予定です。教会以外では考えられない「暴挙」?しかし、主とともに生き、死ぬことのできるキリスト者ならではのことと思います。いかがでしょうか。生きるにしろ死ぬにしろ私どもは主のものです!