過去の投稿2005年12月25日

 神の忍耐の憐れみを受けて 05年12月25日 信仰告白

                   証
40代 主婦

主のみ名をあがめ賛美いたします。
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者それを失い、私のために自分の命を失う者はそれを救うであろう」(ルカによる福音書;9章23-24節)。このみ言葉に辿り着くまでに、長いときを重ねました。初めて日本基督教団岡崎教会に伺ったのは、キリスト教系の大学4年生の秋。就職が決まり、就職先から勧められたことがきっかけでした。
当時の私は一度限りの人生だから、清く生きたいと漠然と思っていましたが、実際には怠惰で自分勝手で他人を思いやることができない、大変弱い情けない自分に気づいており、そのことが劣等感になっていました。でも若かったのでそんなに深く考えてもおらず、教会に通うことで少しでもましな人間になれるのでは、という見当違いで不純な動機からの出発でした。
一年ぐらい過ぎたある伝道週間の日、筋ジストロフィーに罹られ、病気と戦っておられるNさんという高校の先生がご夫妻で証をされるために岡山から来られました。ヨブ記を引きつつ、ヨブの時代にはイエス様はいなかったので、シビアだったけれど、今はイエス様がいて下さるから恐れなくてもいい、とN先生はおっしゃいました。普通の人には一生かかっても銅ぐらいしか掘れないかもしれないが、お前には金を掘らせてやろうとしているのだよ、と神様は語りかけてくれている。与えられている試練の中でも神への堅い信仰に立って、すごく平安な様子で、ライフ・イズ・ビューティフルとおっしゃっていらしたことが、若い日の私には鮮烈でした。主イエス・キリストを信じる人はどうしてこんなに強く生きられるのだろう、信仰とともに生きるN先生の姿は、キリスト教への憧れとともに、その後も私の記憶の底にずっとありつづけました。

3年ぐらいみ言葉を聴き続けるうちに、神様はこんな私でも愛して下さっていることを少しずつ感じ始めていました。しかし求めていなかったのでしょう。信じていればそれでいいのでは、と自分勝手な思い上がりから、石地に落ちた種は実を結ぶことはなく、結婚を機に教会を離れました。

その後3度の流産でもう子供をあきらめていた私に、長女ができ、実家に足を運んで下さった岡崎教会の牧師夫妻と長女が眠るベビーベットを囲み、「神様、この子を大切に育ててゆきます。どうぞお守り下さい。」と祈りました。続いて双子の男の子、そして4人目の子供に恵まれ、神様はこんな私にどうしてこんなにも幸せを下さるのであろうか、神様、私は4人の子供を授けていただきましたが、心もとない母親です、自分一人ではとうてい育てていく自信はありません。どうぞ助けてください。そんな気持ちで岩の上教会の門を叩きました。ビルの教会でしたが、暖かさと、清さに満ちており、それぞれに献身的でやさしい先生方との出会いもあり、子供たちは喜んで教会に通うようになりました。私は大人の礼拝に出席する余裕がなく、説教原稿をいただいて帰り、家で読んでおりましたが、改革派というものが分からず、神学的で難しく、もともと考えることに怠惰な私は教理や教会形成についていけるのか不安でした。子供たちは神様のもとで育ってほしいけれど、やはり私は選ばれていないのだなあ、と神様から遠く離れて行きました。また、子供のころ妹が亡くなりましたので、神様は全知全能というけれど、自然災害や飢餓、戦争等で善良な人がどうして亡くなるのか? 所詮、神様ができることは慰めしかないのではないか、などとも考えました。礼拝にも出ず、聖書も開かず、祈りもせず、人間的な弱さから、神様の恵みをいたずらにうけていたのだと思います。しかし私が教会に行かなくなった間も、相馬先生からは、岡地さんは主イエスをもっと見ないと、子供たちの先生方からは祈っていますよと、お手紙やお電話をいただいていました。

そんな私に転機が訪れたのは、今年の4月、自己免疫疾患による手の痛みに始まる自律神経の失調で、自分が支えられなくなってしまったのです。私はいつ死ぬのだろう、愛する夫と子供たちを残していくのか。子供たちが信じつつある神、私が主イエスちつながって神のもとに行かなければ、子供たちは悲しむだろうと考えました。主人の勧めもあり、大人の礼拝に出席しました。すると頭で理解しようと何度読んでも分らなかった説教原稿の内容が不思議とすんなり入ってきました。イエスが苦しみを受けたのは私のため、私が十字架につけたのです。「主は命を与えませり、主は血しおを流しませり、その死によりてぞ、われは生きぬ。われ、何をなして主に報いし。」昔よく歌っていた賛美歌がリアルなものとして胸に迫りました。「今日み声を聞いたなら、あなたの心をかたくなにしてはいけない」(ヘブル書;4章7節)。もういいかげん分かるだろう。私についてきなさい。私があなたを贖いとったのだから。主イエスが招いて下さったのです。続けて祈祷会、礼拝と出席し、個人的な学びを受け、祈るようになりました。でも病気のせいか祈りは遠く感じられましたが、それでもあきらめずに祈っていました。もう私の救いの道はここにしかないと思っていました。学びを重ねるうちに、今までそんなに必要と思われなかった教理がいかに大切なものであるかも分かりました。何よりも神様が私を何度も戸を叩いて招いて下さっていたのに、どうして戸を開けようとしなかったのか。信じて従わなかった罪と、私のために自分の愛する子を十字架につけて私の罪をあがなって下さった神様の愛に遅まきながら初めて気づきました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のために贖いの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネの手紙一;4章10節)。でもどうして洗礼志願したのか確信はなく、こんなことでいいのですかと牧師夫人に尋ねたところ、神様がすべて整えて下さるので大丈夫、これからですよ、といわれ、今日に至りました。最近になって思ったこと。イエスの十字架の痛みを覚えているよう神様は私の手を通して気づかせて下さっているのではないか。私の人生にはもうイエス様が一緒に歩いて下さっているということです。洗礼の恵みは神様からの一方的な愛なのですね。主に感謝します。今まで放蕩息子であったこと、お許し下さい。未来はあなたに信頼して委ねます。そして、今のときを教会の一枝に加えて頂き、あなたのみ心にかなうように、祈りつつ歩んでまいります。

岩の上教会へ初めて伺ったのは1998年のバイオリン・コンサートのときでした。また子供たちが教会学校に導かれましたのは1999年の4月でした。なかなか信じきれずにいた弱い私を暖かく見守り導いて下さった相馬先生はじめ教会員のかたがた、皆様の祈りと愛と忍耐のおかげで、やっと洗礼までたどり着くことができました。心から感謝いたします。