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05年職員クリスマス

「星をも用いて、異邦人を救う神」

2005年12月27日午後1時30分~2時30分
金城学院大学 職員クリスマス
233番(前)・247番(後)
テキスト マタイによる福音書 第2章1節~12節

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

今、金城学院の職員の皆様とともに、降誕祭、クリスマスの礼拝をお捧げすることが許されますことを心から嬉しく思います。数年ぶりに改めてご奉仕の特権を与えられましたことを感謝いたしております。
この学び舎になくてならないのは、教師であり学生ですが、しかし、彼ら、言わば主人公を本当に生かすことができるのは、陰の差さえ手であられる職員の皆様のお働きがあるからであります。この一年の歩みをここまで神がお支えくださいましたことを共に喜び、感謝することができたら幸いでございます。
何よりも、この学び舎が、この現代の日本という状況、混迷を深め、まさに危機的な精神的、霊的、社会的崩壊現象を来たしている現実のなかで、いよいよ神の栄光のために用いられる学び舎であっていただきたいと心から願う者の一人でございます。わたしの目から拝見して、福音主義キリスト教の精神をもって営まれる学び舎を職場にしておられる皆様は、すでに、神の導きをお受けになっておられる皆様と信じております。すでに不思議な方法で、神のお招き、救いへの招きを受けていると私は信じております。それは、信じて生きる新しい人間、人間らしい人間になることを意味します。

そのような神に愛され、導かれているお一人ひとりの上に、クリスマスの恵み、つまり、主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように、祝福を祈ります。

ただ今お読みしました物語は、大変有名な物語であります。2000年の教会の歴史のなかで、この物語を題材にした絵画は、いったい何枚、いや何十万枚描かれてきたことでしょうか。絵のタイトルには、しばしば「東方の三博士」「東方の三賢人」とつけられてまいりました。聖書には、東の方から三人が来たとは記されていませんが、彼らが主イエスに「黄金、乳香、没薬」の三つを捧げたところから、三人という風に、考えらたわけであります。

ここに登場する人々、主イエスの誕生を祝い、このユダヤ人の王を拝むためにはるばる東の方からエルサレム、ユダヤのベツレヘムにやってきた人々、彼らと私どもとは、何の接点もないように思われてしまいやすいと思います。しかし本当に私どもとは関わりのない人たちなのでしょうか。正直に申しますと、私自身かつて、この物語をまったく誤解し、このように考えていたのです。これは、ただの神話、御伽噺、キリストの誕生を飾る単なる創作の物語だということです。ある意味では、さっと読み飛ばしていたことがありました。そもそも、星が導いたとか、星の光をたよりに旅をしたなどということはありえないと考えたわけです。しかし、もちろん、今ではそのようなことは考えておりません。東の方からはるばる、主イエスにもとにかけつけたこの占星術の学者たちこそ、実に、私どもの代表なのです。

エルサレムから東の方、それは、おそらく今のイラク、メソポタミアの地方を旅立った人であろうと言われています。しかし、ある人は、インドあたりまでを考える人もいるのです。インドのはるか東には、この日本があります。

昔の聖書の翻訳では、占星術の学者は、単に、博士とされていました。もともとの言葉をそのまま訳せば、魔術師となります。彼らは、天体を観測し、暦をつくり、天気を予想し、それを王に進言し、王は、彼らの意見をもとに、自分の政治を行っていたのです。占星術師とは、政治家のブレーンです。王の知恵袋でした。大変高い地位をもって生きていた人々なのです。ですから、彼らとユダヤの王の誕生とは何の接点もありません。むしろ、メソポタミアの人々にとって、ユダヤの国などは、小国に過ぎないのです。取るに足りない国です。ユダヤの国、ユダヤ人から見れば、かつて自分たちの先祖はバビロニア帝国に捕らわれ、連れて行かれました。から見れば、強大な敵国です。ところが今、その国の地位の高い占星術の学者たちがはるばるユダヤの国の王の誕生を祝い、彼を拝みに来たというのです。

そもそも、何故、彼らは、その星を見て、「ユダヤ人の王の星を見た」などと言ったのでしょうか。聖書はそれに答えていません。ただ、多くの聖書の学者たちが申しますことは、当時、世界の救い主がユダヤ人の王から生まれるという、ユダヤ人のこの信仰は、すでにメソポタミア地方には広く伝わっていたものだと言うのです。先ほども申しましたように、かつて、ユダヤ人は、このメソポタミア地方、バビロニアに捕われの身となっていたときに、奴隷たちの信仰が、その国の人々の心の深い部分に、憧れのように、強い印象を与え、それが残っていたというわけです。

おそらくこの学者たちは、この憧れを保ち続けて、大きな星の軌道の変化に、これは、「ユダヤ人の王の星」であると、確信したのであろうと思います。これほど強い憧れを持つということは、実にすばらしいことではないでしょうか。救いへの憧れです。しかも、この救いへの憧れは、自分だけが救われたいというような個人的なものではないようです。世界が救われること、この世界を救い主が来てくださって、救ってくださることを求めるこの憧れをこの異邦人、ユダヤ人でない人々が胸に宿しているのです。これは、実にすばらしいことではないでしょうか。はるばる旅を続けたのです。ヘロデが後に、ベツレヘムに生まれた男の子の赤ちゃん、しかも「2歳」以下の子を皆殺しにさせたことから考えますと、1年あまり旅を続けたとも考えられます。つまり、決して小さな旅行ではありません。大旅行です。功なり名を遂げた人たちが、ユダヤ人の王の誕生、救い主の誕生を確認し、拝みに来る、これは、彼らにとって重大な決心です。わたしは、ここにも、真の救い、祝福にあずかる人々の一つの特徴があるのではないか、私どもの模範として彼らを見ることができるのではないかと考えます。彼らは、真剣に生きていたのです。救いを求め、待っていたのです。

ただし、この事実を正しく見るためには、神さまの側から見なければなりません。占星術の学者の心の中に、救い主を待ち望む思いが与えられていた。ここにすでに神さまが、異邦人の心のなかに働いておられる証拠を見ることができます。いまだ、はっきりと神の存在が分からないのです。しかし、神は、彼らの心の中に、言わば、「宗教の種」、神を信じる信仰への憧れを植えつけてくださいました。メシヤ、つまりキリストを待つ心です。神は、ユダヤ人ではない異邦人をも、捉えてくださるのです。

さて、占星術師、もとの言葉は、「マギ」となっております。直訳すれば魔術師、当時のバビロニアのさらに東の国のメディア人のマギという人々からはじまった魔術、一種の宗教を意味する言葉が、マギなのです。学者ですが、基本的には、星とか月とか太陽とかを拝むようなことをしていた人々なのです。そもそも、ユダヤ人にとって、そのようなことは、最大、最悪の罪です。それにもかかわらず、今、ユダヤ人のマタイという福音書の著者は、はっきりと、はるか東の国より、占星術の学者たちが、つまり、異邦人が星をたよりに、主イエスを訪ねたと告げるのです。このような表現することはなお許されると思いますが、神が自らタブーを犯しておられるということではないでしょうか。ここに神が、東の人間、つまり異邦人である私どもをどんなことをしてでも救おうとする驚くべき強固な御心を持っておられることが分かります。ユダヤ人からみれば、星を拝んだり、月を拝んだり、神とはまったく関係ない罪人と見下している異邦人の心をも、神へと引き寄せてくださるのです。ここに明らかに示された神の御心とは、神は、どんな手立てを尽くしてでも、救おうとする人々をお救い下さるということです。そこに、神の激しい愛を見ることができます。異邦人を救うために、考えられないようなことをなさったのです。

逆に申しますと、詳しく触れる暇はありませんが、当時のユダヤの人々、エルサレムの宗教家たちは、異邦人にももとるようなむなしい宗教を営んでいたということです。正しい聖書の解釈をしてみせることはできましたが、それに生きることなどは、まったく無頓着で、形骸化、形ばかりの宗教を営んでいたのです。ここに、マタイの痛烈な、きわめて激しい、ユダヤ教批判があると言ってよいでしょう。

さて、ところがそこで、現代の私どもは、かつての私自身は、この物語を、真剣に受け止めないきらいがあるように思えます。つまり御伽噺、ファンタジー、神話のように、考えてしまいやすいのです。はっきり申しますと、今の自分にとって、「そのような星などはないではないか」と考えるわけです。「少なくとも、この私には、神はそのような星によって、導いてはおられない」しかし、本当にそうなのでしょうか。

私事ですが、高校生のとき、ミッションスクールに入学しました。これは、もともと自分の志望していた高校ではありませんでした。大変なショックを受けました。しかし、今、考えると、そのとき、生まれて初めて聖書を手にしたのです。その後、大学生になり、聖書を手にして教会の門をたたきました。そして、その教会で洗礼を受けることができました。そればかりか、今、牧師として神の教会に仕え、御言葉に仕えて生きているのです。
わたしにとって、はっきりとしているのは、ミッションスクールは一つの星であったという事実です。ただし正直に申しますと、高校生の時には、まだ、それを深く悟ることはできませんでした。しかし、今は、はっきりと認めることができるのです。

皆様にとって、これまでにもいくつもの星がきらめいたのではないでしょうか。それは、わたしのように、想定外の事件、予想外のことである場合が多いと思います。悲しいこと、悔しいこと、苦しいこと、悩みであったかもしれません。病気であったかもしれません。失恋であったかもしれません。別れであったかもしれません。いわゆるマイナスのことごとであります。しかし、本当は、決して、単なるマイナスだけではないのではないかと思います。それらもまた、神が私どもに与えていてくださる星、ベツレヘムの星、主イエス・キリストへと誘う星ではないでしょうか。

さて、占星術の博士たちは、星のきらめき、おそらく紀元前7年ごろに起こったと言われる大彗星なのかもしれませんが、いずれにしろ、その光をたよりに、エルサレムに向かいました。しかしもっとも大切なことは、彼らは今や、星と同時に、神のみ言葉によってベツレヘムという小さな村に向かいます。星の光も見えています。しかし、それより確実なものは、神のみ言葉なのです。神は、星すらも用いられます。しかし、星だけでは、終わりません。神は、この異邦人にも御自身の御言葉を与えてくださったのです。

この占星術の博士たちは、ベツレヘムの夜空に輝いた星を見て喜びにあふれました。注意したいことは、まだ、幼子を見る前に、大きな喜びに包まれているということです。何故でしょうか。それは、あらためて「神が、自分たちをも確かに救いのなかに、招いてくださったのだ、自分たちは、確かに、天地の創造者なる神の救いの招きにあずかっているのだ」というその証拠として星を、再認識できたからでしょう。神のみ言葉を聴いて、ああ、やはりあの星は、神が不思議に我々を導く星であったのだと、星そのものが、輝いて見えてくる、見えてきたのです。そうであれば、我々の今抱え込んでいるあの悲しみ、この苦しみすら、神の御言葉を聴いていると、なんと違った輝き、神の輝きのように見えてくるのです。そのようなことが起こるのです。そこに神の御言葉の力があります。

わたしは、皆様が、もしも神の言葉を聴き続けてくださるなら、自分が働くこの場所が、金城学院という職場が星のようにきらめいて見えることも、わたしは、実際に起こると信じています。その時には、ここで働くこと、それじたいでも大きな喜び、誇りになると思います。

そうであれば、皆様は、聖書をお持ちでしょうか。神の御言葉を聞いたことがおありでしょうか。どうぞ、聖書を読んでください。いや、何よりも、神の御言葉は、教会を通して語られるものです。毎週日曜日の朝、神の御言葉、神の御声が響いております。その神の御言葉を聴くときに、実は、初めて、「ああ、自分のあの事件、あの課題、あの悩み、あの喜び、あのひとつ一つのことごとが、星であったのだ」と気づけるのです。つまり、星とは、神の恵み、救いに導く道具のことです。神の救いと祝福への招きのことごとです。神の救い、永遠の命の祝福のきっかけであることに気づけるのです。あのエルサレムからはるか遠い、占星術の学者たちにも、すでにキリストを待ち望む憧れを持つために、救い主、ユダヤ人の王であるキリストの誕生の知識があったのです。皆様にも、深く、この知識や憧れが与えられるように、心から聖書、そして教会に親しんでいただきたいのです。
実は、一昨日私どもの名古屋岩の上伝道所では、洗礼入会式を挙行いたしました。洗礼をお受けになられたのは、40代の主婦。金城学院大学の卒業生です。長いキリスト教とのかかわりのなかで、遂に、信仰を告白されたのです。それは、日曜日の礼拝の説教を聴いたからです。教会に来て、神の声を聴く、そこで遂に、星の意味が分かるのです。

さて、いよいよ彼らは家に入って、幼子主イエスを見ます。そして、ひれ伏します。つまり、礼拝します。クリスマスとは、ここまで来て初めて、クリスマスになるのです。つまり、礼拝を捧げることです。今、ここで真実に、神にひれ伏すことが、クリスマスを真実に祝うことなのです。
クリスマスの出来事が、いったいどれほどの喜びが起こるのか、それを見事に表現したのが、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を捧げたことです。この三つのものは、占星術の道具、魔術の道具であるといわれます。言わば、彼らの商売道具です。これがあったから、自分たちの社会的な立場があったのです。ところが、今や、彼らは、それを主イエスに差し出し、それらに頼ることをやめると表明したのです。

横道にそれますが、私どもの日本の状況は、4000年前、アブラハムが住んでいたメソポタミア、2000年前のこの物語の主人公の占星術の博士、いわゆる星占い全盛の時代ではないでしょうか。多くの人々は、先行き不透明、いや、将来に明るい兆しを見ることができないだけに、占い師が流行しています。テレビには、女性の占い師が担ぎ出され、その言動に、一喜一憂する人々もなくないのです。みな、不安を抱えているからでしょう。皆、自分を支える確かなものがないからなのでしょう。コンピューター全盛の時代に、聖書の御言葉を信じ、神を信じることを、時代遅れのように言ったりする人は少なくないのですが、しかし、2000年前、果ては4000年前の時代の人々が星占いに縛られて、政治を司り、人々を導くこととどちらが、非科学的なのでしょうか。どちらが、したたかで、勇気ある生き方をなすことができるのでしょうか。

占星術の学者たちは、ここで主イエスにひれ伏しています。本当は、自分の宝を捧げるか捧げないかは、どうでもよいことです。つまり、真実にひれ伏した人は、もはや、これまでの宝は、自分にとって究極の宝ではなくなっているからです。これからの彼らにとって、まことの宝物とは、主イエス・キリスト御自身なのです。もはや、占い、星占いに頼る必要はありませんし、してはならないのです。もはや、古い生き方のままで生きなくて良くなったのです。これがなければ、自分は不幸になる、これが手に出来なければ、負け犬になる、これが実現できなければ、生きる意味がない、このような古い生き方から解き放たれたのです。違う人生、新しい人生が始まったのです。

クリスマスには、プレゼントを贈ることがしばしばなされます。プレゼントを交換したりします。その最初の出来事を、この占星術の学者の贈り物に見ることができるかもしれません。どうして彼らは、それを捧げることができたのでしょうか。それは、彼らが、そこに、この幼子の中に、自分たちへの神の贈り物を見たからなのです。この幼子こそ、「神の宝箱」のなかのまさに「至宝」、「宝の中の宝」であると認めることができたからです。この宝物を与えられた喜びこそ、ヨハネによる福音書第3章16節にあるほどの宝であります。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された、それは御子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」彼らは、神が、その独り子をおあたえになった、神がもっとも大切な命を人類に惜しげもなく提供されたことを知ったのです。この贈り物のすばらしさに打たれたとき、心打たれたとき、彼らもまた、自分の最善のものを捧げたのです。

彼らは、この後、「ヘロデのところに帰るな」との神の言葉を聴きます。そして、ヘロデに逆らって、御言葉にしたがって、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったのです。もはや、彼らにとってヘロデはもとより、自分たちの国の王の言いなりにもならなかったと思います。もしかするともはや、これまでの職業にも戻らない新しい生き方を始めたのではないでしょうか。今、この占星術の学者たちは、新しい人間となって、これまでとは別の道を進みます。救い主を見ることが出来た光栄、救い主を礼拝できた救いの恵みを感謝して生きたはずです。これからは、占いに左右されず、権力者にも左右されず、勇気をもって、感謝をもって、生き抜いたはずです。

私どもも、今、真実にクリスマスを喜ぶものとなりたいのです。つまり、神の宝、宝の中の宝でありたもう主イエス・キリストを自分への父なる神からの贈りものとして、いただくことです。主イエス・キリストを信じることです。礼拝することです。神の言葉に聴いて、従い始めることです。クリスマスを祝うということは、主イエスに向かって「誕生日おめでとうございます」ということではなくて、その逆です。私どもの救いを感謝し、私どもが祝福されていることを、祝うことなのです。主イエスの誕生、ご降誕が、私どもの誕生日、私どもが生まれて、今生きていることの喜び、祝福の根拠、源、土台なのです。
占星術の学者たちは、星に導かれ、ついには神の御言葉に導かれて、最高の喜び、特権、光栄を受けたのです。皆様もまた、たった今、その喜び、特権、光栄の真下におられるのです。今、この星の真下にいるのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、すでに私どもは、金城学院というあなたの立てられた学び舎を職場にしております。ここもまた、あなたの救い、あなたの祝福へと導き、招く、その一つの星であります。その星が私どもの頭上にも輝いていることを悟らせてください。今、神の御言葉を聴きました。願わくは、主イエス・キリストにおいてあなたが私どもに差し出し、贈ってくださった、救いの恵み、命の恵み、大きな喜び、信仰を今、受け容れることができますように。マイナスと思っていたことが、しかし、あなたの恵みによって、救いの道しるべとなることを教えてください。そのようにして、主イエスを祝い、同時に自分自身をも喜び、祝うことができますように。 そして、この中から一人でも多くの神の民を、教会へと導いてください。アーメン。