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「祝福のなかで生きる一年」

「祝福のなかで生きる一年」
2006年1月1日

聖書朗読
 イザヤ書 第60章1節~7節
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。
見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。
らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

テキスト 
マタイによる福音書 第2章1節~12節
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

 主の2006年の最初の日、元旦が主の日となりました。何よりも、最初に、あらためてここに集われた神の民のひとり一人の上に、新しい一年の上に、主イエス・キリストを知ることによって、恵みと平和とが豊かにありますように、祝福を心を込めて告げたいと思います。新約聖書ヘブライ人の手紙の最後の箇所の御言葉を皆様にお贈りいたします。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

 
 元旦に主の日の礼拝式を捧げるのは、何年ぶりのことであろうかと思います。本日は、イザヤ書第60章、そしてマタイによる福音書の第2章、東方の占星術師の物語を皆様とお読みしました。特に、この占星術師のテキストは、昨年の燭火礼拝式でも取り上げました。何故、元旦に、クリスマスの物語を読むのであろうかというとまどいをお持ちの方も多いと思います。しかし、一方で、世界中で教会暦を採用している教会はとても多いのです。そのような教会は読むべき主日の聖書箇所はすでに定められております。そして、今日、読んだ聖書の箇所は、1月6日その日を「キリストの公現日」という暦なのですが、そのときに読むべき箇所なのです。キリストの降誕の祝いはなお、元旦を越えて続いています。もとより、それは、この恵みのみ業、神の御業はそれ以降のすべての日々、2000年の一日一日に及んでいるのです。

さらにまた、教会にとりまして、元旦とは、主イエスのご降誕日とされた12月25日の一週間後、八日目を意味します。実はその日は、ユダヤ人の男子であればかならず受ける割礼を受けるべき日を意味します。つまり、主イエスは、今日この日、割礼をお受けになれたのです。そして、それはまた同時に、このようなことを意味します。その子に正式に名前が与えられたということであります。マタイによる福音書第1章25節で、ヨセフは「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」とあります。イエスの命名記念日です。このイエスという名前は、ヨセフが命名するのですが、しかし、それは、神が天使によってヨセフに告げられた名前でした。つまり、人間に基づく名ではなく、ただ神が告げられた御名、神によって定められた御名、神が永遠の初めから決めておられた御名なのです。そしてその名前の意味は、「罪からの救い」です。この、驚くべき名が、この地上に確立した日なのです。その意味で、教会とその暦にとりまして、元旦とは、ご降誕の祝いが続いているわけです。何よりも、主イエスの命名日を意味するわけです。この元旦は、その御子にイエス、イエスさまという御名が父なる神によって命名された日を覚える日なのです。 

 キリスト者である私どもは、この新しい一年もまた「イエスさま」「主イエス」と心を込め、その意味をわきまえてお呼びすることができることにこそ、キリスト者の醍醐味、この上ない幸い、究極の祝福、ご利益とすら呼んでもかまわないと思いますが、この御名の中にあるのです。そうであれば、「主イエス」とお呼びすることに、なによりも信仰の理解をもって崇め敬い、愛と信仰と服従の真心をもって唱えることが、この一年の私どもの特権、幸い、喜びであります。この世界でもっとも美しい名前、そのイエスさまの御名を、丁寧に、大切に唱えて歩む一年でありたいと心から願います。

 
さてしかし、私どもがここで真の神を礼拝しているたった今、圧倒的に多くの人々は、神社仏閣に詣でて偶像礼拝をしております。それは、私自身の過去の姿に他なりません。ですから、彼らのために、今、心を合わせて祈らなければなりません。彼らの偶像礼拝、彼らがそれぞれ自分のご利益を求めて、偶像にお参り、祈願していることを軽蔑し、批判することはたやすいことです。しかし、それだけですますわけには決してまいりません。私どももまた、本日は、ちょうど元旦が主日となりましたので教会に集まって、礼拝を捧げております。そのようなときこそ、もっとも鮮やかに、私どもの礼拝の質、本質が問われ、鮮やかにされるのではないでしょうか。そこでこそ、私どもの礼拝と彼らのお参りと、どこが、どのように違うのが明らかになるのです。明らかになるべきです。それは、ただ単に、偶像を礼拝するのか、御子主イエス・キリストにおいて父なる神と聖霊なる神を礼拝するという、礼拝の対象の違いということだけではありません。もとより、礼拝の対象の違いは決定的な違いです。しかし、それと同じように、いやそれ以上に、問われなければならないことがあります。それは、どのような態度で私どもは礼拝を捧げるのかということであります。

 万一にも、偶像礼拝者と同じ気持ち、姿勢で、ここで主イエスを礼拝しているのであれば、真実の神礼拝とは決して申せません。この新しい一年も、私どもにとって生命的な課題は、ここで、正しく神を礼拝できるかどうか、そこに掛かっています。この一点にかかっているのです。

2006年も、ひとり一人に、人生における様々な課題が与えられています。仕事、勉強、子育て、家庭などの課題が与えられています。しかし、キリスト者にとって、最大のそして共通の課題は、礼拝です。主の日の礼拝式であります。ここで一年52回の礼拝式をどのように捧げるのか、それが、私どもの一年を決することになります。

昨年末の祈祷会で、ある方は、一日もかかさず主の日を守ることができましたと証されたそうです。一人だけではありません。すばらしい恵みであります。しかしまた同時に、この年、ここでさらに主に喜ばれる礼拝者となるための一年が与えられようとしています。「教会の生命は礼拝にある」これは、私どもが一昨年から一貫して目指している日本キリスト改革派教会創立20周年宣言にある有名な言葉です。主の日の礼拝式が生命的に重要なのは、一人のキリスト者自身にとってもまったく当てはまることです。わたしの命となる礼拝。それ以上でも、それ以下でもないのが、礼拝なのです。そしてこの礼拝式で、私どもは父と子と聖霊なる神を礼拝し、礼拝によって人生の目的を成就させられ、人生に意義を与えられ、それぞれの課題と使命に向かって派遣されてまいります。これが、私どもの命の祭り礼拝であります。

 そして、そこで、私どもは繰り返し、一人ではなくて、神の民とともに、このお方、この愛する御名、尊びまつる主イエスの御名を唱える、お呼びするのです。これにまさる私どもの幸せ、喜びはありません。
 しかしそこで、あらためて自ら問われるのです。イエスさまの御名をどれほど重んじ、わきまえて唱え、この御名をお呼びするにふさわしく生きているのかということです。

 さて、本日与えられているテキストは、東方の占星術師たちが幼子イエスさまを礼拝した物語です。ユダヤ人である著者マタイにとっても、東方の占星術師などというのは、まさに星や月を占う、偶像礼拝者の最たる者であり、軽蔑、侮蔑の対象であったはずです。真の神を知らない偶像礼拝者たちであり、ユダヤの国の敵対者たちなのです。ところが、マタイは、この東方からの占星術の学者たちの物語を、自分の福音書の最初の部分に収めたのです。そこにすでに驚くべきマタイの福音書の狙い、意図、メッセージを認めることができると思います。一つには、神は、異邦人である東方の占星術師たちをも、星を用いて、主イエスに導かれるのですから、本日、神社仏閣に詣でた人の中からも、ご自身へと招きいれ、導きいれ、信仰を与えて、キリスト者とする者を必ず備えておられるというメッセージを聴き取ることができると思います。

 しかし、ここで何よりも、この物語を通してマタイが最も伝えようとしている固有のメッセージに耳を澄ましたいのです。
 教会暦を採用する多くの教会では、公現日には、旧約聖書イザヤ書第60章もあわせて読まれます。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。」このイザヤの預言は、歴史的に直接的には、主の栄光が輝き出でるエルサレムに、諸国の王や人々が集まって来ることを預言したものとも理解されます。バビロンからの解放とエルサレムの回復という出来事を神ご自身のみわざとしてイザヤは告げたわけです。しかし、それは、バビロンの捕囚から解放されるという予告では終わりません。むしろ、主イエスの御降誕こそ、この預言が及ぶ射程なのです。世々の教会は、マタイがこの物語を自分の福音書に収めたのは、イザヤ書の預言が成就したのだと、教会は理解したからに他なりません。これは単に教会のかってな解釈ではないと思います。マタイ自身の主張がそこにあったとわたしも考えております。つまり、ここで預言者イザヤは、救い主がご降誕なさるときには、不思議な光が放たれるという予告をしたわけです。そしてそれは、星のきらめきでした。その予告されていた光である、星のきらめきこそが、御子を照らし、そのようにして、主なる神の栄光がこのお方の頭上に輝いたのです。そしてその当時の世界は、預言どおりに、まさに闇が覆い、暗黒が国々を覆っていました。しかし、世界の国々が、その王たちが、射し出でる輝き、ここではまさに星の輝きであることがわかったのですが、その輝きに向かって歩み、この幼子を拝んだのです。

さらに、こう続きます。「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。」ここでは読んで字のごとく、黄金と乳香とを宝物として携えてくると予告されている通りのことが実現したのだと、マタイは驚きを込めて言うのです。つまり、もはや明らか過ぎるほどであると思いますが、マタイによる福音書は、主イエス・キリストのご降誕は、このイザヤ書の言葉の成就であるということです。そして、主イエスのご降誕は、単にユダヤ人の救いだけではなく、異邦人を含む全世界の国々、人々のためのものであることを、ここで証しようとしたのです。全世界の主が、2000年前にすでにお生まれになられました。しかもそのお方こそ、私どもの救い主であり、イエスという御名を与えられた救い主、罪からの救い主なる主イエス・キリストに他ならないことが明らかになったのです。

ですから、主の2006年の教会の使命は、すでにはっきりと定められています。この光なる救い主に向かって歩み続けることです。さらに黄金と乳香とをもって献げ物とする、つまり、このお方を礼拝し、このお方に自分の全存在をもってお仕えし、自分の宝物を捧げることです。

さて、このすばらしい救いの預言が、占星術の学者たちの登場によって成就したのに、現実の2000年前には、それだけでは終わりませんでした。
時の王、ヘロデは、この博士たちが、ユダヤの王がお生まれになったのは、どこですかと尋ねたとき、「私も拝みに行くから見つかったら、場所を知らせてくれ」と頼みます。もちろん、もともとヘロデ王には、拝む気持ちなど微塵もありません。彼は、自分の王位を追いかねない新しいユダヤ人の王が生まれたことなど、認められるはずもありません。自分のあずかり知らないところで、ユダヤの国に王が生まれるなど、あってはならないことなのです。そもそも彼は、ユダヤ人ではありません。ローマ帝国から派遣された王です。ユダヤ人の王となって、ユダヤ人を支配しています。自分の王位を守るために、自分の子すら殺してしまう王でした。ですから、主イエスの誕生を知って、平然と、ベツレヘムに生まれた2歳以下の男の赤ちゃんを抹殺してしまいます。

しかし、ここで決定的な問題とすべき事柄は、エルサレムの人々のことです。彼らはユダヤ人、神の民、アブラハムの子孫です。エルサレムとは、ヘロデ王が再建した壮麗な神殿がある町です。そこは、ユダヤの政治、宗教の中心地です。祭司長、律法学者たちが働く場所です。実に、彼らも、ヘロデ王と同じ態度を主イエスに対して選び取るのです。彼らは、ヘロデを尊敬などしていません。むしろ、軽蔑していたはずです。しかし、ヘロデの統治によって、現実的には、エルサレムの神殿が再建され、自分たちの働き場は確保され、自分たちの権益は確保され、自分たちの身分は守られていたのです。つまり、神なき現状の政治体制、神を否定する文化、風潮を結局は維持し、それを肯定して生きているのです。

ユダヤの王、救い主が生まれた、という異邦人の情報、占星術の学者たちの情報を、エルサレムの人々は本当なら、大喜びで、感謝、感激して、祝うべきです。ところが、彼らがしたことは、ヘロデのたくらみ、ヘロデの主イエスを殺してしまおうとする魂胆などは、見え透いているはずなのに、彼らしか知らない知識、聖書に書いてあることを、そのまま告げたのです。「ユダの地、ベツレヘムです。預言者がこう書いています。」さすが、祭司長、律法学者たちです。即答しました。聖書をよく知っているのです。しかし、いかがでしょうか。聖書の知識を正確に持っていても、それが今、何になるのでしょうか。神の栄光のために聖書の知識を持つのではなく、ただ単に、聖書について詳しい知識を持つことがいったい何になるというのでしょうか。彼らは、聖書の正確な知識を、根拠に、主イエスを殺すことに加担したのです。現実的には、ベツレヘムの2歳以下の男の赤ちゃんたちを殺すことに、加担したのです。手をくだしてはいません。しかし、彼らが教えたから、このような悲惨な事件が起こったのです。もしかすると、彼らはこの事実を知らないで、なお、のうのうとその後の人生を過ごしたかもしれません。マタイがここで鋭く問いかけていることは、ヘロデという残虐な王のまことに目を背けたくなる神への背反、人間性を破壊する王を批判し、断罪する以上に、当時の信仰者、しかも祭司長たちや律法学者たちという信仰の指導者たちの問題にあるのです。神の選ばれた救い主なる主イエスを、言わば、お守りすべき彼らが、自己保身におぼれ、現実の生活の安定のために、御言葉を軽んじるのです。

元旦に教会に来る。それは、決してこの世の人々が大挙して、神社仏閣に詣でることとは本質的にまったく異なったことであるはずです。彼らは、自分の願いを求め、自分の自己実現を求めて拝みます。結局は、自分の欲望が、自分自身が神なのです。しかし、それをキリスト者、キリストの教会は簡単に他人事として片付けてしまえるわけではありません。キリスト者、教会もまた、そのような罪を犯しかねないのです。事実、祭司長、律法学者たちが、この30数年後、はっきりと、自分たちが行動を起こして、このユダヤ人の王を殺そうと企て、そして、ときのユダヤの王、ポンテオ・ピラトの手によって処刑したのです。ピラトよりひどいのは、当時の信仰者、信仰の教師たちであったことは明らかでありましょう。つまり、新約聖書を読めば、今の、信仰の共同体である教会と指導者である牧師たちの問題を鋭く問うのです。ユダヤ人への批判だとか、ローマ帝国への批判は、二の次のことです。むしろ、今の私どもキリストの教会の課題が、聖書に示されているのです。
日本の教会の歴史を振り返れば、まさに、キリスト殺し、キリストの主権を教会が覆し、戦争協力、自己保身の罪に走ったのです。

私どもも、また、今年も問われます。主イエス、罪からの救いという御名を与えられた私どもは、問われています。このイエスさまを本当にイエスさまとして感謝し、重んじ、喜びとするかということです。自己保身、自分を第一に考えて、自分の家庭の平和、自分の成功、自分が苦しまないように、傷つかないようにと、生きることは、キリストの道とは離れた道なのです。

それに比べて、異邦人、偶像礼拝者であって、占星術の学者たちは、どうでしょうか。救いを待ち望んで生きていたのです。しかもその救いは、自分だけのものではなく、おそらく国家レベル、世界の救いでもあったと思われます。しかも、彼らは、幼子主イエスにお会いした結果、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を主に贈り物として捧げました。これは、彼らの占星術、仕事道具であったといわれます。これらがあるがゆえに、自分の社会的立場は、国家指導者、王の助言者、政策ブレーンとしての立場を得ていたのです。しかし、彼らはそれを捨てたのです。

自分の古い宝を捨てるとき、実は人間は新たな宝を豊かに受けているのです。いへ、豊かに受けた人だけが、古い宝を捨てることができます。そして、また、古い宝箱を空にすればするだけ、新しい真の宝が入るのです。私どもは、キリストの教会に忠実に生き、仕えるなら、かならず、神に豊かに用いられ、自分らしい人生を完全に生きることができるのです。

すでに2000年前、御子なる神は、人となってくださいました。父なる神は、神の宝箱の中から至宝、宝の中の宝を取り出して私どもに贈ってくださいました。真の人となられた御子は、この大地を生きてくださいました。私どもと歩んでくださいました。そして十字架にかかって、私どもの罪を贖い、お甦りになられて私どもを神の子、永遠の命を与えてくださいました。そして、天の王座に昇られ、それ以来変わらず、人となられた御子イエスさまは、天上の主イエスは、ご自身の聖霊によって、人間の歩みを、世界の歴史を導き続けていてくださいます。あの日以来、毎日、この御子のみ業が私どもの地上の生活に入り込み、私どもの日常生活刻み込まれ、食い込んできているのです。天におられる真の人イエスさまは、そのようにして私どもをお包みくださり、お守りください、ご支配し、お支えくださっているのです。

今年一年、私どもにすでに定まっていることがあります。それは、この主イエスの祝福を受ける一日、一日であるという事実であります。たといいかなる一日であっても、それは、私どもにとって、究極の災いに終わるようなことは、何一つないはずです。すでに、御子はイエスとなってくださっているからです。御子なる神主イエスにおいて、世界に救いの光は放たれているからです。イザヤの預言どおりに、黄金、乳香を持ち運んだ異邦人が出現したのです。しかも2000年後の今や、この占星術の学者に連なる、数え切れない多くの異邦人が出現しています。私どももまたその一員に他ならない、主イエスこそ、世界の救い主であられることの証人の一人なのです。

今朝、皆様の週報ボックスに、葬儀のアンケートを入れています。一年の最初の日に、自分の地上の歩みの終わりについて考えることもまた意義が深いと思います。私どもの一日は主イエスの御名を唱えて始め、そして終わることができます。私どもの一生涯もまた主イエスの御名を唱えて始め、終わることができます。つまり、主イエスの御名のなかで平和のうちに生き、平和のうちに死ぬことができるのです。主イエスに包まれ、守られ、主イエスとともに歩むことが保証されているのです。主イエスの御名の中で、罪の赦しにあずかりながら、神の子とされ、愛する主イエス・キリストと一つに結ばれて生きる私ども以上に、ご利益が与えられている人間は他にいるでしょうか。まさに、この地上に比べるもののないご利益の中で、宝を受けて、私どもの日々の生活は保障されるのです。

今年も一歩一歩、主の御名の中で、主イエスの御名を唱えて、主によって、主にあって進みます。私どもの頭上に光るのは、今は星のきらめきではなく、神の確かな御言葉です。説教において語られる神の生ける声が私どもを導く星、道しるべなのです。ですから毎日、聖書を開いて、祈ります。それこそが私どもの星の輝きなのです。この一年、この星の輝きを目指して進めば、約束の通り、神がひとり一人に御子の祝福、イエスさまの御名の祝福を与え続けてくださいます。

祈祷
新しい一年の歩みを、あなたの御言葉を聴き、聖餐を祝うことからはじめられますことを心から感謝いたします。どうぞ、この一年も、主イエスの御名を唱えて、主イエスを礼拝し、服従し、主に喜ばれる教会生活、この世の責任を担うことができますように。